春よ来い (27)
 

第656回 切り株アート

 3月の半ば頃のことです。近くの山林を散策していたら、杉の切り株がふと目に入り、「あれー、これ何かに似ているな」と思いました。

 そのとき、すぐには分からなかったのですが、スマートフォン(略称スマホ。多機能最新型携帯電話)で写真に撮り、画面をのぞいて見たらはっきりしました。映し出された切り株は、わがふるさとの山、尾神岳とそっくりの形だったのです。

 この切り株は、上から見ると、段差のある2つの平らな部分があり、その2つの間にある細いトゲの塊(かたまり)で構成されていました。これまで、私は切り株を上からしか見てきませんでしたが、この日に見た切り株は地上から70㌢ほどの高さがあったことから、斜め上から見ることになりました。この切り株を見たことで、私の切り株を見る目が変わりました。

 切り株は上から見るか、横から見るか、あるいはその中間で見るかなど、見る方角や距離によって、いろいろなものに見えることがわかったのです。

 それからというものは、林の中を歩いていても、林がそばにある道路を歩いていても、面白い姿の木の切り株はないだろうかと意識して探すようになりました。

 数日後、わが家の近くにある代石池のそばに行くと、まだ切られて間もない木の切り株がいくつもありました。

 私は一つひとつの切り株を見て回りました。「おやっ、これは何だ」と思ったのは縦40㌢、横60㌢ほどの切り株です。少し離れて見ると、中心部は白く、そのまわりは茶色、さらにそのまわりはまた白色になっています。その姿は、海中の火山が噴火を続け、新しい島が誕生してまもないといった感じに見えました。

 周辺にある他の切り株を見ても、同じように切り口の真ん中部分に「島」が出来ていて、中央部と他の場所とを区分するように色が違っていました。それぞれの切り株は太さも形も違うのですが、基本的には同じ気象条件のなかで生長していったのでしょうね。このいくつかの切り株を見て、切り株は生育条件によって似た姿になることがわかりました。

 4月になっても切り株が気になる状態は続きました。上旬のある日の午後のことです。さわやかな青空が広がる天気だったので、近くの杉林の中に入り、ピンク色の野の花、ショウジョウバカマを撮っていたら、杉の古い切り株をふたつほど見つけました。

 それらの切り株は、切り倒してからかなり過ぎていたようで、緑色のコケのようなものが張り付き、〝じいさん切り株〟とでも呼びたくなる形状になっていました。

 そのうちの一つは、切り倒した時にできたささくれ状のところが白くなっていました。上から見ると、白く、長いまつげのように見えます。私はフェイスブックで「切り株の村山さん」というタイトルを付けて発信しました。それを見た2人の方が、「眉毛そのまま。懐かしい」「座布団七枚!」などといったコメントを寄せてくださいました。やはり、私と同じように、村山元総理に似ていると思ったようです。

 切り株は切り倒された当時から時を経てどんどん変化していく、そしていろんな表情を見せてくれます。切り株は自然が作り出すアート(芸術作品)だと思いました。

 3月の半ば以降、私が撮影した木の切り株は80か所ほどになりました。木の切り株は、人間と同じく、すべて違います。病気になることもあれば、虫に食われることもある。そして時が流れると老化も進みます。その姿はじつに多種多様で、個性的です。ひと月半ほどの間に、私はすっかり切り株フアンになってしまいました。

  (2021年5月2日)

 
 

第655回 リモート面会

 晩生(おくて)のヤマザクラも散り始めたある日の午後、1年2か月ぶりに叔父が入所している介護施設へ行ってきました。

 今回の目的は叔父と会い、元気かどうかを確認し励ますことが第1です。それともう1つありました。叔父と従妹(いとこ)との面会をスマートフォン(スマホ)を使って実現させたいと思っていたのです。

 前回、叔父と会ったときに、「春になったら、家へ連れて行くよ」と約束していました。あれから2回目の春を迎えましたが、新型コロナウィルス感染症の影響がいまも続き、家に帰るのは不可能です。

 ならば、叔父の子どもたちのうちの誰かとリモート(遠く離れた)面会を実現させて、叔父を喜ばせてあげたい、そう思っていました。

 施設と約束していた時間は午後1時です。正面玄関のガラス戸越しでの面会を許可してもらっていました。

 約束の時間に行くと、施設のスタッフの方が、玄関まで叔父を連れてきてくださいました。叔父は私の姿を見るなり、ニコニコして、「よー、どうもどうも。まあ、よく来てくんたね」と言いました。

 スタッフの方が「タナカさん、誰だかわかる?」と叔父にたずねると、「ハシヅメ ノリカズさん」という言葉を返しました。ああ、よかった、よかった。元気でよかった。ふだんは私に対して使っていない「さん」付けでしたが、叔父の口から私の名前がすぐ出てきました。会話もできます。

「おらちのばちゃも元気だでね。97になった」
「は―、えらい」
「かんべんしてくんないね、一年以上もこらんねくて……」
「それどころじゃねぇ」

 声は少し小さくなったものの、ガラス越しでも、叔父との会話はちゃんとできました。私が少し気になったのは叔父の顔です。95歳という高齢のせいか、前回会った時よりも少し細くなっていました。

 さて、従妹とのリモート面会ですが、スマホの操作ミスなのか、最初はうまくいきませんでした。施設をいったん離れ、再び施設の正面玄関で実現したのは、午後1時20分頃だったと思います。

 スタッフの方が呼びに行き、再び叔父が出てきました。私の顔を見て、「さっき来た人だねかね」とびっくりしていました。

 私は叔父が歩いてくる方向にスマホを向け、従妹に、「いま来るよ、声、聞こえた?」と聞くと、「ありがとうございます。お父さん、来てるのかしら。あー、来てる、来てる」という声がスマホから聞こえてきました。そして、大きな声で、「お父さーん」と呼ぶ声が2度もしました。

 私は涙をこらえながら叔父に「ほら、フミちゃんだよ」と声をかけました。叔父は「ほー」だか、「おー」だか声をあげて喜びました。

「お父さん、かんべんね。ご無沙汰していてごめんなさい」
「大丈夫」
「元気だねー」
「元気だよ。涙、出てくるわ、おれ……」

 従妹は続いて、叔父に植木鉢らしいものを見せて、
「お父さん、この花、わかる?」
「わからん」
「これ、シロジネ、お父さん、くれたの。大事にしているからね」

 スマホの画面を見ると、緑色の葉っぱが寄っていて、その脇から白く、可憐な花が鉢からこぼれるように咲いていました。

 わずか3分ほどのリモート面会、長期間会えなかった親子の会話となりました。終了後、私が「ああ、よかった」というと、叔父も「最高!」と言ってくれました。

  (2021年4月25日)

 
 

第654回 同郷の人

 いつか再会したいなと思っていた人とついに再会できました。その人はミヨコさん、旧源小学校水源分校時代、2年間同じ教室で学んだ1級上の先輩です。

 ミヨコさんは私と同じ尾神出身で、歳は私よりもひとつ上です。それでいて同じ教室だったのは、同分校は複式学級だったからです。ミヨコさんとは、私が1年生だった時と3年生だった時に同じ教室で学びました。

 ミヨコさんとは旧源中学校卒業後、親戚の葬儀で一緒になったくらいで会うことはありませんでした。

 それが4年前、同じ尾神出身で軽食・喫茶「あひる」を経営しているセイコさんのところでばったり会ったのです。そのときはうれしくて、いろんな話をしました。その時、「ミヨコさんはおれの知らないことを知っている」そう思いました。

 私は、小学校の低学年、中学年時代の薄れた記憶をミヨコさんが思い出させてくれる気がして、もっと話を聞きたい、また会いたいと、ずっと思っていました。でも、その後、セイコさんとの会話の中では、「この間、ミヨコちゃんがお母さんと一緒にきてくんなった」などと何回もミヨコさんの名前を聞くことはあっても、なかなか会えませんでした。

 再会の機会は突然やってきました。先日の土曜日のことです。「あひる」で昼食をとっていると、セイコさんが、「これからミヨコちゃんが子どもさんと来ると、さっきな電話があった」と教えてくれたのです。私は「わー、それはうれしい。じゃ、もう少しここに居させてもらおう」、そう言って待たせてもらいました。

 しばらくすると、ミヨコさんはやってきました。私に気づかずに奥の席に座ろうとしたので、「ミヨコさん、おれ、わかんなる」と声をかけました。私の声を聞き、私の目も見て気づいたのでしょう、「わかるこてね」という言葉が返ってきました。

 正直言うと、マスクをしていたので、私も「あれっ、この人、ミヨコさんだろか」と思ったのです。

 ミヨコさんには、「水源分校の写真、あったがだでもな」と言って、スマホの中をあちこち探したのですが、すぐには見つかりませんでした。それで、気になっていた分校時代のことから話し始めました。

「オレ、1年生になったばっかのとき、自分の名前、書けなくてさ」
「おれだってそだよ、書かんねすけ、マル書いたもんだわね。書かんねかった人、多いと思うよ」
「そっか、おれだけでねかったがか」
「……」 
「おらちの孫じちゃ、授業参観のときだったか、担任の先生がおれの名前を間違えて呼んだもんで、『先生、おらちんがノリカズと呼んでくんなせ』とお願いしたがと」
「おまんの名前、なかなか読まんねと思うよ。むずかしいもん」

 ミヨコさんとの話の中で、小学校に入ったばかりの頃、自分の名前を書けなかったのが私だけではなかったと聞いて、なぜか安心しました。

 ミヨコさんは、自分の同級生のことや地域のことを次々と語ってくれました。

「何年か前、直江津でタダアキさんと、ヒトシさんとノブちゃ、会っていたがね。そんで、おれにも来いと言わんて、行ったがど。ノブちゃ、その後、二、三年で亡くなっちゃった。いい人だったね」

 同郷っていいもんですね。ノブちゃんやタイヘイさんのこと、尾神のしだれ桜の昔のこと、ナナトリのことなど知っている人や地名が出てきただけで、気持ちが1つになるんですから。この日はセイコさんも途中から話に加わり、楽しいひと時を過ごしました。

   (2021年4月18日)

 

 
 
第653回 春の花たち

 いったい何なのでしょうね、野や山に咲く春の花を見るだけでウキウキした気持ちになるのは……。もう20年以上も、そういう状態が続いています。

 今年は雪がたくさん降って、花が咲くのは遅くなると思っていたのですが、大雪になった時以外は気温が高く、開花時期はむしろ早くなりました。

 例年だと2月25日頃に咲き始めるマンサク、今年は1週間ほど早く黄色の花を見せてくれました。

 最初に見たのは吉川区から浦川原区へ行く県道柿崎牧線沿いの土手でした。朔日峠まで3百㍍ほどのところです。いつもなら、土手の高いところまで上がらないと花を見ることはできないのですが、今年は大雪に押され、木の枝がかなり下まで来ていました。そこに黄色く、キラキラと輝いていたのがマンサクの花でした。

