春よ来い(11)


第159回 緊急避難

 東京電力福島第一原発の報道があるたびに気になるのは、避難区域で牛を飼っている農家の人たちのことです。乳を搾っても出荷できない。牛たちを避難させることもできない。それゆえに、やむなく処分する。その切なさはいかばかりか。

 私も30数年、牛を飼ってきました。そのなかで一度だけ、牛たちを避難させたことがあります。その日は、いまから6年前の6月28日、吉川区に戦後最大の水害をもたらした日です。

 前日から降り始めた雨は早朝から雨脚が強くなって、川谷観測所では28日午前0時から17時までに330ミリを記録しました。国田、東田中で吉川の堤防が決壊、私の住んでいる代石では越水しました。区内のあちこちで冠水、土砂崩れなどによる道路の交通止めが相次ぎ、一時は孤立した集落もありました。

 この豪雨では、わが家でも被害が出ました。わが家は床下浸水、牛舎および管理舎は水浸しになったのです。ちょうど木浦市長(当時)とともに総合事務所で打合せをしていた時に、家から電話があり、牛舎に水が流れ込んだとの情報が入りました。時間をもらって牛舎に急行すると、信じられない光景が目に飛び込んできました。

 牛舎の中に濁流がどんどん流れ込み、水位が上昇しています。牛たちは全頭立って心配そうな目をしていました。牛の足元の水は50センチはあったかと思います。それに、牛舎内には濁流とともに鉄板、畳、その他、いろんなゴミが次々と入ってきていたのです。

 このままでは牛たちが危ない、そう思った私は、家畜商と連絡を取って牛たちを頸城区に避難させることにしました。

 牛を運ぶ車はまもなくやってきて、牛を1頭ずつ牛舎から連れ出し、乗せました。ところが1頭だけ、牛舎の中から出ようとしない牛がいたのです。母牛の乳を飲まないため、父がヨーグルトを与え、育てていた仔牛です。父を自分の母親だと勘違いしていたのでしょうか、父の姿が見えない中で、牛舎からなかなか出ようとしなかったのです。引っ張ったり、体を撫でたりして仔牛を外に出すまでに要した時間は、正確に測ったわけではありませんが、10分はかかったように思います。

 濁流は牛舎内から牛舎脇の市道へとどんどん進み、市道の姿も水で見えなくなっていきました。にもかかわらず、わが家の仔牛は、今度は牛舎脇で頑として動きません。水位が次第に高くなる中で、最後は家畜商と私が二人がかりで水の中を歩かせました。正確にいえば、ムリヤリひきずり、動かしたのです。

 わが家の牛たちは、頸城区の家畜商の牛舎で10日間避難させてもらいました。水は数時間でひきましたが、問題は牛舎内に入り込んだゴミや泥の始末でした。特に汚泥は半端な量ではありません。これらを片付けない限り、牛たちを飼うことができませんでした。とてもわが家の人間だけで片付けるのは無理でした。

 有難かったのは、水害が発生した翌日から、牛飼いの仲間や日本共産党の仲間などが次々と応援に駆けつけてくれたことです。その中には、初めてスコップを持つ人がいました。夫婦で何日も来てくださった方もありました。しかも、手伝いに来てくれた皆さんの昼食用にと手作りの弁当まで用意して……。

 福島の牛飼いの人たちのことがテレビに出るたびに思います。わが家の時よりも何倍も大変な、この人たちの所に温かい支援の手は差し伸べられているだろうかと。
  (2011年6月26日)


第158回 シルエット

 新発見でした。妻の実家の居間で義母の写真を撮ったところ、逆光で本人は真っ黒。ところが、デジカメの画像をのぞき込んでみると、目の形といい、肩の丸まっているところといい、義母の特徴が見事に出ていたのです。

 1月に連れ合いを亡くしたばかりの義母。さぞかし淋しかろうと、妻と一緒に時々訪ねています。先だっての土曜日の夕方も、柿崎区の黒岩から小村峠を越えるルートで妻の実家へ行ってきました。

 この日は連絡なしで突然訪ねたこともあって、義母は大喜びでした。居間に入ると、義母は「ほんの今、洋子が帰ったばかりなんだよ」と言います。義姉も会社の帰りに義母のところに立ち寄っていたのです。たぶん、私たちと同じことを考えていたのでしょう。

 少しばかり話をしたあと、義母は居間の隅においてある椅子に座ってペダルこぎをはじめました。ペダルこぎの運動器具があることは前から気づいていましたが、これを使って義母が運動をしている姿を見るのは初めてでした。ちょっと上向きの格好でで、足をくるくる回している姿はとても楽しそうです。これは、写真に撮っておかなきゃと、デジカメを取り出して何枚かの写真を撮りました。

 うれしそうな表情を撮り損ねてはいけないと思って、ちょっと慌てたんでしょうね、義母のバックが明るく逆光になっていることを考えずにシャッターを押してしまいました。夕方とはいえ、まだ、外は明るい時間です。撮ったあと、デジカメで再生してみると、外の景色はしっかりと写っているものの、義母の姿は真っ黒くなっていました。

 でも、黒い画像を見た瞬間、思わず笑ってしまいました。真っ黒にしか写っていないのに、普通に撮れた写真以上に義母の特徴と雰囲気がよく出ていて、不思議なくらい迫真性があったからです。真っ黒写真でも、こんなにもリアルに、面白く撮れるのであれば、もっと撮ってみたい。うれしくなって、私の心は弾みました。

 それで、今度は義母の代わりに私が座り、ペダルこぎをしているところを妻から撮ってもらいました。ペダルを軽やかに踏んで、腕も振って、ポーズをとりました。すぐに画像を再生してみると、おデコから鼻にかけてのライン、顎(あご)の突き出たところなどは、間違いなく私であることがわかります。全体としても、嬉しくなって調子づいている雰囲気がよく出ていました。

 真っ黒写真を見てうれしくなるのは、私の場合、子どもの頃の体験がもとになっています。小学校の低学年だった頃のある日の夕方のこと、わが家の隣のカツノリさんが、裸電球の光を使って人の形などを障子戸に映し出して見せてくれました。極めて単純な絵ではあったのですが、初めて見る私には黒い絵がとても新鮮でした。そして、絵のなかには、ちょっぴりエッチなものも含まれていたこともあって、忘れられない思い出となりました。

 後方から光が当たって浮かび上がった風景や人物などの輪郭のことを横文字でシルエットといいます。夕陽を背にして写真を撮るときに、長くなった自分の影が入ってしまい、困ったことがありました。でも、これからは、これらを逆手にとって、いろんな形のシルエットを楽しんでみたいものです。また、新しい発見があるかも知れません。
 (2011年6月19日)



第157回 簡単にはまいらない顔

 母は2年ほど前に重いめまいの症状が出て、その後は、3ヶ月に1回くらいの割合でお医者さんに診てもらっています。いつもは長女か弟に送迎や付き添いを頼むのですが、先日、体があいていたので久しぶりに母を病院まで連れて行ってきました。

 午前9時からの予約というふうに聞いていたので、8時過ぎに家を出発しました。定期検査をする病院は、私の軽自動車で行くと、片道で30分ほどかかる距離にあります。でも、この日は、母とのおしゃべりがはずみ、とても短く感じました。

 病院に着いてからは、予約の確認に始まり、眼科での受付、診察、検査と続きました。予約の時間はこちらで勝手に思い込んでいた9時ではなく、9時半でした。待ち時間を利用して、「しんぶん赤旗」の朝刊をゆっくり読むことができました。

 この日、母の予約は眼科の他に脳神経外科もとってありました。こちらは午前10時から。眼科の方で思っていた以上に手間取り、10時をまわりました。困ったなと思っていたのですが、先に診察する科で時間がかかった場合についての暗黙の了解があるのでしょうか、脳神経外科の窓口へ行っても快く受け付けてもらえました。

 脳神経外科の診察では、母と一緒に私も診察室に入りました。じつは、この日の朝、母は起きた途端にパタンと倒れ、トイレに這(は)って行ったということがあったのです。しばらく休んで、ある程度回復したとはいうものの、この点が気がかりでした。母の説明で不足があった時には、私の方から話をしようと思っていました。

 担当は2年前と同じ若いお医者さん。診察をされている時は病状についてズバズバ言い、判断が早いのでいつも感心しています。朝の出来事を私の方から説明すると、
「はい、お母さん、きょうは何月ですか?」
「六月です」
「そうですね。いつもこうなったときには診療所へ行っているのですか」
「はい、そうです。そこで点滴してもらっています」
「二時間ほどかかりますが、今回も点滴しましょう。心配はいりませんよ」

 母とお医者さんのやりとりは、こんな調子です。

 この日も担当のお医者さんは、母の顔をしっかりと見つめ、テキパキと対応してくださいました。

 診察の様子を見ていて、2年前もこうだったなと思い出しました。母が初めてこの病院の脳神経外科にかかったのは、父が他界して、まだ1ヶ月くらいの時でした。あの時はかなり具合が悪く、「今度は母の番かな」と心配したものです。

 あの時、レントゲン検査を終え、再び診察室に入ると、結果は異常なし。そして、お医者さんはこう言われたのでした。「このおばあちゃんは年の割に元気、元気。ちょっとやそっとではまいらないよ、という顔をしている。仕事のし過ぎでしょう」

 話を元に戻しましょう。点滴を終えたばかりの母の顔を見ると、だいぶ元気を取り戻していました。「どうだね、眠ったかね」とたずねたら、「ぜんぜん眠らんねかった」。なんと、ずっとトイレを我慢していたというのです。

 病院を出た時、母はしわくちゃな顔で笑いながら、私に頼みました。「とちゃ、おまん、金持ってるかね。あったら、あるるん畑(農産物直売所)に連んてってくれ。おら、もち米の粉、欲しいがど」。点滴したばかりだというのに、もう仕事のことを考えているのです。いやはや、まいったね。
 (2011年6月12日)



第156回 最後の同級会

 母が今年も小学校の同級会に出てきました。母の母校は旧旭村(現在は大島区旭地区)の旭小学校です。母に、「同級会、どうだったね」と聞いたら、「ああ、いかったよ。最後の同級会だったし…… 」と答えるのでびっくりしてしまいました。

 同級会は毎年開催されていました。数年前、「年を取って、出歩くのが難儀になった。子どもや孫の世話にならなければならないようになったらやめよう」という声が出て、米寿になったら最後にしようと決めていたということでした。

 今年は数え年で88歳、その最後の同級会がやってきました。会場はいつもと同じ大山温泉あさひ荘。母の同級生は40数人いましたが、すでに戦争や病気などで昨年までに30人、今年になって1人、合計31人の方が亡くなっています。今回の同級会に参加したのは、儀明のシサさん、大島の留一さん、稲田のカズヲさん、熱海のミヨさん、群馬の幸四郎さん、そして母の6人でした。

 同級生のみなさんは午前11時に大山温泉に集合し、挨拶を交わしたあと、腹ごしらえをしました。みんなでラーメンを注文。豚肉、メンマ、カマボコ、ネギの入った普通のラーメンでしたが、量がいっぱいで食べきれなかったといいます。

 昼食が終わって、6人は大山温泉のワゴン車に乗せてもらって田麦の竹林寺へ行きました。目的は、昨年亡くなったばかりの三ツ橋新田のチエ先生と同級生31人の弔いのお経をあげてもらうためです。じつは、これには裏話がありました。

 チエ先生は、旭小の先生だった時、竹平のお医者さんの家に下宿をされていた方です。先生はこの同級会をいつも楽しみにされていました。亡くなる前に遺言を残されていて、「私が死んでも旭小の同級会があったときには、教え子のみなさんに渡してくれ」と一定額を息子さんを通じて幹事の留一さんに託されていたのです。そのお金をどう使うか、みんなで相談しました。その結果、すでに亡くなった先生と同級生のために使おうということになったのでした。

 夕飯は豪華でした。大山温泉名物の釜飯、天ぷら、刺身など食べきれないほど次々とご馳走が部屋に運ばれてきました。母は、「ごっつぉがいっぱいで、すぐに腹くちになった」そうです。男衆も「はい、いらんてがそい、持ってきなんな」と従業員に言うほどでした。そう言われても、作ってある料理をそのままにしておくわけにはいきませんものね。従業員は、戸を開けては新しいご馳走を部屋に運び入れました。

