春よ来い(28) 
 

第684回 数十年前の写真

 従弟が大きな段ボール箱を出したのには驚きました。Sさんの火葬の時間帯のことです。段ボールには結婚式の記念写真をはじめ、数十年前のスナップ写真などが貼られたアルバムが6、7冊入っていました。

 待合室に入ったのは先週土曜日の午後2時半過ぎでした。1時間半ほどの火葬の時間をどう過ごすか、従弟がいろいろ考えてアルバムを持ち込んでくれたのです。

 今回、従弟が持ってきてくれたアルバムには、従弟の実家が吉川区尾神にあった頃の写真が貼られていました。亡くなった伯父も伯母も几帳面な人でしたから、アルバムなどは整理してあるとは思っていましたが、結婚式の写真、子どもの写真など一定の分類までしてあるとはびっくりでした。

 この日、待合室に入ったのは、私を含め7人です。サンドイッチパンなどで腹ごしらえしてから、それぞれがアルバムに夢中になりました。

 私は段ボールのなかのアルバムをすべてめくりました。何よりも私やわが家が関係する写真の中で、見たことのないもの、見たことがあっても、現在手元にないものがあるかどうかに注目しました。また、それらについては遠慮なく、スマホで撮影させてもらいました。

 最初にじっくりと見たのは蛍場と半入沢の子どもたちの集合写真です。トキオさん、ノブちゃ、ヒトシちゃ、コイちゃ、シゲルくんなど12人の子どもの姿が写っています。それも多くは学生服のままです。

 写真は、おそらく学校帰りに、半入沢のお宮さんの前の広場でソフトボールをして遊んでいたときのものと思います。狭い場所ですので、外野の守備はなし、1つのチームに5人いれば試合ができました。蛍場も半入沢も小さな集落ですが、当時は、ソフトボールの試合ができるだけの子どもがいたんですね。

 次は旧源小学校水源分校の運動会写真です。いまから50年ほど前の写真かと思います。いまのスカイトピア遊ランドのグランドの東側と重なるところもありますが、グランドには芝生のトラックがあり、懐かしい柿の木も写っていました。

 この時の写真は2枚ありました。そのうちの1枚には大人たちが鉢巻き姿でグランドのコーナーで左足を伸ばして立っている姿が写っていました。これはトラックとグランドの内側を区別して走ってもらうためのものです。当時のグランドはトラックもその内側も草だらけでしたからね。

 さらにアルバムをめくっていくと、明らかに造り酒屋の飯場とわかる写真が出てきました。真ん中には一升炊きのご飯釜 、その隣には大きな鍋があって、杜氏の藤野源吾さん(故人)、頭の高野実さん(故人)など10人が写っていました。この写真を見て、なぜ、造り酒屋の飯場とわかったかと言うと、私が20代前半の時、ひと冬だけお世話になった八王子市の小澤酒造さんの飯場だったからです。

 酒造りの出稼ぎに行っていて一番の楽しみは朝、昼、晩の食事の時間でした。酒屋での私の仕事は写真の場所での「まんまし」(調理の仕事)でした。夕方になると、魚屋さんへ行って、魚の種類は記憶に残っていませんが、アラを買ってきたものです。それがまた人気でした。

 この日、従弟が用意してくれたアルバムによって、従妹など何人もが懐かしい写真を見つけるたびに、「若いねぇ」「いい男だったこて」などと言っては笑いました。アルバムの中で私がスマホで撮った写真は全部で18枚にものぼりました。

 数十年前、写真を撮る人は限られていました。写真を撮る機会もいまよりはるかに少なかった。それだけに写真は貴重であり、思い出がたくさん詰まっています。

  (2021年11月21日)

 

第683回 とちゃの風

 風と言っても強い風ではありません。とても小さな風です。そうですね、ティッシュボックスの1枚の紙をそっと動かすくらいの風です。

 今年の3月から私は母の部屋で一緒に寝ています。と言っても、私が布団に入る時間は遅く、早いときで22時頃、遅いときは午前1時、2時のときもあります。

 私が寝るところは母のベッドから1bちょっと離れた場所です。寝る直前に布団を敷くのですが、その際、母のベッドのそばにあるテーブルの上に、毛布や枕をいったん置いています。

 風はそのときに起きるようです。先月の下旬、22時頃、母の隣りに布団を敷き始めたときのことです。そっと置いたつもりだったのですが、母が目をさましました。そして言ったのです。
「とちゃの風、ふわーっと来るがど。なんかごっつぉ、持ってきてくんたがか」
 
  「とちゃの風」というのは言うまでもなく私が毛布などをテーブルの上に置くときに発生させる風のことです。風はちょうど母の顔のところへ流れて行くのです。たいした風ではないはずなのに、すぐわかるというのは眠りが浅いのでしょうね。それにしても、このところ食欲旺盛な母のひと言には笑ってしまいました。

 この風のせいか、私が布団を敷くとき、母が目をさますことが多く、そのたびに母は私に話しかけてきます。今回はそのいくつかを紹介します。

 1つ目はある日の23時56分でした。これは記録しておきました。布団を敷きかけた段階で母は目をさましました。

 母はむくっと起きて、というか、少し体を起こして言いました。
「コウセンあればいいと思って……」
「コウセン?」
「うん、青空市場から買ってくれば、砂糖とちょっとお湯、わかせばいいすけ……」
「そうだね、えらい、えらい」
「……」
「はい、寝ないや」

 長年、大島区の青空市場へ山菜などを持ち込んでいた母は、そこで何が売られているか、よく頭の中に入っていたのでしょう。小豆を粉末にしたコウセンや大豆で作るキナコは母の好物でした。

 2つ目はある日の午前1時17分の出来事です。このときはひと眠りした後だったのでしょう、「とちゃの風」で目をさました母は、身体を半分くらい起こして言いました。
「いま、どこに来たがかなぁ」
「うち」
「ああん」
「うちだよ」
「ほっか」

 母はいま、1週間に1度、ひと晩泊まりのショートへ行っています。そこで寝ているのか、自分の家で寝ているのか、わからなくなるのかも知れません。

 最後はある日の遅い時間です。時間は記録してなかったのですが、深夜です。眠たくて、すぐ寝たいと思っていたのですが、目をさました母が話しかけてきました。
「おれはあと5年で100か」
「なして、あと2年ちょっとだよ」
「サカヤ(尾神のYさん宅の屋号)のばちゃ、100まで生きなったな」
「そうだよ、なして」
「カステラ1本に饅頭2つ、くんなったもんだ」
「よく覚えているねぇ」

 昨年は3回も緊急入院した母ですが、今年はおかげ様で病気も落ち着いてきています。何よりもうれしいのは食欲があることです。母の口から100歳という言葉も出てくるようになりました。

 (2021年11月14日)

 

第682回 赤とんぼ

 もう少しで日が落ちる日曜日の夕方でした。事務所の建物の西側に集まった赤とんぼの様子を見ていたら、Aさんが軽トラックを止め、私のそばにやってきました。

 Aさんは、畑仕事を終えて家に戻ろうとしていたのですが、私の様子が気になったようです。Aさんが私のところに来て何を言いたいかは顔に書いてありました。質問される前に私の方から言いました。
「いま、赤とんぼ、いっぺいるすけ、見てるが……」
「そう言えば、今年は赤とんぼの数、多いよね」
「そうかもね。でも、この時期になると、毎年、けっこういるよ」
「そうなんだ」
 少し言葉を交わしてから、今度は、2人で赤とんぼたちの様子を見つめました。

 事務所の西側の壁にとまっている赤とんぼは少なくとも200匹はいました。そこへススキなどが生えた近くの原野から湧き出るように次々と赤とんぼがやってきます。壁と手前の空間はまさに赤とんぼのタマリ場となっていました。