 マンサクは何と言っても花の形がユニークです。薄焼き卵を細かく切った錦糸卵(きんしたまご)にそっくり。真っ白な雪がすぐそばにあって、この花のバックに青い空があれば、もう最高です。その姿を見ただけでワクワク、冬から春へと季節が大きく動いていることを実感できます。

 草花で最初に見たのはオウレンです。マンサクの花を見てから1週間くらい後でした。地元のお寺の階段のそばにある大きなケヤキの根っこのところに今年も白い小さな花を咲かせました。

 オウレンにはマンサクのような強烈なアピール力はありません。おそらく、私のように、「以前、ここに咲いていたはずだ」という記憶を持っている人間以外はなかなか気づかないのではないでしょうか。

 目立ちはしませんが、このオウレンは、私にとっては春先に気になる野の花の1つです。花は小さくてかわいいし、何よりも春の野の花のシーズン到来を告げてくれる存在となっているからです。

 今年も、オウレンを初めて見たとき、「これならキクザキイチゲも咲いているに違いない」と思いました。そう思いはじめると、もう、私はじっとしていられません。実際に咲いているのかどうか確かめたくなるのです。

 こうして、私がいつも行く場所の1つは代石(たいし)神社周辺です。おそらく、ここは吉川区でキクザキイチゲが最初に咲く場所だと思います。行ってみると、間違いなくキクザキイチゲは花の時期を迎えていました。この日は、曇り空だったこともあり、がっかりしてうなだれているような姿をしてはいましたが、この花ほどお日様に敏感に反応する花はありません。しばらく日が当たれば、ばっと花を咲かせます。

 10日ほど前からショウジョウバカマがあちこちで白い花、薄紫色の花を咲かせはじめました。先日、杉林のなかで咲いているショウジョウバカマが気に入りました。正面もいいですが、この日は後ろ姿が素敵でした。背筋がすっと伸びていて、薄紫色の花がゆったりとしていたのです。まるで湯あがり美人といった感じがしました。

 そして先日の朝は、近くのKさんから声をかけられました。「橋爪さん、この花、何だかわかんなる」と言って案内してもらったのは。Kさんの庭でした。草丈は低く15㌢ほどで、最初、チゴユリに似ているなと思ったのですが、茎の先に咲く淡黄色で広い釣鐘型の花を見てコシノコバイモだとわかりました。本来、山に咲くはずのものが、一体、どうして……。

 春の花には、花の形でアピールするものがあれば、鮮明な黄色や白色などで美しく輝くものもある。なかには後ろ姿で魅せるものも……。新しい春、野の花たちに出合うと、どの花も新鮮で心ときめきます。不思議な力を持っていますね、春の花は。

  (2021年4月11日)

 

第652回 97歳の誕生日

 母は3月27日で満97歳になりました。昨年、心臓病などで3回も入退院を繰り返したこともあって、今回の誕生日を迎えることができたこと、とてもうれしく思います。

 正直言って、手術を終えた時、元気に新しい年を迎えることができるだろうか不安でした。それが年を越え、厳しい冬も乗り越えて3月の誕生日に到達できたのです。

 母の誕生日の27日、母がお世話になっている介護施設でも誕生祝いをしてくださったそうですが、自宅でも誕生祝いをする準備を進めていました。

 自宅での誕生祝いの会は午後7時からと決めていました。長女がケーキなどを買いに行き、私は施設での泊まり(ショート)を終える母を迎えに行きました。

 家に母を連れてきてから、私は別の用事で動いていたのですが、そこへ従姉の家から電話が入りました。長年にわたり、実の母親のように母を大切にしてくれた従姉が「ばあちゃんに会いたい。おれも一緒に仲間に入れて」と言ってきたのです。もちろん、仲間に入ってもらいました。

 午後7時前、従姉を乗せて自宅に着くと、母が従姉に「おまん、どうして来たが」と言いました。予想外の展開に少し驚いたのかも知れません。「おまんに会いたかったがと」と私が代わりに返事をすると母は「ほっか」と言って納得しました。

 午後7時を少しまわってから祝いの会をスタートさせました。最初はケーキです。長女が用意したケーキは、母が希望したという、濃厚でしっとりとしたチョコが入ったガトー・オ・ショコラです。  赤、緑、黄など五色のロウソクを立てた段階で、私が、「ロウソク、97本ねがろ。どうしるが」と言いました。すると、「1本で10何歳ということにすればいいんじゃない」という声が出て、みんなが笑いました。「ハッピバースデーばあちゃん」の歌を歌い終わったところで、ロウソクの炎を消すのは母の役目です。大きく息を吸って「フー」とやって、消えたのは1本だけでした。でも2回目は残りの4本をすべて消すことができ、家族や従姉から「おーっ」という驚きの声が上がりました。弱そうに見えても、母には息を吹きかけてロウソクを消す力がありました。

 ケーキを食べ終わったところで、私が事前に聞いていなかったことが行われました。母へのプレゼント贈呈です。

「はい、ばあちゃんにプレゼント……」
「なに、パンか」
「違う」
「ほしゃ、靴下か」
「違う」

 そう言って長女が袋の中から出したものは母が愛用している頭にかぶるネットでした。母は「こりゃ、いいもんくんたね」と言って大喜びしました。そして、まだ続きがありました。

「ばあちゃん、まだ入っているよ。手、入んてみない」
「なに、まだあるがか。あら、ホワホワしてる。ネコか」

 母の周りにいたみんなが、「高級の、いいもんもらったね」「かわいいね」「きれいだね」などと言い、〝思いがけない贈呈式〟が最高に盛り上がりました。

 この日はイチゴ、「越後姫」も用意されていました。甘さは抜群、大きさもイチゴの中では最大級です。誰かが、「これ高いんだよね」と言ったら、一度手をひっこめた者もいましたが、最後は手を伸ばして、「ああ美味しかった」。

 こうして母の97歳の誕生日は無事終わりました。ここまで来たら、次の目標は98歳の誕生日です。家族みんなで応援したいと思います。

  (2021年4月4日)

 
 

第651回 それ、忘れらんねな

 母が語る昔話は、私が初めて聞く「新事実」が毎回のように出てきて、引き込まれます。

 3月9日の夕方もそうでした。午後5時半過ぎ。病院での診察を終え、自宅に戻っていた母は、いつものようにコタツに入って、静かにしていました。母のしゃべりにスイッチが入ったのはテレビで放映された北極ギツネを見たときでした。

 このキツネはどこかの施設から逃亡してきた白いキツネの話ですが、母は大島区竹平の実家、「のうの」(屋号)のタケジロウさん(故人・母の祖父に当たる人)の話を始めたのです。

 タケジロウさんが足谷から旧松代町儀明にいく途中にある川上という場所で炭焼きをしていた時の話です。竹平からは数㌔離れていて遠いので、そこにカヤでふいた小さな小屋を造り、昼寝をしたり、雨風をしのいでいたりしていたということでした。

 そのタケジロウさんがある日、家に帰ろうとしたら、キツネの行列に会った。幸いだまされることなく、追い払ったというのです。母は、まるで自分が見たかのような感じで私に話してくれました。そして話の最後に母は、「それ、忘れらんねな」と言いました。

 3月20日の夕方は、9日に続いて、これまた母の実家に住んでいた頃の思い出話でした。 「のうの」のすぐ下には「あたしゃ」(屋号)という家があり、道を挟んで「おおくぼ」(屋号)という家がありました。何がきっかけだったかは思い出せませんが、母はいきなり、私に訊いてきました。

「とちゃ、『おおくぼ』のとちゃの名前ってなんだったけな」
「ユキオだと思うよ」
「ほっか。『あたしゃ』の前のブナ林の前に『おおくぼ』んちあったこて」
「わかるよ、おれも知ってるよ」
「その『おおくぼ』のとちゃがちっちぇ時、『おっかぁ、はらへったぁ』そって泣いていたがど」
「そんで……」
「おらちにオジヤあるすけ、来て食べないそったら、おらちに来て、さくさく食った。おかわりもした」
「そりゃ、喜んだろ」
「クジラでも入ってればうんめがでも、入ってなくて悪いねそったがど。そしたら、『おおくぼ』のとちゃ、入ってなくてもうんめよ、そったがど」
「……」
「『おおくぼ』のとちゃ、そんときのこと、忘れらんねかったがろな。大人になってから、『おおくぼ』んちへ行ったら、ビール飲めって言わんたがど」
「そんで、おまん、飲んだがか」
「なして、飲まれると……。飲まんねそったこて。そしたら、とちゃ、『ばかしと、 ノド乾いてるときゃ、飲めばうんめもんどい、のまっしゃい』と言ってたな。それ、忘れらんねな」

 母の話はその後も続き、「おおくぼ」のとちゃが炭鉱でケガをし、新潟大学病院に通っていたところまで広がりました。

 3月24日、この日、母が話かけてきたのは朝でした。それも、まだ夜も明けない午前5時頃です。そば寝ていた私は何事が始まったかと、びっくりしました。

「とちゃ、『いけんしりの下』(屋号)の結婚式ん時、おらとちゃ、歌ったがど。あこんちの男の兄弟しょ、三人だったかな。みんないい顔してなって、その一人が歌ったら、ほしゃおれも、ほしゃおれもと次々と歌、出たがど。それ、忘れらんねな」

 母は3月27日で満97歳になりました。「それ、忘れらんねな」で終わる話、もっともっと聴きたいものです。

     (2021年3月28日)

 
 

第650回 鵜呑み

 最初は何が起きていたのかわかりませんでした。小苗代の池の水面がざわつき、黒い鳥が激しく動いているくらいにしか見えなかったのです。

 土曜日のちょうど正午くらいでした。カメラのズームを伸ばし、池ですいすい泳いでいる鴨の姿を撮影をしているときでした。鴨のすぐそばで突然、体長70㌢ほどの黒い鳥の賑やかな動きが画面に出てきました。何か捕りものをしているように見えます。こうなったら、鴨どころではありません、黒い鳥が何をやっているのか写真に収めたいと思いました。

 大急ぎで車の中から三脚を出し、カメラを固定して撮影をしました。デジタルカメラの画面を見ると、黒い鳥のくちばしには魚が写っていました。それも、小魚ではありません。

 黒い鳥がくちばしにはさんでいたのは、30㌢ほどの大きな魚でした。魚はおそらく鯉だと思います。魚を逃がすまいとくちばしで必死になって押さえている鳥、かたや、逃げようと盛んに体を揺さぶり動かしている魚の姿がそこにありました。そして最後は、何ということでしょう、黒い鳥は大きな魚を丸ごとくちばしから喉へと呑み込んだのです。

