春よ来い(20)
 

第500回 94歳の誕生日

 母にとっては、おそらく生まれて初めてだったと思います。誕生日らしいご馳走と祝いのケーキを用意してもらったのは。

 母は1924年(大正13)3月27日に旧東頸城郡旭村に生まれ、先日、満94歳に到達しました。

 誕生日を迎える20日ほど前のこと、妻が母と一緒にどこかでご馳走を食べようよ、と提案してくれました。これまで、母の誕生日に花を贈ったことがあっても、どこかへ連れて行った記憶はありません。私は、すぐに賛成しました。

 この話は妻を通して柏崎の義兄などにも伝わり、地元の宿泊施設、スカイトピア遊ランドに泊まって、祝いの会をすることが決まりました。義兄からはケーキも用意するようにと、お金までもらいました。

 じつは、母の他に、3月生まれの者が私を含めて3人もいて、これら3人の祝いもみんな一緒にやりましょうということになったのです。そして、祝いの会は母の誕生日、27日に設定しました。

 さて、当日です。妻と母を私の車に乗せて会場となるスカイトピア遊ランドが近づいたとき、急に蛍場の前にある山々を母に見せたくなりました。

 車を尾神のバス停付近まで走らせると、母や私が30数年間住み、親しんだ山々が見えます。雪解けが進んで山はだも見え、ずいぶん春らしい景色になっていました。私は車の窓を開け、蛍場の山々が見えるようにしました。「見たかね」と母に聞くと、母はゆっくりとうなずきました。

 祝いの会が始まったのは午後5時半過ぎでした。みんなの前のテーブルには、フキの天ぷら、茶碗蒸し、鱈(たら)のムニエルなどが次々と出てきました。母は食欲旺盛で、ほとんど箸を休めることなく、食べ続けました。その様子を見ていた義兄などからは、「たくさん食べないと長生きできないね」という声が聞こえてきました。

 柏崎と吉川では、暮らしの中で使う言葉がずいぶん違います。尾神のしだれ桜が話題になった時、誰かが「おめさん」と言ったので、「こっちは『おまん』だよ」と言いました。また、フキノトウの天ぷらを見ながら、柏崎の人たちが「フキント」と呼んだところ、妻が「うちのばあちゃんはフーキントーだよね。フーキントーの方がやさしい感じがする」と言いました。言葉にはそれぞれ味がありますね。

 じつは、会が始まる前、私は近くの土手でフキノトウを1個だけ採ってきていました。母が天ぷらを食べようとしたとき、採ったばかりのフキノトウを鼻のそばに近づけると、「あー、いい匂いだ」と言って母は喜びました。誰だか忘れましたが、「ばあちゃん、フキの香りかげばシャキッとして、山菜採りに行くというんじゃない」という声も出ました。

 この日は山菜採りの話で盛り上がりました。とくに昔話。妻が、「ばあちゃん、すごいんだよ。子どもをおぶって、袋を持って、ウド採りに行ったんだから」と昔のことを披露すると、母は笑顔になりました。

 笑ったのは、柏崎の義兄が母に「ばあちゃん、いくつになったが」と質問したときのこと。母はこう答えたのです。「わすんた」。多分、冗談で言ったのでしょう。

 会の最後、小浜屋さんで作ってもらったケーキをみんなでいただきました。ただ、94歳の場合、ケーキにロウソクを何本立てたらいいのか誰もわからず、用意されていた15本のロウソクを全部立てました。どうあれ、会が終わって、母は言ってくれました、「いかったぁ」と。
  (2018年4月8日)

 
 

第499回 土産の大きさ

 笑っちゃいました。土産は大きすぎてもいけない。かと言って、小さすぎてもいけない。「ほどよい大きさ」でないと、予想しなかった苦労を味わうことになるという話です。

 話をしてくださったのは、先日、誕生日を迎えたばかりのT子さんです。3月も半ば過ぎ、私が訪ねたとき、お茶を飲んでいかないかと誘われました。

 お昼休みの時間帯であり、最初は遠慮していたのですが、T子さんはいつも美味しい煮付けや漬物を出してくださるので、それにひかれて、上げさせてもらいました。

「さあさ、入ってください」と言われ、居間に行くと、お連れ合いがコタツに入ってテレビを観ておられました。コタツのテーブルの上には干し芋、だいこんの切り干し、大杉屋のお菓子、そして羊かんがありました。美味しそうなものばかりです。

 挨拶を済ませた後、私はまず、小皿に入れていただいた切り干し大根をゆっくりかみながらいただきました。大根をすべて食べ終わって、次に目に入ったのが○△屋の羊かんでした。

 T子さんは、私の羊かんへの視線を感じたのでしょうか、「○△屋の羊かんを買おうと思ったんだけど、東京駅のどこに売っているのかわかんねくてね」と東京へ行ったときの出来事を語り始めました。

 T子さんは70代です。東京へは、それこそ何十回も行っておられるはずなんですが、これまで東京へは、お連れ合いの車で行かれたようです。驚いたことに、今回初めて新幹線に乗ったというのです。

 くびき駅からほくほく線に乗って越後湯沢駅に行き、そこから新幹線に乗って東京へ。子どもさんからは、「東京駅に着いても動いちゃだめだよ」と言われたとか。東京駅に到着すると、ご夫婦が乗った車両から降りる場所に子どもさんがいて、びっくりしたと言って、T子さんは笑いました。

 ○△屋の羊かんは東京へ行った証しとして多くの人が買い求めます。T子さんたちの場合もそうでした。東京駅で買ったかどうかまでは聞きませんでしたが、最終的には子どもさんの力も借りて無事、入手できたようです。

 土産にということでT子さんが購入したものは、縦6~7㌢、横2㌢ほどの小さな羊かんが3つ入った箱です。消費税を入れて1箱千円ほどだったといいます。

 土産としてたくさん買うには手ごろな値段です。でも、箱の大きさは10㌢×7㌢くらい。これだけ小さいと、「これ、東京へ行った土産です」そう言って差し出すには小さすぎると思う人がけっこういるのではないでしょうか。

 T子さんもそう考えた一人でした。土産として渡すときには、「これ、千円したんだよ」とか、「小さい割に値段は高くてね」などの説明が必要だと言います。そうは言っても、実際は言い訳がましく聞こえます。それでどうしたかというと、このほかに何かを買い足して渡すことになるというのです。話を聞いて、私は笑ってしまいました。

 笑ってしまった私も、じつは似たような経験がありました。お中元にと注文した品物の大きさが思っていた以上に小さくて、地元の美味しいトマトをプラスして渡したことがあるのです。

 いうまでもなく、お土産は大きさで良し悪しが決まるわけではありません。贈る人の感謝の心がこもっていれば、それでいいのです。でも、どうしてなのか、「ほどよい大きさ」にこだわりがちですね。
  (2018年4月1日)

 
 

第498回 雪に耐えて

 コアカミゴケという地衣類に初めて出合ったのは昨年の12月でした。わずか2㍉ほどの細い体でしたので、冬に向かって、大丈夫なのか心配でした。

 じつは春まで待てず、雪が降ってからも2度ほど見に出かけました。前にも書いたように、場所は地元の代石池のそばです。雪さえなければ、歩いて10分ほどの時間で行くことができます。

 今冬は早く雪が降ったものの、前半は雪の量が少なく、いつでも現地に行くことができました。そばまで近づいて、コアカミゴケが先端部に赤いものをつけて、ちゃんと立っている姿を見ると、ホッとしたものです。でも、1日に数十センチも降るようになってからは、行くことができなくなりました。

 3月の半ばになって、ポカポカ陽気の日が何日も続きました。言うまでもなく、雪も急ピッチで消えていきます。先日、ひょっとすれば、コアカミゴケがどうなったか確認できるかもしれない、そう思って代石池の現場へ行ってきました。

 コアカミゴケが生えていた場所は、土手が抜け落ち、トンパックや木の杭などがあるところです。北向きで、日当たりのよくない場所でしたが、雪は30㌢ほどしかなく、長靴をはいて、らくらく行くことができました。

 最初、一番北側にあるトンパックを見たら、何も見当たりませんでした。あれだけ吹雪き、冷たいめにあえば消えても不思議はないな、そんなことを考えながら、先に進むと、カヤに覆われた奥にチラッと赤いものが見えたのです。もしや、と思ったら、胸が高鳴りました。

 カヤをどけると、間違いありませんでした。コアカミゴケが昨年見たときと同じ姿で立っていたのです。細い体も折れていないし、小さい唇のような形をした赤い先っぽもちゃんとついています。よく耐えたなぁ。がんばったなぁ。そう声をかけてやりたくなりました。

 よく見ると、コアカミゴケはトンパックの布や木の杭にも昨年見たときとほぼ同じ状態でありました。「ほぼ」と書いたのは、カヤなどで覆われていないところでは一部に斜めになったものや曲がったものもあったからです。でも雪につぶされた形跡はありませんでした。