 壁は下から60aほどの高さまでがコンクリートの土台となっていて、その上は茶色の下見板です。夕日はコンクリートにも下見板にも当たっていました。誰が見てもそこは温かそうな場所になっていました。

 飛んできた赤とんぼは何度かホバリングをし、それから壁にとまります。なかには他の赤とんぼの体に触れてしまい、慌てて離れ、再びホバリングする赤とんぼもいました。でも、最後は自分がとまることができるスペースを見つけて垂直な壁にぴたりと張り付きます。

 赤とんぼが壁にとまるときには、長い毛がついた3対6本の足で壁をつかみ、4枚の翅(はね)を内側に折り、壁を押さえるようにしています。そして細長い腹の一番下のところも壁にくっつけています。足と翅と腹を使って壁から落ちないようにしているのです。

 2人で赤とんぼを見ながら話をしたのはほんの数分です。年齢的には60代後半と70代前半でありながら、2人は、いつの間にか子どものような気持ちになっていくのを感じました。

 かつては牧草地だったものの、いまはススキやセイダカアワダチソウが支配した原野から飛んでくる赤とんぼの姿を見ていて、2人とも同じことを考えていました。どちらかが素朴な疑問を口にしました。

「いったい、赤とんぼはどこからやってきたんかいね」

 答えが出ないうちに次々と別の疑問も浮かんできました。晴れている日だけではなく、雨の日だってあるのに、そういうときは木の下にいるのか、草に隠れているのだろうか。セミは羽化してから1週間ほどの命だけど、赤とんぼはどれくらい生きるのだろうかなどといった具合です。

 Aさんと話をしている途中で日はかげりました。その瞬間は見ていないのですが、日が当たらなくなったら、壁の赤とんぼはほとんどいなくなって、残ったのはほんの数匹になりました。そして、また、2人のどちらかが言いました。

「赤とんぼは、いったいどこに行ったんだろうね」

 ここ数年、私はまったく同じ場所で赤とんぼの群れの写真を撮り続けてきました。とにかく懐かしい。赤とんぼが次々と壁にとまる様子を見ていると、なぜか子どもの頃の世界にさかのぼります。

 この季節の夕方、私はエコちゃやヒトシちゃなどと思いっきり遊んでいました。そこには赤とんぼもいました。そして暗くなると、腹が減って、母が田んぼから早く帰ってこないかと待ち続けたものです。

   (2021年11月7日)

 

第681回 夫婦そろって

 世の中には几帳面な人がけっこういるもんですね。長い付き合いの知人のことですが、最近になって、50年以上も日記を書き続けていることを知りました。

 この人は2005年(平成17)の市町村合併の前から知っている中郷区のSさんです。いかにも農業が好きで、細かいことは苦手といった風貌なのですが、実際はそうではありませんでした。

 8月9日、午後3時過ぎに私はSさん宅にお邪魔しました。この日はとても暑い日で、喉が渇いていたのですが、お連れ合いのKさんから、「お茶、出てますよ」と言われたら、即座に、「じゃあ、ちょっとお邪魔します」と言って、あがらせてもらいました。 

 Kさんの言葉通り、2人でお茶を飲んでおられたんですね。居間に入らせてもらうと、Sさんは、「こんな暑い日はどこも出ね方がいい」と言われました。

 座って最初に目に入ったのは、すぐ前のテーブルの上にある分厚いノートでした。これがSさんの日記帳だったのです。昨年から使い始めたノートで、この1冊があれば、2年分の日記が書けるといいます。確かに、それだけの厚さがありました。

 びっくりしたのは、Sさんが1965年(昭和40)から休まず日記を書き続けていることでした。それから51年も経ったというのですから、すごいですね。いま使っているノートと同じものを使い続けたとしたら、ノートの冊数は25冊にもなるはずです。

 Sさんは、この日記帳が3冊になると、ノートの端に穴を開け、コヨリでしばり、しまっているそうです。ここまで徹底してやるとなると、もう几帳面そのものです。

 日記のことで話が弾んでいるときに、Kさんが冷やしたトマトとお菓子を用意してくださいました。そして、「橋爪さんは、写真も絵もやんなるがですね」と言いながら、居間に飾ってあった額入りの絵について説明してくださいました。

 壁には、近くの池などを描いた2枚の絵が飾られていました。1枚は水彩画、いま1枚はパステル画です。どちらもSさんの作品だということでしたが、あまりにも上手く描けているので、これも驚きました。Sさんは、暇だから描いたと謙遜されていましたが、いずれの絵も几帳面な人ならではのキメ細かさのある作品でした。

 Sさん宅で、私が驚いたのはこれで終わりませんでした。Sさんの姉に当たる人も中郷区に住んでおられて、この人は80代から絵を描き始め、10年ほどになるというのです。これにも驚きました。兄妹ですから、血筋がそうなのかも知れません。

 この日、私が一番びっくりしたのは、Kさんのことでした。お連れ合いの日記のことが話題となったときも絵のときも自分のことのようにニコニコされていましたが、まさか、Kさん本人も絵を描くことが好きだったとはね……。

 Kさんは、Sさんが仕事の関係で夜遅くなったときに、時間つぶしに絵を始めたということでした。でも、それだけではないと感じました。Kさんは自分で描いたミカンやキウイフルーツなどの絵を私に見せてくださったのですが、その様子が実に楽しそうでした。本当はもっと前から絵が好きだったのかも知れません。

 どうあれ、Sさん夫婦がそろって几帳面で、絵を描くことが好きだというのは最高に素敵です。おそらく、2人が描いた絵はお互いにほめ合い、どんどんうまくなって来られたのでしょう。そして、絵を学ぶ意欲はいまも旺盛です。先日は、Sさんから頼まれていた三上詩絵の『色鉛筆のレッスン』を届けてきました。一体どこまで上手くなろうというのでしょうか。

 (2021年11月1日)

 

第680回 Tさんの緊急入院

 2か月ほど前のことです。午前9時過ぎだったと思います。スマホ画面の見知らぬ電話番号を見ながら、どなただろうと電話に出ると、親戚のお母さんが入所している介護施設からでした。

 突然の電話ですので、悪い知らせかもしれないと緊張しました。電話をくださったスタッフの話によると、親戚のお母さん・Tさんは、その日、急に右足の動きがおかしくなり、朝の食事もいつもとは違うということでした。それで、「これから病院へ行きます。また電話させてもらいます」という連絡だったのです。

 施設のスタッフによると、東京在住のTさんの子どもさんに電話をしたけれども、連絡が取れなかったということでした。それで私のところへ連絡が来たのです。Tさんの近間の親戚となるとわが家ですので、入所時に施設に提出した書類では、私が2番目の連絡先になっていました。

 その日は、午前11時から議会運営委員会でした。緊急事態なので、いつ病院から呼び出しがあるかも知れない。ならば、誰かに代わってもらおうと考えたのですが、そもそも同僚議員が都合悪いから私が代理出席することにしていた会議でした。議会の関係者に「場合によっては抜けさせてもらうこともある」と伝え、参加しました。でも、病院へ行っていた介護施設のスタッフからの連絡は会議終了後になりました。

 私が病院へ駆けつけたときは検査が終わったところでした。検査室から出てきたTさんにマスクを外して私の顔を見せたところ、すぐ反応してくれました。「まあ、おまさん来てくんなったがかね、ありがとね」。私を見つめる目と口の動きから、そう読みとれました。そして医師から検査結果の説明を受けるまでの間に、私のスマホに保存してある母の写真を見せると、Tさんは涙を流して喜んでくれました。あまりにもうれしそうだったので、私まで涙が流れました。

