春よ来い(10)


第130回 帰らないで

 今年の一一月二一日はじつに気持ちのいい日でした。雲ひとつなし。空いっぱいに青空が広がっていて、穏やかな天気となりました。気温も二〇度くらいはあったでしょう。雪の便りも聞こえてくる晩秋、こんな日は外でのんびりしたくなります。

 妻と一緒に米山山麓の紅葉を観賞した後、柏崎まで足を伸ばしました。妻の実家に着くと、雁木のところにいる義父と義兄の姿が目に入りました。義父は鼻用吸入器をつけ、竹製のイスにゆったりと座っています。義兄は板の間に腰かけ、足を組んでいました。ふたりは日向ぼっこをしていたのです。

 野の花が好きな義姉も近くの庭にいました。手に一握りの草花を持っています。「ほら、センブリがあったわよ」と私に声をかけてきました。数年前、妻の実家の近くで私がセンブリを見つけ、採ってきたことをおぼえていたのです。見ると、確かにセンブリです。ただ。すでに花どきは終わっていて、これから実をつけようとしているところでした。

 庭には何本かのモミジの木があります。いずれも赤や黄色に染まっていて、花の終わった庭をとても華やかにしています。義父が酸素吸入器のホースをのばしてまで雁木に来たのは、この光景を見たかったからです。太陽光線のせいでしょうか、ベッドのそばで座っている時よりも日向ぼっこをしている時の方が顔色もよく、健康そうに見えました。

 庭木の紅葉を見た私は、裏山へと登りました。妻の実家の裏山は三〇メートルほどの標高しかないものの、モミジやミズナラ、ヤマウルシなどの雑木がたくさんあります。ここも紅葉が進んでいて、ハッとするほど美しい景色をつくりだしていました。「これはオヤジさんに見せてあげなきゃ」と思いました。私はデジカメで何枚か写真を撮った後で、家の中に入りました。

 私よりも一足早く家に入っていた妻は義父のそばにいました。義兄も義姉も一緒です。耳が遠い義父のそばでは大きな声での会話が続いていました。そして、妻はまた親子で指相撲を始めました。単純でありながら、誰でもすぐに夢中になってしまう遊びです。「わぁー、父ちゃんの勝ちだ」などと言っては大騒ぎしていました。

 私はお茶をご馳走になりながら、裏山などで撮った写真をパソコンに取り込みました。もちろん、義父に見てもらうためです。裏山の紅葉は庭のモミジに負けないくらいきれいなものでした。義父はパソコンの画面にのぞき込み、うれしそうにみてくれました。「ほら、このヒマラヤスギは家の木だ。根のところが曲がっているだろう」などと写真に写っている木々の説明もしてくれました。

 ゆっくりお茶も飲んで二時間半くらいいたでしょうか、妻が「そろそろ、帰らなきゃならない時間だわよ」と横になっていた私に声をかけてきました。私には夕方からやらなければならない仕事があったのです。

 帰り支度をした妻は、居間のイスに座っていた義父のそばに行きました。「父ちゃん、帰るわね。また、来るしさ」と言った瞬間、義父は大きな声で言ったのです。「カムバック、ストップ」。まともな英語ではありませんが、言いたかったことはすぐわかりました。「帰るな」という意味です。「まだ、帰らんくてもいいだろう」とも言いました。手を合わせて頼む義父の姿を見て、私は涙が出そうになりました。

 柏崎の義父はいま八八歳です。最近、子どもっぽくなりました。

  (2010年11月28日)


第129回 パプリカ

 まさかハウスの中でモーツァルトの曲が流されているとは思いませんでした。先日の夕方六時半、私はパプリカが栽培されているハウスの中に入れてもらいました。あたりはすっかり暗くなっています。背丈が二メートルを超えたパプリカの茎は太く、天井へと伸びる姿は『ジャックと豆の木』に出てくる豆のようでした。

 入ってまもなくのこと、クラシック音楽が聞こえてきました。最初は小さく、静かに流れていました。「どうぞ、こちらへ」案内役の青年に従って進むと、音は急速に大きくなりました。曲のテンポは速くなり、音もそれに伴って大きく聞こえてきます。曲はハウス内の中心部から流れていました。

 スピーカーはハウスの中央部のかなり上の位置にありました。南方向を向いています。これではスピーカーの北側はよく聞こえない可能性があるなと思いました。当然、パプリカへの影響力も違うはずです。「あっち側とこっち側でパプリカの反応が違うなんてことはあるんですか」とたずねると、「うーん、むずかしい。それはわかりません」青年は笑いながら答えてくれました。

 この青年によると、最初はバッハ、ベートーベン、モーツァルトなどのいろんな曲を流していたといいます。その後、「ハウス内でパプリカに聴かせるには何々がいい」ということを栽培部長がどこかで聞いてきたらしい。青年は、「ここ六か月ほどずっとこの曲です。朝晩流しています」と教えてくれました。

 流れている曲に聴き覚えがありました。ハウスを出てから事務室でCDを見せてもらったところ、モーツァルトの交響曲第四〇番でした。やはりそうだったのか。この曲なら何十回も聴いています。たまたまこの日は、雨の音が混じっていたこともあって曲を楽しむには無理がありました。でも、朝起きたらハウスから交響曲第四〇番が聞こえてくるなんて素敵でしょうね。この曲が流れてくると、私は曲に合わせて体を揺さぶりたくなります。暗闇の中でパプリカの葉が揺れていました。ひょっとしたら、パプリカたちも全身を揺らして曲を受け止めているのかも知れません。

 これまでの研究によると、音楽による空気の振動で植物の成長が促進される可能性があり、空気の共振現象によって植物が吸い上げる水の量が増えるらしいということがわかっています。「水の量が増えれば、光合成のための材料が増えるので生長が促進される。糖度が上がり、実の甘味も増すと考えられる」という報告もあります。今後、研究が進めば、植物の生長と音楽の関係はもっと詳しく解明されるでしょう。

 このハウスで栽培しているパプリカは赤と黄色です。いずれも色が完全にのってから収穫しています。どういう味なのか、家族みんなで生のまま食べてみました。「わー、甘い」「ジューシーだね」という声が出ました。外国産パプリカの場合、鮮度も甘味もいまひとつです。六割ほど色がついたところで収穫し、日本に送り込むからだそうです。今回、外国産パプリカとの違いをはっきりと意識しました。

 私が知る限り、市内で野菜に音楽を聞かせているのはこのハウスだけです。パプリカ栽培に取り組んでいる青年たちと事務所内で話をしたとき、栽培部長のKさんが言いました。「私は朝、ハウスの中に入る時に、パプリカたちに『おはよう』って声をかけています」と。優れた農業者は音楽的なセンスとやさしさをもっている、ということを聞いたことがあります。この青年たちがどんな農業をやってくれるのか楽しみです。
 (2010年11月21日)



第128回 モーモー探検隊

 先日ある集会で七〇代のMさんがやっと思い出した横文字はフィールドスタディでした。日本語で言うと「現地学習」という意味です。この言葉を聞いて、私は九年前にわが家の牛舎へやってきた子どもたちのことを思い出しました。

 現地学習というのは、学校から離れ、農業生産の現場などを訪ねて学ぶことをいいます。わが家の牛舎へやってきたのは旧源小学校の児童一二人。もちろん担任の先生も一緒です。それと校長の高橋先生も一緒だったように記憶しています。梅雨入り前の六月四日でした。

 子どもたちが牛舎にやってくることを事前に校長先生から教えてもらっていましたので、わくわくして待ちました。教師の道を進みたいと思った時期もあった私は、農業をやる決断をしてからも、一度は子どもたちを前にして授業みたいなものをやってみたいと思っていたのです。

 当日、マイクロバスでやってきた子どもたちは好奇心が強く、元気いっぱい。私の説明を聴く目は輝いて見えました。熱を出していた牛の体温を測るために肛門の中に体温計を入れると、そばにいた子どもたちは不思議そうな顔をしています。バーンクリーナーで牛の糞を片付ける作業を見た時も興味津津。子どもたちは、この機械を「うんち用ベルトコンベアー」と名付けました。恐る恐る牛の体に触ったり、エサを手にとって見つめる子どももいました。

 この日、私は、子どもたちに楽しく学習してもらおうと「秘策」を考えていました。それはクイズです。クイズを次々と出して「楽しい授業」にしたかったのです。これが大当たりでした。

 牛舎前の広場に子どもたちを集めて、「はい、みんな、牛舎の中で牛をよく観察してくれたことと思います。それでは、おじさんの方からクイズを出します。わかるかな」。「一問目。おじさんちの牛舎には現在、乳を搾っている牛が一四頭います。このうち、オスは何頭、メスは何頭いたでしょうか」。ちょっと意地悪な質問だったのですが、みんな真剣な表情をして考えてくれました。正解はいうまでもなく、全部メス。「では、次の質問です。みなさんは顔や声などで誰かを区別していますね。牛たちの場合は何で区別しているでしょうか」「最後の質問。牛は何に強く、なにに弱いか。わかる人、手をあげてください」答を聴いて、驚きの声を上げる子どもがいれば、「なるほど」という顔をしている子どももいました。とても楽しそうでした。

 子どもたちは後日、この日の学習の成果を黄色と水色の大洋紙にまとめてくれました。「モーモー探検隊」と書かれた黄色の大洋紙には、学習したことや感想などがしっかりした文字で書かれていました。「エサをたくさんあげると赤ちゃんが(お母さん牛のお腹の中で)大きくなって、おしりのあなからでてこなくなる」「角(つの)がはえていたからオスかなーって思っていたけど、メスだったのでびっくりしました」子どもたちのまとめを読んでうれしくなったのはいうまでもありません。

 牛舎訪問の九か月後、今度は私が学校に出かけ、この子どもたちを前に話をさせてもらいました。確か卒業式の前だったと思います。私にとっては学校での初めての「授業」でした。現地学習ですっかり顔なじみになっていたので、息もぴったり。「私たちの生まれ育ったふるさと」の魅力を語り、探る一時間、子どもたちと一緒に学ぶ喜びを味わうことができました。「モーモー探検隊」のみなさん、元気ですか。
 (2010年11月14日)



第127回 一瞬の笑顔

 毎日忙しく動いていると、ひとつの笑顔に出合っただけでも心が休まります。出合う笑顔はじつにさまざま。人に会う時はいつも笑顔というのもあれば、NHKの朝ドラ「てっぱん」のおばあちゃんのように、たまにしか見せない笑顔もあります。

