いのちの輝きを記録すること

頚北地域老人クラブリーダー研修会での講演メモ(2001年12月)


【自己紹介】
 こんにちは。ただいまご紹介いただきました橋爪法一です。この度は私のようなものを呼んでいただきありがとうございます。きょうご参加のみなさんのお顔を見ますと、ほとんどの方は私の父や母と同じ世代の方でございます。そういう方々にお話するっていうのは今回が初めてです。失礼なことを言ったり、生意気なことを言うかもしれません。そういう時には、「自分の息子がバカ言っている」と思って、お許しいただければ幸いです。
太田さんからご紹介いただきましたように、私の生まれ故郷は吉川町大字尾神字蛍場です。現在は戸数わずかに4戸、尾神岳のふもとにある小さな集落です。わが家は、私が長男です。下に弟が3人いました。そして父母と祖父の7人暮らし。80アールの田んぼと炭焼きをやり、冬になると父が出稼ぎに出る、そういうなかで暮らしていました。
 私が中学2年生の時から、父は酪農をはじめました。昭和57年にいま住んでいる代石という集落に引っ越しましたが、いまでも牛を飼っています。 毎日、朝晩、10数頭の搾乳をやっているのですが、いやー、たいへんな時代になりましたね。何から何まで狂ってしまった、そう言わざるをえない状況が広がっています。
 今月の5日に長岡の家畜市場へわが家からも1頭牛を出したんですが、すごい事態になっています。乳牛と和牛のかけ合わせの仔牛、たったの5万円でした。前は、悪くても10万円前後までいってました。
 わが家の牛はまだいい方でした。600キロ前後もある大きな老廃牛、乳があまりでなくなって肉として売る乳牛です。いくらの値がついたと思いますか。100円です。いかに老牛とはいえ、以前なら10数万円はしたでしょう。これじゃ、とてもじゃないが年は越せません。
  たいへんな事態は牛飼いだけじゃありません。世はまさに闇、いつ、どこでテロがあるかわからない。戦争もどこで起きても不思議でない。そして大不況、リストラの時代です。雇用が不安定で、みんなビクビクしています。誰もが、早く景気を回復させてほしい、働く場がほしい、早く政治を変えてほしい、と願っています。
  こうした中で大事なのは政治を変えていく国民の運動ですが、もう1つ、人間が頑張るには、心の支えが必要です。頑張ろうという意欲が湧いてくる源が必要だと思います。
 その1つは文化ではないでしょうか。厳しい時にあっても心にぽっと灯りがともるような歌や文芸が歓迎されるんですね、こういう時代には。
  いまから何年前になりましょうか、平成7年の1月17日。神戸を中心とした大きな地震が発生してたくさんの方が亡くなられました。大勢の方が家も失った。みんなショックを受け、げんなりしていた。あの時に、ボランテイアの人たちの支援などが被災者を救ううえで大きな貢献をしました。それに加えて、もう1つ、被災者に元気を与えたものがありました。それは歌です。
 「上を向いて 歩こう 涙が こぼれないように  思い出す 春の日 一人ぼっちの 夜」
 ご存知、坂本九の歌だったのです。今年、大流行した歌の1つは「明日があるさ」ですが、これも元は坂本九が歌っていたものです。
 こうした歌のように、歌ったり、聞いたりしていると、静かに力が湧いてくる、元気もさらに出てくる。きょうの私の話は、老人クラブの文化活動についての話ですが、こうしたことに少しでも接近できればいいな、という気持ちで話を進めてまいりたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

【『幸せめっけた』をなぜ出版したか】
  さて、早速、きょうの主題に入りましょう。私がいま持っている本が、『幸せめっけた』という本です。吉川町に住んでいる人で、随筆の類の出版は私の本が初めてだったということもあって、多くの町民の皆さんから買っていただきました。町内では、だいたい3軒に1冊の割合で求めていただきましたし、柿崎の佐藤本屋さん、大潟町のショッピングセンターの本屋さん、上越市のほとんどの本屋さんでも売ってもらいましたから、みなさんもどこかでご覧になったかもしれません。