 Tさんの病気は数年前に救急車で運ばれたときと同じ脳内出血でした。今回、医師からは、今後、次々と出血するおそれがあると言われ、とりあえずは、入院して治療を受けるということになりました。

 検査後は介護施設のスタッフの方から手助けをしてもらって入院手続きをしました。市役所に戻って、もらわなければならない書類もあって、最終的に入院手続きが終わったのは午後四時過ぎでした。

  この間、有り難かったのは、介護施設のスタッフの方がずっと寄り添ってくださったことです。スタッフは2人、いずれも大島区在住の方でした。このうち1人の方は以前看護職についておられたことがあったのでしょう、医療の専門的なことについて詳しく、助かりました。いま1人は私の子どもくらいの年齢の方でした。話をするなかでわかったのですが、その人のご両親は何と私がよく知っている人でした。それだけで気持ちが楽になりました。

 その日の夕方、おかげ様でTさんの子どもさんとも連絡を取ることが出来ました。ある人に「たいへんだったね」と声をかけていただきましたが、私としてはPCR検査を身近なところで経験したり、介護スタッフの方と新型コロナ下での介護の実態などについても聞くことが出来ました。ですから勉強にもなりました。あとは、Tさんの病状が悪化せず、回復してくれることだけを祈りました。

 Tさんのその後の経過は順調で、9月中旬に無事退院することが出来ました。退院の日、Tさんの子どもさんも東京からやってきました。母親と言葉を交わすことは出来ませんでしたが、遠くから目や手で合図を送りあうことが出来たようです。Tさんはどんなにうれしかったことでしょう。

 (2021年10月24日)

 

第679回 後ろ姿

 8月の下旬、ある病院のナースステーションの受付で親戚のT子さんの入院に必要な物をスタッフの方に渡しているときでした。背後から「橋爪さん!」と声をかけてくださった方がありました。

 誰かと思って振り向くと、同じ吉川区内に住むKさんの姿がありました。最近、散歩中の姿が見えないので、「どうしなったかな」と思っていました。入院されていたんですね。Kさんは車イス姿でしたが、顔は元気そのものでホッとしました。

 私から「よく、俺だってわかったねぇ」と言ったところ、「おまんの後ろ姿はすぐわかるわね」と言われてしまいました。まいりましたね。たぶん、若いころ痛めた腰をかばう癖がついているので、背中が少し丸まっているのでしょう。

 後ろ姿を見ただけで誰だかすぐわかる人は、私にもいます。その一人は友人のTさんです。背は高く、がっちりした体つきです。背が高い割に腰から下は安定感があります。若かりし頃に運送の仕事をされていたこともあって、重心が低いのかも知れません。

 Tさんのいいところはいつも明るいことです。私の場合は、面白くないことがあると、どうしても顔や背中にその雰囲気が出てしまうのですが、Tさんはどんなに面白くないことがあっても、そのことは体からはまったく見えてこないのです。それどころか、後ろ姿を見ていると、本人の明るい笑顔としゃべりが浮かんでくるのです。不思議な人ですね。

 私と同年代のSさんもそう、遠く離れたところから見てもすぐわかります。60代の前半くらいまでは、「この人はお母さんに似ている」と思っていたのですが、60代も後半になり、さらに歳を重ねてきたら後ろ姿はいまは亡きお父さんにそっくりになってきました。

 体はお父さんよりも少し大きいのですが、歩くときの格好はお父さんと同じで、左肩が右肩よりも少し高くなっています。片方の肩が高いといばっているように見える人が多いのですが、この人は気持ちがやさしく、誰とでも平らな付き合いをする人なので、私は尊敬しています。

 私にとって最も忘れられない後ろ姿は父の後ろ姿です。祖父・音治郎ゆずりのがっちりした体ですが、仕事で鍛えられたのでしょう、逆三角形の体つきからくる男っぽさがストレートに伝わってきたものです。

 父はハチや草に弱いにもかかわらず、夏場はほとんど裸で仕事をしていました。仕事着を身につけないものですから、胸も背中も傷だらけでした。この逆三角形も歩くときはガニマタになりました。この歩き方は私に、そして私の子どもにも引き継がれています。

 父の後ろ姿は歩いている時だけでなく、背中で荷物を運んでいる時や耕運機に乗っている時でも一目でわかりました。じつにエネルギッシュで、私が言うのもなんですが、惚れ惚れする姿だったのです。

 その元気だった父が、いつもと違うところを見せたのは祖父が死ぬ少し前でした。いまから50数年前、祖父が脳溢血で倒れて5、6日後のことです。父は私に向かって、「もう、じちゃ、だめだな」とぽつりと言いました。そのときの父の後ろ姿はいまでも忘れられません。肩に力が無く、さびしさがにじみ出ていました。こんな父の姿を見たのはこのときが初めてでした。

 さて、私ですが、病院で会ったKさんの言葉が気になり、その後、大きな鏡をバックにスマートフォンで自分の姿を斜め前から自撮りしてみました。画像の中の鏡には、ちょっとくたびれた関取のような姿が写っていました。これじゃわかるはずです。もう少し背をまっすぐにしなきゃ。

  (2021年10月17日)

 

第678回 ピンクツリフネ

 杉林の中の道を軽乗用車で走っていて一瞬、目を疑いました。まさか……。赤紫色のツリフネソウの群落の中にピンク色をした花が見えたような気がしたからです。

 私は車を止め、バックしました。そして車から降り、改めてツリフネソウの群落を見ました。やっぱり、ピンクです。間違いありません。赤紫色の花にまじって、これまで見たことのないピンク色のツリフネソウの花が咲いていたのです。

 もううれしいなんてもんじゃありません。興奮しました。花をゆっくり観察することもなく、私はスマートフォンのカメラを使って写真を撮りました。その数は5、6枚になりました。

 写真を撮り終わってから、車を駐車できる場所に移動させ、フェイスブックで発信しました。いっときも早く、この発見を多くの人に伝えたいと思ったからです。

 この発信では、「生まれて初めてピンク色のツリフネソウと出合いました。感動です。場所は秘密です」というコメントを書き、私の気持ちを伝えました。

 コメントに合わせ、3枚の写真も一緒に発信しました。写真は、花の色、大きさなどを知ってもらおうと、花びらが右を向いたもの、左を向いたものを選びました。そして、赤紫色の花も入れ、ピンクの花との違いがわかるようにしました。 

 私の発信を見て、多くの人がびっくりしたようです。赤紫色や黄色のツリフネは見たことがあっても、やはり、ピンク色は聞いたことも見たこともなかったのでしょう。「私のまわりには赤紫のしか見当たりません。(中略)見たい!」と書いてきた人もあれば、「新種、ハシヅメノツリフネソウ」とまで持ち上げてくださった方もありました。

 発信してからしばらく経って、撮った写真をもう一度ゆっくり見ました。そして思ったのです。どうしてピンク色のものが誕生したのだろう。同じ茎のなかでいくつかの花だけ、突然変異を起こし、ピンク色になったのだろうかと。さらに、こうも思いました。赤紫色の花がいったんピンク色になって、さらに白い花へと変化を遂げていくのかも知れないと。

 じつはピンク色のツリフネソウを見つけた日から10日ほど前に、私は白いツリフネソウと出合っていたのです。これは、大島区から吉川区川谷へ行く途中で見つけていました。ですから、赤紫色から白になる途中でピンク色のものができたとしても不思議ではないと思ったのです。

 疑問をそのままにしておくと落ち着きません。数日後、私はピンク色のツリフネソウを発見した場所をもう一度、訪れました。丁寧に見た結果、赤紫色の花が咲いている茎のなかのいくつかの花がピンク色になっているのではなく、ピンク色の花が咲いている茎はすべての花がピンク色になっていることがわかりました。そして驚いたことに、最初に発見した場所から50bほど離れたところにもピンク色のツリフネソウがあったのです。