 私が以前住んでいた蛍場には、連れ合いと一緒に暮らしている伯母がいます。わが家からすぐ隣の家に嫁いだこともあって、わが家のことや私のことをずっと見守ってきてくれました。この伯母の笑顔には優しさがいっぱい詰まっています。

 伯母は、「しんぶん赤旗」日曜版の配達の時などで訪ねた時はいつも微笑みを浮かべ、「お茶飲んでいかんねかね」と声をかけてくれます。お茶を飲みながら話してくれるのは、私の議会での質問の様子やこの「春よ来い」の話がほとんどです。質問の中にはよくわからないこともあるはずなのに、私の質問をケーブルテレビで最初から最後まで見てくれています。場合によっては再放送まで見て励ましてくれるのです。準備不足の質問もありますので恥かしくなります。でもうれしい。ひょっとすると、伯母にとっては、私の姿をテレビで見られるだけでも楽しいのかも知れません。お茶に誘われた時、「午後から高田へ行かんきゃならんすけ、またにするこて」などと答えると、「だめか……。忙しいがだねや」とがっかりしています。

 ちょっぴりであっても、周りの人たちに大きな喜びをもたらす「一瞬の笑顔」もあります。三年前に誤嚥性(ごえんせい)肺炎で緊急入院した時の父の笑顔がそうでした。あの笑顔は一生忘れることができません。

 もう数日で年末を迎えるという日。痰を吐きだすことができなくなった父は救急車で市内の病院へ運ばれました。病状は重篤状態で、医師からは翌日の朝までに命の炎が燃え尽きることもありうると言われました。いうまでもなく、父には徹夜で付き添いました。幸い、その時は医師の懸命な治療のかいがあって何とか持ちこたえてくれました。翌日、家族みんなの顔をみることができ、うれしかったのでしょう、酸素マスクをつけていた父は、ほんの一瞬でしたが、笑顔を見せてくれたのです。この時、そばにいた家族が父の笑顔を見てどれほど喜んだことか。

 写真の笑顔に心を動かされたこともあります。  数年前の秋のことでした。ある集落でひとり暮らしの男性が亡くなりました。まじめで仕事熱心な人でした。地域では信頼されていましたが、家庭的には恵まれない不運の人でした。お連れ合いとは二〇年ほど前に離縁、子どもさんとも離れ離れに暮らしていました。年金がもらえるようになってからしばらくして、癌に侵されました。

 病気が悪化し、長くは生きられないということが分かった時、このまま人生を終わることになればあまりにもかわいそうだ、と誰もが思っていました。どなたかが動いてくださったのでしょうか、亡くなる三ヶ月ほど前、二人の子どもさん、それに別れたお連れ合いも加わって「お別れ会」を開いたとのことでした。

 そして葬儀の日、式場にはお連れ合いと二人の子どもさんの姿がありました。目が不自由な一人の子どもさんは、父親と同じく、がっしりとした体格の大人に成長していました。お母さんの肩につかまり焼香し自席に戻った時、目はうるんでいました。

 「お別れ会」がどんな会となったかは聞いていませんが、故人にとっては、うれしい会になったのではないでしょうか。一時であったとしても、人生の最後の最後に来て家族がひとつになったのです。遺影の笑顔がとても素敵でした。
 (2010年11月5日)


第126回 結婚記念日

 結婚式を挙げた日を記念日として大切にする夫婦はけっこういるのではないでしょうか。毎回、お連れ合いに花をプレゼントする人がいます。家族連れで食事会を開く人たちもある。記念日の祝い方は様々です。私も五〇代になる頃から結婚記念日を意識するようになりました。もっとも、たいしたことはしていませんが……。

 私たち夫婦にとっての結婚記念日は一〇月二六日。今年は結婚三五周年でした。金婚式、銀婚式と同じように祝うならば、珊瑚(さんご)婚式ということになるのだそうです。ということで、記念日の数日前までは、「今年は特別な年だから、奮発してお祝いをしよう」と思っていました。ところが、なんということでしょう、忙しい日が続き、二人ともすっかり忘れてしまったのです。

 結婚記念日のことを思い出したのは、二六日の午後一〇時頃になってからのことでした。この日は上空に強い寒気が入って急速に冷え込みました。市民プラザでの学習会が終わって、二人で家に向かって車を走らせていた時、妻が言いました。「きょうあたり、山では雪が降ったかもね」と。「山に雪が降った」その言葉ですぐに浮かんだのは、新婚旅行の最終日、雪でたいへんひどい目にあったことです。「あっ、そうだ。きょうは結婚記念日だった」。一日が終わろうという時間帯になって、ようやく思い出したのでした。

 私たちが結婚式をあげたのはいまから三五年前でした。青年団の仲間たちが実行委員会を結成し、会費制の結婚式を挙げてくれました。会場は吉川町総合センター(当時)。そこで結婚式と披露宴を行ったのは私たちが初めてだったと記憶しています。

 結婚披露宴では、友人の一人が、私たちの子ども時代から大人になるまで、さらに二人が出会って結婚するまでの歩みをスライドで紹介してくれました。すぐ下の弟と一緒に雪だるまをつくった小学時代の私はまんまる顔、みんなが注目して見てくれました。新郎新婦への質問コーナーでは、いじわる質問も用意してありました。「新郎におたずねします。婚前交渉はあったでしょうか」との質問に答えようとした直前、県内のある銀行に勤務していた高校時代の友人、S君が大きな声で言ったのです。「もちろん!」。これにはまいりました。親戚の人たちもハッスル、演歌が得意の後生寺の叔父は細川たかしの「心のこり」を歌って盛り上げてくれました。

 さて、雪の話です。私たちの新婚旅行は三泊四日の旅でした。最終日、四日目の朝、信州上田の菅平高原の小さなホテルを出ようとしたら、外は一面銀世界です。普通タイヤをはいた車に乗って行ったので、スノータイヤを購入しはき変えなければなりませんでした。困ったのは私です。旅行費用として持参したお金では間に合いません。妻からもカネを出してもらって何とかその場をしのぎました。

 新婚旅行は南蓑輪村のスポーツ施設を見せてもらったり、紅葉の終わった蓼科高原を歩いたりした楽しい旅でした。また、佐久病院を訪ねて、当時、三半規管が悪かった母の人間ドッグの予約もできました。でも、どういうわけか、新婚旅行というと、一番最初に浮かぶのは金が足りなかったという苦い思い出なのです。

 二六日。家に戻ってからささやかなお祝いをしました。私が愛飲している発泡酒が冷蔵庫にあればいいなと思っていたのですが、ありませんでした。妻が用意してくれたのは酒です。八月七日に行われた「越後よしかわやったれ祭り」の記念酒、『吉川の想い』をワイングラスに半分ほど注いで、ふたつのグラスをカチンとやりました。
 (2010年10月)



第125回 ドングリの「あてっこ」

 なんでこんなに楽しいのか。ドングリを目の高さから落として地面にあるドングリに当てる、たったそれだけの遊びなのに、すぐに気持ちが乗って夢中になってしまう。ドングリの「あてっこ」遊びは忘れられない遊びのひとつです。

 たまたま、同級生のトラちゃんとばったり会った場所がクヌギの木の下でした。そこでの出来事です。ふたりで話をしていたところに丸いドングリがいくつも落ちていました。話の途中でそれに気づき、一個を拾って、目の高さから地面に転がっている別のドングリに当てようと落としました。

 最初ははずれ。それならもう一回と、拾い直して落としました。今度はうまく当たりました。こうなったら、もう一回当てたくなります。何回か繰り返しました。こうしてドングリ遊びに夢中になってしまったのです。それじゃ、一緒にいた同級生の人は怒るのではと思われるでしょう。ところが、私のそばにいたトラちゃんもドングリの「あてっこ」遊びに夢中になっていました。いつの間にか、ふたりで遊び、「おもしいねぇ」と顔を見合わせて、またぽとり……。

 遊びに夢中になってしまったのは、この遊びの面白さ、楽しさを体が覚えているからです。ドングリを拾い、遊んだ時期は小学生のころでした。

 私がドングリを拾った場所はハサ場です。わが家のハサ場は家から二〇〇メートルほど離れたところにありました。ハサ場には柿の木、栗の木、それとクヌギの木が数本ありました。そのうちの一本は大人でも抱きかかえられないほど大きな木でした。秋も深くなると、その木の根元のまわりに大小様々なドングリが落ちていました。

 当時、小学生であっても、秋の農作業の時は貴重な労働力でした。ハサ場では稲かけ、稲入れ等の手伝いをさせられました。子どもですから、手伝いをしていても遊びのことは頭から離れません。ドングリが落ちていれば、ちょっとした仕事の合間にせっせと集めました。

 ドングリの形はほとんどがずんぐり型。でもよく見ると、ひとつひとつ、微妙に形が違います。大きさも直径一センチくらいのものから二センチ以上のものまであります。木から落ちた時期によって色も違いました。私が好きなドングリはビー玉のように丸くて大きなもの。なるべくそれに近いドングリをポケットに詰めたものです。

 ズボンであろうが、服であろうが、ポケットさえあれば、そこにドングリを詰めました。ポケットはすぐにいっぱいになりました。忘れることができないのは、ポケットに入ったドングリを手で触った時の感触です。手で触る、かきまわす、それだけでうれしくなったものです。

 集めたドングリはもちろん遊びの道具になります。地面で転がす。転がして何かに当てる。上から落とす。ドングリを拾った子どもたちは次から次へと遊びを考え出したものです。そのなかでも一番人気があったのが、ドングリの「あてっこ」でした。自分で拾った最もお気に入りのドングリをポケットに入れて隣の集落に出かけて、「あてっこ」競争を日が暮れるまでやりました。

 私とトラちゃんが出会い、遊んだクヌギの木のある場所は山方という集落の入り口です。木の高さは一五メートルはあるでしょう、空に向かって大きく伸びていて、下の方の枝は斜め横にぐんと突き出ている、とてもりっぱな木です。ドングリがなくならないうちにもう一回、「あてっこ」をしてみようと思います。
 (2010年10月)



第124回 焼いたヒラメ

 どこの家族の歩みを見ても、新たな親戚関係のはじまりがあります。代表的なものは、結婚にともなうものでしょう。結婚によって、それまでほとんど付き合いのなかった家族の人たちと新しい親戚としての付き合いがスタートします。

 わが家では、私たち夫婦の結婚や弟たちの結婚、さらには子どもたちの結婚によって次々と新しい親戚関係ができました。そのなかで、次男の結婚にともなうものが最も新しく、印象に残っています。