 撮影したのはほんの1、2分です。興奮しました。カメラを三脚で固定していなかったらおそらく、すべての写真が大きくぶれたものとなったでしょう。このとき撮った写真は6、7枚です。三脚を使ったとはいえ、やはり動揺していたのでしょうね、いずれの写真も鮮明画像にはほど遠いものでした。それでも黒い鳥と魚の格闘は写真にしっかりと残っていました。

 正直言って、私は鳥のことについてはまったくの素人で、黒い鳥は鵜(う)に似ているくらいしかわかりませんでした。魚を呑み込む鵜は長良川近辺にしかいないものと勝手に思い込んでいました。だから、カメラに収めた黒い鳥が鵜であることに気づくまで時間がかかりました。

 はっきりと鵜であることがわかったのは、パソコンに画像データを映し出してから。鴨とは明らかに違う黒い体、10㌢ほどの長いくちばし、くちばしの黄色い基部を見て、これは川鵜(かわう)に間違いないと確信しました。

 そして撮った写真を時系列で並べて見たところ、魚を捕まえた時から魚の位置を直し、呑み込むところまでの過程がよくわかりました。あれよあれよと言う間に魚をまるごと呑み込んでしまう姿は強烈な印象となって残りました。言葉でなく、実際の「鵜呑み」と出合ったのは初めてでした。

 私は、子どもの頃、蛇がカエルを呑み込む様子を見たことがあります。その時の怖さはいまでも忘れることができません。今回は蛇ではなく鳥ですが、生き物を呑み込むときの怖さは共通でした。何か見てはいけないものを見てしまった気がしました。

 この日、小苗代の池で見たことを私はインターネットで発信しました。川鵜が魚を呑み込む様子を初めて見たのは私だけではありませんでした。写真を見た何人もの人が、「この写真、うのみにしていいんですか」「自分の首よりも太い魚をどうやって呑み込むの」などといったコメントを寄せてくださいました。

 初めて見た「鵜呑み」ですが、じつは、この話には続きがあるのです。呑み込もうとした魚を別の鵜が奪おうと争いを始めたのです。鳥と魚のみならず、鳥と鳥の間でも激しい生存競争があるのですね。

 近年では鵜が増えすぎて、川や池の魚類がたいへんな事態になっていることも初めて知りました。どうあれ、貴重だとかめずらしいだとか言ってばかりはいられないようです。勉強になりました。

   (2021年3月21日)

 
 

第649回 魚のような大根

 冬の晴れた日はなぜか心が騒ぎます。2月14日と21日の日曜日もそうでした。青空が広がっていく様子を窓から見ただけでも、家の中にじっとしていられません。

 14日の午前10時過ぎでした。車で出かけようと、洗車している時に隣集落のKさんのトラックがそばを通り過ぎ、畑に一番近いところで車を止めました。

 青空のもと、Kさんは近くにある畑の雪下野菜を掘りだしにやってきたのでした。いうまでもなく、畑は雪の下です。当時、畑は1㍍前後の雪におおわれていました。普通は、自分の畑がどこにあり、野菜がどこにあるか、探すだけでもたいへんです。

 Kさんは自分の畑の、野菜を残していた場所に目印の棒を立てていました。私は、急にKさんが野菜を掘り出すところを見てみたくなりました。洗浄作業を一時中断し、Kさんの畑へ行ってみました。

 Kさんは角スコを使って雪をどかしていました。私が畑に行ったときには、すでに大根を1本掘り出し、雪の上のオレンジ色の収穫コンテナに入れてありました。

 掘り出した大根は少し曲がっていて、土もかなりついていました。驚いたのは、収穫コンテナに入った大根が、いまにもコンテナから跳びはね、外に逃げ出してしまいそうな魚のように見えたことです。それほど活きのいい大根だったのです。

 畑が雪におおわれてから3か月。大根は冷たい雪に押され、じっと我慢していたにちがいありません。でも、大根は雪に負けませんでした。白い部分は三日月のように曲がってはいましたが、じつに堂々としていて、元気だったのです。葉っぱも青々していて、お日様を浴びて光っていました。

 Kさんは、「この大根、雪に押されて曲がったんだわ。黒いとこもあるけど、もったいないすけね」と言って笑っていました。包丁で切ってみれば、捨てなければならないところもあるかもしれません。それでも大事に持ち帰って食べることにしているのには理由があります。雪に耐えたことで、大根は秋取り大根とは一味違った美味しさを蓄えているからです。

 21日も晴天でした。この日の午前、私は近くの雑木林の中に入り、ヒラタケを見つけました。寒い冬の風にさらされ、ヒラタケ本体はカラカラに乾いていました。それでいながら、香りもちゃんとあります。ヒラタケ採りをしていた私は、Kさんがまた畑に行くところを見て、このときも見学させてもらおうと思いました。

 この日、Kさんは大根ではなく、白菜をねらっていました。大根やキャベツなど比較的固さがある野菜ではなく、やわらかな白菜を掘り出すと聞いて、興味津々でした。形はどうなっているか。そもそも白菜自体が重い雪の下で生き残れたかどうか。

 この日は私もスコップを持参し、手伝いました。掘り初めてまもなく、最初の白菜の姿が雪の中に見えました。さあ、どうなっているか。雪をきれいにどかしてみると、白菜はぺしゃっとつぶれていましたが、じつに青々していました。ちゃんと生きていたのです。

 その後、Kさんは、明らかに白菜とわかる形のものも掘り出しました。秋に本体をひもで縛っておいたものです。多少、形の崩れはあるものの、りっぱな白菜でした。

 Kさんは、そのうちの1個を私にプレゼントしてくれました。私は雑木林の中で採ったヒラタケの一部をKさんに渡しました。物々交換をしたわけではありません。それぞれがこの日に得ためずらしい物をおすそ分けしたのです。

 私はもらった白菜の一部を口に入れてみました。やはり、期待していた通りでした。ちょっぴり甘みがあり、冬を乗り越えたものならではの美味しさがありました。

   (2021年3月14日)

 
 

第648回 母のユーモア(2)

 2月は母の通院日が2回ありました。そのうちの1回は12日でした。この日は午前に市議会の委員会があって大忙しとなりました。

 当初の予定よりも少し遅く介護施設に到着。すぐに母を車に乗せて病院へと向かいました。

 このところ、母の通院日は必ず晴れてくれるので助かります。この日も青空が広がっていました。助手席に乗った母は、車の前方や横の景色が気になるらしく、「ここは下町か」などと声をかけてきます。

 この日は遠方の景色もよく見えました。

「とちゃ、あれ妙高山か」
「そだよ。隣りの尾神岳みたいな格好してるがは黒姫」
「そいがか。春になればウド出るだろな」
「どうだかなぁ……。でも、おまん、えらいもんだ」

 長年にわたって山菜採りをしてきた母は、山を見れば、山菜のことがまず頭に浮かぶようです。おそらく、妙高山などの山を見ただけで、母は蛍場や半入沢の山の斜面に生えているウドを思い浮かべるのでしょうね。どうあれ、まもなく97歳になろうとしているなかで、山菜への強い関心はたいしたものです。

 病院では、お世話になった元市役所職員のHさんと偶然会いました。私と母が待合室でじっとしていたら、「この方がお母さんでいなるですか」と笑顔で声をかけてくださいました。Hさんは、私の書いた本を何冊か購入してくださっていますので、母のことはよくご存じなんですね。

 さて、診察の時間です。この日は看護師さんではなく、直接、担当のお医者さんから「橋爪さん、お入りください」と声がかかりました。

 診察室では、いつものように「おばあちゃん、どこか具合悪くないですか」というお医者さんの言葉から始まりました。この日も母は、「どこも具合悪くねです」と答えていました。母は心臓病で昨年2度入院し、その後はずっと通院で診てもらい、体調を維持してきました。この日は血液検査のときに「痛い」と言ったくらいで、あとはすんなり終わりました。

 病院での診察、薬局での薬の購入を済ませて、帰りの道を走り始めてまもなく、左手に緑色をバックにした白いカタカナ文字の看板が目に入りました。母も同じように、その看板を見ていたようです。

「あの看板は店か」
「よく見えるねぇ、えらい、えらい」
「だって、おれ、目、付いているもん」
「ははは」

 この日の1週間前の眼科の検査では、母の視力は1.0と0.8で私よりも良かったのですが、それにしても歳の割に目がいいなと感心しました。そして何よりも母の返してくる言葉にユーモアがありました。

 この日は思ったよりも薬局などで時間がかかったことと、夕方に別の用事があったことから、母が入所している施設に急ぎました。私の急ぐ様子は母にも伝わったようです。

「とちゃ、きょうはナルス寄らんでとっとと帰るがか」
「時間ねえがどね」
「寄れば、買い物しちゃうもんな」

 車の中での母の言葉はストレートです。自分の思っていることをそのまま言葉にしていますが、そばで誰かが聞いていれば、おかしくて笑ってしまうでしょうね。

 病院から施設に戻ったのは、午後4時半近くになっていました。母を車から降ろして帰ろうとしたとき、「じゃ、また来るすけね」と言ったら、「おまん、どこへ行くが」。母の顔はさみしそうでしたね。私は逃げるようにして車を走らせました。

  (2021年3月7日)

 
 

第647回 春ですね

 三寒四温と言いますが、私は季節が冬から春へと大きく舵を切る日があると思っています。今年の場合、その日は2月19日でした。

 前日の18日はというと、1月7日から数日続いたどか雪の再来かと思わせるような雪の降り方で、しかも強烈な地吹雪があちこちで起こりました。私は小猿屋と東中島間、国道253号線で何度も地吹雪に襲われ、乗っていた軽乗用車をそのたびに止めました。

 さて翌19日です。午前は私の活動レポート1999号の印刷と新聞屋さんへの持ち込みでした。午後になってからは「しんぶん赤旗」日曜版の配達です。青空が見え始めて気温も上昇、気持ち良く仕事ができました。

 夕方の4時少し前だったと思います。市道代石小苗代線を通ったとき、ふと思ったのです。「そうだ、ネコヤナギが咲いているかも知れない」と。それで配達が一区切りしたところで、カンジキをはいて吉川橋から約200㍍ほどの上流の右岸にあるネコヤナギの木を目指しました。

 毎年、この場所でネコヤナギの写真を撮っていますので、どこらへんの木が早く花を咲かせるかはわかっています。木から10㍍ほどのところで、白っぽいものが枝についていることを確認しました。ネコヤナギの花穂です。やはり咲いていました。