 夕飯を食べてからは寝るまでたっぷり話をしました。それこそ、時の経つのを忘れて……。子どもの頃のこと、自分の連れ合いのことなど、話は尽きません。

 カズヲさんはお連れ合いが戦争から帰ってきた時、「体が黄色くなっていて、餓死寸前だった」と話しました。それを契機に女衆は、連れ合いが戦争に取られている間、姑などにおだてられたり、叱られたりしながら「本当によく稼いだ」と思い出話に花を咲かせました。ミヨさんは、毎日食べているお米のことを取り上げ、「竹平の大久保から買っている米が一番うまい」と宣伝。母と机を並べたことのある幸四郎さんは、参加者にお土産として持ち帰ってもらおうとシコシコうどんを配りました。

 楽しく過ごした1泊2日の同級会はあっという間に終わりました。朝食後、留一さんが、「これで会を解散とします。健康に十分注意して」と挨拶。最後の同級会もこれで本当に終わりです。迎えの車が来た時、「もう二度と会えないかもしれない」そう思ったのでしょう、女衆は手を振ってみんなにサヨナラしながら涙を流しました。
 (2011年6月5日)



第155回 スマイルカフェ

 今年になって、上越市吉川区に喫茶店ができました。区内にはこれまで、喫茶店はひとつしかありませんでした。新しい喫茶店は、ひと月に1回くらいのペースで開かれる小さな、小さな喫茶店。でもね、その喫茶店がいま大評判なのです。

 喫茶店の名前は「スマイルカフェ」、日本語に直訳すると「笑顔の喫茶店」といったところでしょうか。場所は、なんと新潟県立吉川高等特別支援学校の3階です。喫茶店を開いているのは15人の1年生。そんなことを校長先生が許可するわけがないでしょうですって。心配ご無用、校長先生は喫茶店で案内係をされていますから。

 5月26日、この日は2回目の「営業日」でした。開店時間は午前10時から11時半まで。私は10時半頃、学校へ向かいました。校門のそばまで行ったら、おしゃれをした素敵な女性のみなさんがニコニコしながら歩いてきます。みんな原之町の人たちです。私もこの人たちと一緒に校舎の中に入りました。

 喫茶店のある3階まで上がっていくと、いやー、びっくりしました、喫茶店となっている作業室脇の廊下には順番待ちの人が大勢いたのです。イスに座って待っている時、お客さんの顔ぶれを見ると、歯医者さん、お菓子屋さん、呉服屋さん、料理屋さん、農家のお母さんなどの姿がありました。それから、階段の方から歩いてきたのは中学校の教頭先生です。いろんな人がこの喫茶店を楽しみにしているんですね。

 待っている間、みんながおしゃべりを楽しみました。新しい学校のこと、小学校運動会のことなど、話声が聞こえてきます。時々、笑い声も出て、とても賑やかです。私は、隣に座ったお客さんから「私ね、『春よ来い』いつも楽しみにしているんです。細かいことも書いてあるけど、メモを取っていなるの」と声をかけてもらいました。この方とは原稿書きの裏話や大島区藤尾のことなどをたっぷり話しました。

 待ち時間は約15分。「どうぞお入りください」と言われ、初めて「スマイルカフェ」に入りました。オレンジ色のバンダナとエプロンをつけた生徒が「いらっしゃいませ」と声をかけてくれました。明るい店内には20人ほどのお客さんがいて、聞き覚えのある音楽が流れていました。「シャラララ、ウォウ・ウォウ」カーペンターズの「イエスタディ・ワンス・モア」です。とてもいい雰囲気でした。

「メニューはコーヒーと紅茶です。ご注文はどちらになさいますか」と言われ、私は迷わず紅茶を注文しました。もう何か月も紅茶を飲んでいなかったからです。

 紅茶が来るまで、店内の生徒の動きに目が行きました。お客さんを迎え、飲み物の注文をとる。実際にコーヒー、紅茶を入れて、テーブル席まで持って行く。帰るお客さんにお礼を言う。生徒たちは一生懸命仕事をしています。ふと、壁際の生徒を見たら、大きく息をしています。緊張している生徒もいました。

「スマイルカフェ」の取組は特別支援学校の生徒のみなさんの実習のひとつです。しっかり挨拶することはもちろんのこと、お客さんに飲み物を美味しく飲んでもらい、楽しい時間を過ごしてもらえるよう言葉遣いや接し方などを学んでいるのです。

 この日、学校へ出かけ、「スマイルカフェ」に入った人たちは約80人。おそらく、この喫茶店が開いている時間帯、三階の作業室とその周辺の空間は「吉川区で一番人口密度の高い空間」だったに違いありません。吉川高等特別支援学校は小さな学校ですが、15人の生徒がいて、学ぶだけで、地域がこんなにも明るく賑やかになるなんてすごいことです。次回の「営業日」、あなたも出かけてみませんか。
  (2011年5月29日)



第154回 いのちのバトンタッチ

 柏崎の義父の四十九日法要が終わって、今度は父の三回忌です。父については昨年が一周忌で、大勢の親族のみなさんから集まってもらいました。二年続きで集まってもらうのはたいへんですので、今回は家族と近くに住む弟だけの法要にしました。

 法要の日は五月晴れ、じつに清々しい日となりました。わが家がお世話になっているお寺は山直海の小高いところにあります。ご住職をお迎えに行く途中、目に入る国田や大下などの山々はやわらかな新緑に覆われ、美しく輝いていました。

 今回の法要で一番印象に残ったのはご住職が話された法話でした。ベストセラー、『納棺夫日記』で有名な作家であり、詩人でもある青木新門さんの講演にふれ、生と死について語ってくださったのです。

 人の生と死はつながっている。人の死は亡くなる人からその人の子どもへといのちをバトンタッチすること。そして一周忌や三回忌というのは、いのちを引き継いでいるということを確認する場である、というお話でした。短い話ではありましたが、この日は法話の内容をいろんな場面で思い出す一日となりました。

 お経、法話が終わって、家の外へ出た時、ご住職はわが家の庭にある一本の木を指差し、「あれでしたかね、例の木は……」と尋ねられました。「例の木」というのはベニコブシのことです。父はこの木の花が大好きで、父が死んだ日は満開でした。その日のことを私は「春よ来い」で書きましたが、ご住職はそれを憶えていて下さったのです。

 お斎の時、最初は、源地区に咲く三本の大きなしだれ桜の歴史や専徳寺の前庭、裏庭に咲く桜の木のことが話の中心となりました。誰かが、「お斎に出されたご馳走を食べきれない」と話したことを契機に、話題は次第に父のことに移っていきました。

 入院していた当時、父は最初の一週間ほどをのぞき、ずっと流動食でした。痰が詰まりやすく、しゃべる言葉もほとんど聞き取れませんでした。自分の思っていることを一生懸命伝えようとする父を前に、聞いていてもわからなくて、こちらで予想できることを「○○かね」「じゃ、△△か」と一つひとつあげて聞いたものです。  それで解決しないと、お互いにイライラしてきます。ある日、もう聞くのをやめようかと思うくらい聞いて、やめようとした瞬間、父が大きな声を出しました。その言葉は「たばこ!」でした。父がほとんどしゃべれなくなってから、完全な言葉でしゃべったのは、この一回きりでした。私が父のまねをして、「たばこ!」と叫ぶと、みんなが思い出したのでしょう、大笑いしました。

 父のしゃべる言葉はほとんどわからなかったと書きましたが、ひとつだけ、誰もがわかる言葉がありました。見舞ってくれた人が病室から帰る時に父が発した言葉です。「あが…と」という風に聞えましたが、明らかに「ありがとう」という言葉でした。この「あが…と」は親戚の人たちや友人のみなさんにだけでなく、家族にたいしても言っていたねと、みんなが話しました。

 法要でご住職が言われた「いのちのバトンタッチを確認する」というのは、亡くなった人のことを思い出し、残った者が頑張って生きていく気持になることだと思います。今回の三回忌では、父のことを普段よりもたくさん思い出し、みんなで話題にしました。私たちがこうして思い出しているうちは、父は私たちの心のなかに生き続けます。
   (2011年5月22日)



第153回 ニリンソウ

 この間の日曜日の朝、「あーあ、電車に乗って旅に出たい」そう言ったら、妻が反応して「よし、行こう、行こう」。私たち夫婦の旅行はこんな調子で決まります。パソコンで電車の時間などを調べ、この日は信越本線に乗って出かけてきました。

 旅行といっても一日だけの日帰り旅行です。金があまりかからなくて、好きなことができ、ゆっくりと過ごせる。これが満たされれば、どこでもいいのです。この日は長野市まで行ってきました。

 柿崎駅の構内で電車を待っていると、まもなく柏崎方面から電車がやってきました。旅に出ると決めた時はおもしろいもので、入ってくる電車の賑やかなブレーキの音を聞いただけでうれしくなります。

 電車に乗ってからは、お尻に感ずる揺れと連結器の音もいい。私はカバンの中からその日の新聞朝刊を取り出し、一面から二面へ、二面から三面へと隅から隅まで読みました。新聞をゆっくり読み、疲れたら、窓の外を見るといった時間の使い方をできるのは、電車の旅ならではのものです。

 夫婦で出かける旅ですが、私たちの場合は、それぞれ好きなことをやって楽しんでいます。私が新聞を読んでいる間、妻は俳句雑誌を読んでいました。

 直江津駅からは妙高4号に乗り換えました。この電車は特急型鈍行とでもいいましょうか、旧国鉄の189系の特急車両でありながら各駅停車の普通電車なのです。座席にゆったりと腰かけ、ゆっくりした速度で車窓の景色を見ることができます。

 新聞や本などを読んでいたんではもったいない。素敵な風景を見なければ損をしてしまいます。田植えが始まったばかりの田園風景、南葉山、妙高山などの山々の姿が目の前をゆっくり流れていきます。そして、野の花も観賞できるのです。

 県境を越えると、ヤマザクラとヤマブキの花をあちこちに観ることができました。 「いっぱい咲いているなぁ」「きれいだなぁ」と私が言うと、妻も一緒に眺めました。黄色いヤマブキの多さに感心した彼女は、「これだけあれば、認めてもらえるわね。認知度は高いんじゃない」と言っていました。

 驚いたのは牟礼から豊野までの区間でした。線路から離れた、林地の裾野のあちこちにニリンソウの小さな花が咲いていたのです。ニリンソウはキンポウゲ科の多年草で、私の大好きな野の花のひとつです。雪にも耐え、雨にも耐え、花の開く時期は少しずれますが、いつもふたつの花をつけています。「あっ、あそこにも咲いている」「あれもニリンソウだ」群生を見つけるたびに私が声を出すものですから、妻も半ばあきれ顔で、「私にはよくわからない」とつぶやきました。

 さて、長野市に着いてから。いつものように下調べをせずに歩くと、いろいろなものに出合います。善光寺の参道では相馬御風作のうたの石碑に、境内の一角では百姓一揆を顕彰した記念碑にも出合いました。そうそう、善光寺のすぐそばには東山魁夷館もあるのですね。初めて知りました。東山魁夷の絵をゆっくりと観賞してきましたが、月明かりの下で咲くしだれ桜を描いた「花明り」が強く印象に残りました。

 わずか一日の小旅行。いろいろな発見があってとても楽しい旅になりました。妻と一緒の時間、どうでもいいようなことも含めてゆっくりと話ができました。今度、時間を作って旅に出れるのはいつになるかわかりませんが、できれば、山形県に近い海辺の町へ出かけて見たい。もちろん、妻と一緒に。
     (2011年5月15日)



第152回 春景色

 雪国の山々は春と秋の二度、華やかな景色をつくりだします。春は4月中旬から1カ月ほどの間。花が咲き、芽吹いた葉は色や形を変え、大きくなります。山がつくりだすピンク、黄緑、赤などの彩り豊かな景色は一度見たら忘れることができません。

 いまから10年ほど前のことでした。尾神から車で蛍場方面へと下りてくる時に、屏風のような形をした蛍場の山の一角が艶やかな紅色で染まっていることに気づきました。色の感じからいって、明らかに桜の木です。花の色はこれまで見たことがないほど濃いもので、強烈に惹きつけられました。