 二年ほど前のことでした。次男が翌春に結婚するというので、その前に、連れ合いになるという彼女の両親との昼食会を市内の割烹で行いました。若い二人はすでに五年ほど付き合いをしていたのですが、彼女の両親と会ったのはその時が初めてでした。昼食会はそれぞれの両親の顔合わせをと二人が計画し、準備してくれました。

 昼食会の当日、私たち夫婦は、約束の時間よりも少し早めに割烹に到着しました。相手方の両親も偶然、私たちと同じ時間帯に到着していました。駐車場で車から降りると、ニコニコして私たちの方に向かって歩いてくる夫婦の姿があります。そばに次男と彼女もいましたので、すぐにわかりました。私たちが一緒に食事をする相手方だったのです。

 私はまず、彼女のお父さんの顔を見ました。見た瞬間、ホッとしました。こう書くと笑われるかもしれませんが、私と同じく頭の毛が薄い人だったのです。それも私と付き合いのある町内会長さんと顔がそっくり。それだけで親近感が持てました。

 割烹の予約してあった部屋へ入ってお互いに挨拶を交わした後、すぐに食事になるのかと思っていたら、次男と彼女が風呂敷を広げはじめました。見てびっくりしましたね。中に入っていたものは何と結納の品々だったのです。それなら、それなりのことをしてあげたのにと思ったのですが、若い二人に任せた以上は注文をつけるわけにはいきません。二人が考えたやり方で進めました。

 振り返ってみると、この時が一番緊張した時間となったように思います。その時の記念写真が何枚かあります。いずれの写真も、若い二人はニコニコしていて、それぞれの両親は極めて真面目な顔をしていましたから、相当緊張していたのでしょうね。

 さて、昼食会。彼女のお父さんは偶然にも私と同じくビール党で、しかもキリンラガー派でした。お父さんは職人さんですので、日本酒をがっちり飲み、性格的にもかなり厳しい人ではないかと勝手に想像していたのですが、そうではありませんでした。ビールを注ぎあった時、お父さんの手の指が目に入りました。乳しぼりをしていた私に負けないくらいの太い指です。働き者の職人さんだと思いました。

 びっくりしたのは焼いたヒラメの食べ方です。頭の部分と骨をほんの少し残してきれいに食べるお父さんにみんなの目が集まりました。私もきれいに食べる方ですが、食べられる部分を「お見事!」と言いたくなるほど徹底的に食べる、その様子には圧倒されました。私も試しに挑戦したところ、ほぼ同じレベルまで食べることができました。ここまで食べると、残物をもらったネコはがっかりするかも知れません。焼いたヒラメのおかげですっかり打ち解けた雰囲気になりました。

 昼食会では、初顔合わせとは思えないほど話がはずみ、三時間ほど一緒に楽しい時間を過ごすことができました。彼女の両親は、近くの山に行ったり、温泉に入ったりすることが好きだということがわかりました。いつか、一緒に出かけたいものです。
 (2010年10月)



第123回 父の「計算」

 先日のことです。わが家の庭に車を止めて降りた瞬間、とてもいい匂いがしたので庭木の方を見ると、薄黄色の花が開き始めていました。金木犀(きんもくせい)です。素敵な匂いを放つことによって、自らの存在を強烈にアピールしています。

 わが家の庭は、二十数年前に家を建てた時には、甘柿、欅、スモモの木があるくらいでした。そこへビワ、グミ、山茶花(さざんか)などの木を庭木として植えたのは父です。最初は、前に住んでいた蛍場の庭木を移しただけだったのですが、森林組合などから苗木を次々と買い、徐々に庭木を増やしていきました。いまでは二〇種ほどの庭木が所狭しと植えられています。

 庭木はまったくと言ってよいほど手入れがしてありません。車が通る時や除雪のじゃまになった枝を切るくらいで、枯れた枝もそのまんまです。果樹の剪定(せんてい)も父にまかせっぱなし、父が体調を崩してからというものは全然していません。

 ところが、こうしたみじめな管理状態にもかかわらず、わが家の庭木たちは近くで暮す人たちやわが家を訪れる人たちを結構楽しませてくれています。

 何よりも美しい花を咲かせます。春は桜、梅、ベニコブシ、ツツジが咲き、夏から秋にかけてには百日紅、ムクゲ、金木犀、山茶花と続きます。春一番に咲く梅は白、次に咲く桜はピンク。冬になって咲く赤い椿は雪が降っても簡単には散りません。わが家の庭木は春から冬まで一年中、途切れることなく様々な色の花を咲かせ、庭を賑やかにしてくれるのです。

 庭木となっている果樹も大活躍です。今春こそ収穫量は少な目でしたが、例年、梅の木はたくさんの実をつけ、わが家で漬ける梅はこれで十分間に合います。続いてスモモ、小粒ながら甘味十分の果物です。私は子ども時代からスモモが好物で、食べ頃が近くなると、毎日のように観察してもぐタイミングを考えています。わが家のスモモは、ほぼ一年おきに豊作となります。豊作の時は家族だけでは食べきれず、友だちなどにお裾分けしています。

 今年、わが家の庭で大量に収穫できたのは俵グミ。毎年、鮮やかな実をつけるところまでは見るのですが、食べ頃になると、あっという間になくなってしまっていました。たぶんカラスの仕業だと思います。ところが、今年は何があったのか、カラスたちは近寄らず、毎日、収穫できました。こんなことは初めてでした。

 庭木はどんどん大きくなります。咲く花も増え、つける実も多くなります。一番背が高くなったのはベニコブシです。数年前、父は私にこのベニコブシの花を写真に撮るよう求めてきました。それも花どきを迎えたときのものを。その時、父は笑顔いっぱい、満ち足りた表情でこう言ったのです。 「とちゃ、来てみろ、きれいに咲いてるねか」  以来、私は、庭木に咲いた花はデジカメで撮り続けています。

 わが家の庭はいま、金木犀が満開です。父が亡くなってから一年半。庭木の一つひとつが花を咲かせるたびに、「これはじいちゃんが植えた木だ」と思いだします。

 これまで、父が一生懸命庭木を育ててきたのは、「生きている時に自分自身が楽しみたい」ためだとばかり思っていました。でも、金木犀の花が朝日を浴びてキラキラと輝いているのを見て、ふと思ったのです。ひょっとすると、父は死んでからも「みんなから思いだしてもらう」ことを計算していたのではないか、と。
 (2010年10月)



第122回 コインランドリーにて

 八月六日、私は大阪市淀川区の十三(じゅうそう)にいました。近くの市役所で早朝より行政視察を行うため、前の晩からある宿に泊っていたのです。朝の五時半過ぎ、宿の近くにあるコインランドリーに入った私は、見知らぬ女性から親切にしてもらいました。そのおかげで、一日中、心地よい時間を過ごすことができました。

 私はこの日までコインランドリーに入ったことがありませんでした。マンションの一階にあるランドリーに入ると、五十前後の小柄な女性が一人いました。名前は聞きませんでしたので、Fさんと呼ぶことにします。首にタオルを巻いているFさん、その姿が決まっていて、いかにも働き者といった感じの女性でした。

 洗濯機にある説明書きを目で追っていると、Fさんが声をかけてきました。「教えましょうか」まるで友だちに話しかけるような調子に少々驚きました。私が答えを言わないうちに、もう私の気持ちを察したらしく、彼女は「洗濯ものを入れて、洗剤を入れればいいのよ」と言いました。そして、手元に残っていた洗剤を洗濯機の中にさっさと入れてくれたのです。

 ランドリーにはスチール製の簡単なイスが一個だけありました。Fさんは入り口付近にいた私のところへそのイスを持ってきて、「さあ、どうぞ」と言って座るようすすめます。遠慮がちに「ありがとう」と言うと、彼女は、「私は自転車があるから」そう言って自転車にまたがり、話を続けました。

 私の入れた洗濯ものは肌着、半袖シャツ、靴下の三つ。洗濯から脱水までの所要時間は三八分と出ました。乾燥まで含めると仕上がりまでには一時間はかかります。Fさんは洗濯機、乾燥機が動いている間中、話しかけてきました。といっても、おしゃべりおばさんといった感じではなく、適度に間をおいてポツリポツリと話しかけてきたのです。

 私が十三に行った数日前、十三の近くで幼い子どもたちが虐待され命を落とすという事件がありました。ひとしきり虐待された子どもたちについて話題が集中した後、Fさんは、「ここらへんは物騒なのよ。ほら、見てごらんなさい。ここでも盗みが起きたのよ。だいぶ前だけれどね」と教えてくれました。ランドリーの中をよく見ると、昨年一月に発生した洗濯もの泥棒の犯人をさがしている張り紙があります。「そんな物騒なところなら、こんなどこの誰かもわからない男に声をかけても大丈夫か」と言おうとしましたが、やめました。

 Fさんは福岡から十三に出稼ぎに来ていました。最初から打ち解けた雰囲気で私に話しかけてきたのは、どうも私が同郷の人間に見えたらしいのです。私のように髪の毛がすっかり薄くなった、まあるい顔の男性はどこにでもいます。年もとっていて、危なげのない人間であることは確かですが、でも、まったく警戒感なしに私に話しかけてきたところを見ると、ひょっとしたら、彼女が知っていた人とそっくりだったのかも知れません。

 ランドリーのすぐそばに古いアパートがありました。Fさんはたぶんそこに住んでいたのでしょう。「普通はね、男が出稼ぎに出るものだけどね、うちは私が出ているの」と言いました。「出稼ぎに出る」という言葉を聞いてハッとしました。私も出稼ぎを経験しています。Fさんに声をかけられ、私の方も気安く話ができたのは出稼ぎの仲間という意識があったからではないか。もう一度会ってみたくなりました。
 (2010年10月)

第121回 言い争い

 本当は仲良しなんだけれど、思うように頭も体も動かないなかで、ついつい言い争いをしてしまう夫婦。おらちもそうだという人はいませんか。久しぶりに柏崎市にある妻の実家を訪ね、義父を見舞ったときのことです。私と妻が居間に入ったその時、義父と義母が言い争いをしていました。それも小便の仕方をめぐって……。

 義父は数年前に呼吸困難に陥り、緊急入院して以来、酸素ボンベなくして暮らせなくなっています。退院した時点で、肺の機能が働いているのは正常な人の四割くらいでしたから、いまはもっと低下しているのかも知れません。家族みんなのためにと、自宅で日課にしていたカーテンの開け閉めもほとんどしなくなってしまいました。それどころか、歩くと息苦しくなるので、トイレに行くことさえ面倒がるようになってきています。「歩かなきゃ、ねたきりになっちゃうよ」と家族からいくら言われても、歩かないですむポータブルトイレを使う機会が徐々に増えてきています。