 本来、コアカミゴケは冬も生き抜くことができる生き物なのかも知れません。どうあれ、冬を越し、雪に耐えた姿を見た私は、それだけで感動しました。

 これまで私は、雪に耐えるシンボルとして、牧区今清水にある雪椿を特別な思いで見てきました。ここの雪椿はひと場所から百数十本の幹が出ていて、横に大きく広がっています。新潟県内では一番大きい雪椿だといわれていますが、どんなに雪が降ろうが、しなやかに耐え、決して折れることはありません。春になって、雪解けが始まると、雪をはねのけてピンと立ちます。そして赤い花を次々と咲かせるのです。

 6年ほど前、私はその近くに住んでいた中島さんから、雪椿の話を聞いて以来、毎年のように今清水を訪れるようになりました。雪椿を見れば、どんなにつらいことがあっても元気になれる、そんな気がするからです。

 そう言えば、最近、お連れ合いを亡くされたMさん、数年前にお会いした時、今清水の雪椿を一度見てみたいと言っておられました。4月下旬になれば、雪椿は赤い花を咲かせているはずです。今年はぜひ見に行って、早く元気になってほしいですね。
  (2018年3月25日)

 
 

第497回 コタツのそばで

 今年の冬はコタツに入って、母と会話をする機会がたくさんありました。といっても、母が一方的に話すことの方が多かったのですが。

 私が家に戻るのは、たいがい夜の10時過ぎです。母は電動イスに腰掛けていることはまずなく、私がいつも座っている座敷側の長座布団の上で横になっています。

 先日の冷え込んだ晩もそうでした。私の姿を見ると、母は「はあ、どっこいしょ」と気合を入れながら、左手をコタツのテーブルについて立ち上がります。

 電動イスに移動してすぐ、母は私に声をかけてきました。

「とちゃ、空気冷えてさぶいすけ、コタツに体全部入れた方がいいど。その方が風邪ひかん」

 そう言われると、電動イスに座る母はどうなんだと思うのですが、まあ、そこは親の言うことを聞いてコタツに入りました。しばらくすると、母が言う通りでした。肩のあたりが寒くなってきました。

 私がコタツに入ってから、母はつぶやくような感じで話を続けました。

「この間、めずらしくモコのばちゃの夢見たがど。モコのばちゃは、六角提灯つけておらちに風呂入りにきなったもんだ。ジョコさ連れて。それから、『おらちのジョコ、銭送ってくんた』そって、上のばちゃとオレ呼んでくんて、いわし、二匹ずつ焼いてくんなったこともあったな。モコのばちゃ、昔話してくんなると、のりかず、座って喜んで聞いていた」

 モコや上(かみ)というのは、わが家も30数年前まで住んでいた蛍場にあった屋号です。この夜は蛍場の話でした。

 母は夜遅くに風呂に入ることが少なくありません。お風呂に入って体を温め、そのまま布団に入りたいのでしょう。その日も10時半近くになって風呂に向かいました。電動イスから風呂場へ移動するとき、母は自分が着ている半纏を脱ぎ、コタツに入っている私めがけて投げていきました。私に半纏を着ろというのでしょうが、いつも何も言わずに投げて行くのです。

 別の夜のことです。その夜は比較的暖かでした。いつものように私の長座布団に寝ていた母が電動イスに移動してまもなく、家族のものが、「ばあちゃん、風呂、入んないや」と声をかけてきました。

 ところが母はすぐには立とうとしませんでした。その日は何かいいことがあったのか、また、ひとりしゃべりして、なかなか風呂に入いろうとしないのです。

「オオクボのとちゃに会いたいなぁ」そう言うと、昔話を始めました。「オオクボ」というのは、大島区竹平にあったUさんの家の屋号です。

「オオクボのとちゃは、(小さいとき)おっかあ、腹減ったぁ、そう言って泣いていたがど。そんで、『のうの』(母の実家の屋号)に来て、『おじや』食って、うんめえと言ってた。オオクボの家、林のそばで、雪いっぺ降って、大窓を出さんと家の中、暗くて大変だった。そんで、下の方へ行ぎなったがど」

 突然、「オオクボのとちゃ」の子ども時代のことが出てきました。テレビで「葛飾北斎の娘」をやっていましたので、たぶん、テレビが映し出したものの中に、思い出すきっかけがあったのだと思います。

 コタツのそばで語る母の話は行ったり来たり。場面もあちこちに飛びます。それでいながら、出てくる話はうそっぽくなくて、親しみを感じます。さて、今夜はどんな話が出てくるのかな。
  (2018年3月18日)

 
 

第496回 伯母の日記

 伯母の通夜式が行われた日のことでした。数年ぶりに、いや、十数年ぶりだったかも知れません、伯母が書き続けていた日記と再び出合ったのは。

 式が始まる少し前、受付脇のコーナーに行ってみてびっくりしました。伯母の連れ合いの姉妹などの写真や週5回通っていたデイサービスからの連絡帳などとともに伯母が数十年間書き続けていた日記の一部が展示されていたからです。

 展示されていた日記は2014年と2015年の2冊。伯母が書いた数十冊の日記の中では、一番新しいものと2番目に新しいものでした。どちらもすぐに読んでもらえるようにと、開いて置いてありました。

 メガネをはずして2015年のものに目を近づけると、伯母が最後に書いた日のことが記されていました。

 5月11日(月)晴れ。「きょうも一日中よいお天気であった。午後2時過ぎに家を出て、高田へ世話になりに来た。尾神をさいならしてきた」。

 日記の中の「家」というのは、伯母が長年住んでいた吉川区尾神の家のことです。70年ほど前、伯母は、わが家からわずか30メートルくらいしか離れていない隣家に嫁ぎました。3年前の5月11日、伯母は住み慣れたその家を離れ、長男が住む家に引っ越したのでした。

 伯母が引っ越すことになったのは、その半月ほど前に伯父が病気を出し、急に亡くなったからです。以前、伯父が「(夫婦の)どちらかが亡くなったら子どものところへ行く」と言っていたのを聞いていたので、予想はしていたのですが、正直言って、早い決断に驚きました。

 伯母が引っ越した日をもって、長年書き続けた日記をやめたのは、どういう理由であったかはわかりません。そもそも、日記をやめたことを私は知りませんでした。ただ、伯母が書いた「尾神をさいならしてきた」という文言から、これまでの暮らしから新しい生活に入る決意のようなものを感じることができました。

 伯母が私に日記を見せてくれたのは、尾神の家で一緒にお茶飲みしているときでした。きっかけは、私が書き続けているこのエッセイだったと思います。

  「おれも書いている」と伯母が見せてくれたものは農協が発行している「家の光」に付録としてついていた家計簿でした。家計簿の上の方に50字から60字くらい書くことができる四角い空間がありました。伯母の日記はそれを利用したものでした。その日の天気、農作業、来客の記録などをコンパクトにまとめてありました。

 伯母から日記を見せてもらったのは1回だけです。でも、しっかりした文字で毎日書き続けていることを知って、伯母の日記のことは伯母の几帳面さとともに私の記憶にしっかりと刻まれることとなりました。

 通夜式の日。伯母の日記を再び見ることになった私は、レンコン、ネギ、シイタケなどの野菜が描かれた表紙を見て、「これが、かちゃが書いていた日記だったのか」と伯母のことを懐かしく思い出しました。

 伯母の日記のいくつかを読み、改めて思ったのは、単に事実を記しただけのように見えるものでも、書いた本人の心の動きが見えることがあるということです。

 例えば伯父が緊急入院し、亡くなった日の日記。最後の1行は、「父さん七時、目がおった」でした。この1行だけ、乱れた文字となっていました。日記を書き終えてから訃報が入り、書き加えたのでしょうね。読んだ途端、涙がこぼれ落ちました。 
 (2018年3月11日)

 
 

第495回 数字がいっぱい

 柏崎の母にとって介護老人保健施設での暮らしは初めてです。入所して2週間ほど経ってから、「どうしているかな」と思い、妻とともに出かけてきました。

 施設の部屋に入ってベッドのところまで行くと、義母は小さな声で「おおっ」と言いました。連絡なしで訪問したので、少しは驚いたのかも知れませんが、私には、訪問を予想していたようにもみえました。

 義母は私たちの顔を見るなり、「だんだんぼけてきた」と言いました。少し間をおいて「苗字が覚えられないんだよ。顔は覚えられるでも」とも言いました。私たちは義母の着ている服のことなどを話をしたのですが、「だんだん……」は自分の言いたいこととして事前に決めていたのかも知れません。

 住み慣れた自分の家を離れ、こうした施設で暮らすというのは、当事者本人にとっては初めてのことが多く、緊張することが多いのではないかと勝手に想像していました。でも、義母は自分のペースを守りながら、慣れようとしているようです。

 義母は、面白いことをいくつも話してくれました。

 例えば、爪切り。義母の爪切りは施設の介護士さんがしてくれるとのことですが、義母はその様子を当初、びくびくしながら見ていたようです。そうしたなか、「そこは肉だって」と言って職員さんと笑い合ったこともあるとか。けっこう細かいことまで覚えているもんだ、と私は思いました。

 入浴時のことで、こんなことも話してくれました。体を洗ってもらうときに目をつむっていたのでしょうか、ふと介護士さんの足を見たら、毛むくじゃら。男性だったというのです。その男性は「半ズボン(?)」をはいて仕事をしていたと、義母はうれしそうに語ってくれました。