 カメラを取り出し撮影を始めたところ、じきにエナガの群れがやってきて、ジュリ、ジュリと鳴いて、枝から枝へと飛び回りました。彼らもうれしいんでしょうね。

 吉川の流れの音に惹かれて川を見ると、川の中に倒れ込んでいるネコヤナギがあります。今冬の豪雪でやられたのでしょう。冷たい水の流れのそばで健気に花を咲かせていました。これも写真に撮りました。

 20分後、そろそろ引き上げようという段階で最高のシャッターチャンスがやってきました。私がいた場所の上空に青空が広がり始めたのです。それをバックにカメラをネコヤナギに向けました。おかげ様でネコの毛のような花穂の細かいところまで鮮明に見える写真を何枚か撮ることができました。これなら活動レポート2000号に載せるにふさわしい野の花になる。そう思うと、うれしくなりました。

 ネコヤナギは写真だけでなく、花を咲かせた枝も何本かいただいてきました。春を告げるネコヤナギの花を家族にも見てもらいたい。そう思って持ち帰ったのです。

 そしてもう一人、ネコヤナギを見てもらいたい人がいました。先日、突然亡くなったKさんです。今冬の厳しい冬を体験したKさんにも春の到来を喜んでもらいたいと思ったのです。

 夕方の時間帯ではありましたが、その日のうちにKさん宅へ行き、壇のところにネコヤナギを飾っていただきました。

「じい、橋爪さん来てくんなったよ」

 Kさんの遺影に向かって声をかけたお連れ合いは、若かりし頃、Kさんと結婚し、人生を一緒に歩むことにした理由などについて私に語ってくださいました。

「顔はね、渥美清をくずしたような顔だったけどね、手が大きかったの。この手だったら、私を守ってくれると思ったの……。いろいろあったけど、私、幸せでした」

 この言葉を聴いたら、恥ずかしくなるくらい涙がぽろぽろと出てきました。

 19日から変わった季節の流れは20日、さらに大きくなり、春一番が吹きました。私は咲いたばかりのマンサクの花を朔日峠で見つけ、これも写真に撮るとともに小枝を何本かいただいてきました。そのうちの1本は市道代石小苗代線で散歩中のMさんに分けました。Mさんは、ほほ笑んで言いました。「春ですね」と。

  (2021年2月28日)

 
 

第646回 世間は狭い

  「あひる」へはしばらく行っていないなぁ。Yさんのこの言葉を聞いてびっくりしました。1月下旬、大島区旭地区へ行った時のことです。

 食堂・喫茶「あひる」は直江津の石橋にあります。私と同じ吉川区尾神出身のS子さんが経営しているお店だということもあって、私もよく出かけます。でも、Yさんの口からその「あひる」という名前が出てくるとは……。

 その日、私はYさんに誘われ、お茶をご馳走になっていました。

 今年は、どこへ行っても1月7日からのどか雪の話になります。道路のあちこちに圧雪があり、路面はデコボコ、しかも道幅が狭くなっている。いったん車を乗り入れたらどうなるかわからない。私はどか雪が降った後、大潟区や五智、春日野、石橋などで見た状況をYさんに話しました。Yさんも通院時の大変さや体の痛みをがまんしてバックホーを使って除雪したこと、軽油が無くなって、業者の方が早く仕事を切り上げたことがあったことなどを語ってくださいました。Yさんから「あひる」の話が出たのはそのときだったと思います。

 私が「あひる」に行くようになってまもなく、S子さんからは、お店の近くには吉川区や大島区出身の人が何人もいらっしゃることを聞いていました。吉川区出身の人の家はいずれもわが家がお世話になった家です。よく知っていました。ただ大島区出身だという人の家については、私が知っている公務員の方の家だと勝手に思い込んでいました。

 実際はそうではありませんでした。大島区出身だという人の家は、なんとYさんのお連れ合い、T子さんの実家だったのです。Yさん夫婦は、田麦から石橋に移転したT子さんの実家へ行った時に、何度か「あひる」へ顔を出されていたのです。私はT子さんに向かって、「なぁーんだ、おまんちだったのかね。世間は狭いもんだね」と言いました。

 意外な事実に驚いた私でしたが、Yさんは、私が知らなかった集団移転についても語ってくださいました。

「下荒浜だったかな、あそこには田麦のしょが何軒もごそっと集団移転しなったんだわね」
「そう言えば、Kさんといったかな、20年ほど前に私の本を求めてくださったお母さんがおられて、そこの家に行ったことがあるんです」

 集団移転した何軒かの話を聞くなかで、これまで分からないでいたことが一つまたひとつとわかっていきました。

 その後、田麦の最近の出来事に話題が移り、地域の大事な人が次々と亡くなったという話になりました。

 そのうちの一人、M子さんの話になって、私が「のうの」(母の実家の屋号)で生まれたとき、M子さんが従兄の子守りに来ておられたという話もしました。そこでは、藤尾出身のF子さんが助産師の資格を取って初めてとりあげた赤ちゃんが私だったことなども話しました。すべて母などから聞いた話ですが、Yさんにとっては初めて聞く話だったようです。

 話が一区切りしたところで、Yさんは、「おまん、イノシシの肉、食べなるかね」と言い、私がうなずくと、どこかへ行かれました。行き先は台所だったようです。しばらくすると、Yさんは煮たばかりのイノシシの肉を私の前に持ってきてくださいました。肉は骨付きでしたが、驚くほど柔らかく、美味しいものでした。

 Yさん宅でお茶をご馳走になったのは初めてでした。面白いことに、話題が次々とかわっても不思議なくらい私とのかかわりが出てきました。本当に世間は狭い。 

  (2021年2月21日)

 
 

第645回 冬晴れの日に

 今回も1月下旬の火曜日の話です。この日はYさんのおもてなしのこと以外にも書きたくなる出来事がいくつもありました。

 この日、私は朝早くから車で「しんぶん赤旗」の配達に出ました。吉川区山方から原之町の住宅街に入ってまもなくでした。車の前方が真っ赤に朝焼けしていました。

 すぐにカメラを取り出して撮影を始めたのはいうまでもありません。住宅街から見る朝焼けの風景は初めてでした。電柱や電線などがありましたが生活感があり、住宅街の朝焼けも悪くないなと思いました。

 朝焼け風景は大乗寺や下町でも何枚か撮りました。うれしかったのは下町の田んぼでのことでした。なるべく尾神岳の姿も入った写真にしたいと思い、道路脇の雪の壁を乗り越え、田んぼまで下りたときでした。びっくりしましたね。長靴がまったく埋まらなかったのです。そうです、凍み渡りができたのです。

 私は下町の田んぼでも、事務所近くの代石の畑でも雪の上をどんどん歩きました。平のところであろうがへこんだところであろうが、どこを歩いても埋まらない、こんな愉快な体験が1月にできるなんて最高です。静止画像だけでなく、動画も数本撮りました。そのなかの1本には、鳥倉団地の方から小苗代方面へと飛んで行った3羽の雁の姿も入っています。

 上中旬に降ったどか雪の片付けも進み、朝から楽しいことがある、こういうときは気分が上向きです。この日は、会う人会う人、みんなうれしそうに見えました。

 この日の午前中、私は家や事務所のまわりの除雪を2時間半ほど行い、午後には一度、家に戻ろうと車をゆっくり走らせていました。すると、前方に、リュックを背負い、背筋を伸ばして歩いている男性の姿が目に入りました。そばまで行ったら、近くの集落のIさんでした。声をかけると、「ちょっとひと回りしてこようと思って……」という言葉が返ってきました。

 青空が広がっていて、暖かい。午前はガリガリに凍っていた道は緩んで歩きやすい。リュックを背負っていたところからみて、ひょっとすると10㌔㍍ほど歩く覚悟が出来ていたのかも知れません。二言三言、言葉を交わした後に、再び歩き出したIさんの後ろ姿を見てびっくりしました。10数年前に亡くなったお父さんにそっくりだったのです。

 今年は大雪だったので、わが家の除雪機の燃料である軽油はすでに60㍑以上使っていました。この日も頑張ったので、わが家にある軽油は少なくなっていました。それで、午後から原之町のガソリンスタンドへ買いに出かけました。

 お店のスタッフの方に軽油を入れていただいて、私はガソリンスタンドの事務室へ向かいました。

 ドアを開けたら、旧源中学校出身で隣の区に住んでいるAさんがイスに座り、ニコニコして私の顔を見ています。「やあ、久しぶりだね。元気かね」そう言うと、「2週間ばか、病院に入ってきたがど……」そう言って、話してくれました。

 なんでも親戚の騒ぎに出たときに体の一部に異変を感じ、手術をすることになったということでした。私は数年前に足の裏を切る手術をしたときに、麻酔が効かず、激痛が走ったという話をしたのですが、Aさんは、「おれは全身麻酔で痛くねかった」と言ってまた笑いました。まあ、元々よくしゃべる人ではありますが、この調子なら、病気は逃げていってしまいますね。

 この日は、夕方までずっと晴れでした。午後4時前に戻って、プレハブの窓際に置いていたフキノトウを見ると、夕日を受けて黄緑色の葉っぱがキラキラと輝いていました。冬はもうひと月です。

 (2021年2月14日)

 
 

第644回 おもてなしの心

 なるほど、「もてなす」ってこういうことなんですね。

 1月下旬の火曜日のことです。わが家の近くのYさんはこの日、午前からずっとスコップを持って雪どかしをしていました。家の北側の山のようになった雪を掘っていたと思ったら、午後には家の木戸先の道を広げていました。それも雪の芸術作品でもつくるのかと思うほどきれいな四角形の空間にしていたのです。

「がんばっているね」と声をかけたところ、「明後日はおふくろの月命日なんだわ。お寺さんが車で来れるようにと思って……」という答えが返ってきました。「それなら、わが家の庭の空いたところ、使って」と誘うと、Yさんは、「まあ、これだけ広げれば、車を置けるだろうし」と言いました。

 Yさんにとっては、雪でたいへんな時にお寺さんが家のそばまで車に乗って来ていただくこと自体に意味があったのです。正直言って、お寺さんを迎えるために、ここまで丁寧な対応をする人がいるとは思いませんでした。

 Yさんの「お寺さんが……」という言葉を聞いて思い出したのは、昨年の秋に聞いた「アイスクリームが好きなお寺さん」のことでした。
「じゃ、お寺さんが来なる時はアイスクリームを作るの?」
「そう、アイス作って、ストーブもつけるるんだわ」
「薪ストーブだよね」
「そう、お寺さん、薪ストーブが好きでいらっしゃるから……。暖かければ、窓を開けてでもストーブたくんさね」

 ここまで話をしたところで、私とYさんは顔と顔を合わせ、笑ってしまいました。

 お寺さんのために手づくりのアイスクリームを作るだけでも、現代的で素敵な〝おもてなし〟だと思います。それに加えて、薪ストーブならではの本来の火の暖かさを味わってもらおうというのです。それも、仮にストーブがいらないほどの暖かい部屋であったとしても、「窓を開けてストーブをたく」。ここまで徹底しているとは驚きでした。