 ふたりの言い争いは小便専用型のポータブルトイレ(いわゆる尿瓶)を使うべきか洋式便器型トイレを使うべきかをめぐってのものでした。小便専用型を使った時はどうしても小便の切れが悪く、パンツやズボンを汚しがちです。一方、洋式便器型はズボンもパンツも下ろして用をたすので、比較的汚れないのです。汚せば、当然洗濯をしなければなりません。義母は、家族みんなが使っているトイレ、それも洋式のトイレを使ってくれと義父に迫っていたのです。

「あーあ、おっかないおっかさだ」
 義父がそうつぶやくと、義母も負けてはいません。
「だって、言うことを聞かないんだもん」と返しました。
 言い争いになるのはトイレのせいだけではありません。最近は、義父の耳が遠くなったことから夫婦の会話が思うようにできません。言いたいことを言っても伝わらない。そこから、イライラしやすくなっていることもあるようなのです。

 こうなると妻の出番です。ニコニコしながら義父のそばまで行き、大きな声で、 「ねぇ、父ちゃん、にくまれたらダメさ。母ちゃん、困っているがだからさ、かわいがられるようにしないといけないよ」
「そっか……」
 まだ不満がありそうでしたが、その場は何とか収まりがついたようでした。

 ところが、その直後、今度はメガネ騒動が起きてしまいました。いつからだかわかりませんが、義父はメガネをどこかにしまい忘れたらしいのです。この日、義父は妻が持ち込んだ短歌集を読む気になっていました。最初は大きな虫めがねで読もうとしましたが、どうも気分が乗らなかったようです。義母や妻にも頼んでメガネ捜しがはじまりました。

 いつもの新聞置き場、テレビの周り、タンス、風呂場など捜し回っているうちに義母が洗面所でメガネを発見しました。洗面所の、タオルなどがかけられているところの奥に小さな押入れがあります。そこにちゃんとしまってあったのです。  見つかったメガネは遠近両用で、五、六万円もする代物だそうです。

 見つけてもらった義父は、ニッコリとして、義母の方を向いて手を合わせ、「ありがとさん」と言いました。これで終わればめでたし、めでたしなんですが、義母がひと言、言いました。「腹の底からでないのがわかるんさ」。こりゃ、たいへん、たいへん……。
(2010年9月)


第120回 百日紅

 父が旅立ってから一年四カ月が経ちました。葬儀後まもなく、次男が家から離れました。家族が二人も減ってしばらくさみしい思いをしましたが、それも時の流れとともに薄らぎました。ただ、お盆を迎えると、どうしてもさみしさを感じます。

 今年のお盆は猛暑が続きました。そんななかでわが家の庭にある百日紅(さるすべり)が今年も元気にピンクの花を咲かせました。それもいっぱい。おそらく、来月の上旬までは咲いていてくれるはずです。この花が咲いたことで、父が生きていた頃のことを次々と思いだすことになりました。

 父の入院生活が九か月目に入った頃のことです。この頃はまだ父の発する言葉をなんとか聞き取れました。口から食べ物、飲み物はいっさいダメという中で、家への思いは募るばかりだったのでしょうね、父は時々、「家に帰ろさ。いっぱいやろさ」と言いました。短い言葉で弱弱しく言うので何をしゃべっているのかわからないことが多かったのですが、この言葉だけはハッキリとわかりました。

 家に連れて帰りたいのはやまやまでしたが、医者の許可が出るはずがありません。それで、少しでも父の気持ちに応えてやりたいと思い、まず実行したのは、病院の中から尾神岳を見せてあげることでした。方角がまったく違うので病室からは無理。廊下から尾神岳の見える場所がありましたので、そこまで車椅子に乗せて行きました。自分が生まれ育ったふるさとの山は、ふるさとから離れた地で見ると、それだけでうれしくなります。元気が出ます。「ほら、あれが尾神岳だよ」そう言うと父はゆっくりとうなずきました。

 しかし、父は、尾神岳を見るだけでは満足しませんでした。その後も「家に帰ろさ」を繰り返しました。それで次に考えたのは、わが家の写真を父に見せることでした。なるべく最近の写真をと思い、デジカメに撮ったのはわが家の木戸先の百日紅です。ピンクの花がちょうど満開となっていました。写真は手前に百日紅の花を入れ、バックにはわが家が大きく写るようにしました。

 現像した写真を見せ、「ほら、じちゃ、きょうはいいもの持ってきたよ」と声をかけると、父は「おらちか」と訊(き)きました。「そうだよ、おまんが建てた家だよ。お医者さんから帰ってもいいよと言われるまでがんばるんだよ。その時にはちゃんと連れて行ってあげるすけね」と答えました。

 写真をじっと見ていた父。涙を流すことはありませんでしたが、よほどうれしかったのか、「おれ、唄、うたうわ」と言って、ベッドで寝たまま、「米山さんから雲が出た…」と始めました。柏崎の民謡、三階節です。「いまに夕立が来るやら、ぴっから、ちゃっから、どんがらりんと…」父の三階節はそこまでで終わってしまいました。でも、よくそこまで唄ったものです。

 百日紅の花が入ったこの写真はその後、病室の引き出しの中に入れておき、何度も父に見せました。病室で父が唄った民謡はこの三階節と佐渡おけさ、炭坑節の三つ。きっかけはこの写真を見てからだったと記憶しています。

 先日、庭の真ん中に立ち、たくさんの花を咲かせた百日紅の木を見ました。父に見せ続けた写真では家がバックに写っていたのですが、この方角はそれとは正反対です。百日紅のバックには真夏の青い空が広がっていて、白い雲がゆったりと流れています。それがとても新鮮で、なぜか心が弾みました。
 (2010年8月)


第119回 あねさかぶり

 大流行したバンダナが少しずつ減り、最近は「あねさかぶり」が盛り返してきたように思えるのは気のせいでしょうか。手ぬぐいやタオルを使って頭にかぶり、後ろでキュッと結んで動き回っている人の姿をあちこちで見かけます。

 「あねさかぶり」がいつ頃から始まったのかはわかりませんが、ずいぶん昔からあったように思います。私が小さかった頃、仕事をしている女衆は掃除などの家事ではもちろんのこと、田畑でも必ずと言ってよいほど「あねさかぶり」をしていた記憶が残っています。言うまでもなく、わが家の母も「あねさかぶり」をしていました。

 顔の小さな母が「あねさかぶり」をすると、小さな顔がさらに小さく見えました。母は昔から暗くなっても外で仕事をするのが習慣になっていました。薄暗いなか、小さな「あねさかぶり」が畑や田んぼで動いているところを見つけるとなぜかホッとしたものです。

 かく言う私も二〇代の頃から「あねさかぶり」をするようになりました。野良仕事をする場合は帽子をかぶるのが常でしたので、おそらく直接的なきっかけは帽子を忘れた時だったのでしょうが、いったんやり始めたらやめられなくなってしまいました。日よけになって、汗をぬぐえる。髪の乱れを気にしないでいい。少々の雨なら雨よけにもなる。タオルをかぶるだけで、こんなにもたくさんの効用があるのです。

 私の「あねさかぶり」は草刈りや稲刈りなどの外仕事をする時だけでなく、牛舎の中での仕事をする時にも広がっていきました。餌くれ、掃除、乳搾りなどいつも「あねさかぶり」をしていました。足クセの悪い牛であっても、この格好で牛の体に頭をつけて、「いいこになってろや」と声をかけ、乳搾りをしました。ありがたいことに、タオルが汚れても、帽子と違って簡単に洗濯ができました。

 タオルを使った「あねさかぶり」は、さらに、ビラ配りや新聞配達などの活動にまで広がりました。数年前まで私の愛車は軽トラで、クーラーはついていませんでした。梅雨明けから稲刈りの終わる頃まで、暑い日はいつも窓を大きく開けて動き回りました。この時はもちろん、「あねさかぶり」です。頭にタオルをかぶり、時々、流れる汗をぬぐいながら走りました。

 窓を開けたまま走ると、車の中にいろんなものが飛び込んできたり、通り抜けたりします。ある時、シャボン玉が入ってきて、スーッと抜けていきました。子どもが飛ばしていたのが流れてきたのでしょうね。また、別の日のこと、右側の窓から突然「お客さん」がやってきて、私の顔にとまりました。これはアブラゼミでした。

 今年は梅雨明け後、猛暑の日が続いています。日中の日よけは欠かせません。先日も、草刈りの時、いつもの「あねさかぶり」スタイルで作業をしました。おもしろいもので、このスタイルだと頑張りがききます。すっかり大きくなった草を草刈り機でどんどん刈り倒し、二時間以上も仕事をしました。

 小雨模様だった日の新聞配達でも「あねさかぶり」をしました。ある集落で、私の頭を見た七〇代のお母さんから「あら、おまさん、おもしれぇ格好してなるね」と言われたので、とっさに「頭の毛がすっかり薄くなっちゃってね。雨降るとぴしゃぴしゃするんだわね」と言ってしまいました。でも、そのお母さんは、私をからかって言ったわけではないのです。目元はやさしく、笑っていましたから。

 この暑い時期、あなたも「あねさかぶり」をしてみませんか。
 (2010年8月)



第118回 いろいろ

 先日、約一か月ぶりに柏崎の父を見舞いました。妻と一緒です。数ヶ月前から「だいぶ、耳が遠くなったな」とは思っていたのですが、義父の耳は数日前から急に悪化したとのことで、この日はほとんど聞えない状態となっていました。

  「困ったもんだ、まったく……。急に聞こえなくなっちゃった。どうしてこうなるんかいね」。こちらから話をしても全然通じませんが、義父の言葉はよくわかります。耳が聞えなくなってしまった義父は、重度の難聴になったことが信じられないのでしょう、盛んに「困ったもんだ」を繰り返します。

 私はどうしていいかわからず、義父の聞き役に徹していましたが、妻の方は途中から会話ができるようにと動き始めました。

 「なにやったってだめかやな、急速になったやつは……。急速に治るかなあと思って淡い望みをもったりして……」と義父が言ってから、それまで私と同じく聞き役一方だった妻がニコニコしながら、応じました。大きな声で「ある時、急に聞こえるようになったり するかも」と言ったのです。