 現段階で私が到達した推論です。赤紫色の花を咲かせるツリフネソウと白い花を咲かせるツリフネソウが交配してピンク色の花のツリフネソウを誕生させたのではないか。そうだとするならば、ピンク色の花を咲かせたツリフネソウの種を採取し、それを来春蒔(ま)けば、来季の秋にはピンク色の花を見せてくれるに違いない。

 数日前、私はピンク色のツリフネソウの花を咲かせた場所へまた行きました。これで3度目です。種が入った緑色の「ふくらみ」は触ると、ホウセンカと同じようにすぐにはじけます。私はそっと採取し、郵便封筒に入れました。種は10個くらいはあるでしょう。あとは来年のお楽しみです。      

  (2021年10月10日)

 

第677回 墓参り

 今年のお盆の墓参りほど天気を意識したことはありませんでした。8月13日は朝からずっと雨が降り続いていたからです。

 いつ止むのか、そう思いながら空模様を見ていて、「今がチャンス」と判断したのは午後3時ごろでした。家の者を誘って出かけました。

 これが当たりました。わが家の墓場は吉川区の山間部、尾神地内にあります。わが家から車で約15分です。現地に着いたとき、曇ってはいましたが、雨はぴたりとやんでいました。

 ただ、わが家の墓場は少し高い位置にあります。風が東西から吹き上げてくることが多いのです。この日も、東からの風が少し吹いていて、ロウソクの火は点けてもすぐ消えてしまいました。私の体で風を防ぎ、ロウソクの炎を使って線香をたいたのですが、これにも苦労しました。

 わが家の墓のそばには親戚の「井戸尻」(いどんしり・屋号)の墓があります。私たちが到着したときには、すでに墓参りを済ませてありました。そして、有り難いことに、わが家の墓のそばにも独自の花入れを用意し、花を活けてありました。たぶん、Hさんがお参りしてくださったのだと思います。Hさんに感謝しながら私たちもお参りを済ませました。

 普段なら、これで墓参りは終わりになるのですが、この後、当初頭になかったことをすることになりました。雨が降らないうちに家に帰ろうと車に乗り込もうとしたとき、突然、私の足が止まったのです。

 じつはこのとき、愛知県稲沢市在住の弟のことを急に思い出し、「そうだ、ツトムの顔をじいちゃんやとちゃなどにも見てもらおう」と思ったのです。

 墓場に戻り、弟のところにスマートフォンを使ってテレビ電話をすると、弟は自分の店で商売中でした。カラオケの音が聞こえてきましたが、弟は電話に出ると、すぐ、「墓参りしているがか」と訊(き)いてきました。わが家の墓が見えたのだと思います。

「そいがど、おまんも墓に、手、合わしてくんない」
「……」

 お店の音で私の言葉がどうも聞こえなかったようです。もう一度、大きな声で言いました。

「手、合わしてくんない。じちゃもとちゃもマコも喜ぶすけ」

 2度目の呼びかけは弟に伝わり、スマートフォンの画面では、弟がお参りしている姿が目に入りました。

 墓に入っている祖父音治郎や父などにこの様子が伝わったかどうかはわかりません。でも、私には何となく伝わったなと思えました。証拠はまったくないのですが、その場にいた人間として、父たちが喜んでいる雰囲気を感じ取ったのです。

 その瞬間、込み上げてくるものがあって、私の頬は濡れました。現実には起こり得ないことですが、もう何年も逢わなかった父や祖父などと一緒になれた気がしたのです。不思議なものですねぇ。

 稲沢市在住の弟は新型コロナの影響から、2年近く帰省できない状態が続いています。私はスマートフォンを使って、時どきテレビ電話するなかで母の顔を弟に見せてきました。その積み重ねが今回の行動につながったのだと思います。

 弟は、スマートフォンで墓参りをしたあと、「きょうはオレの誕生日なんど」と言いました。「そうだったね、おまんの誕生日だったもんね」と言ったものの、私はすっかり忘れていました。弟にテレビ電話で墓参りをしてもらい、弟の誕生日を久しぶりに確認したことで、今年のお盆の墓参りは忘れられないものとなりました。  

   (2021年10月3日)

 

第676回 九七歳の仕事

 10日ほど前のことでした。午前4時ごろだったと思います、「オレ、仕事しねでいいがか」と母がベッドから声をかけてきたのは。 

 母は現在97歳。突然、突拍子もないことを言い出したので、どうしたのかなと思いつつも私も起きて、「おまんはもういっぱい働いてくんたすけ、何もしねでいいんだよ。心配しないで寝ない」と言いました。

 それでも母は納得せず、「やだなぁ、何も仕事ねぇなんて」と言ってきました。「いいんだよ、仕事なんて、してみようもねぇねかね」と言って、私は母の頭をなでました。

 このところ、「夢、いっぱい見とー」と言って、母が私に声をかけることが多くなっています。時間帯は早朝の3時から4時がほとんどです。おそらく、この日も母は何か夢を見たのだと思います。その夢の中で、自分だけ仕事をしていないことがはっきりとして、それで私に声をかけてきたのかも知れません。

 1人では歩けない、トイレにも行けない、そういう状態ですから、「仕事をしよう」という気持ちは母にはもうないものだと思っていました。でもそうではなかったのです。

 考えてみれば、2年ほど前まで母は、毎日の仕事として居間のカーテンの開け閉めをやっていました。単純な仕事ではありましたが、「これは、オレの仕事だ」という自覚を持っていることはカーテンの引き方ひとつ見ても、わかりました。

 その前はと言えば、「笹かんじょ」がありました。大潟区の弟が朝早く笹の葉を採ってきて、わが家に置いていくと、母は、居間の廊下のところで長座布団を敷いて、笹の葉を大きさで分別し、百枚ごとに束ねていました。

 さらにその前は笹の葉採りそのものをやっていました。三輪自転車に乗って笹の葉がある場所へ行き、ハサミを使うことなく、指先で1枚ごとにプチッと採るのです。私もその様子を何度か見ましたが、見事な手さばきでした。

 もうひとつおまけに、その前の前はと言うと……。餅つきの仕事はすべて母にお任せでした。母は自分でもち米を蒸かして、自動餅つき機で餅をつくと、大きな板の上にドンと置いて、一定量をもぎ取り、手のひらの上でくるくるっと回してまあるい餅を作りました。残った餅はいうまでもなくのべ棒でのばして四角い餅にしました。

 振り返ってみると、母は体が自由に動いたときは、朝から晩までよく動きました。体が思うように動かなくなっても、体の状態に応じて何らかの仕事をしてきました。それが母にとっては生きがいにつながっていたのだと思います。

 どんなに小さなことでも、自分のやっていることが誰かの役に立っている。それが母の誇りであり、母を支えていたのです。

 そのことに気づいたとき、「さぁさ」と思いました。母に言った「いいんだよ、仕事なんて、してみようもねぇねかね」という言葉、これは使ってはならないものでした。母が「オレ、仕事しねでいいがか」と言ったときに、「じゃ、なんかひとつ仕事してもらおうかな。何がいいね」と訊(き)けばよかったのです。あるいは、こちらから仕事の内容を提案するという手もありました。

 もし今度、母が「オレ、仕事しねでいいがか」と言ってきたら、「ほしゃ、ひとつ、大仕事してもらおかな。昔話、ゆっくりしゃべってくんない。その話をちゃんと記録して子どもたちに読んでもらうすけ」と答えたい。どうも今夜あたり、母が声をかけてきそうな予感がします。「とちゃ、オレ、仕事しねでいいがか」と。  

   (2021年9月26日)

 