 いったい、どんな桜の木なのか。私はどうしても確かめたくなり、ある晴れた日の午後、濃い紅色をめざしました。

 わが家のハサ場があったところに車を止め、そこから歩きました。杉林を通り抜け、急な尾根を登っていくと、急斜面にその木はありました。木は大人と子どもが両手をのばし、手をつなげるくらいの太さがあります。外皮はあちこちで裂けていましたが、木は大地にがっちりと根を張り、天に向かって力強く伸びています。威風堂々とした姿に私は圧倒され、「ああ、これは桜の神様≠セ」と思いました。

 木はオオヤマザクラ(大山桜)でした。花はすでに散り始め、地面には紅色の花びらがたくさん落ちていましたが、それでも枝には花がいっぱいついていて、その美しさは格別でした。青い空のなかに枝とともに広がっている紅色の花、木の下から時が経つのを忘れて観た記憶が残っています。

 この頃からだと思います、蛍場の山々の春の景色が気になるようになったのは。尾神岳と違って黄色の花を咲かせるマンサクは少ないようですが、たくさんのコブシ、ヤマザクラが白や薄桃色などの花を咲かせます。ブナ、ナラ、カエデは芽吹きの頃から毎日、色を変えて美しい景色を見せてくれます。だから、蛍場の山々が見えるところを通ると、毎回のようにカメラを向けてしまいます。

 こうした春の景色は、遠くから見ているだけでは満足できません。近くに行って、幹や葉に触ったり、匂いをかいでみたりしたくなります。

 このところ、私がはまりこんでいるのはイタヤカエデです。冬芽には褐色の2対の芽鱗(がりん)がありますが、この芽がふくらみ、黄色の花を咲かせる時が気に入っています。陽光があたった時は、木全体が黄色くなって輝いて見えます。また、褐色の芽鱗と黄色の花の組み合わせもいい。

 先日、イタヤカエデの木に登ってみました。まっすぐ立っている木ならとても登る元気は出ないのですが、たまたま雪で押され、斜めになった木があったので、思い切って登ってみました。

 登ってみたら、冬芽のふくらみは思っていた以上に大きく、褐色の芽鱗を押し広げるようにして黄色の花を咲かせていることがわかりました。近くで見たのは、もちろん初めてです。「こんなふうに咲いていたのか」と、その見事さに感心してしまいました。そして、もうひとつ、このイタヤカエデの木の幹にも、オオヤマザクラと同じく、風雪に耐えたことが一目でわかる傷あとがあることを発見しました。

 5月5日、山菜料理を楽しむ会をやった際、同年代の人たちが口々に語りました。雪国の春の山の景色っていいねぇ。最高だね。厳しい冬があって、それに耐えてきているから美しい、と。
                                  (2011年5月8日)


第151回 山菜採り

 ほんの1時間ほど行ってきただけなのに気分は上々でした。先日の山菜採りのことです。山菜採りに出かけたのは今年初めてでした。ちょっぴりだったものの、収穫はあったし、この上ない喜びの表情をした母の姿も見ることができたのです。

 この日は予定していた会議が午前中に終了し、1、2時間くらいなら、午後から山菜採りに行くことができました。3時過ぎに母に、「山に連んてってやるかね」と声をかけると、すぐに「おー、行く」と返事が返ってきました。これで決まりです。

 出かけた場所は、家から車で10数分のところにあるわが家の田んぼ周辺です。軽乗用車に収穫したものを入れる袋やカマなどを積んで出かけました。今年は大雪で、道路沿いの空き家や雑木が倒れていました。そのため、車を降りてからがたいへんでした。田んぼまで行くには、坂道をかなり歩かなければならなかったのです。

 母は今年の3月で87歳になりました。さすがに坂道を歩くスピードは私よりもかなり遅く、少し歩いては母を待つ、母が追いついたらまた歩き出す、これを何回か繰り返しました。この時は、母もずいぶん年を取ったものだと思いました。

 ところが、いったん、山に入ると、母の体の動きはじつに軽やかなのです。雪で押しつぶされたススキは滑りやすいのですが、その上にのぼってもススキの弾力を利用して上手に歩きます。ぬかるみなどがあれば、ひょいとまたいで渡ります。急な坂があれば、素手で草などにつかまりながらすんなりと下りて行きます。とても、80代後半の高齢者とは思えません。

 母の山歩きスタイルは、頭にスカーフ、胸には山歩き用のエプロン、背中にはナップサック、靴は愛用の茶色の半長(はんなが)です。母はずっとこの格好で山菜採りをしてきました。長年にわたる山菜採りの経験で、母の頭の中にはウドや「ののば」(ツリガネニンジン)などの情報が満載されています。母はレーダーのように草むらや土手などに目を向けます。「そこのつんねにゃ、ウドが出るがでもなぁ、ねぇか?」「ここは良いコゴメ(コゴミ)が出るとこだ」一緒に歩いていると、そんな言葉が次々と出てきます。

 この日、母はコゴメ採りに精を出しました。コゴメは今が旬、川のそばや荒れた田んぼの湿ったところなどに群生しています。母は腰を曲げながら、なるべく茎が太くて、緑色の細かい葉が頭部でギュッと巻いている新芽を選んで採りました。母の背中のナップサックは、じきにいっぱいになりました。

 私も母に似て、山菜採りが大好きです。どんなに忙しくても、一年に何回か山菜採りに行かないと気がすみません。

 私がこの日の山菜採りでねらっていたのはウドでした。わが家の田んぼは南向きで、その畦元や土手にはたくさんウドが出ます。数年前に土手が大きく崩れ落ちてしまったので、以前ほどたくさん採ることはできませんが、行けば必ずあります。今年は雪消えが昨年よりもかなり遅く、一部しか出ていませんでしたが、それでも、家族で初物を味わうには十分でした。

 わが家の田んぼの周辺の山々は芽吹きが始まっていました。秋の紅葉とは違った、柔らかな色の取り合わせが心を和ませてくれます。大地にはカタコ(カタクリ)やキクザキイチゲなどの野の花がたくさん咲いていました。「おもしかったかね」と母にきくと、「おもしかった」。母と一緒の山菜採り、来年も行きたいものです。
 (2011年5月1日)



第150回 桜

 今年も桜の季節がやってきました。吉川区内のソメイヨシノはウソに喰われてしまったのでしょうか、いつもよりも花は少な目です。でも、村屋の村松家のものなど源地区の3本のしだれ桜は今年もたっぷりと花をつけてくれました。

 桜は夏に咲く百日紅などと違って、パッと咲いてパッと散っていってしまいます。ソメイヨシノの場合、せいぜい1週間から10日くらいでしょう、咲いているのは。このわずかの期間に、人々は桜の木のそばに集まり、花を楽しみます。

 桜の花は私も大好き。いろいろな桜の木と出合い、忘れることのできない思い出がいくつも残っています。ふたつほど紹介しましょう。

 まずは悲しい思い出から。今から9年前、2002年の6月15日、午前11時頃のことでした。「しんぶん赤旗」日曜版の配達の途中、吉川区山直海にある専徳寺の境内に立ち寄り、びっくりしてしまいました。目の前に、樹齢700年とも言われていた桜の大木が倒れていたのです。

 桜はその日の朝、風もないのにドサッと倒れたのだそうです。根元の中はボロボロになっていました。私は、この大木が倒れる1週間前にも見ていましたが、すでに花は散り、緑の葉をたくさんつけ、それこそ堂々と立っていました。周囲を圧するような威厳がありましたね。それがわずか1週間後に倒れているとは……。とても信じられませんでした。どんな生き物にも寿命があることを認識させられた出来事でした。

 いまひとつは楽しかった思い出です。1976年の春。前年の秋に結婚したばかりの私は当時、吉川町の中心部、原之町の小さな家に住んでいました。原之町は大きな集落で、私たち夫婦が住んでいた所は16班と呼ばれていました。わが家の周りには、親戚のNさんなどのほか、農協職員、役場職員など知人、友人が何人もいて、ずいぶん助けてもらったものです。当初、私たちが住んでいた家には風呂がなかったため、近所のOさん(故人)宅の風呂に入れてもらったこともあります。

 この年の4月、どこから持ちあがったのか忘れましたが、16班でお花見会をやろうということになりました。会場は当時の吉川診療所前、大きなソメイヨシノが何本もありました。夕方から大人も子どもも大勢集まりました。酒を飲むだけではつまらない、みんなが楽しめることをやろうと企画したのは「ぼくらの野尻湖発掘」というスライド上映でした。スライドは専門家だけではなく、小学生から大人まで多くの人が全国各地から参加して、ナウマンゾウの頭骨の一部など沢山の遺物を発見していくという実践記録です。これが大当たりでした。子どもだけでなく、大人たちも太古の世界に想いをはせ、大喜びしてくれたのです。

 私は司会進行役。調子に乗って、当時、役場職員だったKさんに、「奥さんを愛していますか」などとマイクを向けたことを憶えています。私の記憶にはないのですが、私も落語の「やかん」をやったそうです。当時はまだ学生時代の落語研究会の練習の蓄積があり、下手なりに落語をやれたのかも知れません。

 この花見会は当時の班長だったNさん(故人)宅に何回か集まって準備しました。私はまだ、まちづくりがどういうものかも知らない若い年齢でしたが、みんなで企画し、みんなが参加して楽しむ、その大切さを学んだ取組となりました。

 専徳寺の桜の大木の跡には、新しい桜の木が育っています。旧吉川診療所前(ハイツ桜咲団地)の桜はいまも5本だけ残っています。桜はいま、花どきです。
(2010年4月24日)



第149回 姉と妹(4)

 春祭りの日。青空が広がって、とてもいい天気になりました。市役所での仕事が終わって家に戻ると、母も公民館から戻ってきています。「よし、きょうこそは板山の伯母のところへ連れて行ってあげよう」そう思って誘ったら、母は大喜びでした。

 母はこの日、先日拾ってきた栗を使って赤飯を炊いていました。すでに用意してあった生のフキノトウと佃煮、それと赤飯もパックに入れ、吉川区の山間部を通って大島区板山に行きました。

「ばちゃ、来たよ」と声をかけると、台所から伯母が顔を出し、「さあさ、入ってくらさい」。茶の間に入って、母はすぐに炬燵の上に土産物を広げました。「こりゃ、フキノトウ。それから、こりゃ、フキノトウの佃煮。フフフ。おまんに持ってきたが、これ、ばちゃへの祝い」紙に包んだものを一つひとつひろげています。「ばちゃへの祝い」というのは赤飯です。

 お茶を飲む前から二人のおしゃべりがはじまりました。 「浦川原の医者のとこへ行って来たがど。ちょっと『遅べり』(遅い昼飯)になって……。いっときひんね(昼寝)しようと思ったら、地震が来てそ」

 この日は長野県北部地震の余震が何度も続きました。母は伯母の話に直接応じませんでした。久しぶりに見た伯母の顔の様子が気になったのです。

「顔、ふくんているがねがか。はれっぽいど」
「手足、両方ともしゃっこくて、死んだがみていだ。おら、いつ死んでもいいでも、忙しくねぇ時でねぇと」
「おら、じちゃも冷たかったがど。血の巡りじゃねぇか」
「布団の中でさんざ、もんじゃくって……。そうしると、暖かいがど」

 伯母は続いて、持ち込んだ土産物について言いました。
「きょうは何にもごっつおしねでいいなえ。初もん、いっぺもらって……。これ、この間の栗かえ。雪が消えた中から栗が出たなんて、おら、初めてだ……」

 話の途中に、いきなり「ドン」と家が揺れました。また、大きな余震です。話はまた地震に移りました。伯母が聞いてきた話を盛んにします。

「きょうも、『吉野屋』に、『杉』に、田麦のしょも一緒になった。杉のかちゃ、いま一人だろ。地震の時、高田の子どもしょ、連んていぎなったげらだ」
「菖蒲のあたりのしょ、この間の地震で、やっと出たしょもあったと。大平や住宅に入っているしょもある。地震で(家が)かたがって出ように出れねぇかったがと。戸も開けらんねで。大平の特養のほうへ頼んでいて、三つ泊ってきたと」
「死んだっていいでも、どこへ逃げりゃいいって(うちの者に)訊いたら、このでっけぇ柱につかまっていりゃいいてがど。そんで、サッシ開けて出りゃいいって」