 私は、Yさんとそのお寺さんの様子が目に浮かびました。真っ赤に燃えるストーブのそばで、アイスクリームを頑丈なスプーンで削って食べている。いいですねぇ。

 考えてみれば、昔、わが家でも同じようなことをやっていました。私が小さな頃、それも雪のある今時分だったと思います、尾神のあんじょさん(庵主様)がわが家に来られ、お経をあげてくださいました。私はあんじょさんがミカンを持ってきてくださったことが強く記憶に残っているのですが、母があんじょさんを迎えるために前日から煮物づくりなどにはまり込んでいたことも忘れられません。そして、料理のほとんどはワラで作った「つっとこ」に入れて持ち帰っていただきました。当時はそれが当たり前の〝おもてなし〟だったのです。

 Yさんと話をしていてわかったのは、心をこめてお客さんの世話をする〝おもてなしの心〟の大切さです。お母さんが亡くなった日を大切にし、お寺さんから気持ち良くお経を読んでもらいたい、その第一歩が車でやって来られるであろうお寺さんが不自由なく、Yさん宅に来られるようにすることでした。そしてお経が終わったら、昔からの暖かい火のそばでアイスクリームを食べていただく、これこそYさんらしい〝おもてなし〟だと思いました。

 この日は朝焼けがとてもきれいでした。今冬では最高に冷え込み、凍み渡りもできました。そして日中は、ばかいい天気でした。Yさんの素敵な話を聴いたこともあって、この日は身も心もあたたまりました。      

  (2021年2月7日)

 
 

第643回 いつもハツラツ

 先日、吉川区の中山間地に住むFさんを訪ねました。13年前、漬け菜汁の作り方を教えていただいた方です。

 玄関先で声をかけると、逆光で私の顔がよく見えなかったのか、Fさんは最初、「どなたですか」といった表情をされていました。「橋爪です」と名乗ると、「さあさ、入ってくんない」。前庭も家の後ろもよく除雪されていて、家の中は思っていたよりも明るくなっていました。

 茶の間に通してもらい、コタツに足を入れたところで、Fさんに言われました。

「きょうもお母さんの、読ましてもらったでね。おれ、テレビは見るでも好きでないが。目、離すと忘れるすけね……。でも文章は何回も読まれる」

 Fさんは、いま91歳。長年にわたり、付き合いをさせていただいていますが、開口一番、こんなふうに言われると、うれしいですね。

 久しぶりに会ったFさんはとても元気そうでした。

「顔の色つや、いいねかね。90超えているとはとても思わんねぇね」
「みなさん、そう言ってくんなる。やせていて、目は悪いけど、おかげ様で他はどこも悪いとこないが」
「体重、何㌔あんなるが」
「そうだこてね、38㌔くらいかな」
「そんがに少ないがかね。おらちのばちゃ、小さいけど40㌔くらいあるでね」

 髪は染めて真っ黒、顔色もいいとあって、Fさんは80代前半かと思うほど若く見えました。

 コタツにはストーブの前から省エネ温風パイプが設置されていて、コタツの内部はあっちっちでした。足を引っ込め、お茶と皮をむいたクリをご馳走になりながら、話をしました。

「そう言えば、ずっと前に漬け菜汁のこと教えてくんなったこてね。いまも何か漬けてなるが」
「いま、いろっぱす悪くなったでも白菜の漬けたのがある。塩吹き昆布をはさんで漬けてるの」
「そりゃ、うまそうだね」
「コンニャクも作ってる」
「えらいもんだね、おらちのばちゃも、いまはダメだでも、92歳頃までコンニャク作ったり、赤飯作ってた」

 食べ物の話はどこまでも続きます。

 Fさんは、10数年前にお連れ合いを亡くされてから独り暮らしですが、いまも山間部の集落からHさんが時どき、車に乗せてもらい、やってきて、2時間くらい一緒に過ごしていかれるそうです。

「年とったら、後片付け、やになったでも、人が来るとなれば片付ける。だから人が来てくんなるとうれしい」
「そりゃ、いいね」
「隣のしょもよく来てくんなるすけ、助かるわね。人様に助けてもらって生きている。感謝、感謝です」

 Fさんは家にいて人を待つだけでなく、外へも積極的に出かけます。

「Sさんとこへ、ガス代と灯油代、ひと月に1回払いに行き、そこで1円玉までかんじょしてくんがです」

 驚きましたね。Fさんは、わざわざ原之町までバスに乗って出かけ、支払いをされていたのです。集金に来てもらえばいいのにと思われるでしょう。でもFさんは頭や体の動きを活発化させようと意識して生活されているのです。

 お連れ合いに続いて、息子さんまで亡くされたFさんですが、いつもハツラツとされています。茶の間から見えた屋根下の雪のことを話題にしたら、「少しは動いて、スコップでつっつけばいいがでもね」ですって。すごいと思いました。
   (2021年1月31日)

 

第642回 母のユーモア

 ひと月に最低1回はある母の通院日。ここ数カ月は、介護施設から病院へ通ってきました。毎回、ほぼ同じことの繰り返しなのですが、必ず何らかの変化があったり、発見があったりします。

 つい先だっての通院日。毎週発行している活動レポートの原稿の手直し、印刷作業を終わらせ、時計を見たら午前11時半を回っていました。大急ぎで母の入所している介護施設に向かいました。

 通院日の数日前にはどか雪が降りましたので、いつもよりも1時間ほど早く母を迎えに行きました。母とは正月の一時帰宅以来、十数日ぶりで会ったのですが、私の顔を見るなり、「なんだ、とちゃか」。私の顔を見て大喜びするに違いない、そう思っていただけに、ちょっと拍子抜けしました。でも、元気でホッとしました。

 病院に行くまでの途中、上沼道が使えなかったのは誤算でしたが、道路の路面などの状況は良好で、回り道をしてもそう時間は変わりませんでした。

 病院へは予定よりも1時間早く着く見通しとなったので、病院の近くのスーパーに入りました。いつも診察を終え、帰りに買い物で寄っていたのですが、この日は順番が逆になりました。

 駐車場に車を止め、店内に入ったのは、いうまでもなく私一人だけです。母の好きな稲荷寿司だけでもよかったのですが、店内に入ったら、キンカン、デコポンが目に留まりました。母が見たら喜ぶに違いないと思ったのです。これらも購入しました。

 車に戻って、「おまん、昼、何、ごっつおになったね」と母に訊くと、「カレー」と答えました。となれば、「いらん」と言うかも知れなかったのですが、購入した稲荷寿司を見せると、ひとつだけ、手を伸ばしました。やはり母の好物ですね。

 稲荷寿司を食べたあとは、恒例となっている弟たちとのテレビ電話を楽しみました。この日は、愛知県で喫茶店を経営している弟がお客さんたちにもスマホ画面を見せました。弟のスマホ画面で私や母の顔が見えたのでしょう、「おー、似ているね」「これがお母さんか。元気でね」などといった声が聞こえてきました。

 病院では、看護師さんが血圧などを測定した後、いつものお医者さんが聴診器を使って診てくださいました。「おばあちゃん、どこか悪くないですか」という質問に母は、「どこも悪くねです」と答えたので、お医者さんは笑顔になりました。

 お医者さんは「おばあちゃん、その後、体調はいかがですか」という意味で質問されたので、母の回答は間違っているわけではありません。でも、悪いところがあるから通院しているのです。そばで聞いていた私も、「どこも悪くねです」には笑ってしまいました。この日、お医者さんは母について、「顔が少し小さくなった感じがしますね」と言われました。何でも食べますが、食は細くなったのかも知れません。

 診察は5分くらいで終わり、その後、薬局に寄って薬を出してもらいました。こちらの方は20分ほどかかりました。

 病院への行き帰り、母が目を覚ましていたのはキンカンを食べた時だけ、今回もほとんど眠っていました。「おまん、ねぶってがか」と聞くと、「ねぶってくなんかねぇよ。おれの顔がねぶってだけだ」。

 この言葉を聞いたとき、十数年前に入院している父を母と共に見舞ったときの父と母のやりとりを思い出しました。父はベッドから母の顔を見上げ、「かちゃ、もっと目を開けろ」と言い、それにたいして母は、「おれの目は元々細いがどね」と言ったのでした。「どこも悪くね」「おれの顔がねぶってだけだ」を聞き、母のユーモアは、まだ健在だと思いました。  

  (2021年1月24日)

 
 

第641回 道つけ

 もう2度と道つけをすることはないだろうと思っていました。それが今回の豪雪で、それこそ数十年ぶりにカンジキをはき、道つけをすることになりました。

 道つけをすることになったのは、災害救助法が適用された翌日、11日のことです。前日から、わが家の除雪機は故障していて、この日は除雪機を修理してくださる人が来られる予定でした。故障した除雪機がある場所の近くの道には前日からの雪が60㌢ほど積もっていて、車は入って来られません。ならば、修理に来る人が難儀しないですむようにと、除雪してある道までの約200㍍を道つけすることにしました。

 最初は、左右の足で交互に踏み固める昔ながらの方法で進みました。でも、60㌢の雪は70代の人間にはきつく、10㍍ほどでこの方法はあきらめました。

 それ以降は左足で3回、右足で3回踏んで進む方法に切り替えました。こちらの方が楽に思えたからです。5㍍ほど進んで一息入れ、また前に進む、それをずっと繰り返しました。ただ、この方法でも疲れはすぐにきて、つらかったです。

 30㍍ほど進んだところからは杉林沿いの道となります。そこでは杉の木から落ちた雪で固くなっているところもあれば、月面クレーターのように大きなへこみができているところもありました。私は杉の木からの白いバクダンに直撃されないよう注意しながら進みました。

 全体の半分、約100㍍まで進んで、左前方の空から「ケェーッ、ケェーッ」という鳥の鳴き声がしました。雁行です。きれいな「くの字」になって飛び去っていきました。雪がちらちら降ってはいましたが、雁たちは雪に負けずに飛行を続けているんですね。この日は道つけをしているときに3回も雁行と出合いました。もっとも後の2回は5、6羽の飛行で、最初のような「くの字」ではありませんでしたが……。

 左右に田んぼが見える場所まで行き、少し明るくなったなと思ったら、雲の切れ目からちょっとだけお日様が顔を見せてくれました。そのバックには青空も見えます。冬の青空は希望です。ホッとしました。

 道つけは、尾神岳のふもと、蛍場に住んでいた子どもの時分、朝の仕事の1つでした。小屋や納屋に行く道、わが家から集落の中を通る道につなぐ道など、何十回となくやってきました。それはさほど苦痛ではなく、むしろ、家族の中での自分の役割を発揮できた喜びを感じたものです。

