春よ来い (27)
 

第634回 六十数年ぶりの訪問

 元教員の古澤さんが60数年前に泊めてもらった家にお礼の言葉を述べに行くという当日のことです。

 朝9時過ぎに電話をすると古澤さんは、「数日前からわくわくしてたんですよ」と言われました。60数年前にお世話になりながらお礼をしないでいた家に行く、それが古澤さんにとってどんなに重要なことだったのか、そのひと言でわかりました。

 古澤さんが泊めてもらったという家については、バス停から坂道を歩いたということをヒントに、その家の98歳のMさんに確かめてありました。それでも、間違いがないかちょっぴり不安もありました。

 午後1時20分。頸北観光バスの山直海線、村屋のバス停で古澤さんと合流した私は、一緒にMさん宅の木戸先の坂道を歩きはじめました。坂の途中で古澤さんは、「間違いありません、このお宅です。屋根の大きな、りっぱなお家でした」と言われました。古澤さんは玄関の近くに行っても、すぐには入られませんでした。家の周りの景色を見て、確かめ、思い出されたことがあったのでしょう。

 玄関に入ってから、古澤さんはすぐNさんやお連れ合いのTさん、そしてMさんに「60数年前にお世話になった古澤です」と挨拶をされました。少し緊張した雰囲気が漂っていて、私自身も無意識のうちに気持ちが引き締まりました。

 私たちが案内された応接間は仏間の隣にあります。近世に描かれた墨絵や書が置かれていて、しだれ桜をイメージして作成された奥田広美さんの「押し花」作品も飾ってありました。

 応接間に入った古澤さんは持参された品をMさんに出されました。まず縦30a、横25aほどの大きさの箱をひとつ。中身は内緒です。そして、びっくりしましたね、古澤さんはこの日のために、手づくりのソックスカバー、さらに筆で書かれた手紙まで用意されていたのです。

 プレゼントを出した後、古澤さんは、前庭に近い廊下を見て、「この廊下、覚えています」と言われました。60数年前のことでも、同じ空間に立てば、人間の記憶は1つひとつ呼び戻されるのでしょうね。

 さて、この日を待っていたのは古澤さんだけではありませんでした。Mさん一家もまた、楽しみにしておられたのです。特にMさんは、栗の渋皮煮を用意していてくださいました。私も2個いただきましたが、甘くて、高級感のある食べ物でした。

 お茶をいただく時、テーブルの上に縦長の小さな写真が出されました。Nさんたちが半日かけて探し出してくださったというMさんのお連れ合い、シュウイチさん(故人)の写真です。古澤さんは、「この方です、声をかけてくださったのは。間違いありません」と言われました。

 写真の中でシュウイチさんが着ていたのは礼服です。「写真は祝言のときみたいですね」と言うと、Mさんはニコニコしながら「皿踊りが得意だったんです」と言われました。写真をじっと見ていたら、シュウイチさんが皿を持ち、カシャ、カシャと踊る様子が目に浮かびました。

 60数年前に古澤さんが泊めていただいたという日。Mさんは浦川原区小谷島の実家へ行って留守だったということでした。ですから、シュウイチさんの母親のRさんが夜と朝の食事の用意をされたようです。Mさんは古澤さんが泊まったことを後日、シュウイチさんから聞いたということもわかりました。

 60数年ぶりの訪問。話は弾みました。古澤さんに「わが家に泊まって」と勧めたシュウイチさんは当時30代後半で、川谷と源の中学校で英語と数学を教えていたとか。話はなかなか尽きませんでした。  

   (2020年11月29日)

 
 

第633回 十三年ぶりの電話

 もう2度と言葉を交わすことができないだろうと諦めていたKさんと数日前、連絡が取れ、13年ぶりに話をすることが出来ました。

 きっかけは、今回も高田のMさんでした。Mさんは太極拳をやっていて、最近、新潟市で検定をうけてきたとのことですが、その際、知りあった女性が何とKさんだったのです。

 Kさんは私の大学時代からの友人だった日本画家・風岡準仙さんのパートナーでした。Mさんと話をするなかで、「上越の市議会議員で知っている人がいる」と言って私の名前を出し、風岡さんが死の直前まで私と交流があったことなどを熱く語ってくださったということです。

 風岡さんは13年前の4月に亡くなっています。私は彼の葬儀、初七日法要に出させてもらいました。そこらへんの一連の動きや私の想いなどは私のブログ(日記)、「ホーセの見てある記」に書いたのですが、その後、Kさんの携帯に電話をしたものの、つながりませんでした。

 私は、「Kさんは私とは話したくないのかも知れない」と思い、その後、電話をかけなかったのです。当時書いたブログも2度と読むことはありませんでした。

 新潟市へ行ったMさんから話を聞いて、私はうれしくなりました。私の勘違いだったことがわかったからです。すぐにKさんに電話しました。でも、そのときもつながりませんでした。

 その六日後、土曜日のことです、私の携帯電話が鳴りました。画面表示を見たところ、Kさんからです。うれしいと言ったらよいのか、ホッとしたと言ったらいいのか、心がじわーっと熱くなりました。