 突然、思いつくことがあるのでしょうか。伯母と母の話は急にかわります。

「おまえ、何年?」
「おれゃ、ネズミ」
「ヘビ?」
「ちがう、ちがう、ネズミだ」
「ネズミか……、そうだろうと思った」

 耳が遠いこともあって、二人の会話は時々、漫才のようになることがあります。でも、この姉と妹、ほんとうに仲がいい。おしゃべりを聞いていて、そう思いました。 帰る時も、伯母は玄関の外まで見送りに出てくれました。腰を曲げて、じっと妹の様子を見る姉。片方の手をひざにのせ、いつまでもバイバイをしていました。
 (2011年4月17日)



第148回 春の栗

 待ち遠しかった春がやってきました。春といえば山菜です。わが家で一番早く山菜採りに出かけるのは母です。長年の経験から、何が、どんな時期に採れるかを知りつくしていて、かなり前からフキノトウ採りなどに出かけています。

 思いついたら、すぐに出かけ、ちょっとの時間でも楽しむ。母の山菜採りの流儀です。先日も、知らぬ間にフキノトウを採りに出かけてきました。家に戻ってから、母は大きくふくらんだ愛用のナップサックをコタツのそばまで持ち込みました。収穫したものを改めて見てみたかったのでしょう。

 ナップサックに入っていたものを次々と出す様子を見ていて、びっくりしました。フキノトウにまじって栗の実が入っていたのです。それも、一個や二個ではありません、一升枡に一杯ほどあったのです。なかには、虫食いのものもありましたが、とがったところの皮が割れはじめているほかは、秋に採れるものと姿形は変わりありません。色艶もまずまずでした。

 母によると、フキノトウを探していて、雑木林の中に入り込んだら、枯れ草の下に栗の実を見つけたといいます。話を聞いた時、最初は信じられませんでした。餌が少なくなる冬を迎える前に、ノネズミやカケスなどの動物たちが落ちている栗を放っておくわけがないと思ったのです。

 ただ、母が拾ってきた栗の量が量です、一個や二個なら、かろうじて食べられずに残ったという見方も成り立つかもしれませんが、そうではないのです。ひょっとすると、栗の実が食べられる状態で冬を越すことを知らなかったのは私だけだったのかも知れない、そう思って、わが家の牛舎周辺にある栗の木の下へ行ってみました。

 栗の木のまわりはすでに雪解けがすすみ、土が出ていました。地面には雪に押しつぶされた栗の葉が一面に広がっています。栗の毬(いが)もありました。これらもすべてぺしゃんこになっています。

 さて、栗の実があるかどうか。長靴で毬栗(いがぐり)をいくつかひっくり返しているうちに、焦げ茶色の栗の実がころりと出てきました。栗の先っぽのところが割れ、何かが実から出ようとしています。ドングリと同じように根になるものかも知れません。実についた泥を落とし、皮をむいてみました。実は硬く、しっかりとしています。見つけた栗の実は三個だけでしたが、いずれも腐っておらず、まともなものばかりでした。栗の実は食べられる状態で冬を越していたのです。

 母は栗の実を家に持ってきた時、「こんがな時に栗拾ったが初めてだ」と大喜びでした。どうやら、どう料理するか、誰に食べてもらおうかと、すぐ考えたようです。

 汚れを洗い落とした後、母は栗の実をボールに入れ、炬燵にのせたテーブルの上に運びました。古い新聞紙を広げると、大きな包丁を使って栗の実の皮をむき始めました。むかれた栗の実はしまりがあって、色も良く、とてもきれいでした。「ほら、ひとつ食べてみるか」差し出された白い栗の実を噛んでみたら、軽い音がして、とてもいい感じです。甘味も思っていた以上でした。

 栗の皮をむいた翌日、母は栗の実を入れて赤飯を炊きました。赤飯は母の得意料理のひとつです。金沢市に住んでいる次男のところへ長女が行ってくるというので、土産に持たせたました。その日の夜、次男から電話をもらった母はニコニコして言いました。「ゲンキ、うんまかったと」
 (2011年4月10日)



第147回 新しい芽

 ずっと気になっていました。20日ほど前、散歩していた時に見つけたドングリの実がどうなったかです。そろりと見に行こうかと思っていたある日のこと、源中学校の大先輩であるKさんが声をかけてくださいました。

「ねえ、橋爪さんて、前にドングリのこと書きなったよね。孫がね、ドングリを育てているんだでね……。見なる?」Kさんは、ニコニコしながら私にきいてこられました。もちろん、私は即座に「見たいです」と返事をしました。

 私が書いたドングリの話というのは、この随想「春よ来い」に書いた「ドングリのあてっこ」です。Kさんは、この話のなかで私がドングリを使って一緒に遊んだ同級生のお姉さんでもあります。

 しばらくしてKさんは、お孫さんが育てているというドングリを玄関先まで持ってきてくださいました。見た瞬間、「うわっ、これはたいしたもんだ」と声を出してしまいました。ドングリが空き缶の中で根を生やし、緑色の柔らかな葉をつけていたのです。それもふたつも。空き缶の縁にはドングリの実の割れたものが外にたれさがり、缶の中には毛の生えた根が下へ広がっていました。根の色は白っぽいものだと思ったら、薄茶色になっていました。そして根の元からは将来、幹となる茎がすくっと上へ伸びていたのです。

 Kさんから葉のついたドングリを見せていただいて思い出したのは、散歩の時に見つけたドングリです。「ひょっとすると、あのドングリも芽を出しはじめたかも知れない」そう思ったのです。

 数日後、私はドングリを見つけた場所へ行ってみました。20日ほど前には、雪消えが進んでいた山際の一角にいくつかのドングリを見つけたのですが、いま、その山際ではすっかり雪が消え、雑木林の中もほとんど雪がありませんでした。

 ドングリは思っていた以上にたくさんありました。少なくとも、50個や60個は落ちていたと思います。ただ、ざっと見たところ、Kさん宅で見たような葉は見当たりません。「まだか」そう思ってちょっぴりがっかりしました。

 ところが、腰を低くして一つひとつのドングリを観察しはじめたところ、ハッキリと変化してきていることに気付いたのです。前に見た時とまったく同じく、秋のドングリの姿そのままのものもありましたが、ドングリのとがった部分から殻を突き破り、根らしきものを伸ばしているものがいくつもあったのです。

 根を出しているドングリの姿は一様ではありませんでした。根を出しはじめたドングリの多くは、根の色が黒くなって枯れています。おそらく、氷点下まで冷えた時か雪が降った時に凍ってしまったのでしょう。

 今年の冬は天候も大地も異変続きでした。春先も雪が15センチも降ったり、5ミリほどの大型の雹(ひょう)が降ったりしました。何が起きるかわからない中で人間も動植物も必死に生きています。ドングリも例外ではありません。

 そういうなかで、2つに割れた実から根を出し、土の中に入り込ませているものが数個ありました。少し赤みがかっている実から出た根も同じ色となり、土としっかりつながっています。そして、根元の部分はさらに変わろうとしていました。茎立とうとしているのです。この調子でいけば、数週間後には葉のついたドングリの姿が見られるかも知れません。うれしくなりました。
 (2011年4月3日)



第146回 四十九日

 早いものですね、義父の四十九日法要が先週の日曜日にありました。亡くなった時には屋根や庭に雪がたっぷりあったのに、いまは裏庭に少し残っているだけです。この日はとても穏やかで、黄色い花を咲かせたばかりの庭のスイセンも気持ちよさそうに見えました。

 義父とは30数年の付き合いをさせてもらいました。地元商工業の発展のために力を尽くした人であることなど、世間に知られていたことはある程度分かっていましたが、私的なことは正直言ってあまり知りませんでした。それだけに、四十九日になって初めて知った事実に心を動かされました。

 義父の家に入って後飾り壇まで行き、焼香しようとしたところ、壇の左側に1通の手紙が置いてあるのが目に留まりました。日付は葬儀が終わって数日後ですが、宛先には義父の名前が書かれています。疑問に思い、封書の中身を見せてもらいました。

 便箋には毛筆による美しい文字が並んでいて、「生前のご厚情に感謝の意を込め、心からお悔やみ申し上げます。ご葬儀に参列できません事をお許し願います」と書かれていました。

 差出人は義父が15年間通い続けた公民館の歴史教室の先生。すでに90代に入っておられるとのことです。先生が、こうした手紙をくださったのには理由がありました。歴史が大好きな義父は、歴史教室の級長をずーっと務めていたのです。義父が趣味の世界でもまとめ役をしていたことを知り、なぜかうれしくなりました。

 海の見えるホテルでお斎をいただいている時には、義父の従弟であるTさんが少年時代の思い出話をたくさんしてくださり、その中に義父のことが出てきました。

 Tさんの嫌みのない自慢話、ユーモアたっぷりの、懐かしい思い出話には何度も笑いこけました。 「昔、明神に六本松スキー場というのがあったんだ。でっかい松が1本あっただけだけどね。いまのうちに言うとくけど、そこはすごいスロープだ。そこでよく回転競技をやっていた。赤倉のスロープよりいいですよ、あそこは。とにかく急なんだ。そこをおれは滑ったんだ。6年生の時、おれは代表選手だった。もっとも、一度も入賞したことがないけどね」

 妻がそこで口をはさみ、「でもうちの父はあんまり運動神経良くなかったような気がするんだけど……」と言うと、「そうだね、スキーでなかったね」。こんな調子で答が返ってきました。義父は、スポーツはあまり好まなかったようです。でも、3人の子どもたちが長靴をはいてスキーに乗っていた時には、靴が外れないようにと、皮のバンドなどを何度も直してくれたといいます。これも初めて聞いた話でした。

 お斎が終わり、柏崎の家に戻ってから、義兄が裏山を案内してくれました。義父が植えた雪割草を見せてくれるというのです。杉やモミジの木の下に白や薄紫の花が見事に咲いていました。義父が庭木に関心あることは知っていましたが、私と同じく野の花にも強い関心を持っていたとはびっくりでした。

 この日、義父は集落の中心部にある共同墓地の墓に入りました。地元のしきたりに従い、手づかみで骨を墓の中に入れ、最後の別れをしました。納骨の時、ふと思い出したのは正月に見舞った際、身振り手振りで、「お墓に行くことになる」ことを私たちに知らせた義父の姿です。もう一回、義父と話をしたくなりました。
  (2011年3月27日)



第145回 雪解けの頃

 3月になりました。晴れた日の早朝、久しぶりに散歩をしました。

 歩き始めたら、デコボコのある道路の路面が凍っています。水がたまっていたのでしょう。氷には直線的な模様があって、路面との隙間に半透明の氷のブリッジが出来ています。氷が張ったところを歩くと、割れていくのがわかる音が長靴の底から聞こえてきます。とても気持ちがいい。

 近くの雑木林は3月になって、雪解けがどんどん進みました。木の根のまわりだけでなく、あちこちに地肌が見えるようになりました。林の中にある雪は多いところでも30センチほどしかありません。地肌が広がるたびに、春が確実に近づいていることを感じます。

 林のすそのところで目に留まったものがあります。ひとつは落ち葉、何枚もの木の葉が折り重なっていました。木の葉は何種類もあって、大小実にさまざまです。これらのなかには、穴があいているもの、ちぎれているものもありました。長い間、雪に押しつぶされていて、ぺしゃんこになっているかと思ったらとんでもない。触ってみたら、けっこう弾力があるのでびっくりしました。落ち葉には霜が下りていて、そのおかげで葉のふちが鮮明になっていますし、葉脈もはっきり見えます。

 ドングリもありました。最初見つけたのは2個です。そのうちのひとつは割れていて、赤くなった実がいまにも飛び出しそうでした。何で赤くなっているのかと思いながら、辺りを見渡すと、ありました、ありました、同じ形のドングリが5つも6つもあるではありませんか。いずれも割れ目が入っていました。これから、暖かくなると芽を出すのかも知れません。調べてみたくなりました。