  なぜこの本を出版したか。その最大の理由は、自分が生きてきた20世紀後半の歩みのなかで、このことだけは後世に伝えたい、21世紀に残しておきたい。自分を生み育ててくれた故郷の、これだけはしっかり記録しておきたい、ということがいくつもあったからです。特に、この本をまとめていた時期というのは、いわゆる少年犯罪が相次いでいまして、子どもたちに伝えたい、という思いが強かったというのがほんとうのところです。
 21世紀に残しておきたい、忘れられない故郷の記憶、ここでは3つだけお話しましょう。 1つは、いのちの重みを心に刻みながら暮らしていたということです。40年位前までは、人が生まれるのも、死ぬのも、ほとんど自宅でした。だから、赤ちゃんが生まれるのも近くで見ていたし、死ぬのもそばで見ていました。「いま大東で赤ちゃん生まれると」なんて聞くと、子どもながら、「大丈夫かな」とか「どんな子か」などと言って、ドキドキして待ちました。年寄りが死ぬ場合もそうです。生きている時は様々な愛情もあれば憎しみもあったでしょう、しかし地域で共に生きてきた人が近くで死んでいく。みんな心配していましたし、死の重みを感じていました。そして亡くなると、焼き場、火葬場です、そこから立ち上るけむりが見え、臭いも漂ってくる、そういう暮らしがありました。人間が生まれてから死ぬまでを地域のなかでしっかり見て、いのちの重みを心に刻みながら暮らす、そのことはこれからも大切にしなければならないことだと思います。
  2つ目は出稼ぎです。いまは吉川町から出稼ぎに出る人は90人くらいしかいませんが、昔はこの10倍近い人たちが出稼ぎに出ました。いわゆる酒屋もんです。酒屋もんというのは、酒造りの出稼ぎにでることをいいます。
 ご案内のように、昔は、役場とか農協・郵便局にでている家以外は、まず例外なしに酒屋もんに出ました。11月に田んぼの仕事が終わると、じきに旅に出かけ、正月に一度戻ってくるぐらいで、あとは4月末まで戻ってこない。残された子どもも妻も年寄りも、みんな、出稼ぎに出た人を思いました。わが家も父が酒屋もんに出ましたから、さびしかったですね。特に出稼ぎに出たばかりの頃、囲炉裏端の、普段、父が座っている場所に誰もいない、というのは、何ともいえないさびしさを感じました。
 また、当時は雪がたくさん降りました。一晩で80センチ、1メートルなんてこともありました。雪が毎日降りつづけ、ひょっとしたら、今年は春がやってこないのではないかと思うくらい降る、そんな時も父を想いました。
 それだけに、正月、そして春、父が帰ってくる日はものすごく嬉しかったものです。みやげには必ず少年雑誌を買ってきてくれました。それが何よりも楽しみでした。私は、買ってきてもらった本は読む前に、匂いをかぎました。インクの匂いが好きになったのは父のせいです。
 長期間、父親がいない。その時の父親の存在感、父親への想い、これは忘れてはならない、かなしい歴史として記録しておくべきことだと思ったのです。
 3つ目は、厳しい労働と暮らしのなかで培った家族のまとまりです。子どもは10歳になれば、もう、りっぱな労働力でした。本のなかに「丸木の二本橋」「夜なべ仕事」というのを載せましたが、春の「まやごそい」から始まって「稲こき」まで、よくもまあ、手伝ったもんだ、と思います。機械化が進んでいなかった時代にあっては、子どもの働きなしに農業は成り立ちませんでした。
 忘れられないのは、「まやご」とか稲をそって丸木の橋を渡るときの気持ちです。晴れている時でも緊張するのに、雨が降った時のものすごい緊張感。足がふるえたら川に落ちる、そんな恐怖を感じながら手伝いました。
  手伝いは田んぼ仕事だけではありませんでした。家事も手伝いました。特に大変だったのは風呂たきです。当時、水道なんてありません。井戸だけがたよりでした。私の役目は木で作った桶を使い、40〜50メートル離れた井戸から水を運び、風呂の中にあけるのと、風呂をわかすことでした。
 田んぼ仕事の手伝いも、風呂の水汲みも決して楽ではありませんでした。しかし、いま、振り返ってみると、こうした手伝いが親と子どもたちの心をつなぐ架け橋となった、そして家族の絆を確かめ合い、固くする手段になった、と思います。