第675回 初対面なのに

 最初にこの2人を見た時、川谷出身の人に違いないと思いました。日常品の買い物をしながら、店員のタマミさんと親しそうに話をされていたからです。ところがそうではなかったのです。

 10日ほど前、吉川区川谷にある簡易郵便局兼店舗に訪ねた時のことでした。時間的には、閉店まで少し余裕がありましたから、夕方の4時半頃だったと思います。

 この日は朝からフル回転したこともあって、夕方になったら小腹がすいていました。それに、地域の知っているお客さんとも会えるかも知れない、そう思って、お店の戸を開けて入りました。

 その時、私の目の前に買い物をしている2人の姿があったのです。2人のお歳はそうですね、70代後半から80代前半といったところでしょうか、明らかに夫婦といった感じでした。

 2人は私よりも少し先にお店に入られたようで、すでに買い物中でした。このお店に置いてあるものは、味噌、醤油、お酒、洗剤など日常生活に欠かせないものばかりです。ある意味、生活に必要な最低限のものが置いてあります。そういったものを買っておられるということは、このお店の売り上げに少しでも貢献しようと思っておられるに違いないと勝手に判断しました。

 私はパンを1個買っただけだったのですが、このご夫婦と一緒に休憩所でお茶をご馳走になりました。

 お茶を飲み、おしゃべりしているうちに、ご夫婦は川谷出身ではなく、柏崎市米山台在住で、たまたま、この店に立ち寄った人たちだったことを知りました。

 2人は、柏崎市の野田方面から大島区に抜ける県道を軽乗用車で走り、安塚へ行く予定であったのが、上川谷の分岐点で間違って、吉川区の平場へとつながる道を下りてしまったのです。そのことに気づいて、川谷店で道をたずねようと飛びこまれたのでした。

 話をしていて、2人は、道を教えてもらったお礼を兼ねて買い物をされていたことがわかりました。私が「この店には気持ちのこもったいいものが置いてあるんです」と言ったら、緑色の素敵な服を着ておられた奥さんがすぐに返されました。「そうなんですよ、ここのお店のものには情があるから、つい買いたくなるんです」と。

 一緒にお茶を飲み、話をしているうちに、2人とは隔たりのない気持ちになっていきました。

 野田から上ってくる道のことが話題となった時、私はお盆の挨拶まわりなどでよく、この道を通ることを話しました。そして、「道は狭くても、あそこの道は野の花の宝庫なんですよ」と言うと、奥さんが目を輝かせて、私の話を聞いてくださいました。奥さんは私と同じく野の花に強い関心を持っておられたのです。

 私が撮ってきたばかりのウド、ツリフネソウ、ヤマトリカブト、オトコエシなどのスマホ内にある画像を見ていただいたら、奥さんは自分のスマホで私が撮った花の画像を撮られようとしました。

 こうなれば私の出番です。お2人には、「帰り道は私が案内しますよ。野の花はその時、撮ってください」と話しました。

 午後5時前、お店を出た私たちは、川谷生産組合の作業所より先でツリフネソウを、石谷の中心部でキツリフネを、丸滝橋の近くでオトコエシを見ました。お2人とも、「これがさっきの花ですか」と大喜びでした。奥さんは写真撮影に夢中でした。

 2人とお別れしたのは吉川橋のたもとです。初めて出会って、わずか1時間ほどの付き合いなのに、懐かしい人と再会したような不思議な感覚を持ちました。長い人生、こんなこともあるんですね。  

  (2021年9月19日)

 

第674回 一回は食べたい

 食べ物への関心というのは高いものだ、改めてそう思ったのは先日の日曜日のことです。

 午前10時半頃、散歩を終えて事務所に向かって歩いていたところ、後ろの方から2台の軽トラックが走ってきました。

 私はそう広くない市道を歩いていましたので、右端によけて通り過ぎるのを待ちました。すると、1台目のトラックがスピードを落とし、私の脇でぴたりと止まりました。見ると、友人のアキノリさんです。 「おまんの今朝のあれ読んで、これからイモ○○採りに行くがど。シュウちゃんもほしいてがだし……」

 この「イモ○○」という言葉はイモガラのようにも聞こえたのですが、アキノリさんが言ったのは、サツマイモの茎(葉柄・ようへい)のことであることはすぐにわかりました。その日の朝刊に私が折り込んだチラシに書いたのは、サツマイモの茎のことでしたから。

 チラシには、サツマイモの茎を炒めた写真を載せ、その脇に、「サツマイモの茎を食べたことがありますか。先日、大島区菖蒲地区でご馳走になってきました。もちろん、ゆでて、いためてありました。私は、子ども時代にそれこそ毎日のように食べた記憶があります。食料不足のときには大活躍した食べ物です」と書きました。

 たったそれだけなのに、読んで半日も経たないうちに、サツマイモの茎を食べてみたい、まずは畑に行って採ってこようと動きだしてくれたのです。紹介記事を書いた者としては、これ以上の喜びはありません。すぐ、「ありがとね」と言いました。

 アキノリさんは、すぐ後ろのトラックのシュウちゃんとともに畑に向かいました。

 私は、デスクワークをする予定だったのですが、2台のトラックが畑に入る道を曲がっていく様子を見たら、無性に畑に行きたくなりました。2人がどんな顔をしてサツマイモの茎を採っているのか、見てみたいと思ったのです。

 アキノリさんの畑は市道から農道に入って百数十bのところにあります。アキノリさんはそこへ毎日のように通い、トマトやナス、キュウリ、コンニャクなどを作っています。サツマイモはその畑の南側にありました。

 サツマイモを栽培している所は縦5b、横3bくらいの大きさで、こんもりとしていました。それもそのはずです。ツルが縦に横にどんどん増えているんですから。

 アキノリさんは、ハサミを持って、ツルをひっぱり、どこがいいか見極めてから、1bくらいの長さでスッと切っていきました。これを全部で5、6本集めて、シュウちゃんに渡しました。この量だと、炒め物に使う茎が20〜30本は採れます。    

 この日、私はシュウちゃんとともに、アキノリさんの作業を見ていました。思っていた以上にサツマイモのツルを見るアキノリさんの目が真剣なのにはびっくりしました。野菜づくりのプロって感じでしたね。

 サツマイモのツルは、40年ほど前、大潟区の雁子浜でわけてもらい、牛のエサとしてサイレージにしたことがあります。でも料理に使うことを意識してツルを扱ったことは私にはありません。たぶん、これからはツルの最先端の柔らかい部分とツルから出た茎を見るようになるでしょう。

 この日、アキノリさんからサツマイモの茎をもらったシュウちゃんは、家では煮て食べたとのことです。「どうだったね」と聞いたら、「毎年食べているんだけど、いっぺこといらんがだわ。でも、懐かしい味だから年に1回は食べたいんだよね」と言いました。そうなんですよね、サツマイモの茎は年1回は食べたくなる物のひとつなんです。わかります、わかります。

  (2021年9月12日)

 

第673回 おまさん、若いねぇ

 ここ1、2年、人と接する母の姿を見ていて感心するのは言葉づかいです。わが家でも外でも、世話になれば、「ありがとう」とお礼を言い、人に会えば、「おまさん、きれいだね」「若いねぇ」などとほめるのです。

 8月21日の午前のことです。母は私の軽自動車に乗って、生まれ故郷である大島区旭地区へ1年2か月ぶりに行ってきました。目的は、幼友達である板山在住のキエさんと会い、母の実家など親戚の家を訪問することでした。キエさんには事前に伝えましたが、母の実家や従兄の家には事前連絡なしの突然の訪問でした。