 それからしばらく、妻と義父との会話が続きました。
「どうしてこんなになるのかね。風邪引いたわけでもないし、やっぱ、歳をとると聴覚の周期がおかしくなるがだな」
「みんないろいろだこて」
「ああん?」
「い ろ い ろ……」
「?」
 話がまったく通じないことから、妻は今度は立ち上がり、義父の耳のそばまで行って、言いました。
「い ろ い ろ」
 右の耳は完全にだめ。でも、左耳だけはそばで大きな声を出せば聞えるようです。

「いろいろかぁ」
「そう、いろいろ」

 話が通じた義父はうれしそうでした。いったん通じるとわかってからは、次々と妻に話しかけてきました。
「そこんちのおとっつゃん、おれほどにならんうちに死んじゃったがだろ。あの人、おれより三年も若いだろ。おらよりずっと若いわけだ」「まあ、早く死ねや、こういうことにならん」

 妻は、耳の具合を盛んに気にする義父の気持ちを少しでも楽にしてあげたいと思ったのか、わが家の母の耳の様子を持ち出しました。また、義父の左耳のそばまで行き、大きな声で言います。
「うーんとね、うちのばあちゃんも耳が遠いよ」
「おれより遠いか」
「うん、どっこいどっこいじゃないの……」
「そんなことないだろ、ぬかよろこびさせるな」

 質問されるたびに立って義父の左耳のそばに行き、大きな声で答える妻。その微笑ましい親子の姿にしばらく見とれてしまいました。
(2010年7月)



第117回 バリさん

 七年前に開催された第二回大地の芸術祭の時のことです。私は友人と二人で十日町市松代の商店街を訪れました。芸術祭の舞台は津南町を含む広大な地域なのですが、第一回の時に訪問した時の、商店街の人たちとの楽しい会話が忘れられず、まよわずそこの作品群を観に出かけたのでした。

 一緒に出かけた友人はバリさん。青年団時代から走ろう会の仲間として付き合ってきた人です。バリさんは、前年の暮れに小脳からの出血で倒れ、病院に数ヶ月入院。その時は通院、リハビリの毎日を送っていました。バリさんのお連れ合いに「今度、バリさんと一緒に『大地の芸術祭』に行ってこようと思うんだけど、どうだろう」と言いましたら、「助かるわ、連れてって」と快い返事をもらっていました。

 その日は、幸い、午前に雨が上がったので、午後から軽トラックに乗って出かけました。ほくほく線まつだい駅に着いたのが午後一時ちょっと前。駐車場に車を置き、そこから歩いて商店街に展示されている作品を観て回ることにしました。バリさんは軽トラに積んできた最新式の歩行器を使って歩きました。段差がない所を目でさがしながら、ゆっくり、ゆっくりと。

 「新しい病院は、俺みたいなもんのことを考え、段差はないね。それに平らだしさ」。バリさんは歩き始めてすぐそう言いました。一緒に歩いてみて、私が思い描いていた以上に歩くことがたいへんだということがわかりました。車が来ないか。前に障害物がないか。道は上っているか、それとも下りか。平らか、それとも斜めか。こういったことを総合的に判断し、前に進まなければならないのです。

 幸い、商店街は車の通りも少なく、作品を鑑賞するには好条件でした。興味深く観たのは、吉川中学校で美術教師をしたことのある前山忠さんの「視界」、土壁のやわらかさと温かさを生かした村木薫さんの「修景プロジェクト」、外米輸入を皮肉った「アメリカ米万歳」、大阪教育大学・星ゼミの「饒舌な金物店」。やはり、知っている人の作品や日常生活に密着している作品は身近に感じるし、親しみが持てます。

 バリさんは、思った以上に元気でした。ある民家の庭先にたくさんの花が咲いていたので、「これ、マツバボタンだったっけ」と聞いたら、「こういう時には人に聞くにかぎる」と言って、そばを歩いていた若い女性たちに、「ねえ、これ、マツバボタンだよね」。また、雪の写真を展示してあるお店では、「雪肌」という素敵な写真が気に入り、「これって、どう見ても女の人のお尻に見えるなあ」と言って笑います。病気を出す前とまるっきり同じでした。

 ある小間物屋さんの前のベンチに座って休んでいたら、お店の奥さんが「あんたがた、どこからきなさったね」と声をかけてきました。第一回の時には、八〇歳近い女性が気品あふれる態度で作品解説をしてくださり、感動した記憶があります。この時は、小間物屋さんの奥さんから松代の商店街の面白さを教えていただきました。とにかく、自分の住んでいる町に誇りを持っている、それがとても印象に残りました。

 この日は、たっぷり二時間、作品を観たり、おしゃべりをしたりして歩き回りました。商店街の端の方へ行った時、「ここで待ってるかい、車持ってくるし」と言ったら、「いや、駅まで俺も歩く」。とうとう全部を歩ききりました。  バリさんとはしばらく一緒に出かけていません。先日、松代へ出かけた時、七年前のことを思い出しました。バリさん、また出かけようよ。
(2010年7月)



第116回 恩師

 「ねえ、私、わかる?」Kさんがそう言って電話をかけてきたのは日曜日の夜のことでした。Kさんがわが家に電話をかけてきたのは初めてです。でも、ちょっぴり茶目っ気のあるしゃべり方、はずんだ声の調子は聞き覚えがあって、すぐにKさんだとわかりました。

 Kさんは旧源中学校時代の同級生。「春よ来い」の第一一五回で紹介した人です。その日、Kさんが私のところに電話をくれたのは、中学校時代の恩師のR先生からKさん宅に電話で思いがけない知らせが入り、うれしくなったからということでした。

 R先生からの突然の電話にKさんはとてもびっくりしたそうです。Kさんによると、電話は「あなたと息子さんのことがノリカズさんの『春よ来い』に書いてあるけど、読みましたか」という問い合わせの電話でした。Kさんが「まだ、読んでいない」と言うと、R先生はすぐにファックスで送信してくださったといいます。

 「春よ来い」に書いたことは、Kさんの実家、あるいは同級生の誰かからいずれは伝わるだろうとは思っていましたが、まさか、R先生からKさんのところにこんなにも早く伝わるとは……。私はR先生の優しさに胸が熱くなりました。

 R先生は中学校一年生の時にお世話になった英語の先生です。私が英語が好きになり、高校時代、英語に自信を持ち続けることができたのは先生のおかげです。基礎を大切にしながらも面白く教える名手でした。「ピクニックに行く」ことを、英語では「ゴー オンナ ピクニック」と言いますが、「ピクニックは男性だけで出かけてもつまらない。女性と一緒でないとね。だから、ゴー オンナ ピクニック」といった調子で教えていただきました。

 また、授業だけでなく、部活でも熱心な指導者でした。先生は軟式庭球部の顧問でした。背が高く、白い体操ズボンをはいた姿はとてもスマートで、西洋人を思わせる雰囲気がありました。部活の時間帯には、吉村商店のご主人や小学校の中村三代志先生(いずれも当時)などからも加わってもらい、実践的な指導をしていただきました。こうした「大人の選手との試合経験」で培った実力がものをいったのでしょう、山間部にある中学校の軟式庭球部はその後、上越地方の中学校の大会でよい成績を残すことができたのでした。

 私は小学校から大学まで先生に恵まれました。そして、学校にいた時だけでなく、社会人になっても気にかけてくださる先生が何人もいます。R先生もその一人です。とても几帳面な方で、時々、自筆のお便りで励ましてくださいます。  Kさんから電話をもらって数日後、私はR先生宅を訪ねました。Kさんに「春よ来い」のことを教えてくださったことについて、ひと言お礼を言いたかったのです。

 R先生と話をして意外な事実を知りました。Kさんの子どもさんであるT君が亡くなった時、R先生は柿崎中学校の校長先生だったのです。闘病中のT君のことをよく憶えておられました。卒業証書は、T君が病気だったため、卒業生と一緒ではなく独自に渡したといいます。T君が亡くなったのは高校に入学する数日前でした。R先生は葬儀に参列し、悲しみをともにされたのでした。

 実名を書いてなくても、「Kさん」と「T君」のことをすぐに思い浮かべたR先生。しかも先生は、「ひょっとしたら、Kさんは、まだ読んでいないかもしれない」と思い、電話をかけてくださった。ほんとうに良い先生に出会えたと思います。
(2010年7月)



第115回 Kさんのこと

 Kさんは私の中学時代の同級生で、現在、柿崎区に住んでいます。私の家からさほど遠くないところなので年に一、二回はどこかで偶然会うのですが、どこで会っても笑顔で、「元気?」「頑張っているね」と言って励ましてくれます。

 先日、久しぶりに彼女の実家で再会しました。茶の間にいたKさんは、玄関先にいる私の姿を見つけた瞬間、「あら、ノリカズ君、入って、入って」と手招きしながら声をかけてくれました。

 茶の間では、実家のお姉さん夫婦とお母さん、彼女のお連れ合いが飯台を囲んでおしゃべりを楽しんでいるところでした。飯台の上にはキュウリの浅漬け、小さく切ったスイカがそれぞれ皿に盛ってあります。それに透明の四角いケースに入ったサクランボもありました。食いしんぼの私は、どうしても飯台の上のものに目が行ってしまいます。それがわかったのでしょうか、彼女のお姉さんが「今日はね、サクランボ持ってきてくれたがだがね。山形へ行って買ってきたがと。さあさ、食べてくんない」と勧めてくれました。

 この日、Kさんが実家に出かけてきたのは、サクランボをみんなに食べてもらいたいこともあったのでしょうが、何よりも高齢のお母さんや昨年大けがをしたお姉さんの様子が気になっているから。お母さんはすでに九〇歳を超えています。言葉の方は少し不自由なところがあり、ほとんどしゃべることはありませんでしたが、表情はとても穏やかでした。お姉さんの方も、明るい、テンポのいいしゃべりが復活し、とても元気です。Kさんも安心したことでしょう。

 サクランボは実がしまっていて、甘味が抜群でした。サクランボやスイカをご馳走になりながら、私はKさんに「例の写真、見つかったよ」と語りかけました。

 「例の写真」とは、三〇年ほど前、農業共済新聞の記者が子どもたちを撮った写真です。当時、妻は勤務の関係などもあって、子どもたちとともに柿崎町(当時)に住んでいました。写真は茶の間で撮ったもの。そこには私の長女と長男、それとKさんの子どもさんのT君の三人の姿が写っていました。ブドウをほおばりながら、妻が作成した手づくりの絵本を見ています。行儀のいい姿ではありませんでしたが、三人とも絵本に夢中になっていて、じつに楽しそうでした。

 ある時、Kさんが働いている食堂で、この写真がわが家にあることを教えると、彼女はくりくりした目を輝かせました。じつは、T君は高校一年生の時に脳腫瘍で亡くなっていたのです。まだ元気いっぱいで、わが家の子どもたちと遊んでいた頃の写真がとても懐かしかったのでしょう。