 私はみなさんに、昔はすべてよかった、と言うつもりはありません。暮らしは今の方がはるかによくなりました。便利になりました。私が書いた家族のまとまりなど、いまだってあるさ、と言う人もいるかもしれません。しかし、数十年前の暮らしにはあったけれども、いまの暮らしのなかにほとんどなくなってしまった大切なもの、あるいは、いまの暮らしのなかで弱くなっている大切なものがある、この事を大勢のみなさんに知ってほしい、確認してほしいと思うのです。
 私が本を出したのは昨年の8月でした。本の内容も文章もまだまだ未熟なものですので、爆発的な売れ行きをすることはありませんでした。しかし、ありがたかったのは、ずいぶん多くのみなさんからお便りをいただいたことです。そして1年たったいまでも、本が静かに広がっている。うれしいですね。
 本を読んで一番喜んでくれたのは、本に登場した人たちです。父や母も親戚の人も、同級生も自分の名前や写真を見つけ喜んでくれました。次は、吉川町で生まれながら、ふるさとを離れている人たちです。山梨県で幼稚園の先生をされている方は、感動的な手紙とともにワインをおくってくださいました。千葉県へ行っている方は便箋7枚にも及ぶ感想文と新鮮なサンマをおくってくださいました。おいしいワインを飲み、サンマでたっぷりご飯を食べた私は、おかげ様でずいぶん太ってしまいました。
 それから、本に書いたことと同じ体験をした人たちもたくさん便りをくださいました。大潟町・下小船津浜のAさん。お盆泊まりの話やワラ布団の話が気に入ってくださり、ほこりをかぶりながらじゃりみち砂利道を歩いて母親の実家がある柿崎へ行った体験などを寄せてくださいました。
 吉川町に直接関係ない人とも本を通じて出会いが生まれ、交流が始まりました。そのなかの1人に、東京の山浦正昭さんという方がいます。全国歩け歩け協会の幹部で、全国野道を歩く会の会長さんですが、この方が「幸せめっけた」を一気に読んで、「この本には、いまの世の中が失っている何か大切なものがある」そう言って広げてくださっています。しかも吉川町のPRもやってくださっているのです。
  たった一冊の本でも、その影響力は予想以上でした。私が本を出してからいただいた感想や書評で最も多かったのは、ふるさとへの共鳴です。ふるさとでの遊びや労働、行事などについて書いた文章にふれて、読者の心がふるえたのです。ありがたいことに、多くの読者のみなさんは、自分の体験・思い出を重ね合わせて私の文章を読んで読んでくださり、共感してくださいました。うれしかったですね。
 私自身も本を出すことによって、変わりつつあります。何よりも、ふるさとを見る眼が変わりました。ここ20〜30年、見えていなかったふるさとの面白いところや魅力が見えてきたのです。そして、これから話していきますが、これまであまり大切に感じていなかったことも分かってきました。きょう、お集まりのみなさんのような、年配の方々にたいする期待もふくらんできています。

【さまざまな記録に見るいのちの輝き=z
 さて、これまで私の本を中心にお話させていただきましたが、みなさん、話を聞いておられていかがだったでしょうか。「なんだ、こんな話だったらオラにもできる」。そう思われたはずです。その通りなんです。みなさんにできること、ある意味では、みなさんの方がもっと上手にできるし、すでに、みなさんのなかにもたくさんの人がすでに実行されている。今度は、それを、私の方から紹介させていただきたいと思います。
 私は今回の講演のお話をいただいてから、頚北四か町村の老人会の会報や文集をすみからすみまで読ませていただきました。また四か町村に住んでおられる会員の方が出版された歌集などについてもいくつか読ませてもらいました。
 いやー、いいものだらけでした。人間というのは生まれてから死ぬまで、いのちの炎をずーっと燃やしつづけるのですが、当然、そこにはさまざまなドラマがあります。うれしいこともあれば、かなしいこともある。楽しいこともあれば、腹がたってしょうがないこともある。しかし、いつも炎があがり、いのちは輝いている。私はそのことを改めて確認できました。そして人生、60年、70年と生きてきたものにしか残せないものをいくつも発見しました。時間の関係上、4つだけ紹介させていただきます。