 この日、大島区へはわが家から吉川区の山間部を通るルートで行きました。名木山の坂を下って石谷に向かう時、母は「ここはクルミ、いっぱいあるなぁ」と言いました。そして上川谷から角間へ行く途中では、「ここらへんにサワナあったがねかな」。数年前までクルミ拾いや山菜採りに夢中になっていた母の目には、そういうものがすっと飛び込んでくるのでしょうね。 

 旭地区に入って最初に訪ねたのはキエさんの家でした。前庭に停めた私の車のドアを開けたキエさんは、「まあ、おばあちゃん、会えると思わんかったじゃ」と言って、喜んでくれました。母はすぐに「おまさん、若いねぇ。顔の色つやがいい」と言ってほめました。キエさんはこの言葉に反応し、「だって、オレは義孝さんと一緒だもん、九二だよ」と言いました。

 キエさんは今回、エゴとヨーグルトを用意して待っていてくれました。自力で歩けない母は、車の中ですぐにエゴを食べ始めましたが、「まあ、うんめーがどー」と何度も言いました。私からも「今年のエゴには芯がねがね」と言うと、キエさんは、「そいがでね。今年のエゴはエゴを嫌いなしょも食べられるほど美味しいがど。アキコさんの親戚筋の人の紹介で、上越の魚屋さんから買うがでも、この人は自分で海に入って採るがと」と言いました。

 この日、キエさんから皿に入れてもらったエゴは縦横3.5aくらいのものです。母は皿の中の三切れのエゴを残らず食べ、汁まで飲もうとしました。それほど美味かったのでしょう。

 母はエゴを食べ終わると、今度は「ヨーグルトを食べて」と言われました。「牧場の朝」という名前のヨーグルトですが、これもスプーンで残らず食べました。「ああ、うんめかっとー」という母の言葉にキエさんは笑顔いっぱいでした。

 キエさんの家には15分くらいお世話になったでしょうか。その後、板山の親戚、竹平の親戚と回りました。

 最初に会ったのは母の一番上の姉の長男、セイゴさんです。母とは数十年ぶりに再会したとかで、「おまんちに柿もらい行って以来じゃないかな」と言っていました。ここでも母は、「おまさん、若いねぇ」と言いました。セイゴさんは「若くなんかねこて、オレ、もう82だよ」そう言って、ずっと笑っていました。

 その後、母の実家である「のうの」(屋号)、「足谷」(屋号)にも行きました。突然の訪問にかかわらず、どちらの家でも従兄の連れ合いや従兄などと会うことができ、「ばあちゃん、元気だねや」と大歓迎されました。最初、訪ねた時は留守で今回は会えないと諦めていた板山の従弟夫婦とも帰り道、田んぼ仕事をしているところを見かけたので、声をかけました。

 訪ねた家のどこでも母は、「おまさん、若いねぇ」「いい顔してなるね」「おまんきれいだね」とほめ、しっかり手を握ってもらいました。この日は、母にとって最良の日となりましたが、いったい、いつからこんなにほめ上手になったのでしょう。

  (2021年9月5日)

 

第672回 ひとりじめボンボン

 スイカに「ひとりじめボンボン」という銘柄があったんですね。今年の夏まで知りませんでした。

 知ったのはお盆が終わった最初の水曜日です。長女が「ひとりじめボンボン、食べようか」と言ったので「いいよ」と答えたのですが、それがスイカの名前だと聞いてびっくりしました。このスイカはお盆の期間中、仏壇にあげてあった小さな黒玉スイカだったのです。

 スイカは台所で半分に切り、それをさらに3等分したものを皿の上にのせて、長女が居間のテーブルまで運んできました。そして言ったのです、「あっさりしているけど甘くて、美味しいんだよ」と。きっとどこかで「ひとりじめボンボン」を食べたことがあって、その味が忘れられなかったのでしょう。

 この日、居間でスイカを食べたのは私と母と長女の3人でした。小玉スイカというと、私は黄色のスイカの濃縮された甘い味を忘れることができませんが、この「ひとりじめボンボン」も黄色いスイカに負けないくらいいい味でした。

 食べていたとき、注目したのは母の食べ方です。居間のテーブルに運ばれてきたスイカをたぐり寄せると、母はスプーンでスイカの実をゆっくりすくい、口に運んでいました。口の中に入れてから何度か噛み、目をつむってうなずくようにして最後はごくりとやります。母は胃を痛めているので、ゆっくり食べているのは、最初はそのせいかと思っていました。でも、そうではありませんでした。母は何度も「うんめーがどー」と言っていました。本当に美味しいから味わって食べていたのです。

 これまで、羊羹(ようかん)や菓子類だと少し食べて、「美味しかった。もういい」と言い、それでやめてしまう母の姿を何度か見てきました。大好きな稲荷寿司ですら、ひとつ食べれば十分でした。スイカもそうなるかと思っていたら、そうはならず、ずっと食べ続けていました。ただ、スプーンでスイカをとりやすくしましたが、スプーンを使って口に運ぶことは後半になったらやらなくなりました。小さくしたスイカをスプーンではなく、指を使って口に運ぶようになったのです。あとは同じです。ゆっくり噛み、ごくりと飲み込んで、うなずく。このやりかたは最後まで続きました。

 母のスイカの食べ方で気になったことはもう1つありました。母はゆっくり食べてはいるものの、食べる時にスイカの汁をこぼし勝ちでした。私は、母が皿を斜めにししてこぼしそうになると、「ほら、ばちゃ、こぼしなんなや」と声をかけました。その様子は長女も見ていて、気になったのでしょう。テーブルの板を母の方にぐっと近づけました。それだけでは間に合わないことがわかると、今度はタオルを母の首下に巻きました。というよりも、タオルを赤ちゃんの「あてこ」(よだれかけ)のようにして置いたのです。これで母は完全に「赤ちゃん」になりました。

 今回、母は皿に用意されたスイカを残らず食べました。たしかに、「ひとりじめボンボン」は美味しく、「1人で全部食べてしまいたい」そういう思いはわかります。でも正直言って、母が全部、食べるとは思いませんでした。どんなに食べても、半分くらいだと思っていたのです。ひょっとすると、母の食欲は以前のレベルに回復してきたのかも知れません。

 母は食欲が旺盛な頃、友達に言っていました。「長生きしなきゃ、そんだこてね。死んじゃえば、うんめもん食べらんねもん」と。今回、「ひとりじめボンボン」を食べたことで、「もっとうんめもん食べたい」と母が思ってくれれば最高です。

   (2021年8月29日)

 

第671回 おもしい話

 やはり、今回も「おもしい話」が出ました。地元町内会の草刈りでのことです。「おもしい」というのは私のところの方言で、「おもしろい」という意味です。

 地元町内会の今年2回目の草刈りは8月最初の日曜日でした。日中はどんどん気温が上がるということで、草刈りは早朝の5時半からスタートしました。

 参加者は20数人。効率よく仕事をするために用水路、池の土手等など草刈りをしなければならない地域を各班で分けあいます。私は今回も代石池の土手、周回道路などを担当するグループの1人として仕事をしました。

 早朝からとはいえ、この日も陽が当たれば気温はすぐに25度を超えます。30分も経たないうちに汗が出てきました。途中、2度ほど休憩をし、体を休めました。

 土手、そして池の周回道路の草刈りが終わって2度目の休みになった時、「なんかおもしい話、ないかね」と言ったのはMさんです。Mさんは前回の草刈りの休憩時間に、スマホの鳴き声に反応したサンコウチョウのことを思い出したのでしょうね。

 私は、「別におもしい話はねぇでも、いま、Yさんがため池で泳いでもいいという旗の話をしていなったよ。旗は角屋さんの近くにあったてがど」と答えたのですが、それが切っ掛けで、60年も前の水遊びのことがこの日の休憩時間の話題の中心となりました。