 写真は、焼き増してすぐにKさんに渡すつもりでした。ところが、写真は焼き増ししないうちに行方不明となってしまいました。写真は私の仕事場においてあったのですが、三年前に発生した中越沖地震の激しい揺れで部屋の中が滅茶苦茶になり、片付けた際、どこにしまいこんだかわからなくなってしまったのです。

 この写真が先日、偶然見つかりました。ある本に挟まっていて、傷ひとつついていませんでした。

 写真が見つかったことを伝えると、Kさんは、「Tは今年の九月で三四歳になるの」と言いました。母として、T君のことはいつも忘れていないのですね。T君はわが家の長女と同級生でした。顔はどちらかというとお父さんに似ていて、人懐っこいところはお母さんとそっくりです。今度こそ写真を早く届けなければ……。
  (2010年7月)



第114回 スライド上映

 柏崎の父が米寿を迎えたことから先日、ささやかな祝う会を開催しました。「どうせ開くなら、潮風が吹き、海の匂いがするところの方が父は喜ぶのでは」と妻が提案し、海辺のホテルの一室を借りることになりました。

 集まったのは義父母と子ども、その連れ合いなど八人です。この日は五月晴れ。しかも波が静かで、海はまるで湖のようでした。先に到着したのは私たち夫婦と母の三人だったのですが、予約した和室に入った途端、窓の外の景色に惚れぼれしてしまいました。窓から見える海や街並みが絵のように美しかったのです。

 ただ、私はゆっくりと景色を楽しんでいる余裕はありませんでした。というのはこの日の朝、妻から、「父も母も、きょうの会ではスライドを見せてもらえるものと思っているみたいだわよ」と聞いたので、大急ぎでスライドづくりをしなければならなかったからです。

 ホテルにはパソコン、スクリーンなどを持ち込みました。パソコンにはデジタルカメラで私が撮影したものが七年分くらいあるほか、昔の写真を画像データとして読みこんだものも少し入っています。部屋に入ってから三〇分ほどの間にこれならいいと思う写真ファイルを二十数枚探し出し、スライドを作成しました。

 義父は十数年前から肺の機能が徐々に弱り、いまではトイレに行くだけでも息を切らすほどになっています。この日は酸素ボンベを持っての参加ですので、場合によっては遅くなるかも知れないと心配したのですが、ほぼ予定通り会場に到着。母などとの久しぶりの再会を喜び合いました。

 一休みしてから開会です。畳の上には参加した八人のために、それぞれのテーブルと椅子が用意され、ご馳走が並んでいます。義兄が開会の挨拶をのべ、生ビールで乾杯しました。その後、すぐに私の出番がやってきました。スライドの上映です。

 一枚目。東京から柏崎の家に親戚の人がやってきた時の食事風景をバックに「○○さんの米寿を祝う会」の文字と会場名を入れたものを映し出したところ、「おいおい、場所が違うんじゃないか」と笑いが起こり、ヤジが飛びました。二枚目。五歳の頃の長女が牛舎で牛に餌をくれている写真です。「かわいいねぇ」という声は義母の声かな。こんな調子で二五枚のスライドを上映しました。親戚の人たちとの旅行の写真、孫の子どもの頃の写真など懐かしい写真が何枚もあったのが良かったのでしょうか、バタバタと作成した割には大きな拍手をもらいました。

 スライドを見てからは、楽しい話が続きました。今年の一月、柏崎の母も私の母も目の手術をしています。白内障の手術ですが、術後の話で大笑いしました。「手術をしたら顔のシワが見えちゃってさ。病院の鏡、でっけねかね、そこにハッキリと写っていた」とやっています。

 言うまでもなく、会では酒も食べ物もたくさん出ました。次々とご馳走が運ばれてくるものですから、みんながせっせと食べました。柏崎の父が、「もう食うのがやになっちゃった」と言うと、義母が「おまさん、飲み過ぎたんだこてね。血管浮き出ているねかね」。また、みんなで笑いました。

 来年は私の母も柏崎の母も米寿を迎えます。ふたりとも「祝いなんてやらなくていいよ」と遠慮していますが、みんなで山菜料理を食べたいねとも言っていました。この日、みんなが大笑いした写真は、来年の会のスライドで使おうと思います。
 (2010年5月)



第113回 夕陽のきれいな日に

 父が亡くなってちょうど一年。初めて一周忌を迎えて、やはりいつもと違った気持ちになりました。この日の天気は晴れ。少し肌寒かったものの、青空が広がっていました。昨年、突然、病院から携帯電話がかかってきた時も、同じようにいい天気でした。それだけに、電話が鳴った時に胸騒ぎをしたことから始まって、あの日のめまぐるしい一日の様子が鮮やかによみがえってきました。

 市役所で行われた二つの会議を終えてからの帰り道。市役所を出て謙信公大橋を渡ると、その先は、昨年、父のなきがらとともに家に向かった時と全く同じコースです。田んぼ、遠くに見える米山や尾神岳の風景などが目に入りましたが、何となく落ち着きません。車内で時計を見ました。一年前、時計を気にしながら、「家の片づけをどうしようか」「親類への連絡は……」などと心配していた、あの日の切ない気分を思い出しました。

 わが家に着いて一番先に見たのはベニコブシの木です。昨年、父をわが家に迎えた時、庭にあるベニコブシは満開でした。ベニコブシは父の自慢の花でした。満開になると、家に来た人に、「ほら、見てくんない。おらちのミニコブシ、きれいだろね」とやっていました。おそらく、今年も同じ日に満開となるに違いない、そう信じていましたが、残念ながら、今年はまだ開きませんでした。四月に入ってからの低温が響いたのでしょう、まだつぼみの状態です。

 午後四時からはお坊さんにお経をあげてもらい、その後、尾神岳の近く、蛍場にあるわが家の墓に骨を納めることにしていました。母は、ろうそく、線香、花、新聞紙、水など納骨に必要なものをすべて準備しておいてくれました。私が準備したものはただひとつ、ベニコブシの小枝です。つぼみが膨らみ始めているものを一本だけ、持っていくことにしました。

 わが家の墓場に着くと、そこには近くに住んでいる伯母も待っていてくれました。少し耳が遠くなっていることもあって、私が近くに行っても気づかず、せっせと落ち葉を掃いています。うれしかったですね。伯母は墓の周りを少しでもきれいにして自分の弟を迎えようとしていてくれたのです。

 わが家の墓場は蛍場の東側、釜平というところにあります。少し高台なので、蛍場の山々、釜平川の流れ、それと田んぼがよく見えます。墓のある高台を四月に訪ねるのは数十年ぶりでした。近くのハサ場やお墓の周りには紫色のキクザキイチゲがたくさん咲いています。墓場に同行してくださったお坊さんと、母、伯母、それに私の四人を春の妖精のような花たちが迎えてくれた、これもうれしいことでした。

 一年間わが家の仏壇においた父の骨はよく乾いていて、墓の中に入れる時はカサカサという音がしました。父が生まれ育ったふるさと蛍場に帰ったのは数年ぶりです。私の祖父や祖母たちとの久々の再会を喜び、またいつものように酒造り唄を大きな声でうたっているにちがいありません。

 お斎はお坊さんと母、私、遅れて参加した妻と遊ランドでささやかにやりました。納骨に手間取り、予定の時間を一時間ほどオーバーして会場に到着したのですが、このおかげで素晴らしい景色と出合うことができました。夕陽です。お坊さんも、母も、私もみんなが夕陽に見とれました。父も大好きだった夕陽はこの日、オレンジ色に輝いて日本海にスッ、スッと沈んでいきました。
(2010年4月)


第112回 最後の輝き

 今冬で一番のどか雪が降りはじめた日の朝のこと。市役所へ出かけようと準備をしていたときに電話が鳴りました。受話器を取ると、聞きなれた「もしもし、のりちゃん」という声が聞こえてきました。高崎市に住む従姉です。いつもどおり落ち着いた声だったので、「どうしたの?」ときくと、「うちのお父さん、今朝早く旅立ったの……」。電話は連れ合いが亡くなったという連絡だったのです。

 一瞬、耳を疑いました。まだ、七〇代の半ば。昨年の春には自ら車を運転し、伊勢崎市に住む従兄たちとともにわが家に来ていました。その元気な姿が記憶に残っていたので、亡くなるとは思いもよりませんでした。

 翌日、大雪の中でやっと動いている電車に乗って高崎市へと向かいました。従姉の家では伯母が六年前に亡くなり、従姉夫婦だけの生活となっていました。それがこれからは従姉だけの独り暮らしになる。大丈夫かなと思いながら、電車の中で従姉夫婦や伯母がお盆にわが家に泊まりに来たときのことを思い出しました。

 わが家が乳牛を飼い始めて間もないころのお盆のこと、従姉夫婦は日産セドリックに乗ってわが家にやってきました。四十数年前のことですから、すごいなと思ったものです。従姉の連れ合いは車が大好きで、とても大切にしていた人でした。普段は技術家庭の先生をやっていて、機械に詳しい人だと聞いていました。おそらく、車の手入れも自分でやれた人だったのではないでしょうか。

 ある年のお盆、従姉夫婦は車ではなく、電車とバスに乗ってわが家にやってきました。どうしたのかと思いましたが、この時、連れ合いの顔を見てびっくりしてしまいました。真っ黒だった髪が一気に真っ白になっていたからです。まだ、白髪になるような年齢でもないのにと思いましたが、深くは尋ねませんでした。後に、従姉から、交通事故で同じ車に乗っていた教え子を亡くしてしまったということを耳にしました。車を手放したのは必要経費が高くかかるからだと聞いていましたが、本当はこの事故の責任を感じて一時、車の運転を控えたのではないか。責任感の強い人でしたので、私はそう直感しました。

 高崎市に着いたのはお昼すぎ。従姉の家に入り、亡くなった連れ合いの顔を見たとき、そのおだやかな表情が印象に残りました。とてもいい顔だったのです。

 炬燵に入ってお茶をご馳走になったとき、従姉は二枚の写真を私に見せてくれました。最初に見せてくれた一枚目。上向きにちょっぴり開いた手。少し黄色くなったその手の細い五本の指を誰かが両手でしっかりと握りしめているのが写っています。上向きの手は明らかに従姉の連れ合いの手でした。ベッドの上から伸ばしたのでしょう。そしてもう一枚の写真を見せてもらい、すべてがわかりました。二枚目の写真には従姉の姿も写っていて、半纏を着た従姉が夫の手を握っていたのです。その時の従姉の目がじつに穏やかでやさしい。夫婦愛が輝いて見えました。