 1つは、戦争体験です。 吉川町・坪野の小池ユシさん、「ともしび」第21号に「赤紙と人の親切」というのが掲載されています。昭和15年7月3日、小池さんにとっては一生忘れることの出来ない日となりました。自分が子どもを産んだのと夫に召集令状が来たのが重なったのであります。
 召集令状を持ってきた本家のお父さんとの会話が実にリアルで、その時の様子がよく伝わってきます。ちょっと読みましょう。 《お茶を一杯飲むと、本家のお父さんが「ヨシ、赤紙来てもたまげないか」と言われましたので私は、「はい、たまげません。みなさまのところへ来るものですから」と言いました。すると「本当にたまげないか」と言われるのです。「はい、たまげません」「たまげないか」「はい」。少し間を置いてまた「本当にたまげないか」「はい」。くりかえし私の顔色を見ておられました。「それでは話すが」と言われますと、やはり「ドキッ」としました。》
 この時、旦那さんは田んぼへ行っていたというのですが、やはり、たまげた。当然です。
 大潟町・犀潟の平原正司さん、町老連だより第8号に書かれましたのは、終戦を迎えた時の平和の実感です。昭和19年でしょうか、平原さんは埼玉県所沢の陸軍航空整備学校に志願して入学されました。
 厳しい軍律のなかで約1年間にわたり教育、訓練を受けました。この間、学校は十数回にわたり、空襲攻撃にさらされます。二度と帰ることのない特攻隊を幾度となく送り出し、いつ、自分の番がやってくるか、と心配する日々が続きました。
 そういう中で8月15日がやってきます。夜になって、平原さんはふと、校舎を見ます。そこには灯りが煌々(こうこう)とついていました。その灯りを見た平原さんは「平和が来た」と感動したといいます。その時の情景がくっきりと浮かび上がってきますね。こうしたことは実際に体験した人でなければ書けません。
  2つ目は、物不足、食糧難時代の生活です。これは戦時下のみならず私が生まれた頃まで続きました。いま、あの時代の暮らしのしんどさを記録することはとても重要だと思います。
 今年の7月に亡くなられた、柿崎町8区の松浦盛司さん、柿崎町老連の「だんらん」第30号に「釣瓶の思い出」を書いておられます。
 先ほどお風呂の話をしましたが、昔は「風呂をたく」といいました。今はもう死語になってしまった。「風呂をたく」というと、風呂に入るまでのさまざまな苦労が浮かんできます。しかし、私は釣瓶のことをすっかり忘れていました。それが、松浦さんの文章でちゃんとよみがえりました。松浦さんの文を読みましょう。
  「水なきところ人住めずで、井戸が一番大切でした。しかも深井戸、毎日の食事から洗濯、何回も釣瓶で汲み上げ、天秤棒でかついで運ぶのは、当時としてはあたりまえでした。松葉で飯を炊き、浜で取りたてのイワシがとてもご馳走でした。娯楽はお引き上げと仮設小屋での映画かパチンコ、四つ角で年一度の井戸替え、組合員総出で大きな釣瓶で掛け声も賑やかに力いっぱいの綱引き、終わって総会を兼ねて組合長宅で宴会、酔うほどに小皿たたいてチャンチキおけさ等など、楽しいひと時でした」
  いいですね。松浦さんがどんな方か存じ上げていませんが、小皿たたきながら、「スチャラカチャンチャン、スチャラカチャン」とやっている姿が目に浮かびます。
  3つ目は、バイクや自動車がまだ流行らない時代、徒歩が中心だった時代の「歩きの世界」です。「歩きの世界」の魅力について作家並みの表現力で書かれたのは、吉川町・平等寺の杉田忠雄さんです。「ともしび」第21号に「祖母の郷」というタイトルで「お盆泊まり」について書いてあります。
 杉田さんが小学校3年のときの夏でした。杉田さんのおばあちゃんの実家へ歩いて泊まりに出かけます。実家は吉川町の最も奥にある川谷です。平等寺から川谷に行くには、坪野と尾神を通っていかねばなりません。じつは、私の母の生まれが大島村の竹平でして、私もお盆泊まりで同じ道を歩きました。