 Yさんは私よりも少し年下です。ただ子ども時代の生活の仕方も遊びも私と共通でした。角屋さん近くに掲げられた旗がどんなものであったかはわかりませんが、誰かが天候等から判断し、「きょうは泳いでもいいよ」という知らせをしたのでしょう。その旗が出たのを確認して、池に飛び込んだり、泳いだりして遊んだのだと思います。ため池で泳ぐにあたっては、保護者も当番で監視活動をしていたようです。

 後日、Yさんに確認したところ、当時、代石池で泳ぐことができたのは中学生以上で、北側の土手の近くで東西方向に行ったり来たりしたとのことです。私が蛍場の「ヨドの池」で体験した、潜って黒い貝をとるような遊びはしなかったみたいです。で、小学生はどうしたか。遊び場はちゃんと用意されていました。代石池の南側にある小さな浅い池で遊んでいたんですね。

 Yさんの旗の話の後、Nさんなどから思いもよらないことを聞くことが出来ました。代石池だけでなく、長峰池など近くの池や笠島等の海へ泳ぎに行ったというのです。それも、子どもたちが耕運機に乗せてもらってです。もちろん、運転手は大人です。子どもたちのために大人もひと肌ぬいでくれたんですね。

 誰かが、「今だったら、すぐ警察につかまるろでも、当時はその点、あまかったよね」と言いました。どれくらいの人数の子どもたちが耕運機の荷台に乗っていたかはわかりませんが、夏休みに、親たちの協力を得て、10数`bも離れた海にまで行っていたとはびっくりでした。

 思い出話はどんどん広がります。耕運機の話が出たので、「そう言えば、うちのおやじは高田農業高校まで行って、耕運機の免許を取ってきたな」と言うと、Sさんが「うちは近くの学校のグランドかなんかで免許取ったがねかな」。Mさんは、「耕運機の免許を取ると、120tまでのバイクにも乗れた」とも言いました。

 この日、代石池の上空には白い雲がところどころにあり、それが水面に美しく映っていました。湖面ではフナでしょうか、それとも鯉でしょうか、ときどき水中から顔を出し、見事な波紋をつくりだしていました。代石池の周辺の木々が色づく頃、町内会ではもう一度、草刈りが行われます。

   (2021年8月22日)

 
 
第670回 ドテッポッポ

 ご住職に誘われ、北側の庭園が見える光徳寺の奥の部屋でお茶をいただいているときのことでした。ドテッポッポという鳴き声を聞いたのは……。

 いままで何度もおじゃましているのに、野バトの鳴き声がはっきりと、しかも近いところから聞こえたのは今回が初めてでした。私が「ハトの鳴き声が聞こえますね」と言ったとき、一緒にお茶を飲んでいたご住職、Mさん、Tさんもほとんど同時に気づかれていたようです。

 その後、ドテッポッポの鳴き声が聞こえるたびにスマホに録音しようとしましたが、不思議なことに、スマホを構えると鳴きやみます。ようやく録音できたのは5回目くらいでした。誰かに「ほら、また鳴いていますよ」と言われ、スマホをその方角に向けたら、何とか間に合いました。

 私が「この鳴き声はきっとメスを求める鳴き声ですよ」と言うと、みなさんは信じられない様子でした。それで改めて、スマホを使って調べてみると、間違いありませんでした。求愛の鳴き声だったのです。

 野バトのことが話題になったところで、Mさんが思い出を語ってくださいました。

 はるか昔、数十年前のことです。Mさんは伝書鳩を飼っていたそうです。伝書鳩は自宅から遠く離れた場所で放しても必ず自分が寝泊まりしている場所に戻ってくることは私も聞いていました。でも、「たまによそのハトも連れてくることもあった」というMさんの話にびっくりしました。Mさんは、ハトは自分のパートナーを守るために、よそのハトが入れないエリアを決めているということも教えて下さいました。

 そうこうしているうちに、外の高いところにいた野バトが庭に舞い降りてきました。普段からよく観察されているのでしょうね、ご住職は「池の水を飲みたがって来るんですよ」と言われました。野バトは私たちに気づいていなかったのか、それとも人間慣れしているのか、私たちがいた部屋から数メートルのところで堂々と歩いていました。野バトでも、こういうことがあるんですね。

 このとき、池には、1匹だけでしたが、チョウトンボもいました。私から、「きょうの春よ来い≠ノも書いたチョウトンボです。トンボなのにチョウトンボと言うんです。おもしろいでしょ」と言いました。このチョウトンボは池の中の水草の葉や池のまわりにある石に止まって、青紫色の羽根を広げたり、閉じたりしていました。翅(はね)がキラキラ光ると、誰かが「きれいだね」と言いました。

 この日は、今年度の「光徳寺作品展」の初日でした。一緒にお茶を飲んだ四人は、ドテッポッポの鳴き声をきっかけに、ハトの求愛行動のことから人間の男女の心理、さらには展示されている作品や制作者のことまで話題をどんどん広げていきました。

 4人の中の1人、Mさんは、今年も「万羽鶴」を出展されました。毎朝七時半頃から新聞折り込みの広告チラシを使って折り鶴をされているとか。その地道な積み重ねが1万個の折り鶴になったんですね。

 カゴなどのクラフト作品を3年前に初めて出したHさんのことも話題となりました。要介護のお連れ合いをずっと支えてきた女性です。失礼ながら、自分のやりたいことをずっと我慢し、こういう作品づくりとは無縁の人かと思っていました。でも、そうではありませんでした。自分の能力を発揮する場を見つけ、いまでは作品づくりの指導をするほどの力をつけておられたのです。なぜか、うれしくなりました。

 この日は、家に帰っても、光徳寺での喜びの余韻が残っていました。そして、家でも聞こえてきたのです、ドテッポッポ、ドテッポッポの鳴き声が……。

  (2021年8月8日)

 
 

第669回 ヒシの花

 最初は水草の葉が光っているのだと思いました。よく見ると、それは葉ではなく小さな白い花でした。一気に引き込まれました。

 7月下旬のある日の夕方でした。私は吉川区にある小苗代池の南側、市道東田中下中条線のガードケーブルのそばで、池の中を見ていました。その数日前、飛んでいるとキラキラ光る青紫色のチョウトンボを撮ったのですが、鮮明な画像にはほど遠く、もう一度撮影したいと思ってそこにいたのです。

 少しでも近付きたいと、ガードケーブルに寄りかかりながら、カメラを構えていて、まず私の目に入ったのは、シオカラトンボとチョウトンボでした。白く、キラリと光ったものがカメラに飛び込んできたのは、それらのトンボたちを追っていたときです。それは市道から十数メートルほどのところにポツリポツリとありました。全部で10個くらいはあったと思います。

 白く光ったものを撮って、デジタルカメラで画像を最大限に拡大してみたら、白いものはオニバスの咲き始めのように見えました。まっすぐ上の方を向いているものもあれば、少し左右に開きはじめたものもある。花の高さは3aあるかどうかといった小さなものでした。ただ、オニバスなら葉の形は独特です。オニバスとは明らかに違うものでした。

 近くに80数年住んでおられるFさんに私の撮った画像を見てもらいました。Fさんは、自信なさそうな表情で「ヒシかもしれない」と言われました。 

 無理もありません。私の撮った画像はそれだけ不鮮明だったのです。それで私は、いったん家に戻り、撮影用の三脚を用意してきて、ふたたびカメラを池の方に向けました。今度はまずまずの写真が撮れました。

 その画像とインターネットで探したヒシの画像と比較したら、一目でヒシだと確認できました。私は近くにおられたFさんに、「やはり、ヒシの花でした」そう言ってデジタルカメラとスマートフォンの画面を見ていただきました。