 こういった話を笑いながらしてくれたことから推察すると、義母は介護スタッフの人たちといい感じで付き合っているようです。

 30分ほど経ってからでしょうか。ベッドの隅に置いてあったティッシュの箱を見て、びっくりしました。箱のあらゆる面にボールペンで数字がびっしり書かれていたのです。

 よく見ると、数字は右の方から左の方へと順番に並んでいて、0から100まで書かれています。100に到達すると、再び0から書き始める、それが繰り返されていました。数字はきれいに書かれていて、箱に描かれたデザインと見間違える人もいそうなくらいです。それほど上手に書かれていました。

 入所するときの聞き取りの際、「(義母は)計算問題が好きで、九九が得意だ」という言葉を耳にしていました。そのときは笑っていたのですが、ベッドの上で、それもティッシュの入った箱にまで数字を書き込む人だとは思ってもみませんでした。

 私は、義母が数字の書き込みを1時間や2時間でさっさと終わらせたとは思えませんでした。1つひとつの数字を書くたびに家族や親せきの人たち、仲の良い友達のことなどを思い出していて、ひょっとしたら、数日かけて書いたのではないか。そんな気がしてきたのです。

 今冬は大雪です。義母が入所してからもドンと降った日がありました。施設では、ろくに外も見ないで暮らしているのかと思ったら違いました。義母は部屋の外にある杉や雑木などがまるで白い花を咲かせているようだったと言ったのです。やはり、まだ淋しいと思う日もあるのでしょうね。
  (2018年3月4日)

 
 

第494回 ソリ遊び

 ソリに乗って雪の斜面を滑る、たったそれだけのことなのに、こんなにも楽しいとは……。2月上旬のある日、大島区板山地内で、私はそれこそ数十年ぶりにソリ遊びを楽しみました。

 この日、K建設事務所の2階へおじゃましたとき、事務所で働くショウキさんのお連れ合いから「田舎体験で子どもたちが来ているんだわ」と教えてもらいました。

 事務所2階からはスコップで雪を掘っているショウキさんと娘さん、そして3人の子どもたちの姿が見えました。「何をしているんだろうか」そう思いながら近くまで行ってみました。

 ショウキさんが掘っていたのは「かまくら」です。だいぶ難儀していました。その様子をカメラに収めるつもりだったのですが、ショウキさんが、「おい、『春よ来い』に書いてもらえるど」などと子どもたちに声をかけていました。そして、私にソリに乗るように促したのです。

 それまで気づかなかったのですが、ショウキさんの住宅の西側にはブルドーザーで整備した雪の斜面がありました。長さは約30㍍、高低差は2㍍ほどです。緩やかな斜面で、都会の子どもたちが滑り下りるには最高のゲレンデとなっていました。

 乗ってみるように言われたソリは市販の本格的なものでした。ハンドルも付いているし、ブレーキもあります。私が子ども時代に乗ったミカン箱に孟宗竹をはかせたソリとは大違いです。

 ソリを手に持って斜面を登ろうとしたら、ショウキさんから声がかかりました。「そんがんことしなくても、もっと楽に運べるがど。ヒモついてるだろ」と。なるほどソリの前の部分にはヒモがついていて、これを引けばソリは軽く動くのでした。最近のソリは便利にできているんですね。

 ゲレンデの一番高いところまで行って、私はソリに乗りました。気合を入れて、走らせはじめると、ソリはすぐにスピードを上げ、下りていきます。何十年もソリには乗っていませんから、緩やかな斜面とはいえ、緊張しました。「タッタッタタタ」。私は興奮して大声をあげてしまいました。

 ほんの5秒ほどの滑りなのに、スピード感を味わうことができて、スリルもある。乗っていた私だけでなく、近くで見ていた子どもたちも大人も喜んで、笑顔になっていました。「こんがにおもしけりゃ、子どもたちが喜ぶのは当然だ」と思いました。

 私はこのゲレンデで2回、ソリに乗りました。2回の滑走で私は子ども時代のソリ乗りのことを完全に思い出すことができました。

 私やわが家の近くの子どもたちが一番手軽に作ったソリは、稲わらとネマガリダケの葉だけで出来ていました。3月、雪がカチカチに凍った時に蛍場のサクラサワ(屋号)の近くの急斜面を使って滑り下りました。スピードはけっこう出ましたが、バランスを失って、転ぶこともありました。

 スリル満点だったのはミカン箱のソリです。たぶん、ヒガシ(屋号)のコイチャが作ってくれたのでしょう。稲わらなどのソリとはスピードが全然違いました。ちょっとでも気を緩めると、杉林のなかや川につっこむ心配がありました。それでもみんな乗りましたね。おもしくて……。

 この日、私はひとつの発見をしました。ソリは単なる遊び道具ではなく、タイムマシンにもなるということを。ソリに乗っただけで50数年前の暮らしを感じ、当時の遊びを思いだしました。もちろん、蛍場に住んでいた人たちのことも。
  (2018年2月25日)

 
 

第493回 悲しい知らせ

 大雪が降った日の翌朝、8時頃のことです。除雪機で移動中、携帯電話に従弟から電話が来ていたことがわかりました。 「かちゃに何かあったな」そう直感して従弟に電話をすると、思っていた通りでした。「東のかちゃ」(東は屋号)が亡くなったというのです。

 私は同じ吉川区内に住む「河沢(こうぞ)の叔母」にいっときも早く連絡せねばと思いました。「河沢の叔母」は父のキョウダイの末っ子です。「後生寺の叔母」から始まって、「伊勢崎の伯母」、「下町の伯母」などが次々と亡くなり、キョウダイで生きているのは「東のかちゃ」と「河沢の叔母」の2人だけでした。「河沢の叔母」は13歳も年上の「東のかちゃ」のことをいつも心配していました。

  「河沢の叔母」とは先日会ったばかりです。私に、「東のかちゃに11月、やっと会えていかっと」と言って、笑顔を見せていました。それだけに電話をかけ「河沢の叔母」の声が聞こえた瞬間、グッときました。「東のかちゃ、だめげらど」と言うのが精いっぱいでした。

 もう1人、「東のかちゃ」のことを早く知らせたい人がいました。母です。「東のかちゃ」よりひとつ年下でしたが、母もまた、わが家のすぐそばに住んでいた「東のかちゃ」のことを気にしていました。

 私は除雪機を地元事務所まで持って行き、その後、大急ぎで家に戻りました。

 母は居間のコタツに潜り込んで寝ていました。「ばちゃ」と声をかけると、母は片目だけ開け、私の顔を見てニコリとしました。母が目を覚ましたことを確認したところで、「東のかちゃ、死んじゃった」と言うと、いつもよりも大きな声で、「あらー、死んじゃったとか」そう言って、また目をつぶりました。だいぶ前から覚悟していたのかも知れません。

 親戚と連絡を取り、私が「東のかちゃ」と病院の霊安室で対面したのは正午を少しまわった時間でした。背中に手を入れた時、まだあたたかく、亡くなってから5時間も経っているとは思えませんでした。顔もいつもと同じく優しい表情です。足と手が白っぽくなっていなければ、亡くなっていることがわからないくらいでした。

  「東のかちゃ」は関東大震災の日、旧源村尾神のわが家に生まれました。94歳です。わが家で育ち、わが家のすぐ隣の「東」に嫁ぎました。いつも近くにいて、身近な存在でしたので、私は「東の伯母さん」と言うことはなく、子どもの頃からずっと「東のかちゃ」と呼んでいました。

 私が子どもの頃から見てきた「東のかちゃ」はとても働き者でした。田んぼや畑仕事など何でもこなしました。そして料理が上手でした。私が好きだったのはエゴとアラレです。アラレは赤、白、緑の三色で、小さく切ってあるのが特徴でした。

 びっくりしたのは日記です。一度だけ見せてもらいましたが、たしか「家の光」の付録だったと思います。買い物や誰がやってきたかなどの記録をコツコツと何十年も続けていたのです。几帳面な性格でした。

 3年ほど前に連れ合いが亡くなり、「東のかちゃ」は市役所の近くに住む子どもの家で暮らすようになりました。私が訪ねたときに、「かちゃ、具合はどうだね」と尋ねると、いつも、「生かしてもらってるだけんがど。おまんちのかちゃ、元気かね」という言葉が返ってきました。

 自分のことよりもわが家のことなどほかの人のことをいつも心配してくれた「東のかちゃ」です。葬儀では、最後にしっかりと感謝の気持ちを伝えたいと思います。「かちゃ、ありがとね」と。
  (2018年2月18日)

 
 

第492回 寒椿(2)

 大雪となって、交通事情が最悪となった日、私はグループホームに入っている叔父のところへ行ってきました。用があって近くへ行った帰りに、ふと寄りたくなったのです。

 施設の玄関まで行くと、職員さんの1人がちょうど顔を出してくださいました。「ハシヅメノリカズといいます。タナカシゲオの甥です。会えるでしょうか」と言うと、まだ30代の女性とおぼしきこの職員さんが叔父のいるところへ案内してくれました。

 叔父は共同リビング(居間)で、テーブルのそばに座って、じっとしていました。案内してくれた女性が、「タナカさん、わかりますか」と言うと、私の顔を見てすぐ、「ハシヅメだ。よく来てくんた」とニコニコ顔になりました。