 杉田さんの文章を読んで思い出したのですが、子どもにとっては歩くのはたいへんです。ある程度歩くと、必ずといってよいほど歩いてきた道を振り返りたくなる。どれだけ歩いたか確認するのです。
 それから、ところどころに出ていた清水、この美味しさ、これは忘れることが出来ませんでした。
 私が一番感心したのは、杉田さんの観察力です。尾神から川谷に行く途中に小さなトンネルがあるんですが、杉田さんはトンネルの中のツルハシの跡まで見ておられました。私はトンネルの中の冷っとした空気しか記憶に残っていなかったんです。 いずれにしましても、子ども時代、歩くことで体験した様々なことは、自動車に乗っていては絶対味わえない世界です。
  4つ目は、年を重ねないとなかなか味わうことの出来ない、高齢者ならではの感性、暮らしの情景です。これも若いものには書けない「いのちの輝き」です。
  ここでは頚城村の2人の女性の作品を紹介したいと思います。いずれも頚城老連の文集「無憂」に掲載されたものです。
 最初はかたづ片津の藤田トミさん、「70歳のつぶやき」。2つの短い詩がとても素敵です。これはもう、朗読した方がいい。
 【とし】 パソコンも分からない カタカナ語も分からない 携帯電話の使い方も分からない 何から何まで分からないものばかり 世の中からとっとと おいてきぼりをくっている こんなむずかしい世の中でも としだけちゃんとついてくる
 【落葉】 はらはらと散る落ち葉 表が出たら好きな人に会えると 心ときめかせながら見入る  一枚二枚三枚四枚五枚六枚七枚八枚九枚十枚 たったの一葉だけ表が出た
 わずか数行の詩ではありますが、どんなおばあちゃんか想像できます。とてもかわいい美人タイプの女性だと思います。「たったの一葉だけ表が出た」。ひょっとしたら、トミさんは恋をしている、そんな気がしてなりません。
 もう一人は、手宮の池田静子さん、「天国のあなたへのラブレター」。池田さんは、事故にあい、病気になられた旦那さんを15年間お世話されました。旦那さんは5年前に亡くなりました。その旦那さんへの感謝の気持ちと恋心を書かれました。
 亡くなる直前でしょう、静子さんは、旦那さんが力をふりしぼって静子さんに言った言葉が忘れられません。「もう駄目だ。後を頼む」「オレはやさしいオッカサもらって幸せだった」。この言葉で15年間、介護してきた苦労が吹っ飛んだと、書かれています。
 旦那さんが亡くなって元気を無くしていた静子さんも周りの人たちに支えられ、すっかり元気を取り戻しました。その元気な姿、一目でいいから旦那に見てほしいと訴えます。そして最後、静子さんはやはり女です。「夢の中でもいい、もう一度しっかり抱きしめてほしい」「お父さん、もう一度声が聞きたい」。私は涙が出てしまいました。
 以上、4か町村の会報や文集をもとにいくつか紹介をさせていただきました。時間があれば、このほかにも紹介したいものがたくさんあります。柿崎町・川合の内藤キクさんの歌集、『谷空木の花』、吉川町・原之町の細井孝さんの随想集『夕日の小道』など頚北にはいいものがほんとうにたくさんありますね。
 それともう一つ、文芸作品以外にも「いのちの輝きの記録」としてすばらしいものがあります。テープに吹き込んだもの、ビデオに撮ったものなどです。これらを紹介できないのは残念です。
 今回、高齢者の方々の書かれたいろいろなものを読ませてもらい、私はとてもいい勉強をさせてもらいました。人間というのは一人では生きてゆけません。必ず支えあいがあることを知りました。みなさんが年を重ねた人間でなければ果たせない役割をされていることも知りました。きょうは、文芸作品だけを紹介してきましたが、いずれの作品も前向きです。どんなに悲しいことがあっても必ず立ち上がって前を向いて生きている。私は年をとるってのも悪くないな、と思いました。
 それからもう1つ、こうした文化活動は1つの町村内にとどめておくのはもったいないですね、できれば、頚北四か町村合同の作品集を作れればいいなと思います。 最後に、私の作品『幸せめっけた』のなかから「夕焼け」というのを朗読して終わりたいと思います。

 夕焼け

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