 落ち葉のそばに、霜をかぶった小さな草の芽が出ていました。色は、そうですね、薄緑といってよいでしょう。草の葉の形は見覚えのあるギザギザです。これは間違いなくヨモギです。今年初めて見ました。母に教えれば、すぐにでも採りに行くと言い出すに違いありません。

 鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。一番大きいのはカラス。小さなスズメたちは細かく動き、動くたびに声を出しています。川からも鳴き声が聞こえてきました。どうやら川面で泳いでいるカモのようです。盛んに鳴いています。私が思っていた以上に神経質な鳥で、写真を撮ろうと雪の上を歩き始めた途端、川面をたたくようにして飛び立ってしまいました。最初は3羽だと思いましたが、ちょっと時間を置いて別の2羽も飛び立ったらしい。斜め上の空には5羽が旋回していました。

 大滝商事の石置き場のところへ行くと、今度は雪解け水が道路の側溝に流れ落ちている音がしました。ボールペンほどの太さの水量ですが、柱状節理の岩石が積み重ねられている場所から絶え間なく流れ出ています。溶け出す雪がある限り、当り前の光景なのに、しばらく見入ってしまいました。

 道路の路面が凍っているせいなのでしょうか、吉川橋を走り抜ける車の音はいつもよりも大きく、ゴオーッという音になって聞こえてきます。そして、電車の警笛も聞こえてきました。柿崎駅を電車が発車する時の音なのでしょう。駅からは6キロメートルも離れているというのに、よく伝わってくるものです。

 霜に名残惜しさを感じ、落ち葉のそばのヨモギの芽吹き、雪解け水の音などで心がうきうきしてくる。雪解けの頃の散歩はいつも新しい発見があって楽しく感じます。
 (2011年3月13日)



第144回 三宝柑ゼリー

 10日ほど前、市内にある親戚の家を訪ねた時のことです。「これ、上田のSさんから贈ってもらったの」そう言ってM子さんはこぶし大のミカンを私の前のテーブルの上に差し出してくれました。黄色くて、頭の方にこぶのあるミカンです。デコポンそっくりの形ですが、三宝柑(さんぽうかん)という品種なのだそうです。

 このミカンは透明の包みの中に入っていて、上部は横にスパっと切られていました。普通のミカンと同じように皮をむいて食べるものと思っていたら、実の部分はくり抜かれていて、その中にゼリーが入っています。甘酸っぱい、いい匂いが漂っていました。生の果物の中にゼリーが入った食べ物は初めてです。

 このゼリーをスプーンで少しずついただき始めたら、M子さんは「ねぇ、私、ミカンと一緒にこんな手紙もらったの」と言いながら1通の手紙を、私のところに持ってきました。

 手紙は便箋で3枚、黒のボールペンで書かれていました。書き手は明らかに女性とわかる、しなやかで美しい文字が並んでいます。内容は、寒中見舞いの挨拶から始まり、T子さんが亡くなったことにたいする慰(なぐさ)めの言葉が続いていました。「気に留めながら、なかなかペンをとることができませんでした……元気を出して下さい。お母さんは時間が経っても癒されることはむずかしいでしょうが、残された人生をたくさん楽しんでください。きっと娘さんもそれを望んでおられるはずです」

 私が手紙を読み終わらないうちにM子さんは、手紙を開いて読んだ時の感動などを次々と語り始めました。手紙には、温泉旅行への誘いの言葉もありました。そして、追伸として、M子さんのお兄さんを励ますメッセージまで添えられていたのです。 「文章って、思ってなければ書けないじゃない。何回も会っていない人なのに、私の気持ちをくんでくれてさ……。うれしくて涙が出ちゃった」

 T子さんはM子さんの娘さんです。2年ほど前に病気が判明し、闘病生活を始めました。自分の娘の体力が次第に落ち、痩せていく姿を見て、M子さんは気が気でない毎日が続きます。T子さんには中学校3年生と小学校5年生の子どもがいました。娘のことはもちろんのこと、2人の孫がどうしているか、心配でならなかったのです。何度もT子さんの住まいがある埼玉県川口市まで出かけ、娘さんに付き添ったり、家事の手伝いをしたりしてきました。

 昨年8月、T子さんは川口市で39歳の短い生涯を閉じました。この時もM子さんは娘さんのそばにいました。10年ほど前に夫を亡くし、今度は娘と永遠の別れをしなければならなくなったM子さん、覚悟をしていたとはいえ、がっくりしました。

 上田市のSさんから贈ってもらった三宝柑ゼリーは6個。M子さんは自分だけで食べるのはもったいないと、近所の人や親戚の人にもお裾分けしました。

 お裾分けする時は、必ずSさんから届いた手紙のことやT子さんのことを話してきました。そのせいでしょうか、気持ちはだいぶ落ち着いてきたようです。つい先だって訪ねた時にも、「高校2年生の時だったと思うけど、バドミントンやっていたんだけど、T子、アキレスケン切っちゃって入院したんだわ。そいでね、まだ治りきらないうちに弥彦へ行ったの。ポータブルトイレを持ってさ。あれは忘れらんねぇ」と語っていました。

 M子さんのいつもの元気なしゃべりが戻ってきました。
 (2011年3月6日)



第143回 凍み渡り

 ザッ、ザッともグッ、グッとも聞こえる。凍みた雪の上を歩くときの音です。この冬はもう3回ほど凍み渡りをしました。1回に歩く時間はわずか15分ほどですが、毎回新たな出合いや発見があり、とても楽しい思いをしています。

 いつも歩き始めは、牛舎脇の舗装された道路からぴょんと雪の上に跳び上がります。雪の固さを確かめるのはほんの数歩だけ、あとはどんどん歩きます。歩くたびに長靴がザッ、ザッ、グッ、グッという音をたてます。気持ちがいいから踵(かかと)に力を入れて音が大きくなるようにして歩きます。

 朝の6時半過ぎ、空にはまだ月の姿がはっきりと見えます。薄青い空が広がっていて、そこに白い月がある。こういう日の朝は決まって雪がしっかりと固くなっています。自動シャッターを使って自分の姿を撮影しようとしてカメラを雪の上に置いた時、雪の表面を見てびっくりしました。雪の小さな粒がきれいに広がっているではありませんか。ヒザをついたら、その粒々がズボンにくっついて離れません。

 牧草地だったところから畑へと、どんどん進むと近くの雑木林から、「タタタタッ、タタタタッ」という音が聞こえてきました。キツツキです。縄張りを主張しているのでしょうか、それとも求愛行動でしょうか。いずれにしてもキツツキの音はよく響きます。

 畑の中に数本ある桑の木は全体がうっすらと白くなっています。杉林に目を転じると、これもまた白くなっているところがあります。みんな冷気に包まれて凍っているのです。このひんやりしたなかを歩くわけですから、手はびりびりするし、頬も痛い。耳も痛くなります。手袋を忘れてしまった時には、盛んに手をさするかアノラックのポケットに手を入れないと、冷たさにがまんができなくなります。

 7時近くになると、歩く雪原では素晴らしいことが起こります。東の方角から登る朝日が大地を照らし始め、雪原がキラキラと輝くのです。その光景は、雪の上のあちこちでダイヤモンドが輝いている、そう言ってもいいくらい実に見事です。だから、私はこの時間帯の凍み渡りが大好きです。

 雪がキラキラしはじめてからは、歩くテンポも変わります。小さな木のそばでぐるぐる廻るようにして歩く。窪地に下りる。ちょっとした高台に駆け上がる。もう気分は最高です。そして、面白いのは人間の影。ものすごく足の長い、もうひとりの私が雪の上を歩きまわるのです。

 私が凍み渡りをする場所の近くには吉川が流れています。昨年の秋に河川改修が行われて、新しい堤防もできました。ここも凍み渡りの楽しいポイントのひとつです。先日、堤防を駆け上がった瞬間、バタバタバタという音がしました。川面で休んでいた鳥たちが私の駆け上がる足音に驚いて、次々と飛び立ったのです。この鳥はおそらくカモでしょう。

 雪さえあればどこへでも歩いて行かれることが凍み渡りの何よりの快感です。今冬の凍み渡りの3回目では隣集落の田んぼへも出かけてみました。ここでは水の音がとても気に入りました。田んぼの暗渠(あんきょ)のパイプから用水路に流れ落ちる「ジョーッ」という水の音がなぜか懐かしさを伴って心に響くのです。

 凍み渡りが出来る頃の水は雪解けの水。雪解けの音は、言うまでもなく春を告げる音でもあります。春はもうすぐです。
 (2011年2月27日)



第142回 動物たちの足跡

 雪がうっすらと降った日の朝、野に生きる動物たちの足跡を見つけ、楽しい思いをしました。いうまでもなく、足跡は動物たちの足の大きさ、形、その時の急ぎ具合などによってそれぞれ違います。そして、同じ動物でも、歩いている時の様子が微妙に違っているからおもしろい。

 最初に見つけたのはタヌキの足跡でした。足跡はふたつ、2匹のタヌキが5メートルほどの道路を横断したときのものです。車から降りて、道路の端っこを見ると、この2匹のタヌキが休んでいたとみられる雪の「がらんぽつ」(空洞)がありました。そこで一晩過ごし、まだ月が明るいうちに出たようです。このタヌキたちの足跡はゆったりとしていました。のんびりしたタヌキ夫婦の散歩かも知れません。

 次に見つけたのはウサギです。県道から働き者の高齢者夫婦が住んでいる家に至る細い道、そこには新聞配達員さんの長靴の跡と一羽のウサギの足跡がきれいに残っていました。大きくて横に並んでいるのは後足、その後に小さく縦に並んでいるのが前足の跡です。このウサギの足跡は子どもの頃から見ているからでしょうか、親近感を覚えます。こんな言い方をすると笑われるかも知れませんが、子ども時代に見たウサギたちがいまも生きているように思えてなりません。

 さらに進んでいくと、今度はキジの足跡に出合いました。まあ、しっかり跡をつけたもんです。足の指、一本いっぽんの形がはっきりとわかります。面白かったのは、ここでも新聞配達員さんの足跡が一緒に残っていて、この人の足の運び具合がウサギの足跡が残っていた場所とまったく同じだったことです。ちょっとがに股で、かかとを引きずるところがある足跡。同じ配達員さんですから、足跡が同じなのは当たり前ですが、キジの足跡も気のせいでしょうか、ちょっぴりがに股でした。キジが配達員さんの足跡を見てまねをした、と思うのは考え過ぎかな。

 この日の朝、最後に見た動物の足跡はリスです。後ろ足の跡が前に横並びでついているのはウサギと同じですが、前足の跡は縦並びとならず、小さく横並びになっていました。リスが餌を探すのは主に夜明けの頃といいます。リスは、秋にクルミなどの木の実を地中に埋めておいて、冬になって雪の下から掘り出して食べることがあるとのことですから、この日も餌を掘りに出かけたのかも知れません。それにしても、足跡の間隔が長かった。何でまたこんなに急いだのでしょうか。

 動物たちの足跡を見ていると、いろんなことが次々と浮かんできます。

 中学生時代、私はスキーを履いてウサギの足跡を追いかけたことがあります。近くの中学生の仲間たちと一緒でした。当時はたくさんのウサギがいました。雪の上にはそれこそたくさんのウサギの足跡がありました。それらの中から、最も新しい足跡を見つけ出し、その跡を追うのです。弓矢を作り、それらを持って追いかけたのですが、ワナと違って簡単に捕まえることはできませんでした。でも、足跡を追って数時間後にウサギの姿を見つけた時の気持ちはいまでも忘れることができません。ドキドキしましたね。

 野に生きる動物たちの足跡は雪があるからしっかりと確認できます。年をとったので、スキーを履いて動物たちの足跡を追う元気はなくなりました。でも、観察するだけでも結構楽しい。足跡を見つけたら、ゆっくりと観察してみませんか。動物たちの世界も人間と同じで、恋をしたり、ケンカをしたりとドラマがいっぱいです。
 (2011年2月20日)



第141回 冬の夕陽

 2月3日の夕方のことでした。牛舎脇で除雪をしていた時、西の空が目に入りました。吉川のそばにあるクルミの木も、かつて牧草地だったところの雪原もあかね色に染まっています。夕陽が沈もうとしていたのです。