 Kさんによると、普段、携帯電話は使っていないとのことでした。たまたま携帯電話の着信履歴を見たところ、私の名前を確認し、電話をかけてきてくれたのでした。

 13年ぶりにつながった電話で、私は、「あれから電話をかけたんですが、つながりませんでした。風岡のことはブログにも書いたし、ホームページで彼の作品と名前を残したかったし……」と言いました。そして、13年前の4月、風岡さんについて書いたブログの日付も伝えました。

 13年前のことでいまでも鮮明に記憶していることがあります。それは、風岡さんがモルヒネを打たれる前に、私と話をしたいと電話をかけてきた時のことです。私は朝食も食べずに着の身着のまま軽乗用車に乗って高速道路を飛ばし、新潟のがんセンターへ行きました。

 ブログでは、「病室では、風岡さんとお連れ合いが待っていてくれました。昨夜は痛くて眠れなかったのでしょう、いくぶん疲れた目でしたが、私を見てくれています。『来たぞ。間に合ってよかった』と言いながら、彼の手をギュッと握りしめ、再会を喜び合いました。お連れ合いの話では、私が来るというので、モルヒネは待ってもらったということでした」(2007年4月18日)などと書いています。

 Kさんは、その後、13年前の私のブログを読み、「当時のことを思い出して、涙が出ました。高速でやってきてくださって、1日、彼のそばにいてくださった」と語ってくださいました。そして、私のホームページに掲載した「風岡準仙作品集」については、「がんセンターの主治医の竹之内先生が風岡の死後、風岡の名前を検索したら、私のホームページの1件だけがヒットしたとのことでした」とも。

 人間関係というのはちょっとした勘違いで壊れたり、おかしくなったりすることがあります。でも、今回、人のつながりのなかで修復されることがあることも体験しました。改めて高田のMさんに感謝します。 

   (2020年11月22日)

 

 

第632回 赤い半纏

 やはり、居間の電動イスには座る人がいた方がいいです。今月7日、電動イス利用者の母が久しぶりに家に戻ってきました。

 今回は1泊2日です。この日の夕方5時半過ぎに家に帰ると、母はすでに介護施設から家に来ていました。

 居間の電動イスに座った母は赤い半纏(はんてん)を着ていました。この半纏は、母が家に帰ってきたら着てもらおうと家の者が購入し、電動イスの上に置いてあったものです。母がこれまで着ていた青い半纏に比べれば少し大きめですが、色のせいでしょうか、いつもよりも母の顔が明るくなって見えました。

 7日の段階で、わが家ではコタツを出していたものの、まだストーブは使っていませんでした。それが気になり、母にたずねました。
「寒くねかね」
「寒くねぇよ、コタツ入ってるもん」
 母の言葉を聞いて安心しました。

 しばらくすると、わが家のネコが居間に入ってきました。母にとって、ネコは孫のような存在です。一方、ネコも母が気になっていたようです。母が留守のときも、ときどき母の部屋に入っていましたから。

 電動イスのすぐそばをゆっくりと歩くネコに気づいた母は、「イーコ、イコ、イコ」と言いながらネコの背中をなでていました。

 母と比べると、わが家のネコと私の一緒の時間は少なく、長くても1日30分くらい。それだけに私に警戒心を持っています。ネコは私の姿を見たとき、目を大きく開けていました。それに気づいた母は、
「とちゃ、おっかねがか」
 とネコに向かって言いました。

 夕飯後、母は、電動イスに座ってテレビをずっと観ていました。豆腐屋さんの映像が出てきたところで、母は急に、愛知県に住む弟のことを思い浮かべたらしく、
「ツトム、愛知には麩(ふ)、ないすけ、米山大橋のとこで、麩、買っていったな」
 と言いました。

 この母の言葉を聞いて、「そうだ、弟たちに赤い半纏を着た母の姿を見てもらおう」、そう思いました。そして、2人の弟たちにテレビ電話しました。

 まず、愛知の弟です。スマホを母の前に置き、母と弟、そして私の3人で話をしました。
「かあちゃん、きょうは家かね、おまん、いい顔してんねー、色つやいいわ」
「なしたー」
「色つやいいだと」
「ほっか、変わらんでもな」

 赤い半纏を着た母の姿は愛知の弟にも華やいだ感じに見えたようです。どうあれ、母も弟もスマホの画面で笑顔いっぱいになりました。

 大潟在住の弟は風呂から上がったばかりでした。 「ばちゃ、おまんの夢みたよ。ナナトリで草刈りしてたすけ、一緒に帰ろさ≠サって帰ったが……」  と言って、母を喜ばせてくれました。

 耳がずいぶん遠くなり、時どき、私が会話の中継ぎをしなければなりませんでしたが、2人と話して母は満足したようです。テレビ電話を切ると、私に言いました。
「いいもんだない、あいら来ねがに会われんがすけ」

 この夜、私は赤い半纏を着た母の写真をインターネットで発信しました。すると、「赤い半纏、お似合いです」「新しい物を買ってもらうとうれしいですよね」「嬉しくなります。上手く言えませんが、ただ、嬉しいんです」などといったコメントが寄せられました。母には、この赤い半纏を家で何度も着てもらいたいものです。

  (2020年11月15日)

 

 
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