 案内をしてくれた職員さんは介護士さんなのでしょうね、叔父が私と話をしやすい雰囲気をつくろうと、気を遣ってくださいました。私に「お母さんとタナカさんがごキョウダイなんですか」と訊かれたので、「いいえ、私の父とこの人の連れ合いがキョウダイだったんです」と答えました。そして、「叔父は連れ合いを68歳で亡くしたもんですから、その後、1人でずっと頑張ってきたんですよ」とも言いました。

 この職員さんは、話をしっかり聞き、「写真、撮ってもいいですか」と尋ねてきました。「はい、チーズ」という職員さんの声に合わせて、私と叔父はVサインをしました。緊張したのでしょうね、撮ってもらった写真を見ると、叔父も私もちょっぴり硬い表情になって写っていました。

 私がこのグループホームを訪ねた時間は午前11時ちょっと前です。すでに施設ではお昼の準備が始まっていました。共同リビングのすぐそばに厨房があり、その中では2人の女性職員さんが笑顔で働いていました。その人たちも私と叔父の会話に加わる形で話をしてくれました。

 この日はどか雪でした。厨房にいた2人のうち1人は、朝の大雪のため、グループホームまであと数十メートルというところで乗ってきた車がカメになり、隣の事業所の人たちから助けてもらったということでした。その話を聞いているとき、厨房のカウンターのところに椿の花が2輪、それぞれ別の容器に入れて飾ってあるのが目に入りました。尋ねたところ、この花は寒椿だということでした。

 最初に案内をしてくれた女性によると、この施設の中庭で寒椿が咲いていたそうですが、これが雪のため折れてしまったとか。でも花のつぼみは大きくなってきて、もう花の真ん中が開き始めていました。

 寒椿を見ながら、職員さんが、「タナカさん、歌が好きなんですよ」と言っていたことを思い出しました。そして、叔父がある若い夫婦の結婚式のときもマイクを握り、一節太郎の「浪曲子守歌」を歌っていたことも。「逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子がかわい……」。ひょっとすると、この「祝い歌」の反作用のおかげでいまもその夫婦は一緒にいるのかも知れません。

 久しぶりに見る叔父は顔色もよく、とても元気でした。「早く家に戻りたいでも、そうもいかんだろうし……」という言葉から察すると、ここが気に入ったようです。  私が帰る時、叔父は2人の職員さんたちと一緒に門送りをしてくれました。背後から、叔父の「ありがとう」という力強い、大きな声が聞こえたので振り返ると、叔父は手を合わせサヨナラしていました。
  (2018年2月11日)

 
 

第491回 ニコニコ半分

 地吹雪が始まって3日目。柏崎の義母が初めて老健施設に入るというので、妻とともに柏崎市内にあるその施設まで車で行ってきました。

 施設は妻の実家から2㌔ほど離れた高台にありました。市道から施設への入り口はけっこう急な坂道となっていて、道路脇のコンクリートの縦板から消雪用の水が横に噴き出ていました。

 施設は思っていた以上に大きな建物でした。入所定員は140人。数年前に亡くなった柏崎の義父もこの施設でお世話になったのですが、そのときは入所期間が短かったこともあって、私が施設に行くことはありませんでした。今回が初めてです。

 施設の玄関に入ると、まず目に入ったのは人形です。右手の壁に3、4段、和服姿の人形が数十体置かれていたのです。人形は着物を着せた本格的なもので、とてもよくできていました。どこかの人形館から借りてきて、いっとき展示されているのかなと思ったくらいです。

 受付まで行くと、事務室の中には、すでに義母と妻の実家の義兄などが入っていました。入所の手続きをしていたのでしょうね。施設長さん、ケアマネさん、介護士さんなどから説明を受け、聞き取りも行われていました。

  「お母さん、何か趣味ありますか。好きなことありますか」。職員さんの質問に義母が黙っていると、義姉などが、「紙折るのが好きのようです。人形つくったりしてました」「数年前まではやってたけど、最近はどうだろう」と義母の代わりに答えていました。そして、誰かが「計算問題が好きなんです。九九が得意なんです」と言ったのです。これには、みんなが笑いました。

 事務室での手続きが終わってから、義母が入る部屋に案内してもらいました。入所に当たっては大きな袋を3つほど持参していましたが、その1つを私が持ちました。義姉たちが「食堂の前だって」「いいとこだね、すごいね」などと言葉を交わしている時、義母はちょっと落ち着きがなく、「不安なんだわ。行くなんて言うてきかさんから」と誰にともなく言っていました。

 義母が入るところは2階の中ほどにあり、4人部屋でした。義母のベッドは窓際です。「日当たり良さそうだねかね。こりゃ、いい部屋だ」「タンスもあるんだね」などとみんなが部屋をほめました。

 ひと通り、部屋のことを聞いた後、義母が持参した荷物の整理にかかりました。「かあちゃん、これ、着ないんじゃない。持って帰っていい」「これはタンスの上でいいのかな」などと賑やかです。

 義母は東京生まれ。着るものひとつとっても、しゃれたセンスがあります。持参したものの中には手鏡と化粧用具もありました。義母は93歳。「たいしたもんだ」そんな顔をしていると、義母は「頭の手入れ、したいんだよ」と言いました。

 同じ部屋には91歳だというお母さんもいました。柏崎市与板の出身で、同級生の1人が義母の住んでいた集落に嫁に来ているとのこと。義兄が、「『かどべいどん』(屋号)の引っ張りかね。よかったね、話し、合うかも」と言っていました。

 荷物の整理が終わって、私たち夫婦が帰ると言うと、義母が小さな声で「帰っちゃうの」と言いました。私は義父が手を合わせて私たちに「帰らないでくれ」と頼んだ7年前のことをふと思い出し、心配しました。でも義母は気丈な人です。「ありがとう。にこにこ半分、半分心配だけどね」と言って私たちに手を振りました。
  (2018年2月4日)

 
 

第490回 陽だまりの中で

 1月の半ばだとは思えませんでしたね。とにかくバカ暖かかったのです、この日は。車の暖房はいりませんでしたし、家の中にいても、ストーブを消した家がけっこうあったのではないでしょうか。

 1月15日のことです。市役所での会議が40分ほどで終わったので、ここ数年、直江津の三八市などで話すようになったM子さん宅を訪ねてきました。

 M子さんの家は市役所から車で10分くらいの集落の南側にありました。少し道に迷ってたどり着くと、木戸先からは青空をバックに堂々とした尾神岳がはっきりと見えます。すぐにカメラを取り出して何枚か撮りました。

 出迎えてくださったM子さんに「滑るから気をつけて」と言われ、コンクリートの階段を上って玄関に入ると、まだ生まれて半年ばかりというネコが迎えてくれました。人が訪ねてくるとうれしいのでしょうか、ネコはとてもはしゃいでいました。

  訪ねたのは11時半頃。「お昼の時間になるというのに申し訳ないですね」と言うと、M子さんは、「お昼は出さないけれど、ゆっくりしていってください」と言って、居間の南側にある廊下に案内してくださいました。

 そこは庭全体を見渡せるいい空間でした。雪がかぶっていましたので、確認は出来なかったのですが、梅、椿、ケヤキなどが植わっているように思えました。幹は細いものの、枝の張り方からして桜らしいものもありました。春になれば、花を咲かせてくれるに違いありません。

 廊下は、この日、暖かい陽射しが入ってポカポカでした。玄関寄りの場所には、しゃれた感じの丸いテーブルと2つのイスが置いてありました。

 M子さんに勧められてイスに座ると、すぐにネコが私に飛びついてきました。そのネコの様子を見ながらM子さんは、「きょうの陽はもう春の陽だね」と言い、その後、姿を消しました。

 再びM子さんが姿を現すまでには5分以上かかったように思います。M子さんが持ってこられたものを見て、「あっ」と思いました。手には丸いお盆があり、その中に桜の花が描かれた湯呑み茶碗を用意されていたのです。

 M子さんは、テーブルの上にそれらを置き、お茶を注いでくださいました。手元に近づけて湯呑み茶碗を見ると、湯呑みの側面に桜の小枝と花びらがいくつも描かれていて、とてもきれいです。1月といえども暦の上では既に春、陽だまりの中でお茶を飲むには最高のおもてなしです。私はうれしくなりました。

  私が訪ねたM子さんは80代前半の女性です。戦前から今日に至るまで様々な喜びや悲しみを経験しながら頑張って生きてこられました。お茶をご馳走になりながら、M子さんの人生の歩みの一端をお聴きすることができました。

 市へ野菜などを売りに行っても、最初は自分で値段をつけられなかった。大雨のとき、ハサにかけたイネが増水した流れに浮いたこともある。女性の声を少しでも政治に反映させたいと農業委員に立候補したら、取りやめてほしいと圧力がかかったこともあったなど、約1時間にわたるM子さんの話に引き付けられました。

 いつも弱い人たちに心を寄せ、季節感を大切にして生きているM子さん。昨年暮れの市では、「豆もち」を販売していました。雪が消えて山菜が出たら、ウドでも持って再び訪ねようと思います。
  (2018年1月28日)

 
 

第489回 待合室にて

 3か月に1回の割合で病院の眼科にかかっている母。私は会議などが入っていない限り、母を車に乗せて病院に行っています。もちろん送迎だけでなく、手続きや診察などに付き添います。

 先週の火曜日は今年初めての通院日でした。通院の日は懐かしい人と再会したり、母から昔話を聞いたりとけっこう楽しみがありますが、この日は待合室で興味深い出来事がありました。

 この日は午前10時の予約でした。眼科の受付カウンターで手続きを済ませて、待合室へ行ったときのことです。検査室の前のイスが1人分だけ空いていましたので、母からそこに座ってもらい、私は母の背中側のイスに腰掛けました。

 母が座って1分も経たないうちに、母の左隣に座っていた70代後半とおぼしき女性が母に声をかけてきました.