「わー、きれいだ」と思った直後、私は、カメラを取りに走りだしていました。じっと見ているのもいいですが、こんなに素敵な夕陽を自分だけで見ているのはもったいない、大勢の人に見てもらいたいと思ったのです。

 夕陽はいつもスッ、スッと瞬く間に沈んでしまいます。この日は幸い、デジタルカメラが近くに置いてあった車の中にありました。そのおかげで、雪原に沈む一歩手前の夕陽を撮影することが出来ました。

 今年の冬はカマキリ博士が予想したように大雪となりました。いきなりドカーンと降るのではなく、毎日のように降り続け、じわりじわりと雪の嵩が増していきました。そして下旬からは積雪量が一気に増し、吉川区や大島区の山間部では四メートルを超えるところも出てきました。まさに豪雪です。

 先月の25日、雪が降りしきるなか、豪雪地帯を視察してきましたが、何人もの人たちから「この冬はいつもと違う」という声を聞きました。例えば大島区、これまで区内でいつも最高積雪を記録していた菖蒲地区よりも旭地区の集落の方が多いというのです。それと雪が重い。見たところまだ雪下ろしをしないでも大丈夫そうな倉庫や作業所などの建物の倒壊が相次いでいます。

 視察をしていた時、大島区の田麦地内で除雪車と合いました。すれ違う時にオペレーターと補助者の顔を見たら、なんと二人とも従兄でした。二人も私に気づいて、声をかけてくれました。「おい、何とかしてくれや。ここは日本一積もっているど。3メートル80センチもある。雪を止めてくれ」。連日、朝は暗いうちから作業にあたっていて、オペレーターなど除雪作業をしている人たちの疲れはピークに達していました。

 いうまでもなく、どこの家でも雪との格闘が続きました。積雪が4メートルを超えても除雪機で毎日除雪をし、木戸先の道路がまるで春先の黒四ダムに至る道のようにあいている家もありました。屋根の上の雪も徐々に重くなっていきます。土日に屋根に上って雪下ろしをする姿もあちこちで見かけました。

 私の場合、市役所に行く前、帰ってからと除雪機をフル回転で動かす日が何回もありました。先月の下旬、会議を終えて家に戻ったら、牛舎の屋根雪が地面の雪とつながっています。時間はすでに夜10時を過ぎていましたが、このままでは屋根を壊すかも知れないと心配になり、除雪機を動かしました。

 雪との闘いは1か月以上続きました。雪が降っている日はもちろんのこと、雪が降らなくてもどんよりした日が多く、お天道さんはなかなか顔を出しませんでした。その影響が大きかったのでしょうね、2月の初め、それこそ数十日ぶりに夕陽を見た人たちの心が震えたのは。

 あかね色に染まった冬の夕陽に感動したのは私だけではありません。大勢の人がその日の夕陽に心を動かされ、語りました。郵便局に勤めていたYさんもその一人です。「きれいだったねぇ、あんがに暖かい(あったかい)夕陽みたの初めてだわ」冬の夕陽を語るYさんの笑顔がまた素敵でした。
 (2011年2月13日)  



第140回 丸ストーブ

 おーさぶ、さぶ。冬の寒さが一番きびしい時期に入って、「おーさぶ、さぶ」がすっかり口癖になってしまいました。風呂から上がって、まだ体がぽかぽかしていても、「おーさぶ、さぶ」と言ってしまいます。

 この寒い時期、暖房で活躍しているのはストーブです。かつては薪をくべるもの、石炭をたくもの、石油を燃やすものなど様々なタイプがありましたが、最近は石油ファンヒーターが暖房器具の主流となっています。

 そういうなかで今年、石油の丸ストーブをあちこちで見かけます。その多くはかなり使いこなしたストーブですが、なかにはどこかにしまってあったものを再登場させたものもあります。

 いま県議選のために毎日のように通っている私たちの党事務所。ここでも事務室、会議室の暖房は石油丸ストーブです。すでに30年くらいは使っているでしょう。元々の色は明灰色(シルバー・グレー)だったのだろうと思いますが、長年使用して、すっかりくすみ、薄茶色に近くなっています。

 事務所がある建物に着いて事務室に入ると、まず、この丸ストーブにあたります。これは私だけでなく、みんな同じ。そして、両手をストーブの前に出して、「いやー、相変わらずさぶいね」「どうだね、おまんたの方の雪は?」などと会話が始まります。

 このストーブは暖房だけでなく、やかんを載せればお湯をわかすこともできます。それだけではありません。鍋を載せれば、ちょっとした料理もできるのです。事務所に勤務している三和区のHさんは、時々、ブリのあらを買ってきては大根などと一緒にグツグツ煮て、おいしい鍋料理を作ってくれます。正に丸ストーブは大活躍です。

 この冬、大島区や吉川区の山間部は記録的な大雪となっています。先日、二人がかりでビラの配布をした際、昼食休憩をとるために立ち寄ったJAえちご上越の川谷店にも石油丸ストーブがありました。

 お店の一角にある休憩所。そこに丸ストーブがひとつあるだけなのに、店全体が暖かく感じられます。小さなテレビではちょうど連続ドラマ、「てっぱん」がはじまっていました。雪が降り続き、通れるかどうか不安になるような雪崩危険個所を無事通過した後だったこともあって、ストーブにあたってホッとしました。

 そうそう、この間、久しぶりにマルケーのバスに乗った時も丸ストーブに出合いました。この日は義父の二七日(になのか)法要があり、妻は私の車に乗って柏崎の実家へ。私は電車で市役所へ行き、帰りは電車とバスを乗り継いで家に帰りました。

 柿崎駅で電車を降りてから村屋行きのバスが発車するまで20分もありましたので、それこそ数十年ぶりにバスステーションの待合室に入りました。ドアを開けた瞬間、暖かさがふわーっと伝わってきます。待合室の真ん中に置いてあるのは、ここでも丸ストーブでした。ふと、学生時代の通学時の光景を思い出しました。みんなで楽しいおしゃべりをした冬、たしか、そこにも丸ストーブがありました。待合室には丸ストーブがよく似合います。

 丸ストーブを囲むと不思議な力が働きます。囲んだ人たちの顔が見えるのがいいのでしょうか、何となく良い雰囲気が生まれるのです。打ち解けて話ははずむし、話の中身もなぜか前向きになります。あっ、また雪が降ってきました。おーさぶ、さぶ。
 (2011年2月6日)



第139回 不思議な夢

 不思議なことがあるものです。いままで一度も見た記憶がない小鳥の夢を見て、夢を見たその日にまったく同じ小鳥と出合ったのです。

 夢を見たのは20日の夜明け前でした。私の寝室の外に雑木がありますが、そこに3羽の小鳥が次々とやってきて、枝から枝へと飛び移っている夢でした。3羽とも体は細長く、シジュウカラよりも長い。尻尾がピンと伸びているのが目立ちました。頭から背にかけては黒色、腹部が白色です。3羽は盛んに尾羽を上下させていました。

 私の場合、小鳥の色や体の特徴が頭に入っているのはシジュウカラ、メジロくらいなものです。それなのに夢の中に出てきた小鳥の姿の記憶は鮮明でした。「何という小鳥だろう。調べておきたい」そう思っていたら、その日の午後、柏崎市の郊外にあるショッピングセンターの駐車場で、その小鳥とばったり出合ったのです。

 小鳥は1羽で、舗装の上を歩いていました。「この鳥だ。この鳥だ」私は興奮し、すぐに車の中にあるカメラを取りに行きました。残念ながら、ほんの1、2分の間に逃げられてしまいましたが、この時は小鳥と2、3メートルしか離れていないところで見ることができたので、小鳥の姿をしっかりと頭の中に入れることができました。

 インターネットで調べてみたところ、この小鳥はセグロセキレイという名の小鳥でした。日本では普通に見られる留鳥または漂鳥で、積雪地でも越冬する場合が多いそうです。「主に水辺に住むが、水辺が近くにある場所ならば畑や市街地などでも観察される」とも書いてありました。セグロセキレイの何枚かの写真を見てみましたが、夢に出てきた小鳥と間違いなく同一でした。

 今年見た夢で憶えているのは、この小鳥の夢と初夢の2つだけです。  今年の初夢は新年になって1週間ほど経ってから見ました。この夢も「どうして、こういう夢を見るのか」と思うものでした。朝だか夕方だか、私は牛舎で搾乳の仕事をしていました。その際、搾乳した牛乳を入れておくバルククーラー(冷蔵庫)の栓をするのを忘れていて、乳をどんどん流してしまったという大失敗の夢です。

 バルククーラーの栓の締め忘れ、じつは、私の約30年にわたる酪農の歩みの中で数回ありました。たいがいは搾乳を開始してから数頭目の段階で、クーラーのそばにある湯沸かし器のお湯を取りに行った時に発見しました。バルククーラーの脇が真っ白になっていて、大慌てしたものです。

 流してしまえば、牛乳は拾うことができませんから、一緒に仕事をしていた父にしかられました。父は機械で搾乳した後、「後搾り」といって、最後の一滴まで手で乳を搾ることを実践していた人でした。それだけに、私の失敗でカチンときたのでしょう。「乳搾りをしていながら、他のことを考えているから、こういうことになるんだ」とよく言われたものです。父の言うことは図星でした。私は、搾乳の仕事をしていても、その日にやらなければならない様々なことが頭から離れなかったのです。

 搾乳の失敗の夢は現実にあったことの夢です。失敗した時の切なさが強く印象に残っていたから夢を見たと考えれば納得がいきます。でも、セグロセキレイについてはそういう関連はまったくありませんでした。

 小鳥の夢から目が覚めたのは妻の呼び声が聞こえた時でした。「ねえ、お父さん、早く起きてちょうだい。柏崎の父が危篤だって……」。義姉から連絡を受けた妻が私の寝室へ連絡に来たのです。まだ外は真っ暗、朝の5時を過ぎた頃のことでした。
 (2011年1月30日)



第138回 再入院

 「こんだ風邪ひいたら、また入院だよ」と言われていた柏崎の義父が入院しました。3年ほど前に間質性肺炎で入院し、退院後は自宅で療養していたのですが、とうとう恐れた事態がやってきてしまいました。肺の機能が低下しているところに肺炎を起こしたようなのです。

 義父のところへはこの2日、新年の挨拶に行ってきました。12月下旬に会った時と比べると、明らかに弱弱しくなっていました。楽しみにしていた食事では、副食などをかなり残すようになりました。新聞はまったく読まなくなったそうです。テレビも見ません。イスに座っていてもすぐに眠ってしまいます。年を越しただけなのに、こんなにも弱るものかとその時、思いました。でも、こちらから挨拶した時には、うれしそうに手を上げていましたし、妻とはいつものように指相撲をしていたので、まだまだ大丈夫だと安心していました。まさか再入院という事態が5日後にやってくるとは夢にも思いませんでした。

 義父が入院した病院は前回入院したところと同じでした。4人部屋ではありましたが、ベッドの周りには点滴の用具や自呼吸を補助する機器があります。妻と2人で見舞った時、義父は左目を大きく開け合図を送ってくれました。多分、「わざわざ来てくれたのか」と言っていたのだと思います。妻が義父の頭に手をあてると、頭をぐるりと動かしました。まだ力がありました。

 妻の姉夫婦の話によると、目を閉じたままで状態が悪い時もあるそうなのですが、長女と一緒に見舞った時も義父は目を開けてくれました。この時も、「わかるかね」という問いかけにかすかに反応してくれました。でも長女についてはわからなかったようです。

 義父の再入院で義母はさぞかしがっくりしたことだろうと思い、妻の実家を訪ねてみました。義母は意外と元気でした。これまで3年余りにわたって苦労してきた介護を専門家に任せることができて、ある意味では楽々したのかも知れません。腰が曲がった状態ではあるものの、杖をつきながら、部屋の中を動き回っていました。顔色も以前よりも良くなったように思います。ホッとしました。

 長女とともに義父を見舞った日も、病院を出てから妻の実家へ行きました。長女が久しぶりに訪ねたので義母は大喜びでした。お菓子やナシなどを次々と出し、食べてくれとすすめます。先日、長女は東京に出かけましたが、その様子を妻から聞いていたのでしょう。義母は、「浅草へ行って来たんだって?」と声をかけ、「私も浅草や有楽町が好きだった。私に似たんだわ」とやっていました。