 でも今回はそうした懐かしい思い出にひたる余裕はまったくなく、汗をかき、山登りで急な坂道を登ったときのような疲れを感じました。

 疲れると、どこまで進んだかがとても気になります。踏み固めた道を振り返り、そして前方を見る。「まだ、こんなにあるのか」。先がいやに遠く感じられました。

 たいへんさを意識しはじめ、下を向いて踏み固めていると、雪道はどうしても右や左に曲がってしまいます。私が踏み固めた道はなかなかまっすぐにはなりません。酔っ払いが歩いた道のように見えました。

 今回の道つけ、長さは200㍍ほどですから、そう時間はかからないだろうと思っていましたが、甘かったですね。所要時間は、何と1時間もかかりました。

 数十年ぶりの道つけをするまでは、正直言って、カンジキをはいた道つけがこんなにもたいへんな作業だとは思いませんでした。そのことに気づいたとき、蛍場から半入沢入り口までの約500㍍を道つけしてくれた母や蛍場の母ちゃんたちへの感謝の気持ちで胸が一杯になりました。

 サクラサワ、ヒガシ、オオヒガシ、イドンシリ、ムコウ、カミ、オオニシのかあちゃんたち、ありがとねぇ~。

 (2021年1月17日)

 
 

第640回 春になったら(2)

‎ 大晦日、母が介護施設からわが家に帰ってきました。前回が11月の上旬でしたから、50数日ぶりの帰宅です。

 送ってきてくださったケアマネのMさんによると、母はその前の晩、眠れなかったようだとのことでした。母に聞くと、「体の調子悪くて、眠らんねかったがど。神様、ねーらしてくんなさい、と手を合わせたけどダメだった」と答えました。

 そのせいもあったのでしょうか、帰ってきた母は、これまでになくテンションが高くなっていました。

‎「きょうは31日の年越しだ」
「よくわかるねぇ」
「そりゃ、わかるこて。‎‎ゼンメの煮しめとササギの煮たが、頼んでおいたがだでもなぁ」

 母が頼んだと思っている人は、たぶん、施設で料理を担当されているスタッフの方なのでしょう。実際はありえない話です。母の頭の中は賑やかになっているなと思いました。それを裏付けるように、雪が降る時期だというのに、イネの話もしました。

「とちゃ、はさイネどうしんが」
「イネなんかねぇよ」
「ほしゃいかった。人目わりいと思った」

 わが家は元々稲作農家でした。牛飼いもしていたのでワラ集めも忙しく、地域ではイネの収穫作業が遅い農家の1つでした。母の頭には、そのことがしっかり記憶されているんですね。

 今回の帰宅でも母は、離れて暮らしている私の弟たちやイトコなどとスマートフォンを使ってテレビ電話をしました。弟たちからは「かちゃ、きょうは家か。いかったねぇ」と言われ、ニコニコ顔でした。

 母はイトコたちの顔も声もしっかり覚えています。今回、初めてテレビ電話した習志野市のイトコがスマホの画面に登場すると、「エツオちゃんか、元気かね」と声をかけました。亡くなった叔父そっくりの眉毛としゃべりに母はうれしそうでした。

 ‎‎高崎市のイトコは80代の半ばです。これまで2人は何度も電話しています。

「ヨウコさん、おまさん、頭、白くなんなったでもきれいど。こんだ、コゴメやるでね」

 母の言葉に気をよくしたイトコは、「もう5年頑張ろうと思ったけど、10年にするわ」と言いました。

 高崎のイトコとの電話が終わってすぐに、母は電動イスのスイッチを入れ、イスを上げ始めました。

「トイレか」
「なして、コゴメ、採りに行くがど」
「雪、あるすけ、行かんねよ」
「ほっか、‎‎‎春になったら、コゴメ採りでも、笹採りでもなんでもするよ」

 高崎のイトコとの電話で母は、明確な目標を持ったようです。母は車イス生活ですが、頭の中では、母の体は自由に動きます。その後、料理の話もしました。

「とちゃ、おらちの餅焼く炭、どこ」
「とちゃ、赤飯、ふかそうか」

 母は昼食後もテレビ電話をしました。名古屋市に住むひ孫のリョウ君は五歳。母は「リョウちゃん、ヨオー」と声をかけ、顔をスマホの画面に近づけたり、遠ざけたりして遊び相手をしていました。上手なもんです。電話が終わったら私に言いました。

「リョウちゃん、いい子になったなぁ。しっかりしてる。ありゃ、学校できるど、きっと。ミカン2つ、やればいかったなぁ。‎‎こんだ、山菜も採ってきて、うんまいもん、買ってきてやろ」

 今年の冬は雪が多く、春の訪れはいつもよりも遅くなるかも知れません。春になったら、母をコゴメが採れる場所へ必ず連れて行ってやりたいと思います。コゴメの香りをかげば、また元気が出るはずです。

  (2021年1月10日)

 
 

第639回 大根穴

 いまも床下の穴蔵(あなぐら)を使っていらっしゃる家があるんですね。先日、大島区のT子さん宅でお茶をご馳走になった際、知りました。

 話し始めてじきにT子さんが「大根穴に入れとけば……」という話をされました。私は「芋蔵」とか「穴蔵」という言葉は知っていましたが、「大根穴」は初めて出合った言葉です。すぐに、「大根穴、そう言うがですか」と聞き直しました。

 間違いありませんでした。「大根穴」と言うのだそうです。私が知っている「芋蔵」は、床下に穴を掘って芋類などを冬季間保存する場所です。それと同じものなのかどうか知りたくなりました。

 T子さん宅にある「大根穴」は台所にありました。縦60㌢、横90㌢、深さは1㍍ほどの大きさです。ここには大根だけでなく、ニンジンやゴボウ、ヤツガシラなどが入れてありました。いずれもビニール袋やポリの桶の中に入れて、しまってありました。私の知っている「穴蔵」と構造は基本的に一緒でした。台所の他にも「穴蔵」があるらしく、T子さんは「昔の知恵だじゃねぇ。外に出ねでいいすけ、楽だわね」と言っておられました。

 ヤーコンやカボチャ料理をいただきながら、T子さんとお茶飲みをしてわかったのは、T子さん宅では、「昔の知恵と暮らし」をしっかり引き継ぎ、「今の知恵」も活かした暮らし方をされているということでした。

 私の正面には昔からの食器棚が置いてありました。いまの食器棚ならガラス戸がはめられていて、中に何が入っているか見えます。しかし、M子さん宅の食器棚は木製の戸です。中はまったく見えません。

「ガラス戸の方が便利なのはわかっているけど、木の戸の方が落ち着くんですよね」

 近くにある「ジョウヨウバシラ」(大黒柱)についても話が広がりました。

「昔はヌカガマのけぶで柱、真っ黒になったこてね。それを包丁で削ると、肌の赤が出た。若い頃は嫌だったけど、これも、いまは落ち着くんだよね。旅に出たしょなんかは、ジョウヨウバシラ見て、抱きつく人もいなる」

 私も似た体験がありますから、こういう話はよく理解できます。

 先ほど「今の知恵」と書きましたが、この日は、ヤーコンやカボチャんの他にもご馳走になったものがありました。「これ、やわらかいすけ、食べてみてくんない」 そう言って、出された干し芋です。干し芋と言えば、茨城産が有名ですが、T子さん宅では自分の家で作っておられました。

 T子さんによれば、干し芋を作る方法は2つ。その1つは、石油ストーブの前に切った芋を置いて乾かす方法で、出来上がりまでには2、3日かかるといいます。いま1つは、ストーブの熱をコタツに引き込む筒先に置く方法です。こちらの方が出来上がるまでの時間が早いとか。確かに、こういうのは昔はありませんでしたね。

 T子さんとの話は、この日、30分以上にも及びました。考えてみれば、T子さんとはかなり前からの知り合いですが、一緒にお茶を飲んだのは初めてです。とてもいい時間を過ごさせてもらいました。

 帰りしなに、食器棚の隣を見たら、どこかで見たことのある大きなポスターが貼ってありました。真ん中には「おらちの『ごっつお』、めしあがれ」と白抜きの文字。上越市のポスターです。

 ポスター写真、大きな囲炉裏を囲んで親子4人が笑顔で食事をしています。そして大きなシャモジで湯気の立った煮物を茶碗によそっているのはT子さん本人でした。

 新年は、旅に出ているしょとも一緒に「ごっつお」を食べられる年にしたい。  
   (2021年1月3日)

 
 

第638回 カレーの匂い

 上越市には、意外と知られていない素敵な風景があります。それはカレーの匂いの風景です。歩いているときは勿論、窓を開けていれば、家の中にも入ってきます。

 火曜日の午後3時過ぎのことでした。市役所での仕事が一段落し、家に戻ろうとしたときです。東口玄関から駐車場へつながる階段で、カレー粉だとはっきりわかる匂いがただよってきました。

 匂いは見えるはずがないのに、私はすぐに空を見上げました。駐車場のそばの木の上の方から匂いが舞い降りてくるように思えたのです。

 匂いの出どころは、上越市寺にあるエスビーガーリック食品㈱高田工場です。詳しいことはわかりませんが、たぶん、同社の赤缶カレー粉を製造している日に風に乗って、風下の方に匂いがただようのだと思います。

 ここのカレー粉の匂いのことを初めて知ったのは、15年前、上越市役所に通い始めてまもなくでした。大日付近を車で走っていたときに突然、車の中に入り込んできたのです。びっくりしました。匂いはすぐにわかりました。子どもの頃から知っている大好きな匂いだったからです。

 申し訳ないことですが、私はその時までエスビーガーリックの工場が上越市にあることを知りませんでした。カレー粉の匂いがただようことを知った私は、その後も年に2回や3回はカレー粉の匂いがただようなかを歩いたり、車で移動したりしています。風の状態によりけりなのでしょうが、遠いところでは直江津の石橋付近で匂いを感じたこともありました。

 私がカレー粉の匂いと出合ったのは、わが家が吉川区の尾神にあったころ、それも1950年代です。もちろん、私は子どもで、小学校に通い始めた頃だと思います。

 母が流し(台所)でカレーを作るときには、必ずと言ってよいほどカレー粉の匂いが居間の中までただよってきました。

 当時、いまのような固形のカレールーはなく、赤い缶の中に入ったエスビーガーリックのカレー粉はカレーづくりに欠かせないものでした。母はフライパンで小麦粉を炒め、カレー粉をねり合わせてカレールーを作っていました。この段階でもう匂いはふわふわと私たち兄弟のいるところに届いていました。カレールーができると、それにサバの缶詰、鍋で煮たニンジンなどを入れて出来上がりでした。