 写真は従姉の連れ合いが亡くなる二時間ほど前に従姉の次女が撮ったものでした。この時は夫婦で会話もできたといいます。夫婦の手が一体となった時間がどれだけ続いていたのかはわかりませんが、従姉の次女はこの夫婦愛の輝きを記録しておきたかったのだと思います。人間は死を前にした時、どれだけの寂しさ、切なさを感じるのか私にはわかりません。でも、この写真のように、最愛の人が手を握っていてくれたらどれだけ気持ちが楽になることか。うらやましく思いました。
(2010年2月)



第111回 三十数年ぶりの弁当

 今回は弁当の話。先日、朝から夕方までかかる会議がありました。その日の朝早く、締め切りがせまっていた原稿書きをしていて、不意に、会議の案内文に「昼食は持参のこと」とあったことを思い出しました。

 妻に「おにぎり握ってくれないか」と頼んだところ、「私は起きて握る力がない。ばあちゃんに頼んでちょうだい。そうでなければ、ご飯、何か入れ物に入れたらどう」と言います。この時、お米に、あわ、黒ごま、ひえなど十六種の穀類を三〇グラムほど入れたものがすでに炊き上がっていました。お米は私がといだものです。

 「それなら、これにでも入れるか」と私が市販のおこわが入っていた使用済みの透明パックを持ち出したら、「そんなの、適当に洗ってあるからダメよ。ちゃんとしたものに入れなさい」などと言いながら妻は起きてきて、最後には「わかった、わかった。弁当作ってあげるわよ」。その後、たいした時間もかけずに、弁当を用意してくれました。

 会議室に着いてから、私は弁当をカバンから取り出し、ハンカチに包んだまま机の上に置いておきました。どうこうしようという目的があったわけではありません。ただ、「おれもちゃんと作ってもらってきたんだ。ほら、見てごらん」そんな気持ちが、心のどこかにあったのかも知れません。

 会議は順調に進み、正午になるちょっと前からお昼休みとなりました。いよいよ、待ちに待った昼食の時間です。まず、カバンからデジカメを取り出し、それから、二段重ねの弁当を広げました。上段にはおかず、下段には十六穀入りのご飯が入っています。おかずはミニトマト、キウイフルーツ、カブの漬物、ばあちゃんが作ってくれた筋子の粕和えなど五品。カラフルでとてもきれいでした。

 上段の箱、下段の箱を平らに並べてから、どういうふうに撮影しようかとデジカメを動かしていると、最初は私の行動を不思議そうに見ていた隣席のTさんがミカンを一個、弁当の脇に並べてくれました。色の組み合わせを考えたら、ミカンも写った方が美味しそうだと判断されたのでしょう。撮った写真は三枚。雑穀入りのご飯、おかず、みかんという組み合わせで、誰が見ても食べたくなるような写真となりました。

 じつは、この弁当、私にとっては、妻から三十数年ぶりに作ってもらったものだったのです。

 私が弁当を持参して勤務していたのは二十代の時のほんの一、二年です。直江津のある設計事務所に勤務していた時でした。その事務所で弁当を食べていたある日のこと、弁当にちょっぴりしかおかずが入っていなかったのを見て、私は職場の仲間に「さあさ、おかず入れを忘れてきてしまった」と言いました。その時の様子を黙っていればよいものを家に帰ってからどうも妻に話したらしい。妻の機嫌をすっかり損ねてしまいました。

 以来、弁当をどうしたか、私には記憶がありません。母に頼んだ記憶もないのです。おそらく、事務所の近くの食堂のお世話になったのでしょう。もっとも、その事務所はじきに退職して酪農の仕事に就いたので、弁当は必要でなくなりましたが。

 三十数年ぶりに妻が作ってくれた弁当は、冷蔵庫に入っているもののなかから、すぐにおかずにできるものだけを入れた単純なものでした。でも、とても美味かった。ご飯は一粒残さず食べ、おかずもきれいに食べました。かあさん、ありがとう。
(2010年1月)



第110回 安否確認

 「ひと月に一度は家に帰るよ」そう言っていた次男がなかなか帰省しません。仕事がうまくいかないのではないだろうか。ひょっとしたら体調を崩したのかも……。そんなことが気になって妻と一緒に金沢市に住む次男夫婦のところへ行ってきました。

 たまたま、出かけた日は風が強く、電車は遅れがち。私たちが乗ろうとした電車も大幅に遅れました。

 金沢駅には予定よりも三〇分遅れて到着。次男夫婦が改札口の近くで待っていてくれました。私たち夫婦を見つけると、若い二人はニコニコ顔になりました。「やあ、久しぶり」「久しぶり」。手をあげて簡単な挨拶をしましたが、どうやら、元気にやっているようです。なんとなくホッとしました。

 数日前、次男は、「土産を持ってきてくれるなら家で食べている、いつものりんごがほしい」と言いました。「はい、りんご」。ふじりんごが十個ほど入った袋を渡すと、また、にっこり。わが家で食べているりんごは長野県須坂市から毎年取り寄せているもので、蜜がたっぷり、甘味と酸味がうまく調和していて実においしいのです。

 金沢では次男夫婦と一緒にお昼を食べ、二人の住まいを見学した後、みんなで兼六園を訪ねることにしていました。お昼は若い二人があらかじめ調べておいてくれたお店に入りました。日曜日とあって、かなり混んでいましたが、そう待たずに席につくことができました。

 注文した食べ物は「ふやき御汁弁当」です。この店では金沢名物・「ふやき」が自慢です。出された御汁は「ふやき五色汁」といって麩(ふ)の中に人参、カボチャ、ほうれん草、ごぼう、しいたけなどが入っていて、じつにカラフルです。それと、小さな弁当箱の中にはしめじのうま煮、カボチャのいとこ煮、大根の甘酢漬け、タラコの昆布巻き、エビ、鯛の焼いたものなどが並んでいます。こちらも豪華です。食事をしながら、次男が勤めている会社のことや、新婚家庭を訪ねてきてくれた高校時代の友人の話などを聞きました。

 兼六園は次男が案内してくれました。友だちが訪ねてくるたびにこの庭園に来ているようで、桂坂口から霞ヶ池、根上松へとスッ、スッと歩きます。テレビでしか見たことのない松や桜などの雪つりのワラ縄はきれいで、まさに芸術品でした。

 あいにく、この日は途中から冷たい雨になってしまいました。外にいては寒いので、妻が時雨亭に入ってお茶を飲もうと提案、みんなで入ることにしました。時雨亭は木造平屋建てで、屋根はこけら葺きです。勤務先で茶道を教えていることもあって、お茶を飲んだ後、妻は生け花や掛け軸等を見ながら次男夫婦にいろいろと教えていました。この建物の中で次男夫婦と過ごした時間は妻にとって最高の時間となったようです。

 わずか三時間の滞在、時間はあっという間に過ぎていきます。次男が運転する車で移動中のこと、ある民家の庭に柿の実が残っているのが目に入りました。「あっ、柿がある。隣の客はよく柿食う客だ。庭には二羽、にわとりがいた。裏庭には二羽、にわとりがいた」とやったら、妻に「お父さん、はしゃいでいる」と言われました。私は、次男夫婦と一緒にいるだけで満足でした。

 帰りの電車の中で本を読んでいると、次男から笑顔マークのついた携帯メールが届きました。「今度、暖かい時にきないや」。いや、うれしいね。
(2009年12月)



第109回 つるし柿

 また木枯らしの吹く季節がやってきました。吉川区のシンボル、尾神岳が3回白くなると平場にも雪が降るといわれていますが、すでに1回白くなりました。母はいまのうちにと柿をもぎ、つるし柿をつくりはじめました。

 つるし柿というのは、皮をむいた渋柿を細いワラ縄などではさみ、軒下などでつるして干す柿をいいます。母は、ワラ縄の代わりに白いナイロンの紐(ひも)を使って干しています。

 母は先日、大潟区に住む私の弟に手伝ってもらい、柿もぎをしました。柿の木は牛舎の近くにあります。高さが3メートルほどしかない小さな木ですが、もいだ柿は洗濯用のたらいに山盛りにして2つ分にもなるほどたくさんありました。

 役所から私が家に戻ってきた時、母のつるし柿づくりがはじまっていました。日当たりのいい廊下が母の仕事場です。一つひとつ皮むきをし、たらいの中に積み上げた柿は朱色の山になっていました。

 皮をむくと次はナイロン紐にくくりつける作業です。母は新聞紙を広げ、その上にナイロン紐をのばしておき、柿の山から一つずつ柿を取り出します。そして紐を両手で少し広げて、そこに柿のツボ(柿のヘタのことをいいます)をはさみます。紐を広げてはさむ動きはじつにゆっくりです。横から見ると、背中を丸くして作業をしている母の姿は針に糸を通そうとしているようにも見えました。その母が丸い大きな柿を手にして、しみじみと言いました。
「天気と風で、他に何にもしねがに、かわっかすけ……、こんげん丸っこいががな」
まわりはとても静か。茶の間からは柱時計の音だけが聞こえてきます。外では近くのケヤキの枯れ葉がひらりひらりと舞い降りていました。
「おまん、紐にいくつぶら下げるがだね」
と母にたずねると、
「に、し、ろ、や、とぉ、13だ」 と答えが返ってきました。数えていたので、1本ごとに数が違うのかと思ったら、そうではありません。1本の紐に母がくくりつける柿の数はどれも13個でした。

 13個というのは母が紐につるして持ち上げることのできる柿の最大の数です。おそらく母のことですから、最初は、子どもたちに1個でも多く食べさせてあげようと思ってつるしていたのでしょう。その数が13個だったのです。これまで私は、1本の紐に何個つるしてあるかを数えたことはありませんでした。食べるばかりだったからです。もし今回、柿のツボを紐にはさみこんでいる母の丸い背中を見なかったなら、まだ数えることなく過ごしていたかも知れません。

 紐にくくりつけた柿を二階へ持ち込み、軒下にある物干し竿を使って干すのも母がやっています。30年ほど前、屋根から落ちて大けがをしたことなどすっかり忘れ、つるし柿づくりに夢中になる母。干している間に渋柿が甘みをもった食べ物へと変わり、それを喜んで食べてくれる人の姿が思い浮かぶうちは母はつるし柿をつくり続けることでしょう。