 義母と長女の会話を聴いていて思い出したのは、父が入院した後の母の様子です。ひょっとすればすぐにダメになるかも知れないと医師に言われていたなかで、何とか持ちこたえてくれて安心したのかも知れませんが、母は、父が家にいた時よりも元気に畑仕事に精を出すようになったのです。母も義母も同じだなと思いました。

 義父の病状は一進一退です。私が訪ねた時は良い状態の時が多いのですが、目も開けられなく、ぐったりしている時もあるそうです。持病の間質性肺炎は、肺の機能が徐々に落ちていくと聞いています。前回の入院からすでに3年も経過していますので、通常の肺炎に克ってくれるかどうか心配です。

 ※義父は20日の午前5時53分、他界しました。お世話になったみなさんに心から感謝します。ありがとうございました。
 (2011年1月21日)



第137回 いつでも夢を

 「元気をもらう」という言葉がぴったりの年賀状を元日にもらいました。差出人は車イスに乗った生活を余儀なくされているM子さん。現在、三宅島在住で、10年ほど前から手紙のやりとりをさせていただいている女性です。

 年賀状は封筒に入っていて、400字詰め原稿用紙にいっぱい書かれていました。「車いすにゆめをのせて歩む」というタイトルがついていて、手書きの花飾りもあります。こういう年賀状をもらったのは初めてです。

 年賀状は、「新年おめでとうございます」という言葉に続いて「人生71年を支えてくれたお礼をこめてごあいさついたします」とあります。そのすぐ後には、M子さんの経歴が圧縮して書かれていました。

 小中学校は7回転校、都立の北野定時制高校を卒業した時は32歳でした。卒業直後に日本共産党に入党しました。1987年5月10日に三宅島の漁師と結婚、だが1995年には右脳大出血で左半身がマヒし杖歩行に。昨年5月、今度は左脳出血して「サア、大変」、立つことも歩くこともできなくなりました。

 この短い経歴を読んだだけでも大変な人生だったことがわかりますが、M子さんはどんな事態になってもいつも前向きに生きる人です。今回の年賀状でも、「紙おむつをして」特養ホームでデイホーム、ショートスティ等を利用して元気に暮らしている様子を知ることができました。

 M子さんにはいつも夢があって、やりたいことがいっぱいです。大好きな読書、いまは日野原重明の『人生の四季』、上田マリの『折々のうた』などを読んでいるとのことです。M子さんは書くことも大好きで、いくつもの新聞に投稿しています。それだけじゃありません。大正琴も習おうと、どうも大正琴を購入したらしい。手紙の最後には「みなさんも辛いこといっぱいあるでしょうが、夢をあきらめずに歩みましょうね」という文言もありました。改めてすごい人だと思いました。

 もうひとつ、感心したことがあります。それはお連れ合いと妹さんから介護を受けていることをさらりと書いておられることです。お連れ合いからは現在、「はいせつから食事家事全部」をやってもらっていて、ご自身は「空と水平線をながめて」いる生活です。介護をしてくれる二人に感謝しつつ、「私ってなんと幸運な星にうまれたのでしょうか」とありました。

 読み終えた時、「この年賀状は表面上は普通に書いてあるが、これからの人生をしっかり歩むためにM子さんは相当な決意をしたのではないか」と思いました。

 じつは、私は、10数年前にも同じような感想を持った封筒入り年賀状をいただいたことがあるのです。がんと闘い、いまはもう亡くなられた新潟大学教授の古厩忠夫さんからです。この年賀状は、なんと一万字にも及ぶ長文でした。その時も、「先生の場合、おそらくがん細胞が全身をぐるぐる廻っている無宿者みたいなもんで、定着しなければ悪さしないんです。それが、草履を脱いで居着くと、そこで再発ということになるんです」という主治医の言葉が書かれていてびっくりしたものです。

 M子さんの家の玄関先にはいま季節はずれのハイビスカスの花が3つ咲いているといいます。私はこの花をまだ見たことがありません。どんな花かはわかりませんが、M子さんを励ましていることだけは確かです。ぜひ一度M子さん宅を訪ねてみたいものです。   
 (2011年1月16日)



第136回 ばあちゃん料理

 お盆と正月、母は大忙しです。わが家にやってくるお客さんに手料理を食べてもらおうと一生懸命なのです。年末から年始にかけては次男夫婦が帰省したので、大張りきりでした。

 大晦日の晩は、旅行に出かけた長女以外の家族全員が集まっての夕飯となりました。居間のコタツのテーブルの上には、ゼンマイの煮しめ、コンニャク、ヤーコンなどの漬物、青豆などが所狭しと並びました。みんな母が用意したものです。

 出された食べ物はいつもとほぼ同じものですが、食べ始めてから、みんなが次々と「うまい」と言うものですから母の顔はゆるみっ放しです。テーブルの上の食べ物は、豆腐と下中条のSさんがくれたハリハリ漬けをのぞき、すべて母が山で採ってきたものか畑で栽培したものばかり。ゼンマイは近くの山で採ったものですし、チンゲンサイ、青豆、光かぶなどは母が畑で丹精込めて育てたものです。

 料理の方ももちろん母の手によるものです。この夜、母はめずらしく「これ、みんな、おれ作ったがだ」と言いました。育てる段階から料理の段階まですべて自分がかかわってきたという意味なのでしょうが、とてもうれしそうでした。そして料理の一つひとつを説明してくれました。「この大根の漬物は一週間強く漬けておいて切ったもんだ」「梅干しで作ったこれは、種をとって梅の肉とシソの葉を入れて軽く炒めたもの。まんまにぬったくって食べるとうんまいど」こんな調子です。

 わが家の子どもたちは母の料理が大好きで、親しみを込めて「ばあちゃん料理」と呼んでいます。大晦日の晩はお酒やジュースなどはほとんど飲まず、ひたすら「ばあちゃん料理」を食べていました。私も好きな発泡酒を一缶飲んだだけ、あとは料理をゆっくりいただきました。

 そうそう、大晦日の晩に初めて名前を教えてもらった豆がありました。乳白色でキラキラ光った甘い豆で、昔はワラつっとこ等に入れて食べた記憶があります。母によると、「ごろごろささぎ」と言うのだそうです。面白い名前なので、妻も子どもたちもみんなが何度も繰り返し呼び、憶えようとしていました。

 年が明けた日。私が地元町内会の新年会、お寺まいりを済ませてコタツでごろ寝していると、直江津の実家で年を越した嫁さんとともに次男が居間に入ってきました。ちょうどお昼時、またまた、母の出番です。

 母は台所から次々と料理を運び、コタツのテーブルの上に並べました。この日の昼食は得意の漬物やコンニャクの煮付けだけでなく、赤飯もありました。「ごろごろささぎ」も出ています。次男の嫁さんが来るというので気合を入れたのでしょう、「ばあちゃん料理」は大晦日の晩よりも品数が増えていました。

 母が赤飯を飯台の上に運んできて、さあ食べようという時、次男の嫁さんが思いついて、「じいちゃんのお参りをしなきゃ」と言いました。赤飯が上げられた仏壇の前で、若い二人は手を合わせました。父は母のつくる赤飯が好きでした。赤飯と若夫婦の姿を見て、父は大喜びしたことと思います。

 若夫婦はテーブルの上の食べ物を喜んで食べてくれました。食べきれなかった「ばあちゃん料理」はお土産にもなります。漬物やコンニャク料理はけっこう持ちますし、いうまでもなく、赤飯も大丈夫。母は惣菜パックに入れて、「さあ、持って行ってくんない」とやっていました。父が逝って二度目の正月、母は今年も元気です。
 (2011年1月9日)



第135回 初雪

 今冬の初雪は12月15日でした。この日は12月議会の最終日、朝からみぞれになり、本会議が始まる頃には本格的な雪となりました。議員控室から窓の外を見ると、雪がしきりに降っていて、市役所正面玄関前の小さな森もあっという間に真っ白です。鮮やかに紅葉し、市役所を訪れる人たちを楽しませていたカエデも雪をかぶってしまいました。

 雪国に何十年も住んできた私ですが、初雪を見ると「いよいよ来たか」と緊張します。すでに、車のタイヤをスノータイヤにする、雪の下敷きになってはいけないものを片づけておくなど、冬に備えた最低限のことはやってあります。でも、気持の方は、雪が本格的に降るまでは「冬の生活」への切り替えがなかなかできません。本気で冬を迎える気持ちになれないのです。良く言えば、降ってほしくないという気持ちが強い。悪く言えば、ものぐさなんでしょうね。

 じつを言うと、今回もまた長靴の用意がしてありませんでした。毎年、初雪の後、地元で1800円ほどの長靴を買い求めるのが慣例になっているのです。家に長靴がまったくないわけではありません。しかし、ある長靴は農作業の時と豪雨災害の時に履くだけ。汚れているので、よそに出かける時に履くような代物ではないのです。

 新品の長靴は廉価であっても履物として大活躍してくれます。これを履いていれば靴の中に雪は入りにくいし、雨が降っても、水溜りがあっても平気です。たとえ道路が凍ったとしても簡単にはすべらない。晴れた日に履いていると、ちょっと格好が悪いかもしれないけれど、まわりに雪があれば、不自然さはありません。革靴と長靴を足して二で割ったようなブーツというのがありますが、私はズボンを靴の中にしまえないところが気に入りません。そんなわけで、私は冬の履物としては長靴が一番だと思っています。

 さて、話を元に戻しましょう。初雪を迎えた時の緊張感は、日常生活の転換に伴うものです。雪が降れば、屋根から滑り落ちる雪の音が気になります。まとまった降雪となれば玄関前、車庫前の除雪など余計な仕事も出てきます。降雪にともなって生活のスタイルもスピードも変わってきます。

 その代表格は車の運転でしょう。走るスピードといい、ハンドルの握り方といい、雪のない時とは違ったものになります。これまで一般道路において時速50キロ、60キロで走っていたスピードを30キロ、40キロのレベルまで落とさなければなりません。路面のちょっとした凸凹にも気をつかいます。

 もう30数年も前のことです。国道8号線、柿崎から柏崎へと車を走らせていた時でした。下りのカーブのところで私の車がスリップし、一回転してしまいました。後ろからの車は続いているし、対向車線には大型のトラックが走ってきていました。一瞬だめだと目をつむった恐怖の体験があります。この時は車も私もキズひとつなく済みましたが、その後、大型トレーラーと正面衝突してしまいました。

 初雪の日の夕方、私の車には妻を含めて4人が乗り込みました。雪が降り、駐車場が空いているかどうかわからないということから、1台の車に乗ったのです。そして、車の中では正月の過ごし方などについて楽しいおしゃべりが始まりました。雪が降る冬は人と人とがゆっくり話をする季節です。車に乗って遠くに出掛けるのをひかえて、たまには近所の人たちとお茶を飲みたいものです。  
 (2011年1月2日)



第134回 ヨシキュウさん

 お線香を上げに行ってひと言、「ありがとうございました」と言っておきたい。誰にもそういう人がいると思います。先日亡くなったTさんもその一人でした。長年にわたりバスの運転手をやっていて、地域の人たちからは「ヨシキュウさん」と慕われていました。

 私の子どもの頃からバスの運転手でした、ヨシキュウさんは。長年にわたり勤めていた頸城自動車には昭和35年に入社しています。運転が上手いだけでなく、手先も器用な人でした。エンジンの手入れ、バスの塗装までやったことがあるといいます。そこまでなら、他にもそういう人がいるかもしれません。ヨシキュウさんが地域の人たちに愛されたのは、“口は悪いが、誰よりも気さくで親切”な運転手さんだったからです。

 ほんとに気さくな人でした。乗客が少ない時には「おい、バサ、どこへ行ってきたい」「おまん、どこどこの子か。おとっつぁに似ているなぁ」といった調子で乗客に声をかけていましたね。おそらく、役所の戸籍係の人よりも吉川の人のことを知っていたのではないでしょうか。人の顔だけでなく、車のナンバーもよく憶えていて、「おまん、この間、高田の本町にいたね」などと言われ、びっくりしたものです。