  「おばあちゃん、どこからきなったの」
 「吉川町からです」
 「遠くからですね、柿崎の方でしょ」
 「はい、あんたはどこでいなったですか」
 「市内です」
 「市内? どこですね」
 「港の方です。風が強くてね」

  あとでわかったのですが、この女性は港町で一人暮らしをされているMさんでした。2人とも耳が遠く、2人の会話はけっこう大きい声でした。私にもよく聞こえました。2人の会話はどんどん進みます。

  「おばあちゃん、いくつでいなんの」
  「94です」  
 母の答えを聞き、目の前を歩いていた母の姿を思い出し、Mさんはびっくりされたのでしょうか。すぐに、Mさんは、

 「まあ、歩かれていいですね」

 と言いました。母はそれにまともに答えず、自分がいま一番気になっている事を言いました。

 「フキント、出るがですわ」
 「おばあちゃん、歩いて採りに行きなるの?」
 「はい、歩いて採りに行くがです」
 「まあ、そりゃ、えらいもんですね」

 この会話を聴いていて、笑ってしまいました。最近、フキノトウを採ってきたことをまだ聞いていなかったし、そう遠くまで歩けるわけがない。「ま、ばちゃの一番得意分野の話だからいいか」そう思いながら、引き続き聴きました。

  「あくだしして、食べるんです」
  「おかずになるから家の人も助かるわね」
  「そいがです」

 母はうれしそうに語っていました。そっと、振り返って見ると、Mさんはメガネをかけておられ、眉はきれいに書かれていました。鍬(くわ)を持ったり、山菜採りに行くような感じの女性ではありませんでした。Mさんは話題を換え、

 「私、終わったら、あるるん畑に行くんですわ。揚げたかき餅売ってるの」
  と言いました。 あるるん畑はこのところ、母にとって大事な買い物場所のひとつです。かき餅を売っている場所が目に浮かんだのでしょう。

  「ちゃじょっぺにいいわね」

 母の言葉にまた笑ってしまいました。

 2人の会話では、それぞれ農村部と市街地に住む2人の暮らし方の違いが時どき出てきて、言葉づかいも違いました。

 この日も診察が終わってから、あるるん畑に寄り、家に帰りました。台所に行ってみて、私は驚きました。水の入ったボールにフキノトウが十数個浮かんでいたからです。母は家の周りで採っていたのでした。
  (2018年1月21日)

 
 

第488回 山菜オードブル

 今回は山菜の話です。びっくりしましたね、同じ上越市でも知らないことがいくつもあるんですから。

 先日、新春宣伝で板倉区に入ったときのことです。機織のSさん宅にご挨拶に伺った際、居間に上げさせてもらってお茶をご馳走になってきました。

 新年の挨拶をし、コタツの上の料理に目を向けた瞬間、「うわ―、すごい」と思いました。そこには、ほとんど山菜だけのオードブルがあったのです。それもそれぞれ形よく、きれいに並んでいました。

 直径35㌢ほどの円形の入れ物の中にあったものは、胡麻(ごま)がちょっぴり振りかけられた太いゼンマイ、採ってきたばかりではないかと錯覚するぐらい鮮やかな緑色のコゴミ、小さくカットされたウド、ワラビなどの山菜料理です。山菜でないものは、ニンジン、チクワ、コンニャクくらいなものです。

 コンニャクはオードブルの真ん中にあり、花びらのような形になっていました。しかも、その「花びら」の「めしべ」にあたる位置には新生姜(しょうが)の甘酢漬けがちょこんと置いてあるじゃありませんか。全体として暗くなりがちなオードブルをピンク色の生姜とだいだい色のニンジンで明るく仕上げるとは見事です。

 春の山菜シーズン、私はいくつもの山菜料理がテーブルの上に並ぶ姿を何度も見てきましたが、山菜を主体にしてこんなにも素敵なオードブルをつくることができるとは思ってもみませんでした。

 山菜オードブルを作ったのは女性グループ、『寺野いろりばた』(代表は下久々野の島田チイさん)のみなさんです。同グループは15年ほど前につくられた組織ですが、年末の山菜オードブルだけでなく、これまでも地元のイベントで、40種もの山菜バイキングに取り組んだり、笹寿し、ミョウガ団子、オコワなどを作ったりして大活躍してきました。

 この日、オードブルでもう一つ驚いたことがあります。山菜オードブルの中のウドの隣にウドに似たものが並べられていたのです。ウドの茎よりは平べったくて、口に入れると、こりこりした歯ごたえがありました。

 私が何だろうという顔をしていたら、Sさんが笑って、「トトガラだわね、サイキとも言うけど」と教えてくださいました。

 トトガラ? 初めて聞く名前です。またの名をサイキと言う? 正式名称はシシウドと言いますが、山菜の一つとして食べられると紹介してもらったものの、私はすぐには信じられませんでした。

 サイキのことをトトガラというのであれば、トトガラは子ども時代からよく知っている野草です。野山の草が出始めたばかりの頃、牛のえさとして刈って与えてはいました。でも、人間も食べているという話は初めて聞きました。驚きましたね。

 電話で島田チイさんに詳しいことを聞いてみました。トトガラは黒倉の標高の高いところで、茎が30㌢から50㌢くらいのときに手でポンと折って採ってくるのだそうです。鎌ではなく、手で採ることによってトトガラのやわらかさがわかるとか。ただ、難しいのはトトガラの塩漬け。ちょっとした加減で「こりこり」どころか柔らかくなってしまうというのです。

 2005年1月に14市町村が合併し、現上越市になりました。面積は佐渡島よりも大きい市です。山菜ひとつとっても、私の知らない魅力がまだたくさんありそうです。また、春が楽しみになってきました。
  (2018年1月14日)

 
 

第487回 ゆっくり書く

 正月が近づいてきて、地元の商店、かどやさんから注文書が届きました。A4サイズの緑色の紙に紅白の蒲鉾など24の商品名と単価、数量などの欄があって、簡単に注文できるようになっています。

 注文書提出の締め切りが近くなってから動き始めたのは母です。それも夜10時過ぎでした。一番上の木綿豆腐の行(ぎょう)から書きはじめたのですが、一つひとつ、ボールペンに力を込め集中しています。

 書き始めて30分くらい経っても母の注文書書きが終わらないものですから、家族が心配して、「ばあちゃん、もうやめて明日にしない」「早くお風呂入んないや」などと声をかけました。母は「おー」と返事しても、なかなかやめませんでした。

 母は40分ほどかけて、豆腐やチクワなど9種類の商品に注文する数を入れました。この他、注文書の下の方にあった、「その他、お酒、ビールなどもございましたらお書きください」の欄にも、「大 サイダー1本」「ビール6本入れ 1」などと書きました。

 私は母の電動イスの隣の席から観察していたのですが、母はいくつかの商品の欄に書き込みをするとボールペンを離し、注文書を片手に持って全体を眺めていました。でも、少し経つと、思い出したように再びボールペンを持って注文書に向かいます。

 7月に農協のゼンマイの注文書を書いていたときは10分足らずで書き終わっていましたので、それに比べると、そうとうゆったりしたスピードです。

 ようやく注文書を書き終えたかと思ったら、母は、今度は白いメモ帳に字を書き始めました。どうやら、注文書の控えを書いていたようです。注文した商品名と数量、そしてその商品についての合計額を書き込んでいました。このメモ書きにも10分ほどの時間がかかりました。

 母は書き終わった後、このメモをテレビの前に置いておきました。数日後、このメモを手に母に、「おまん、なんだそってメモ書いたが」と聞いてみました。母は「計算していくらになるかと思って書いたがど」と言いました。たしかにメモ帳の書き方を見るとそうなっています。

 注文書の本体のことについても母に聞いてみました。
「蒲鉾、あったね」
「うん、正月、年始に来なる人があったら、白と赤いのを出して茶じょっぺにしようと思って……」
 伊達巻についても聞くと、
「年始に来なった人に切って出そうと思ってんがど」
 最後に、「ゆでそば」についても聞いてみました。
「ゆでそば、なんで2つ頼んだが」
「汁のなかにソバが少しじゃ食った気がしねすけ。茶碗に山もっこもらんきゃ……」

 母の答えを聞いたときは、「そうか、そうか」と思っていたのですが、あとでメモをよく見てみたら、蒲鉾は注文してありませんでした。

 母とやりとりをしていてわかったのは、母はこれまで以上に想像力が豊かになってきているということでした。

 注文書を書くスピードが7月の時よりも極端に落ちていたのは、一つひとつの商品の名前を見て、「正月には誰だれが来て、これを食べてもらおう」「これはどんな料理をしたら、『うんめ』とほめてもらえるだろうか」などと考えていたからです。

