市議増員選挙(吉川区定数1)に立候補し、当選。上越市議に。
2005年(平成17年)2月
上越市への合併に伴い町議失職
2005年(平成17年)1月
ホームページを開設。
2002年(平成14年)
黄金の少年時代の記録、『幸せめっけた』(恒文社・1680円)を出版。
2000年(平成12年)
農業委員会会長職務代理になる。
『越冬つばめ』『お久しぶりね』がヒット。
次男誕生。
1983年(昭和58年)
1998年(平成10年)
『熱き心に』がヒット。
日本共産党町議会議員が二名になる(翌年の11月まで)。町政レポート創刊。
1985年(昭和60年)
『ギンギラギンにさりげなく』『北酒場』がヒット。
吉川町大字代石(たいし・現在の住所)に住宅・牛舎移転。町議会議員再選。
1982年(昭和57年)
『季節の中で』『いい日旅立ち』『与作』がヒット。
吉川町議会議員に初当選。長男誕生。
1978年(昭和53年)
『北国の春』『コスモス』がヒット。
吉川町農業委員に初当選。
1977年(昭和52年)
『青春時代』『春一番』がヒット。
父より酪農経営を引き継ぐ。長女誕生。
1976年(昭和51年)
『シクラメンのかほり』『昔の名前で出ています』がヒット。
『あの鐘を鳴らすのはあなた』『四季の歌』がヒット。
結婚。この頃、上越市の土地家屋調査士事務所に勤務。
1975年(昭和50年)
新潟大学を卒業。吉川町に帰る。父の酪農の手伝いをしながら土方仕事も。
同年、日本共産党吉川支部結成に参加。
1972年(昭和47年)
由紀さおりの『手紙』、加藤登紀子の『知床旅情』がヒット。
『昭和ブルース』『風』『長崎は今日も雨だった』がヒット。
いしだあゆみの『ブルーライト・ヨコハマ』がヒット。
石原裕次郎の『二人の世界』,菅原洋一の『知りたくないの』がヒット。
岡本敦郎の『白い花の咲く頃』がヒット。
日本共産党入党。人文学部学生自治会執行委員に。
1970年(昭和45年)
山形農民大学に参加。詩人、真壁仁と出会い、ふるさとに戻る決意。この頃、島木健作の『生活の探究』の影響受ける。
1969年(昭和44年)
高田高校卒業し、新潟大学人文学部に入学。英会話研究会(写真右から二人目が私)、落語研究会に加入。芸名、えちご亭円志。
1968年(昭和43年)
吉川町立源中学校卒業。新潟県立高田高校入学。
高校時代は勉強一筋(?)。島崎藤村の『破戒』、飯塚浩二の『日本の精神的風土』を読み、少しずつ本好きに。
1965年(昭和40年)
 「幸せは歩いてこない。だから歩いていくんだね。一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる…人生ワンツーパンチ、汗かきべそかき歩こうよ」。ご存知、水前寺清子の『365歩のマーチ』の歌詞です。どんなにつらいことがあっても、この歌を大きな声で歌えば元気が出てきます。この歌によって救われ、励まされている人は全国にはたくさんおられるのではないでしょうか。私もその一人です。
 私はいま3頭の和牛を飼育しながら、幸せを共に産みだす党=A日本共産党の一員として議会議員などの活動をしています。ここ数年間は、経営上の問題をはじめとして様々な問題を抱え、つまづいたり、ころんだりの連続です。でも、水前寺清子の歌を信じ、幸せを求めて努力するなかにこそ幸せがある、そんな思いで頑張っています。
 このホームページは、2002年5月にスタートしました。私の議会活動を中心にしながら、大好きなふるさと吉川区の魅力を全国に発信することも頭において編集しています。パソコンを本格的に使い始めてまだ数年ですから、技術も未熟で読みにくい点も多々あろうかと思います。それらは徐々に改善していきますのでお許しください。
 それでは、人口5500人の小さな町から発信する『小さな町の幸せ通信』をゆっくりご覧ください。

                    2005年2月         橋爪法一
 
新潟県中頸城郡吉川町大字尾神生まれ。長男。少年時代は山野を駆け巡り育った。
当時好きだった食べ物は、キイチゴ、ミヤマツ、マクワ、ライスカレー。

1950年(昭和25年)
   

自己紹介の挨拶