 ヨシキュウさんの親切ぶりはあまりにも有名です。四輪駆動車がまだ普及していなかった時代、雪道での車の運転はいまとは比較にならないほどたいへんでした。車の下に雪を抱いてしまって動けなくなる。すべって側溝に自動車を落とす。こんなことはしょっちゅうでした。車を動かせなくなって困っているところへヨシキュウさんの運転するバスがやってくると、みんな、ホッとしたものです。なぜか。じつは、ヨシキュウさんは雪で動けなくなった車を引くための専用ワイヤーロープをつくり、自分の運転するバスの中にいつも用意しておいて、必ず助けてくれる人だったからです。それからもうひとつ、バス会社には内緒ですが、足の悪い高齢の人がバスに乗っていれば、その人の家に一番近いところでバスを停め、降ろしていましたね。

 葬儀が終わって数日後、お悔やみのためにTさん宅を訪問したら、ヨシキュウさんと付き合いのあった人たちが5人ほどおられ、みんなで思い出を語り合いました。「口は悪かったけど、人間は最高にいい人だったこて」これは、みんなの共通の評価でした。そしてこんな話も出ました。

 ヨシキュウさんは正義感が強く、曲がったことが大嫌いな性格の持ち主だったというのです。旧源農業協同組合があったころのある日、たぶん、除雪がよくなかったのでしょう、元農協職員のHさんは、ヨシキュウさんが道路管理者である県庁の幹部にとても強い調子で電話をしている姿を見たといいます。住民の足を守るためには、行政に対しては何でもズバズバ言う人だったのです。

 葬儀の際、導師をつとめた専徳寺の松村さんと先日、ヨシキュウさんについて話をする機会がありました。松村さんが言いました。「ふるさと親善大使のような人。ふるさとを思い、そこに住む人たちのことをいつも気にかけていた人でしたね。10人いれば10人がヨシキュウさんとの間にエピソードを持っていたのでは……」と。

 焼香させてもらい、遺影を見た時、私が思いだしたのは20数年前のヨシキュウさんの言葉です。「おまんの宣伝カーが来ると、おらちのやんども、すっかり憶えちゃってさ、橋爪です、よろしくお願いしますって」。本当にいい人でした。
 (2010年12月26日)



第133回 ハクチョウの家族

 家族で飛び立つんです、ハクチョウは。ハクチョウがやってくる上吉野池の近くに住むSさんがにこやかな表情でそう言った時、声を上げそうになりました。「ええっ、そうなんですか」ってね。私は、そのことを知っただけでハクチョウについてもっと知りたいと思うようになりました。

 これまで、渡り鳥で関心があったのは春のツバメと秋の雁くらいでした。それが先日、市役所へ行く途中、初めて空飛ぶハクチョウと出合ったのです。きれいに、力強く飛ぶ姿を見ただけでも感動したというのに、一緒に飛んでいるのが家族だと聞いては、がまんしておられません。数日後、私は、「しんぶん赤旗」日刊紙の早朝配達のついでに上吉野池まで足を伸ばしました。

 上吉野池は思った以上に大きいものでした。国道脇から南東方向にのびた池の長さは400メートルほどあります。幅も150メートルは楽にあるでしょう。あいにく池には雨が降り注ぎ、しかもかなり強い西風が吹いていました。水面は波立っています。ハクチョウたちは石川町内会に近い、一番奥にいました。午前7時半近くになっていたので、すでに大方は飛び立った後でしたが、それでも水面には100羽ほどいました。みんな、「クォー、クォー」という鳴き声を上げていました。

 池から飛び立つ群れは少ないもので2羽、多いものは10羽前後にもなります。飛び立つ時はおそらく家族の誰かが「さあ、いくぞ」と声をかけているのでしょう。一斉に鳴き声をあげ、水面をパタパタとやりながら助走し、パッと飛び立ちます。目の前を通り過ぎていく姿は、イギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機、コンコルドにそっくりです。ひょっとしたら、この飛行機を設計した人は、ハクチョウの飛び立つ姿を見ていたのかも知れません。

 朝の時間帯、ハクチョウが飛び立つ上吉野池とその周辺では様々なドラマが起こります。

 ある家族が飛び立った時のことでした。最初に4羽が飛び立ち、2秒ほど遅れて少し小さ目のハクチョウが飛び立ちました。遅れたハクチョウはおそらく子どものハクチョウだったのでしょう、大きな鳴き声を上げながら必死で追いつこうとしていました。先を行くハクチョウたちも盛んに鳴いています。「お父さん、お母さん、待って」「ちゃんと付いてきなさい」ハクチョウたちは、こんな会話をしているように見えました。

 飛び立って数秒後、強い風にあおられ、横に流されるハクチョウたちもいます。ハクチョウたちは強い風の時ほど低い角度で飛び出していきます。池の西側には高さ3メートルほどのサクラ並木があって、最低限、その高さは越えなければなりません。どうもその上が強く吹くらしいのです。ちょっとの時間ではありますが、風に流される家族がいくつもありました。でも、流される時であっても、バラバラになることはありません。左後ろなら左後ろへと同じ方向に流されていました。

 池を訪れた時間帯は雨風だったのですが、家に戻ろうとした時、ほんの数分だけ、雨が上りました。そして、日が差したのです。飛び立つハクチョウたちをカメラで追っていると、目の前にきれいな虹が生まれていました。保倉小学校の近くです。一瞬、ハクチョウたちが飛行する姿と虹とが重なりました。虹色の空を飛ぶハクチョウの幸せ家族。めったに見られない美しい景色に出合い、心が震えました。  
 (12月19日)



第132回 木枯らしが吹いて

 先日、2日間にわたって木枯らしが吹きました。木々に残っていた葉はちぎり取られ、飛ばされました。この強引な葉落としによって、雑木林の木は丸裸です。葉がなくなって、周りの景色はがらりと変わりました。

 風に激しく揺さぶられたにもかかわらず、一枚だけ葉の残っているコナラの木がありました。わが家の牛舎の近くです。葉のそばには小さな袋がぶら下がっています。みなさんも見たことがあるでしょう、黄緑色の小さな袋を。ウスタビガの繭です。ウスタビガは夏の間、コナラやクヌギ、サクラなどの葉を食べて生長します。木の葉があるうちは隠れていて見えませんが、落葉後は簡単に確認できます。台風並みの風にもかかわらず、それに耐え残った葉、付け根は繭の糸でくくられていました。それだけではありません。葉の片面には繭の糸がびっしりと張り付いていたのです。

 2日目の午前、荒れた天気は少しずつ穏やかになり、落ち着きを取り戻そうとしていました。こうなると、人々は家の中にじっとしていません。

 小苗代のHさんもその一人です。りんご配達で訪ねたとき、Hさんの家の裏にある杉林はまだ、風で「ザァーザァー」という音を立てていました。それでも、杉林の上空にはちょっぴり青空がありました。玄関で声をかけると返事はなく、しばらくたってからお連れ合いが出てこられました。 「わりかったね。でっけが寝かしつけていたもんだすけ……。じちゃ、ちいさいの、ぶってどこかへ行ったみたい」

 子守りがすっかり仕事になっているHさんは、散歩に出かけていたのでした。

 前日からの強風と雨で道路の姿は一変していました。飛ばされた木の葉やゴミなどがあちこちに散らかっています。落ち葉の中で一番目立つのは杉の葉です。茶色で大きい。そして、道路に張り付いているものがたくさんありました。

 東田中のお宮さんの前の通りもそうでした。落ち葉だけでなく、小枝も落ちています。ゆっくりと車を進めていたら、前方から見たことのある人が歩いてきます。わが家の牛舎へ来て、堆肥運びをしていたことがあるSさんでした。

 私の顔を見ると、「いや、やっと歩いているがど。たまにゃ、歩かなきゃと思ってさ、家の前の坂とここの坂を歩いているがさ」。Sさんは私の父と同い年の人です。元気な姿を見てうらやましくなりました。ほんの一言、二言話をしてSさんは、「いや、めずらしい人にあった。ありがとうござんした」と挨拶をして別れました。堆肥運びをしていた時と同じように右手をちょっと上げて……。

 この日の午後からは青空も広がりました。風の方は相変わらず強めでしたが、前日の台風並みの風に比べればやさしい部類に入るでしょう。私は車に乗って柿崎方面へ出かけることにしました。米山の山頂よりも少し下の方に日が当たっていて、白いものが見えました。とうとう雪が降ったのです。黒川橋を渡ろうとした瞬間、目の前を雁が隊列を組んで飛んでいきました。強い風が吹いていても、クワッ、クワッと鳴きながら、くの字型を維持して飛行する姿に心が躍りました。

 木枯らしが吹く季節、荒れる日が多くなるものの、毎日そうなるわけではありません。荒れた後、青空が出るかどうかなど程度の差はあっても、必ず晴れた日がやってきます。それを知っているから、私たちは生きていけるのではないでしょうか。気温もぐーんと下がって、冬が一気に近づいてきました。
 (2010年12月12日)



第131回 もうけもんの日


 空の青さを強く感じる場所があります。吉川地区の国田から源地区に入り、県道川谷十町歩線の岩平橋を渡ったところもそのひとつです。目の前にある、わずか4戸の集落は標高150メートルほどの山に抱きかかえられています。山の上に広がる空はこの日もひときわ青く感じられました。

 年を越せば直きに95歳になるキヨさんの家は集落の一番奥。訪ねた時、キヨさんは南側の縁側にいました。いつも玄関や木戸先の道路の上などで何らかの仕事をしていて、じっとしていることのない人ですが、この日はめずらしく日向ぼっこをしていました。陽だまりの暖かさが心地よいことはキヨさんの眼元を見ればわかります。普段でも細い目が一段と細くなっていました。「暖かくて、いいやんべだね」と声をかけると、「そいがね」という言葉が返ってきました。

 縁側からは庭にある木や花が見えます。その先には、何枚かの田んぼも見えます。キヨさんの視線はそれらの方を向いてはいるものの、さらに遠くを見ているようにも見えました。暖かな日差しの中でじっとしていると、はるか昔の景色など普段見えないものが見えてくるのかも知れません。じつに幸せそうでした。

 10分ほどたってから、今度は隣の集落にあるトシさんの家に行きました。92歳。息子さんは仕事に出ていて、いつもひとりでお留守番です。この日もそうでした。「いなったかね」と声をかけたら、いつもの居間からではなく、南側のカーテンの奥の方から声がしました。トシさんもまた、縁側で日向ぼっこをしていたのです。

 ここでも、「いいやんべだね、暖かくなって。助かるね」そう語りかけると、トシさんは「こんがん日はもうけもんの日だこてね。おら、ここにいるのが一番だわね、あったくて……」と応じました。トシさんの家では、雁木の前にある大きな木は柿の木の一本だけ。すでに葉も落ちて、からっとしています。太陽光線は縁側に降り注ぎ、板の間を暖めていました。

 この日、一生懸命仕事をしている人もいました。トシさんのすぐ隣の家のYさん夫婦がそう、家の後ろにある車庫の二階からロープを使い、ハシゴのワクに沿ってすべらせながらスノータイヤを下ろしていました。かなり太めのタイヤです。どう見ても、息子さんの車のタイヤといった感じです。おそらく、家族みんなの車のスノータイヤが二階に置いてあるのでしょう。「仕事中におじゃまして悪いね」そう言うと、K子さんが手を休めて、私の相手をしてくださいました。

 Yさん夫婦は集落の中でも真面目で仕事熱心なことで知られています。すでに秋の農作物の収穫作業はもちろんのこと、冬囲いもすっかり終わっています。家の周囲の片付けも行き届いています。Yさん夫婦は二人とも、やるべき仕事がないかをいつも考えているタイプの人なのです。この日は、車のタイヤ交換をしようと決めて動いていました。「頑張っていなるがだね」と声をかけたら、K子さんが言いました。「いい天気になって……、もうけもんの日だすけね」

 11月も下旬になると、ぐずついた日が多くなります。悪天候を覚悟している時に、青空が出ようものなら、誰もが「もうけた」と言って大喜びします。私の生まれ育った蛍場まで行った時、ここにも鮮やかな青空がありました。釜平に立ち、屏風のような山々の紅葉を写真に撮ろうとした時でした。ふと、足元を見ると、小さなノギクが陽射しを浴びて花を広げているじゃありませんか。うれしい一日となりました。
 (2010年12月5日)


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