 新年を迎えてまもなく、母は94歳になります。
  (2018年1月7日)

 
 

第486回 幼友達

 大島区板山の伯母が亡くなったのは昨年の12月半ばでした。伯母が亡くなったことで、女4人、男3人の七人キョウダイのうち生きているのは母だけになりました。あれからもう1年になります。

 キョウダイがいなくなって、母が頼りにできるのは家族です。でも、何かさみしいのでしょうね。子どもの頃の幼友達(おさなともだち)などずっと同じ時代を生きた人たちが時どき恋しくなるようです。

 先だっての午後、たまたま私の時間があいたので、「どうしんね、『杉』(屋号)のかちゃんとこへ行ってみるかね」と母に声をかけました。すると母はすぐに、「うん、行く」といいます。早速、「杉」の家に電話を入れて都合を聞き、了解をもらいました。母は急いで支度をしました。

「杉」のかちゃというのは母が生まれ育った旧大島村竹平の実家のすぐ下に住んでいた人で、板山の「杉」に嫁いだキエさんのことです。母よりも5歳年下ですが、気持ちが合うのか大の仲良しで、よく電話をかけたり、電話をもらったりしています。

 母を車に乗せて、走らせようとしたときでした。庭にあるピンク色のサザンカの花が母の目に入ったようで、「サザンカ、一輪持って行こさ」と私に言いました。母はキエさんが喜ぶだろうと瞬時に判断したのでしょう。すでにサザンカは花の盛りが過ぎていましたので、なるべく長持ちしそうな花をひと枝とって母に渡しました。

 40分ほどでキエさんの家に着きました。家の周りには1㍍近い雪が積もっています。母の手を引き、冬用の玄関で、呼び鈴を押すとキエさんが腰を曲げて迎えに出てくれました。

 居間のコタツまで行ったところで、母は「はい」と言ってサザンカをキエさんに渡しました。キエさんは、「まあ、サザンカ。水ん中に入れとかなきゃ」と言いながら、台所へ持って行きました。この短いやりとりを聞いただけでも、2人の気持ちが通じていることがよくわかります。

 電話してから板山に到着するまで1時間くらいしかなかったのに、コタツの上にはいくつものご馳走が並んでいました。大根の酢漬け、サツマイモ、五目豆、そしてキャベツの下に豆腐と鶏肉のフライを煮たものが……。キャベツは暖かい状態でしたので、おそらく、私と母が来るというので、すぐに作ってくれたのでしょう。

 ご馳走を見て、母が「杉んちに来た気がする」と言うと、キエさんは、笑いながら、「散らかってるすけか」と言いました。すぐに母は、「なして、なして」と打ち消しました。

 母は食欲が旺盛です。次々と箸(はし)を伸ばし、「このタケノコは『のうの』(母の実家の屋号)の向こうのオオダイラバヤシ(地名)のタケノコか」「ごっつおで、ごっつおで、何から食べていいかわからん。おまさん、ごっつおしの先生だ」などとほめてはご馳走を食べていました。

 「杉」の家にいたのは約1時間。話の中には子どもの頃から一緒だった地域の人たちのことが必ず出てきます。「いま旭で大正生まれの人は、竹平のトセさん、田麦のシゲトラさん、『ほしば』(屋号)のばちゃ、板山の『日の出屋』(屋号)のばちゃかな」などと話がはずんでいました。

 この日の帰り道、母は浦川原物産館に立ち寄り、ニンジン、キュウリ、玉ねぎ、ささげなどたくさんの野菜を買いました。また何かを作ろうというのです。一輪の花を持って行って幼友達と会った、それだけでこんなにも元気が出るとは……。
 (2017年12月24日)

 
 

第485回 「コケの花」

 12月に里山に入ったり、散歩したりできるのはうれしいですね。先だっての日曜日は青空が広がり、気温も高めとなりました。こういうときは家の中でじっとしていられません。外を歩きたくなります。

 歩き初めてすぐに目指したのは、秋に見つけたエビヅルがはっていた木です。もう葉は落ち、ツルだけになっていました。木の幹の中間あたりに目を向けたとき、えっと思いました。なんとエビヅルの実がまだいくつもついていたのです。高い場所でなければねぇ、この時期にどんな味になっているかを確かめたのですが……。今回は写真に撮るだけでがまんしました。

 続いて、小苗代地内の農道を歩きました。今年も1年間、たくさんの野の花の写真を撮らせてもらった道です。根雪になる前に何か咲いていないかと探しましたが、もうすっかり終わっていました。その代わり、笹が生い茂っている場所で赤くなっていたツルリンドウの実を見つけました。平場でもけっこうあるんですね。

 コケと思われるものと出合ったのは、私の地元の代石池(たいしいけ)の周回道路での散歩が終わり、もう帰ろうかというタイミングでした。左側の土手の一部にチラッと赤いものが見えました。

 見た瞬間、胸がドキドキしました。杉の木の切り株、土砂崩れを防止するための杭、トンパックの表面にたくさんの「もやし状」のものが広がっていたのです。しかも、それぞれの「もやし」の先っぽには小さな赤い「花」がついていて、まるでおとぎの国に入ったような美しさでした。

 よく見ると、「もやし状」のものは灰色で、背丈はわずか1.5㌢ほどでした。これが数十本、いや数百本生えていました。この小さな空間には私の知らない生き物たちの世界があるに違いない、私はそう思いました。

 ポケットからデジカメを取り出し、「コケの花」の群れとおぼしきものを、上から、横から、斜めから、できるだけ近づいて撮りました。ひょっとすれば匂いがするかも知れない。「もやし状」のものに鼻を近づけてみました。匂いはまったくしませんでした。

 10分くらい観察し続けたでしょうか。私はこれはコケか外来種の花のどちらかだと思いました。外来種の花かもと思ったのは、トンパックにたくさん付着していたからです。よその土地から見たことのない外来種の花の種がついた土を入れて運んできたのではないかと勝手に思ったのです。

 いつもそうなのですが、初めて出合った植物体はいったいどんなものなのか、どんな名前がついているのだろうか、知りたくなります。私はひとたび気になり始めると、ずっと気になる性分なのです。

 まずはインターネットで検索してみようと、秋から冬にかけて咲く「赤い野の花」をさがしてみましたが、見つかりませんでした。野の花でないならコケに違いない。そう思って探し続け、とうとうその日の深夜、正体をつかみました。

 名前は「コアカミゴケ」、コケに近いものと思ったのですが、正式には菌類と藻類との共生体だということです。そして 「コケの花」かと思っていた赤いものは、「コアカミゴケ」の生殖器官だったのです。

 ここまでわかると、もう一度見てみたくなります。ところが、そう思っていたところに雪が降ってきてしまいました。60数年生きてきて初めて出合ったくらいですから、来年、雪が消えて再び出合えるかどうかわかりません。惜しいことをしました。
  (2017年12月17日)

 

第484回 アリコ

 犬の「アリコ」が上越市のE子さん宅にやってきたのは1年前でした。早いもんですね、時の流れは。

 私が初めて「アリコ」の姿を見たのは、ビラ配布でE子さん宅を訪ねた時です。昨年12月か今年の1月だったと思います。

 率直に言って、初めてこの犬と出合った時、緊張しました。「アリコ」のせいではありません。私は、子どもの頃に左足の付け根をガブリとやられて以来、犬はずっと苦手だったのです。

 でも、「アリコ」は、どういうわけか、最初から人懐こく、犬に警戒心を持っていた私にも甘えてきました。いま考えると、それだけさみしかったのだと思います。

 じつは、「アリコ」は昨年4月、熊本地震で被災した犬でした。昨年の12月の半ば、テレビで被災した犬たちのことを知り、E子さん宅では、家族みんなで長岡市の動物愛護センターまで行き、「アリコ」を譲り受けてきたのです。

 先日、久しぶりにE子さん宅へ行ったとき、「アリコ」は玄関まで出迎えてくれました。すっかりE子さん宅の一員になったようです。とても落ち着いていました。ただ、地震から1年半以上経った今も、ガタンと音がしただけでおびえるといいます。

 玄関まで来てくれた「アリコ」は私を居間まで「案内」してくれました。私がコタツに入っても、ひざに座ろうとしたり、私に自分の体をくっつけてきたりしました。人間がとても好きなんでしょうね。

 この日、私はE子さん宅でお茶をご馳走になるなかで、これまで知らなかったことをいくつか教えてもらいました。

 そのひとつは「アリコ」という名前のことです。私はE子さんたちがつけた名前だと思っていたら、そうではないというのです。九州にいたときからつけられていたようで、長岡で初めて出合ったときに名前を教えてもらい、「アリコ」と呼ぶとすぐに振り向いたそうです。E子さんは、「たぶん、有明海の名前からとったんではないか」と言っていました。