 わが家でカレーの中に肉が入ったのは、当時、年に1、2回です。年の暮れに祖父、音治郎がニワトリを1羽しめて肉にしたときと、わなをかけて捕ったウサギの肉を手に入れたときくらいでした。

 母が作ったライスカレーは、私も弟たちも大好きでした。ただ、カレーが入った鍋はそう大きくはありませんでした。カレーがすっかりなくなると、私たちは皿についたカレーを舌できれいになめていました。

 最近、調べてわかったことですが、わが家にもあったエスビーガーリックの赤缶カレー粉の製造開始は1950年です。いまから、70年前です。そして、「とろけるカレー」のような固形ルーが発売されるようになったのは1960年代です。だから、赤缶カレー粉の全盛時代は10年から15年間くらいだったと思います。

 ライスカレーは母の得意料理の1つでした。イトコたちがお盆泊まりにやってくると、母は必ず一度はライスカレーを作ってふるまっていました。

 市役所駐車場でカレー粉の匂いがただよってきたときに思い出したのは母のことです。数日前に会ったばかりなのに、なぜかまた会いたくなりました。この日は介護施設で窓越しの面会でしたが、母は笑みを浮かべ、盛んに手を振ってくれました。

  (2020年12月27日)

 

 

第637回 一枚の写真から

 季節は冬。コタツの中に潜り込んだ小さな男の子と女の子が身を乗り出してテレビを見ている。テレビは背もたれのある椅子の上に置いてあって、縦30㌢、横40㌢、奥行きが30㌢ほどの箱型だ。二人が見ているテレビには、回すとガチャガチャと音がするチャンネルとボリューム用だろうか、チャンネルとほぼ同じ大きさのダイヤルが並んでついている。

 先日、大潟区に住む弟から、「これ持っていってくんない」と渡されたのがこの写真でした。写真は、いまから30数年前のわが家の茶の間の風景で、コタツに入ってテレビを見ているのはわが家の子どもたちです。当時、わが家は吉川区の山間部、尾神にありました。

 写真の状況から判断して、撮ったのはおそらく私だと思います。でも、不思議なことに、私の記憶には残っていません。

 写真に写っているのは、当時、どこの家でもあった懐かしい光景です。これなら同時代を生きた人たちから喜んでもらえるかも知れない、そう思ってインターネットで発信しました。すると、うれしいことにいくつものコメントが寄せられました。

 柿崎区のMさんは、「この写真細かいところまで暖かいです。まず、体は、暖かいこたつで暖をとっているけど、身をのり出してテレビに釘付け。子供の手首のふくやかさ。座布団の柄。テレビの下のおもちゃ2つ。3才位ですかね」と書いてくださいました。細かいところまでよく見てくださるものだと感心しました。

 このコメントを読んでから、写真を拡大して見たところ、長男の右手がふっくらしているところや、テレビに集中した子どもたちの視線もよく見えてきました。

 この時代、テレビの人気は絶大でした。福井県のIさんは、「懐かしい!じっと見つめるお二人、テレビが楽しみな時代でした」と書き、三重県のHさんもまた、「寒い中、二人でコタツに潜り込みテレビを見る。仲良くいいですね、テレビもなつかしい」と書いてくださいました。

 写真には、茶の間と座敷を仕切る板戸も写っていました。子どもたちやテレビのほかに、この戸にも多くの人から注目していただきました。

 高田に住む大先輩のHさんは、「私は漆塗りの板戸に目が行きました。昔の家はみんなこんな感じでしたね」とひと言寄せてくださいました。

 私よりも20歳ほど若いSさんもそうです。テレビのチャンネルとともに板戸にも目が行ったようです。
「チャンネルのダイヤル式テレビ懐かしいですね。小学校から帰ると宇宙戦艦ヤマト見て、そのあと祖父母と一緒に大相撲見ていたことを思い出します。襖の板戸もいいですね。昔の我が家もそうでした。いい写真ですね。昔を思い出します」

 写真に写っている板戸、わが家ではいまも現役です。当時と同じく居間と座敷を仕切る役目をしっかり果たしています。30数年経っていますから、塗りがはげたり、一部が割れたりしていますが、落ち着きがあって、ホッとする雰囲気をかもし出しているところは昔も今も同じです。

 板が割れたのは、兄弟げんかをしたときか、それとも相撲を取った時か。祖父、音治郎は私たち兄弟の相撲の相手にもなってくれました。いろんな思い出がこの戸の割れ目に詰まっています。

 この原稿を書きはじめたら初雪が降ってきました。コタツもストーブも本領発揮のときです。でも、今年の冬は新型コロナの影響で愛知県に住む次男夫婦も孫も帰省しません。来れば、30数年前と同じように、コタツにもぐり、テレビを見る孫の姿を撮ることができるのですが……。   

  (2020年12月20日)

 
 

第636回 小春日和

 12月の最初の日曜日は朝から青空が広がりました。ブログを書き終えてから、近くの農道へ行きました。素敵な景色が見られる、そんな予感がしたのです。

 私が歩く農道は区内の小苗代から下中条につながる道で、幅は約3㍍、東南から北西方向に伸びています。そこでは、米山さんの姿がよく見えるのが魅力の1つ。そして、舗装してありませんので、春から冬間近まで様々な野の花と出合うこともできる。それも魅力です。そんなわけで私にとっては最高の散歩道となっています。

 この日、散歩を始めたのは午前9時少し前でした。歩き始めてすぐに、背中がポッポとしてきて、とても気持ち良くなりました。朝日が背中に当たり、暖めてくれるのです。12月だというのに、陽に当たっただけでこんなに暖まるとは……。お日様の力はすごいですね。

 空を見上げると、鳥がはばたいているような形をした薄い雲が何重にもなって広がっていました。

 背中を暖めてもらいながらゆっくり歩いて2分ほど経つと、米山さんの山の形がよく見えるところに着きます。山頂付近には先日降った雪が残っています。この日は山頂上空に白い雲が少し流れていて、その他は青空、まさに絶景となっていました。

 農道は一部に緩やかなカーブがあるほかはほぼ直線といった感じなのですが、途中から東側と北側へ行く道に分離します。その分離したところを東側に進むと、日当たりの良い場所があります。ひょっとすれば春の花、オオイヌノフグリが咲いているかも知れないと思いながら、歩くスピードをさらに落とし、花を探し続けました。

 探し続けて数分後のことです。もう見つからないだろうと諦めかけていたところで、目の前を何かがスッと移動しました。びっくりしましたね、それはバッタだったのです。体長は3㌢ほどで、触角はぴんと伸ばしたまま、右と左の前脚を交互にぐるぐる回しながら動いていました。

 それからは、野の花だけでなく、昆虫も意識して探しました。思っていた通り、いましたよ。バッタは1匹でしたが、そのほかにも小さなクモが植物の葉の陰に隠れたり、よそに移ったりしていました。さらに、チョウの姿も確認できましたし、赤とんぼ2匹が空中でぶつかり合っている場面にも出合いました。

 チョウはその色と模様から見てキタテハだと思います。越冬中の多くの昆虫たちが姿を見せたのは、暖かい日差しで春になったと勘違いしたのかも知れません。

 さて、野の花です。先日、別の農道で出合ったオオイヌノフグリの青い花、この散歩道では残念ながら見つけることができませんでした。そのかわり、12月になっても頑張って咲いている夏場の花をいくつも見つけました。

 最初に見つけたのはハルジオンです。花弁は千切れてはいるものの、鮮やかなピンク色でした。その花のそばにはいくつもつぼみがありました。ということは、まだ咲くということです。すごいですね。こうなったら、残りの花が咲くまで雪には遠慮してもらいたいものです。

 続いて、赤いイヌタデ、紫色のトキワハゼ、白い花を咲かせたハキダメギクを道端で見つけることが出来ました。それだけじゃありません、アキノキリンソウも1本残っていましたし、紫色のスミレも数か所で咲いていました。12月初旬にもなって、これほどの野の花を見つけたのは初めてです。

 小春日和。暖かな陽射しのなかで植物が花を咲かせたり、昆虫が眠りから目を覚ましたり……。人間だってうきうきするのは当たり前です。

  (2020年12月13日)

 
 

第635回 通院の日に

 11月は母を病院へ連れて行った日が3回ありました。母は介護施設に入所していますので、通院の日の母と一緒の時間は、同じ空間で過ごす至福の時間です。

 母の通院に要する時間は、介護施設と病院の往復を含め、短くて2時間半、長ければ3時間半かかります。

  介護施設で母を車に乗せ、病院へ行って診察してもらう。終わってから、また施設に戻る。この間に介護施設の人たち、病院のスタッフの人たちなどと接することになりますが、この3時間前後の時間帯でも様々なエピソードが生まれます。

 先日の午後、母を迎えに行った介護施設でのこと。玄関先まで母を乗せた車イスを押して来たスタッフの女性が私に声をかけてくださいました。

「おかあさん、いつも、『ありがとね』と言って手を合わせてくださるんですよ」 
 母がわが家でヘルパーさんたちにお世話になっていたときも何度か母の「ありがとね」を聞いていましたが、施設のスタッフの方からそう言ってもらうと、こちらもうれしくなります。

 声をかけてくださったこの女性は大島区の出身だということでした。以前、ゆきぐに森林組合の仕事をされていて、母の実家についてもよくご存じでした。

「英一さんにもお世話になりました」

 そう言われた時、母はニコニコしていました。ひょっとすると、このスタッフとの会話が母にも聞こえたのかも知れません。

 母が病院へ行くのは、いくつかの病気の診察、検査があるからです。薬を出してもらうためにも病院へ行かねばなりません。

 この日は予約した時間の10分前に病院に到着。受付を済ませ、診察室の前の待合所にいると、看護師さんがやってきて、母の右手指先の1つを小さな医療器具ではさみ、酸素濃度や脈拍数などを調べました。

「はい、調べますよ。痛くないですか」
「痛い!」
 「いつからですか」
「へさだな」

 母の受け答えは、ぶっきらぼうに思えるかも知れませんが、実際は声は小さく、方言丸出しです。「へさだな」は「ずいぶん前からです」という意味です。

 看護師さんは血圧の測定もしました。その途中でのこと、母は看護師さんにまた訊(き)かれました。
「どこか悪いところないですか」
「ないです」

 これには笑ってしまいました。確かに頭が痛いわけでも、熱があるわけでもありませんが、いやに自信を持って「ないです」と答えていたからです。

 診察室では、担当のお医者さんから体調だけでなく、食事の状況なども訊かれました。診察結果はまずまずでした。

 そして、診察が終わって会計の場所へ移動する時のことです。母の前方から歩いてきた若い看護師さんが急にしゃがんで、 「まあ、かわいい」  と言ったのです。

 一瞬、何が起きたのかわかりませんでしたが、母はその看護師さんの顔を見た瞬間に笑顔になったのでした。  ここ数年、母は若い女性を見るとうれしくなって、「あんた、きれいでいなったですね」などという言葉が自然と出ます。この日は言葉こそ出なかったものの、同じ思いだったのでしょう。その母の表情を見て、看護師さんが思わず「かわいい」と言ったんですね。