 敗戦後の、食糧難の時代を生きてきた人間にとって、つるし柿の甘味はいつまでも忘れることができない味のひとつです。柿を紐でくくりつけながら、母はもう一度つぶやきました。「天気と風で、他に何にもしねがに、かわっかすけなぁ」
(2009年11月)



第108回 帰省(2)

 春に結婚し、石川県に住んでいる次男夫婦がこのシルバーウィークにわが家に帰ってきました。帰ってきたといっても今回はほんの数時間いただけですが、それでもわが家はにわかに活気づき、心地よい時間を過ごすことができました。

 ふたりが帰ってきたのは連休の初日です。帰ってくる時間帯には私は仕事でいませんでした。妻はあらかじめ次男と連絡をとり、一緒に柏崎に出かける約束をしていました。柏崎の祖父母に結婚の報告をし、お礼の挨拶をしてくることが目的だったのですが、おもしろいことに若夫婦よりも妻の方が張り切っていました。

 柏崎からなかなか帰ってこないので妻のところへ電話をして、「何時ころ帰る?」とたずねたら、「まだ一時間はいるんじゃない。あんたは来ないの」といった調子です。後で聞くと、次男夫婦が持ち込んだ結婚式などのアルバムで話がはずみ、柏崎の母が私たち夫婦の三十数年前の写真まで持ち出したということでした。「髪はふさふさ、スマートだったのが信じられない」「子どもと似ているわね」などと妻が言っていたことから推察すると、話題の中心はいつの間にか、若いふたりのことから私になったようです。やはや、やはや……。

 次男夫婦と妻が戻ってきたのはそれから二時間ほど経ってから。私は事務所で仕事中でした。次男は戸を開けて、「ただいま」とひとこと言ってにっこりしました。白いポロシャツと黒のジーンズ姿は健康そのものです。その姿を見ただけでホットな気持ちになりました。

 妻が次男と話をしている間、私は嫁さんを相手に周りの自然の案内役をしました。町場に住んでいた人なので、牛舎の周りにあるものは珍しいものばかりです。まずは細い竹です。道のそばには父が植えた黒竹があり、最近、どんどん増えています。竹を引っ張って見せると、興味深そうに見つめていました。次は、むかご。これも道沿いにたくさんあります。いくつかをもぎ取って、食べてみるようにと勧めました。口に入れても「何だろう」という顔をしているので、「山芋の実だよ。トロッとしているでしょ」と教えると「うちの父は山芋掘りをするんです」。嫁さんとはこれまで、ほんの少ししか言葉を交わしたことがなかったのに、会話は楽しく続きました。

 この日、母もまた次男夫婦を待っていました。次男が結婚後、家を離れて住むことになり、一番さみしがったのは母でした。「ゲンちゃんいなくなって、おら、はらいね」と何度も言いました。母にとって、次男はどこへ行くにも三輪自転車のかごに入れて子守りをした大事な孫です。家に帰れば、うまいものを食べさせてやりたい、何か持たせたい。ずっとそう思っていました。

 母はこの日、次男夫婦にぜひ食べてもらいたいと思うものがありました。押し寿司です。ヒジキ、ニンジン、でんぷ、かんぴょうなどを乗せた押し寿司は家族みんなに長年親しまれてきた味で、母の得意料理のひとつです。時間がなくて、家ではふたりに食べてもらえませんでしたが、嫁さんが実家に持って行ってくれました。もちろん、母は大喜びでした。

 数十年前、遠くに住んでいた頃、親が住んでいる家に帰るのはとても楽しみでした。それが、この年になったら、家で子を待つ立場になりました。わが子は巣立ちをしても気になります。旅に出たツバメが戻ってきた時と同じように、帰省した子どもが元気な姿を見せてくれるのがこんなにもうれしいことだとは思いませんでした。
(2009年9月)



第107回 最後の手紙

 長雨もようやくおさまり、お盆を迎えました。わが家や近くの親戚だけでも、春からこれまでに四人が亡くなりました。どの家にとっても今年は初めて迎えたお盆です。お参りに行ったり、来ていただいたりしましたが、いつもよりも先祖を近くに感じ、遠くからつながった命のことを考えるお盆となりました。

 長年にわたって会社員として働き、退職後もいろんな仕事をまじめにコツコツとやってきたKさん。犬と散歩をしている時でも、こちらから手をあげると丁寧に頭を下げる人でした。このKさんの三十五日法要と納骨がお盆の最中に行われました。

 Kさんの家でお寺さんからお経を読んでもらい、その後、法話を聴きました。正直言いますと、暑くて、最初はぼんやりと聞いていたのですが、お寺さんが身に着けておられた袈裟(けさ)についての話あたりから目がしっかりと開くようになりました。この布は縦と横の糸が織られてできたもの。縦糸が横糸と一緒になるおかげで布は強くなって、長持ちしている。人間も同じ……。祖先からの縦のつながりにたいする感謝の心とともに、一緒に生きている人たちとの横のつながりの大切さなどを教えていただきました。

 法話を聴きながら、私は一枚の写真を思い浮かべていました。Kさんが若かりし頃、茶の間で撮った集合写真です。おそらく五〇年ほど前のものでしょう。写真にはKさんのキョウダイと母親、それに「イワサのばあちゃん」など当時の親戚の人が何人か写っていました。飯台を囲んで、みんな和やかな表情をしています。そのなかには、私の祖父・音治郎も着物姿で写っていました。

 じつは最近まで、この写真に写っていたのは音治郎ではなくKさんの父親だと思っていました。Kさんの父親は私の祖父の弟です。不思議なもので、音治郎だと分かったことで、この写真がぐんと身近に感じられました。飯台の上には銚子が3本、大皿、小皿に入ったオカズが所狭しと並んでいます。Kさんの父親の亡き後、久しぶりに親類縁者が集まって楽しいひと時を過ごした時の一コマだったのかも知れません。どうあれ、私の父親の父親、そのまた父親までさかのぼると、Kさんと同じ命の源流にたどり着くことを改めて意識しました。

 さて、Kさんの法要が終わってH家の墓へ行った時のことです。お昼ちょっと前の時間帯。墓のある小高い広場には大きな桜や杉の木などが枝を広げて立っています。北方向の土手から風が這いあがり、そのなかでアブラゼミやツクツクボウシの賑やかな鳴き声が聞こえていました。墓前で短いお経があって、息子さんなどが墓の中へ骨を納めました。そして、いよいよ墓石をずらして骨の入れ口を閉じようという時、亡くなったKさんのお連れ合いが「これ、入れなきゃ」と言ってバッグから一通の封書を取り出しました。

 「読んであげたらいいですよ」とお坊さんに言われ、お連れ合いは手紙を広げ、読んでくださいました。「おじいちゃん、病気とのたたかいたいへんだったね。(中略)ぼくはHという名前を未来につなぎます。安心して眠ってください」手紙は、お孫さんからKさんに寄せられたものだったのです。

 納骨に参加できなかったお孫さんがおじいちゃんに出した最後の手紙。直前にお寺さんから、命をつなぐことをテーマにした法話をお聴きしたばかりです。親から子へ、子から孫へと伝わっていく命を感じ、胸が熱くなりました。
(2009年8月30日)



第106回 ひぐらし

 特別養護老人ホームほほ笑よしかわの里。ほんの数日間だけ入所する人をいれても入所者数はわずか三〇数人という小さな老人ホームです。この施設の南側の広場で年一回夏祭りが行われます。「ほほ笑」ふれあいまつりと名付けたこの祭り、たくさんの人たちが、いまかいまかと待ち望み、楽しみにするようになりました。

 広場には毎回テントが張られ、焼きそば、漬物、お菓子などを売るお店も並びます。会場は入所者とその家族、ボランティア、区内の団体・グループ、地域の人たちでいっぱいになります。

 この祭りのテーマは「ふれあい」「助け合い」。ここで、食べて、飲んで、歌や踊りなどをみんなで楽しむ。いろんな人たちが交流する。一見、どこにでもある感じの催しですが、みんなをとてもいい気分にしてくれるのです。

 私が初めて「ほほ笑」ふれあいまつりに参加したのは数年前でした。久しぶりに会える人がいるはず、まずは会って励まそうと思ったら、その逆になりました。最初に再会した人は同じ集落に住んでいたHさんでした。「元気かねー」と声をかけたら、くりくりした目で私の顔を見て、「父ちゃんどうしたね、元気かね。母ちゃんは……。がんばんないや」という言葉が返ってきました。昨年は、お茶を何回もご馳走になったことがあるTさんから声をかけてもらいました。「おら、おまんの名前だけは忘れないよ。フフフ」。車いすから私を見上げるようにして言うTさんの色白の顔を見たら、ちょっぴり恥ずかしくなりました。

 思いがけない出会いもあります。数年前、小学校で「特別授業」をさせてもらったことがあります。ふるさとの魅力の一つとして「もらい風呂」を例に「助け合い」の心を語りました。その時、目を輝かせて聴いてくれた一人にSさんがいました。彼はもう社会人でしょうが、祭りで会った時は高校生でした。家族の人が入所していて参加したのかと思いましたが、Sさんは祭りのボランティアとして参加していたのです。なんとなくうれしくなって、目で合図を送ると軽く会釈をしてくれました。

 今年の「ほほ笑」ふれあいまつりは五回目。小雨がぱらつくあいにくの天候となり、入所者のみなさんは高齢者福祉施設・福寿荘の中からの見学です。会場となった広場のテント周辺には近くの町内会の人たちや入所者の家族、親戚の人、職員、ボランティアなどが集まりました。

 毎回、祭りの盛り上げに一役買ってくれている太鼓演奏グループ・「鼓舞衆」、よさこいソーランの「百華踊乱よしかわ」のみなさんに加えて、今回は地元出身の歌手・三島みどりさんも参加してくれました。

 三島さんは広場の中央で「津軽の花」などの演歌を丁寧に歌いあげました。もちろん、三島さんの持ち歌も。一〇年前に発売された「母の雪」には、「雪」という言葉が二〇回ほどでてきます。「雪という言葉を母と置き換えて聴いてみてください」という三島さんの呼びかけがあって、歌が始まった時、福寿荘の中にいた入所者のみなさんの方へと自然に目が行きました。母親への懐かしい想いをかきたてられたのでしょうか、窓のそばでじっと聴き入る女性の姿が目に映りました。

 三島さんが歌っている間、ひぐらしの鳴く声が続きました。カナカナカナ。この鳴き声もまた郷愁をそそります。懐かしい思い出を伴い、人と人をつないでくれます。しとしと降っていた雨はいつの間にか止んでいました。
(2009年8月)

「春よ来い」一覧へ       トップページへ