 もうひとつ、E子さんたちが旧吉川町に住んでいた当時、犬を飼っていたことがあったということも初めて知りました。

 犬の名前は「ブチ」。吉川区川袋のU子さんのところからもらってきたとのことでした。「ブチ」もとてもいい犬だったそうです。家族みんながかわいがり、育てたといいますが、とくにE子さんのお連れ合いのYさんが大事にしました。散歩をする。仕事に行く。始終、車の荷台に乗せる。何をするにも一緒だったようです。

 それだけに、Yさんが大けがで入院して離れ離れになると、「ブチ」は大きなショックを受けました。いつも一緒だった人の姿が見えなくなった。そういうことは人間だけでなく、犬にも影響を与えるんですね。

 「ブチ」は、Yさんが大けがをした翌年の2月2日、死亡してしまいました。E子さんがお連れ合いの入院先から戻ったとき、「ブチ」の体はすでに冷たく、硬くなっていたということです。「ブチ」の遺影は今、長期にわたる入院後亡くなったYさんの遺影とともに仏壇に飾られています。

 23年ぶりに犬を迎えたE子さんは、「アリコはブチの生まれかわり」だと言い、毎日仲良く暮らしています。先日は一緒に散歩をしていて、オオイヌノフグリの紫色の花を見つけたとか。

 E子さん宅からの帰り際、「アリコ」は再び私のそばにきました。私は、「アリコ」の頭を何度も何度もなでました。
  (2017年12月10日)
 
 
 

第483回 七曲がり

 11月上旬、川谷地区で行われた「川谷もより大交流会」で懐かしい言葉を耳にしました。それは「七曲がり」。「七曲がり」と呼ぶところが川谷地区にもあったと聞いて、私はうれしくなりました。

 じつは、私が長年住んでいた尾神にも「七曲がり」があったのです。それは尾神の「ガマビロ」(地名)から標高200㍍ほどの「ナナトリ」(地名)を越えて石谷へとつながる道の一部でした。まっすぐ山を登るには急すぎるので、くの字や逆くの字型に道をつくり、高いところへ行ったり来たりできるようにしてありました。

 いまから50年ほど前、わが家の畑は「ガマビロ」、「ヨシワラ」(地名)、そそして「ナナトリ」にありました。キュウリやナス、ネギ、スイカ、メロンなどほとんどの野菜は「ヨシワラ」で、「ガマビロ」では大根、白菜などをつくっていたように記憶しています。わが家から1㎞以上離れている「ナナトリ」の畑ではジャガイモなどの野菜を作っていました。

「七曲がり」は、畑に持っていく道具や肥料を背負って登ることもあれば、収穫したジャガイモなどを背負って下ることもありました。私はいまでも覚えています。ジャガイモを背負いかごに入れて、運んだときのたいそだったことを。これは子どもにはきびしい仕事だったと思います。でも、当時は田んぼも畑も親子みんなでやらないと食べていけない時代でした。

 野菜づくりのときだけでなく、春の山菜採りでも「七曲がり」を歩きました。「ナナトリ」周辺はウドやゼンマイ、ワラビ、トリアシなど山菜の宝庫だったのです。そして秋、ミヤマツ、アケビ採りや山芋掘りなどで「七曲がり」を通りました。

 先日、尾神へ行った際、「チョウチ」(地名)から「七曲がり」を見る機会に恵まれました。 「チョウチ」でギンナン拾いをしていた大西(屋号)のお母さんと子ども時代の話などをした後、車に乗りもうとしたとき、目の前に、屏風のように連なっている尾神の山々が見えました。

 この尾神の山々の風景の中に「七曲がり」がハッキリと見えたのです。いきなり降った初雪が解け始めたことによって、七曲がりの道筋がよくわかるようになっていました。こういう機会は雪の降り始めと雪解けが進む春先くらいしかありません。私は、「よしっ、チャンスだ」そう思って、「七曲がり」にカメラを向けました。

 この日、「七曲がり」の写真を撮り、インターネットで発信したところ、浦川原区の上猪子田に住んでいた人や安塚区の菅沼に住んでいる人から、「私のところでも七曲がりがありました」というコメントを寄せていただきました。「七曲がり」と呼ぶところが次から次へと出てくるとはまったく予想外でした。

「七曲がり」と呼ぶ道がいつごろからつくられたのかは定かではありません。ただ少なくとも、食糧難の時代には、不便な山の上であっても田や畑を作る必要がありました。そこへ至るルートを確保するために七曲がりの道もつくらなければなりませんでした。おそらく、山間部には私の知らないたくさんの「七曲がり」があり、それぞれドラマがあったのだろうと思います。

 川谷の交流会では、上川谷出身の人が下川谷と上川谷間にあった冬の「七曲がり」を語ってくださいました。豪雪の中、よくカンジキで道をつけ、子どもたちを通学させたと思います。もっとたくさんの「七曲がり」のドラマを聴きたくなりました。
  (2017年12月3日)

 

第482回 涙が止まらない

 今年の東京吉川会総会は、25回目という区切りの総会でした。上野の東天紅で行われた設立総会当時と比べると、高齢化が進み、参加者はがくんと減ってきていますが、故郷を思う心はいまも熱いままです。

 私は総会の前日まで市議会の研修視察で九州方面に出かけていて、疲れがピークに達していました。総会では、まともに目が開けていられなくなるのではと心配しました。しかし、まったくの杞憂でした。

 会場に入ってすぐに、顔なじみの人たちが次々と声をかけてくださり、それだけで眠気が吹き飛んだのです。

 村屋出身のフミエイさんは、わざわざ私のテーブルまで来て下さって、「今回が最後の参加になるかもと思って……」と挨拶してくださいました。高齢で、体力に自信をなくされたのでしょうね。長年、ずっと参加してくださった方でした。

 私がいま住んでいる代石(たいし)出身のヒサコさんからは、「姉が一人暮らしになってしまって……。よろしくお願いします」と言われました。やさしい、思いやりのある妹さんだなと改めて思いました。

 懇親会ではお酒も入ります。美味しい食べ物も出ます。どこのテーブルも同郷の人の動静や最近の出来事などが話題になり、とてもにぎやかになります。

 一つのテーブルに、どこかで見たことがある顔立ちの女性がいました。誰だったろうと気にしながら近づくと、私の肩をつつく人がいました。道之下出身のヒデコさんです。亡くなったお父さんのことが話題になったとき、ハッとしました。「どこかで見たことがある顔」の人の主が誰だかわかったのです。「国際人」とか「マムシのトラさん」などと呼ばれたヒデコさんのお父さんでした。そのお父さんとそっくりの顔の二人のお姉さん、ミドリさんとキミエさんも会に参加されていたのです。「似てなるねぇ」「だって、親子だもん」などといいながら話が盛り上がりました。

 いったん、自分のテーブルに戻って寿司などを口に入れていると、正面舞台の脇でニュース映画のような、動きのある画像がスクリーンに映し出されていました。

 最初は何とはなしに見ていたのですが、東田中の学校らしい建物に続いて、原之町の小浜屋のおばあちゃんや「ちんころ」づくりが映された段階で、「これは吉川のだいぶ前の風景だ」と思いました。

 そして、私の目から涙があふれ出したのは、尾神の人たちや風景などが出てからです。キャンプ場の近くで飼っていた梅花鹿、豆腐づくり、ハングライダーなどが次々と映し出されました。

 ハングライダーの練習場はわが家の牧草地だったところです。そこが出てきましたし、尾神集落の懐かしいお父さん、お母さんたちも出てきました。「オカダ」のお母さん、「イケンシリノシタ」のお父さんとお母さん、それに「ナカヤ」のお父さんにお母さんも……。すでに亡くなった人たちもみんな笑顔で写っていました。もう涙は止まりません。思わぬ上映で、私の心は揺さぶられっぱなしでした。

 会では、ひと月に一度は吉川区米山に戻るというレイコさんとも再会しました。私に母の様子を訊いてこられたので「元気ですよ」と答えると、「良かったですね。お母さんが頑張って生きておられるのはあなたのことが心配だからですよ」と言われ、ぐっときました。

 同郷者の交流は、参加者に生きていく希望と元気を与えてくれます。来年は東京見物ツアーも計画されるとか。楽しみです。
   (2017年11月26日)

 
 
第481回 花嫁行列

 晴れていかったねぇ。11月12日。大島区田麦は祝いの日となりました。昨年、吉川の山間部での研修後、田麦に移り住んできた光則さんと詩歩さんはこの日、地域あげての結婚式をあげたのです。

「昔ながらのやり方で花嫁行列をやるてがすけ、おまん、時間あったら見にこねかね」そう言って私に声をかけてくれたのはヨシコさんです。花嫁行列は午前10時に田麦町内会長のケンジさん宅から出るという案内でした。

 私が到着したときには、すでに前庭にはジュンコさん、トミコさんなど3、40人の人が集まっていました。みんな、いまかいまかと待っています。小さな紙コップに入った祝いの酒やゼンマイの煮しめなどが入ったパックがふるまわれていました。

 私は竹平町内会長のマサユキさんから「さあさ、入って。花嫁の顔見ていってくんない」と誘われ、ケンジさん宅の座敷で、詩歩さんの花嫁姿を見ることができました。軽トラを運転しているときの顔も素敵ですが、やはり花嫁衣装を身につけた姿は違います。とてもきれいでした。