 最近、病院への行き帰りの際、母はほとんど何も言いません。でも、この日は違いました。親戚の家のことなどたっぷり語りました。そして話の最後は、また、「とちゃ、寿司食ってこさ」でした。  

  (2020年12月6日)

 
 

第634回 六十数年ぶりの訪問

 元教員の古澤さんが60数年前に泊めてもらった家にお礼の言葉を述べに行くという当日のことです。

 朝9時過ぎに電話をすると古澤さんは、「数日前からわくわくしてたんですよ」と言われました。60数年前にお世話になりながらお礼をしないでいた家に行く、それが古澤さんにとってどんなに重要なことだったのか、そのひと言でわかりました。

 古澤さんが泊めてもらったという家については、バス停から坂道を歩いたということをヒントに、その家の98歳のMさんに確かめてありました。それでも、間違いがないかちょっぴり不安もありました。

 午後1時20分。頸北観光バスの山直海線、村屋のバス停で古澤さんと合流した私は、一緒にMさん宅の木戸先の坂道を歩きはじめました。坂の途中で古澤さんは、「間違いありません、このお宅です。屋根の大きな、りっぱなお家でした」と言われました。古澤さんは玄関の近くに行っても、すぐには入られませんでした。家の周りの景色を見て、確かめ、思い出されたことがあったのでしょう。

 玄関に入ってから、古澤さんはすぐNさんやお連れ合いのTさん、そしてMさんに「60数年前にお世話になった古澤です」と挨拶をされました。少し緊張した雰囲気が漂っていて、私自身も無意識のうちに気持ちが引き締まりました。

 私たちが案内された応接間は仏間の隣にあります。近世に描かれた墨絵や書が置かれていて、しだれ桜をイメージして作成された奥田広美さんの「押し花」作品も飾ってありました。

 応接間に入った古澤さんは持参された品をMさんに出されました。まず縦30㌢、横25㌢ほどの大きさの箱をひとつ。中身は内緒です。そして、びっくりしましたね、古澤さんはこの日のために、手づくりのソックスカバー、さらに筆で書かれた手紙まで用意されていたのです。

 プレゼントを出した後、古澤さんは、前庭に近い廊下を見て、「この廊下、覚えています」と言われました。60数年前のことでも、同じ空間に立てば、人間の記憶は1つひとつ呼び戻されるのでしょうね。

 さて、この日を待っていたのは古澤さんだけではありませんでした。Mさん一家もまた、楽しみにしておられたのです。特にMさんは、栗の渋皮煮を用意していてくださいました。私も2個いただきましたが、甘くて、高級感のある食べ物でした。

 お茶をいただく時、テーブルの上に縦長の小さな写真が出されました。Nさんたちが半日かけて探し出してくださったというMさんのお連れ合い、シュウイチさん(故人)の写真です。古澤さんは、「この方です、声をかけてくださったのは。間違いありません」と言われました。

 写真の中でシュウイチさんが着ていたのは礼服です。「写真は祝言のときみたいですね」と言うと、Mさんはニコニコしながら「皿踊りが得意だったんです」と言われました。写真をじっと見ていたら、シュウイチさんが皿を持ち、カシャ、カシャと踊る様子が目に浮かびました。

 60数年前に古澤さんが泊めていただいたという日。Mさんは浦川原区小谷島の実家へ行って留守だったということでした。ですから、シュウイチさんの母親のRさんが夜と朝の食事の用意をされたようです。Mさんは古澤さんが泊まったことを後日、シュウイチさんから聞いたということもわかりました。

 60数年ぶりの訪問。話は弾みました。古澤さんに「わが家に泊まって」と勧めたシュウイチさんは当時30代後半で、川谷と源の中学校で英語と数学を教えていたとか。話はなかなか尽きませんでした。  

   (2020年11月29日)

 
 

第633回 十三年ぶりの電話

 もう2度と言葉を交わすことができないだろうと諦めていたKさんと数日前、連絡が取れ、13年ぶりに話をすることが出来ました。

 きっかけは、今回も高田のMさんでした。Mさんは太極拳をやっていて、最近、新潟市で検定をうけてきたとのことですが、その際、知りあった女性が何とKさんだったのです。

 Kさんは私の大学時代からの友人だった日本画家・風岡準仙さんのパートナーでした。Mさんと話をするなかで、「上越の市議会議員で知っている人がいる」と言って私の名前を出し、風岡さんが死の直前まで私と交流があったことなどを熱く語ってくださったということです。

 風岡さんは13年前の4月に亡くなっています。私は彼の葬儀、初七日法要に出させてもらいました。そこらへんの一連の動きや私の想いなどは私のブログ(日記)、「ホーセの見てある記」に書いたのですが、その後、Kさんの携帯に電話をしたものの、つながりませんでした。

 私は、「Kさんは私とは話したくないのかも知れない」と思い、その後、電話をかけなかったのです。当時書いたブログも2度と読むことはありませんでした。

 新潟市へ行ったMさんから話を聞いて、私はうれしくなりました。私の勘違いだったことがわかったからです。すぐにKさんに電話しました。でも、そのときもつながりませんでした。

 その六日後、土曜日のことです、私の携帯電話が鳴りました。画面表示を見たところ、Kさんからです。うれしいと言ったらよいのか、ホッとしたと言ったらいいのか、心がじわーっと熱くなりました。

 Kさんによると、普段、携帯電話は使っていないとのことでした。たまたま携帯電話の着信履歴を見たところ、私の名前を確認し、電話をかけてきてくれたのでした。

 13年ぶりにつながった電話で、私は、「あれから電話をかけたんですが、つながりませんでした。風岡のことはブログにも書いたし、ホームページで彼の作品と名前を残したかったし……」と言いました。そして、13年前の4月、風岡さんについて書いたブログの日付も伝えました。

 13年前のことでいまでも鮮明に記憶していることがあります。それは、風岡さんがモルヒネを打たれる前に、私と話をしたいと電話をかけてきた時のことです。私は朝食も食べずに着の身着のまま軽乗用車に乗って高速道路を飛ばし、新潟のがんセンターへ行きました。

 ブログでは、「病室では、風岡さんとお連れ合いが待っていてくれました。昨夜は痛くて眠れなかったのでしょう、いくぶん疲れた目でしたが、私を見てくれています。『来たぞ。間に合ってよかった』と言いながら、彼の手をギュッと握りしめ、再会を喜び合いました。お連れ合いの話では、私が来るというので、モルヒネは待ってもらったということでした」(2007年4月18日)などと書いています。

 Kさんは、その後、13年前の私のブログを読み、「当時のことを思い出して、涙が出ました。高速でやってきてくださって、1日、彼のそばにいてくださった」と語ってくださいました。そして、私のホームページに掲載した「風岡準仙作品集」については、「がんセンターの主治医の竹之内先生が風岡の死後、風岡の名前を検索したら、私のホームページの1件だけがヒットしたとのことでした」とも。

 人間関係というのはちょっとした勘違いで壊れたり、おかしくなったりすることがあります。でも、今回、人のつながりのなかで修復されることがあることも体験しました。改めて高田のMさんに感謝します。 

   (2020年11月22日)

 

 

第632回 赤い半纏

 やはり、居間の電動イスには座る人がいた方がいいです。今月7日、電動イス利用者の母が久しぶりに家に戻ってきました。

 今回は1泊2日です。この日の夕方5時半過ぎに家に帰ると、母はすでに介護施設から家に来ていました。

 居間の電動イスに座った母は赤い半纏(はんてん)を着ていました。この半纏は、母が家に帰ってきたら着てもらおうと家の者が購入し、電動イスの上に置いてあったものです。母がこれまで着ていた青い半纏に比べれば少し大きめですが、色のせいでしょうか、いつもよりも母の顔が明るくなって見えました。

 7日の段階で、わが家ではコタツを出していたものの、まだストーブは使っていませんでした。それが気になり、母にたずねました。
「寒くねかね」
「寒くねぇよ、コタツ入ってるもん」
 母の言葉を聞いて安心しました。

 しばらくすると、わが家のネコが居間に入ってきました。母にとって、ネコは孫のような存在です。一方、ネコも母が気になっていたようです。母が留守のときも、ときどき母の部屋に入っていましたから。

 電動イスのすぐそばをゆっくりと歩くネコに気づいた母は、「イーコ、イコ、イコ」と言いながらネコの背中をなでていました。

 母と比べると、わが家のネコと私の一緒の時間は少なく、長くても1日30分くらい。それだけに私に警戒心を持っています。ネコは私の姿を見たとき、目を大きく開けていました。それに気づいた母は、
「とちゃ、おっかねがか」
 とネコに向かって言いました。

 夕飯後、母は、電動イスに座ってテレビをずっと観ていました。豆腐屋さんの映像が出てきたところで、母は急に、愛知県に住む弟のことを思い浮かべたらしく、
「ツトム、愛知には麩(ふ)、ないすけ、米山大橋のとこで、麩、買っていったな」
 と言いました。

 この母の言葉を聞いて、「そうだ、弟たちに赤い半纏を着た母の姿を見てもらおう」、そう思いました。そして、2人の弟たちにテレビ電話しました。

 まず、愛知の弟です。スマホを母の前に置き、母と弟、そして私の3人で話をしました。
「かあちゃん、きょうは家かね、おまん、いい顔してんねー、色つやいいわ」
「なしたー」
「色つやいいだと」
「ほっか、変わらんでもな」

 赤い半纏を着た母の姿は愛知の弟にも華やいだ感じに見えたようです。どうあれ、母も弟もスマホの画面で笑顔いっぱいになりました。

 大潟在住の弟は風呂から上がったばかりでした。 「ばちゃ、おまんの夢みたよ。ナナトリで草刈りしてたすけ、〝一緒に帰ろさ〟そって帰ったが……」  と言って、母を喜ばせてくれました。

 耳がずいぶん遠くなり、時どき、私が会話の中継ぎをしなければなりませんでしたが、2人と話して母は満足したようです。テレビ電話を切ると、私に言いました。
「いいもんだない、あいら来ねがに会われんがすけ」

 この夜、私は赤い半纏を着た母の写真をインターネットで発信しました。すると、「赤い半纏、お似合いです」「新しい物を買ってもらうとうれしいですよね」「嬉しくなります。上手く言えませんが、ただ、嬉しいんです」などといったコメントが寄せられました。母には、この赤い半纏を家で何度も着てもらいたいものです。

  (2020年11月15日)

 

 
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