 居間には田麦町内会長のケンジさんがおられました。「大役ご苦労さんです」と声をかけると、「川谷に来なったが、こっちに来てもらって、もうしゃけねがど」との言葉が返ってきました。

 ふと、詩歩さんのところへ目を向けると、姉妹だか、親戚の人だかから携帯電話が渡され、耳につけています。「たぶん、結婚式に出れない遠くの人からの祝いの言葉が寄せられたのでしょう。詩歩さんの目が明らかに潤(うる)んでいました。

 さて、いよいよ花嫁行列の始まりです。「おはようございます。きょうはみなさん、たいへんどうもありがとうございます。これから、じゃ、嫁に出ますんで、よろしくお願いします」とケンジさんが挨拶しました。挨拶が終わるとすぐに長持唄が始まりました。「はああ、きょうはなああああぁ、ひもよおおしい……」坂口ハルオさんの声は伸びがあって素敵です。めでたい唄にぴったりでした。

 唄の区切りがついたところで「祝いましょう」と言って小豆が花嫁の列にふりまかれました。と同時に、「詩歩さん、きれいよ」「おめでとう」の声が次々と発せられました。小さな子どもさんの「おめでとう」という声も聞こえてきました。

 行列はとてもゆっくりです。「雨降らんでいかったね」「ほんとはもうちょっと青空出てもらいかったがど。でも、こんで充分だこて」という声が聞こえてきました。道ばたにはシソ科のハーブ、アメジストセージが紫と白の花を咲かせていました。小さな花が寄り添って咲いているように見えることから花言葉は「家族愛」だとか。ふたりの結婚式にぴったりの花です。

 花嫁行列が旭郵便局の前を過ぎるあたりで、歌い手はハルオさんからシチロウさんに代わり、光則さんと詩歩さんの住まいである「うしだ屋」の前に着くと、最高潮に盛り上がりました。ハルオさんとシチロウさんが代わり番こに長持唄を唄い、やまざと暮らし応援団のショウキさんなどが「祝いましょう」と、小豆をまきました。

 この日の花嫁行列を見に来た人はすごい数でした。百五十人を軽く超えたかも。そして私が「いいなあ」と思ったのは、花嫁、花婿だけでなく、行列を見に来た人たちみんながうれしそうだったことです。そのひとり、一人暮らしのヨミさんは言いました。「嫁さん、きれいでいい顔してなったし、こんな嫁取りなんて初めてだ」と。
   (2017年11月19日)

 

第480回 シーさんへの手紙

 シーさんが亡くなってから、もう2か月も過ぎたんですね。今年の秋は雨ばかり降っていて、農家はたいへんでした。10月には急に総選挙もあったので、正直言うと、シーさんのことを忘れていました。

 でも、この間の土曜日、自分の車を運転していて、ふと、あなたを思い出しました。いつものクセで、お宅へ行く道をちらっと見てね、そういえば、シーさんはもういなんねがだと……。

 毎週土曜日になると、だいたい午前11時半頃、お宅に行っていたもんね。それが何十年も続いたんだもん、オレの目も、ハンドルを握る手も自然と動きます。無理もないですよ。オレの体がすっかり覚えているんです。

 お宅に行くと、シーさんは必ず厨房にいなったですよね。オレを待っていてくんなったのか、大潟のマルキンさんを待っていなったがだかわからんけど、よほどのことがない限り、そこにいて、「お茶飲んでいきない」と声をかけてくださった。とても感謝しています。

 寄らせてもらってうれしかったのは、実の母親のように、いつもオレのことを心配してくんなったことです。「そこらじゅうう回るがもいいけど、ちゃんと寝ないや」「腹減ってねかね。これ食っていぎない」こんな調子で励ましてもらいました。

 いつ頃からでしたっけ、ストーブの上でサツマイモなどを焼くようになったのは。皮は焦げていたけど、サツマイモの中までよく焼けていて、じつにうまかった。「おやき」もそうでしたね。ストーブの上で焼いたのが最高でした。オレの好きなのは、野沢菜漬けか、味噌漬けが「おやき」の中に刻まれて入っているものでした。長年の付き合いで、シーさんはオレの性格や食べ物の好みも承知でしたね。

 もちろん、いただいた食べ物はこれだけではありませんでした。いま頃だったら、大根とか里イモの煮物かな。味付けが抜群でしたね。それに、昔から親に叩き込まれたのでしょうか、すぐった野菜など何でも美味しく調理して、出してくんなったね。それらの料理をデジカメで撮って、画像をあなたに見せると、「まあ、うんまそうに撮れている」と喜んでくださいました。

 お茶をご馳走になったとき、オレはスマートフォンでメモをとることがたびたびでした。だって、シーさんと話をしていると、もうすっかり使わなくなった言葉や面白い昔の話が次々と出てくるんだもん、記録しておかなきゃ損をします。

 こうして記録したものは、お陰さまでその後、「やきもち」「雪椿」などというタイトルでエッセイにまとめることができました。エッセイに書いた翌週は、お茶飲み話がいつも以上に盛り上がりましたね。

 でもね、シーさん、あなたが残した言葉はまだまだ記録として残っているんです。「ばんたびだねかね、やだこてね」「おまんのチラシがくると、おらちでは、ばいっつらいになるがでね」「ねら、やべや」……本当は、もう少し話を聞いて、こういう言葉を入れたエッセイも書きたいと思っていたんですけどね。残念です。

 シーさん、今年の冬は早くて、妙高山はもう白くなりました。尾神岳はまだですけど、もうじきだと思います。雪がいっぺこと降れば家のことが心配でしょう。なんと言ったって、シーさんは一家の大黒柱だったもんね。でも大丈夫、心配しないでください。お孫さんを先頭に、みんな頑張っていますから。シーさん、いままでたいそした分、休んでいてください。では、また。
  (2017年11月12日)

 
 
 
第479回 牛とともに

 いまから50数年も前の冬のことです。わが家で飼っていた牛は、腹にガスがたまって「まや」で死にました。わが家では人間が死んだときと同じくらいの大きな出来事でした。

 原因は水でした。水を入れる桶が壊れていたことに誰も気づかなかったのです。「角で『がらん、がらん』といつも桶を押しこくっていたすけ、穴、あいたんじゃないかな」母はそう振り返ったのですが、牛が死んだときは切なかったですね。

 牛が「まや」のなかで倒れているのを見つけたのは私よりも6つ年下の弟でした。母によると、この弟はいつもじっとしていなくて、「棒で牛をつついて死んでいたのがわかったみてで、じちゃを呼んだがど」。そのとき祖父はまだ寝ていたらしく、ガバッと起きて大急ぎで牛のところへ行ったといいます。

 牛が死んだとき、父は酒屋者(さかやもん)の出稼ぎに出ていて留守でした。家に残っていた家族みんなが共通して思ったのは、大事な牛を殺してしまい、父は怒るだろうということでした。当時、わが家は8反ほどの田んぼで稲を作っていました。春になれば、田打ちがはじまります。代かきもあります。その仕事をしてくれた一番の働き手は牛だったのです。その牛がいなくなって困るのは誰よりも父でした。

 父は牛を使って仕事をするのが上手でした。春の田打ちなどの田んぼ仕事だけではありません。重たいものを荷車で運ぶときもそうでした。秋になって、稲を運ぶときも牛の力を借りて仕事をしていたのです。

 いまでも牛を使った父の仕事ぶりを鮮明に憶えています。通称「サカンソ」という地名の田んぼで田打ちをしているときの父の姿です。「サカンソ」の田んぼのうち一番大きな田んぼは人間の胃のような形をしていました。先を歩く牛の後ろから犂(すき)をあやつり、べろべろと田を起こしていく様子は子どもの目で見てもじつに見事でした。調子よく仕事ができているとき、父はよく流行歌を歌いました。独特の節回しでしたが、よく田んぼの中から父が歌う三橋美智也の歌が聞こえてきたものです。

 出稼ぎ先で聞いて、すでに気持ちは落ち着き、静かになっていたのでしょうか。出稼ぎから帰ってきた父は怒りませんでした。ただ、牛が死んだあとの春作業をどうしたのかは私の記憶に残っていません。

 牛がいかに頑張り屋で力持ちだったか、最近、改めて確認する機会がありました。安塚区坊金のある農家でお茶をご馳走になっているとき、Gさんから稲運びをする牛が眠ってしまった話を聞きました。秋の忙しい時期、背中に稲をつけて運んでいた、その牛が眠りながら歩いていたことがあったというのです。

 いったいどれくらい稲をつけて運んでいたのか。Gさんによると、生稲で12束(96把・きゅうじゅうろくわ)、乾燥稲で18束(144把)くらいつけて運んだはずだといいます。では、人間はどれくらいかというと、頑張っても生稲で4束、乾燥したもので6、7束だったかと思います。ですから牛は、人間の3倍から4倍は運んだということでしょうか。すごい力です。

 茶の間で語るGさんの姿を見ていて、ふと思いました。「この人もうちのオヤジと同じだ。がっしりした体つきをしているし、牛に似ているなぁ」と。

 牛は眠い時には眠ります。悲しい時には涙も流します。半世紀以上も前、多くの農家では牛は大事な労働力であり、家族の一員でした。牛には今でも感謝しています。
  (2017年11月5日)

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