 ヒシの花だと判明した段階で、思い出したのは、私が30数年前まで住んでいた吉川区尾神の通称、蛍場(ほたるば)にあった「蛍場の池」(私の勝手な命名)です。

 その池は、「むこう」(屋号)の屋敷の東側にありました。子どもの頃は、大きな池だと思っていたのですが、実際は縦横それぞれ10数メートルほどの小さな池でした。蛍場の子どもたちにとっては大事な遊び場のひとつで、そこにヒシがあったのです。

 当時の子どもたちはいつも腹をすかしていて、木の実であろうが、草の実であろうが何でも食べました。ヒシの実はグロテスクというか、風変わりな形をしていますが、少し塩を入れてゆでるとポクポクして美味しく、食べられる時期が来るのが楽しみでした。

 とは言っても、「蛍場の池」は、「むこう」の家の所有だったと聞いています。食べたヒシの実は「むこう」の家から分けてもらったものだと思います。昔話が得意だった「むこうのばちゃ」がゆでてくれて、「ほら、おまんた、ヒシ、食べねかね」と声をかけてくんなったのかも知れません。

 そういう「蛍場の池」でしたが、不思議なことに、私にはヒシの花を見た記憶がないのです。子ども時代、「蛍場の池」には鯉やフナがいましたし、タニシもいました。だから、魚やタニシつかめに夢中になり、ヒシの花を見ていても忘れてしまったのでしょうか。それとも花自体が小さかったことから、花が咲いていたことも気づかずに過ごしていたのでしょうか。

 小苗代の池では、今年、川鵜が池にいた魚をもぐって捕まえ、丸ごと呑み込む光景を見ました。今回のヒシの花は、それに続くものです。いずれも初めて見たものですが、ヒシの花は子ども時代の思い出も一緒に連れてきてくれました。

  (2021年8月1日)

 
 

第668回 おりゃ、何ともねぇよ

 まあ、しょうがないことなんでしょうね。このところ、97歳の母の言動に「翻弄(ほんろう)」されています。

 先日、市役所での仕事が終わり、直江津周りで家に帰ってきたときのことです。まさかと思うことが起こり、びっくりするやら、あきれるやら……。  夕方の六時過ぎでした。家に到着した私は、すぐに母の寝ている部屋に入りました。戸を開けた途端、母の衣類が入っている箱に母がつかまり立ちしている姿が目に入りました。
「おまん、どしたが」
「いま、ズボンさがしてるがど」
 後で長女から聞いた話だと、この日、母は何を思ったのか、よもぎ採りに行くと 言い出したというのです。

 もちろん、母は昔のように自力で外へ出て歩くことができません。自分の部屋のポータブルトイレに行くにも何かにつかまって移動しています。

 よもぎ採りについては、長女に説得されて、その時点では断念したようです。でも、「よもぎ採りに行きたい」という気持ちは消えなかったんですね。

 まずは汚れてもいいようなズボンに着替えておこう。外に出るのはそれからだ。たぶんそう思ったのでしょう、自分のベッドから2bほど離れた場所にある衣類箱のそばへ行ったのです。昔から山菜採りが好きな人間ではありますが、それにしてもすごい気力だと思います。 

 前にも書いたように、母は夜、ひんぱんにトイレへ行きます。その際、私が起きると、必ず、声をかけてきます。

 自宅にいたり、介護施設に泊まったりの生活ですから、頭の中が「混乱」するのでしょうか。ある日の深夜、母はベッドの上から私に声をかけてきました。

「おりゃ、いま、もうぞうになっている」
「どしたが」
「いま、どこにいるか、わからん」
「心配しねでいいよ。おれがいるから。ここは家(うち)だよ。寝ないや」
「うん」

 似たようなことが数日後にもありました。部屋の電気が急に点いたから目が覚めたのですが、母は、ベッドで布団もかけずに横になっていました。
「しっこ、出てぇがか」
「ううん」
「どしたが」
「ここはどこだかと思って」
「心配いらんよ、おまんの家だよ」
「ほっか」
「腹いっぱい、エコちゃの夢、見とぉ」
「そりゃ、いかったね」
「よく夢に出とぉ。川袋のタイスケさんとこへ嫁に行ったがねかな」
「川袋でね、岩沢だよ」 「そいがか」

 もうひとつ深夜の話をしましょう。夜中だというのに、母がお寿司を食べたいといい出したのです。
「とちゃ、オレ、寝てて初めてど」
「どしたが」
「腹減ったが」
「がまんしない」
「寿司、一つでいいがでもなぁ」
「がまん、がまん。いまねぇすけ、今度、買ってきてやるよ」

 昨年体調を大きく崩し、3回も入院した母。病状の変化の発見にもつながるかも知れないと思い、母の言葉は、スマホがそばにあれば、なるべく記録しています。

 おかげ様で母は、今年は一度も入院することもなく、「おりゃ、何ともねぇよ」と言いながら、定期的な通院だけで頑張ってくれています。ここまで来たら、百歳まで生きた板山の伯母をめざしてほしい。

  (2021年7月25日)

 
 

第667回 小粒姫日傘一夜茸

 20日ほど前のことです。朝七時前、風景写真を撮るために吉川区下中条の池へ行き、めずらしいものに出合いました。小粒姫日傘一夜茸(コツブヒメヒガサヒトヨタケ)です。

 小粒姫日傘一夜茸は、いうまでもなくキノコの一種です。特定の樹木に出るものではなく、地上から生えてくるタイプのキノコで、名前の通り小粒です。生長に伴い、傘は卵型から円柱型、釣鐘型、まんじゅう型へと姿を変え、最後は傘が開いたようになります。傘の直径は1〜2a、柄の長さは5a〜7aほどです。

 この日、私が見つけた小粒姫日傘一夜茸は、池の水門の近くの土手にありました。傘は薄い灰色で、完全に開いた状態となっていました。傘の表面には放射線状に細い溝ができていて、見た瞬間、これは傘職人が作ったものだと言いたくなるほど精密にできていました。傘の数は9個。1個出来上がるたびに職人さんが傘を開いて置いた感じで、きれいに並んでいました。

 あまりにもきれいでしたので、この日は風景写真をやめ、目の前に突如現れたキノコを撮ることにしました。上から、横から、斜めから撮り、そのなかでも傘の美しさをとらえた1枚を投稿サイト、フェイスブックに送りました。写真には、「さすが傘職人」というタイトルをつけ、「お見事です♪ コツブヒメヒガサヒトヨタケと言います」という言葉も添えました。

 私の投稿を読み、最初にコメントを寄せてくださったのは十日町市のUさんでした。「久し振りに蛇の目傘を見ました(笑)」というコメントに私は、「こりゃ、いよいよ雨降りかな」と応じました。

 続いて、浦川原区の山間部出身のNさんから、「確証は無いのですが〜ここに、鬼太郎も来たろう?」とコメントが入りました。Nさんは楽しい言葉遣いの名手です。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』の妖怪傘とひっかけて、コメントをアップされたのです。こうなれば、負けてはいられません。返信はできるだけ楽しくと思い、「鬼太郎は来ないだろう」と返しました。「鬼太郎」と「来たろう」を重ね合わせて読んでもらおうと思ったのです。

 続いて、直江津のSさん。直江津の歴史に詳しく、まちづくりで頑張っておられる社長さんです。Sさんは「これは見事すぎる。浪人が手内職に作ったものではない」と書いてくださいました。どう返そうかとしばらく考え、私が書いた言葉は、「これだけのものを作るには長年の経験と技術が必要ですね」でした。

 多摩市在住で柿崎区や吉川区のことも知っておられるMさんは、「食べられますか?」と、極めてまじめな質問をしてこられました。私はキノコについてはまったくの素人ですので困りました。

 正直言って、わからないことを、知っているような感じで書くと恥をさらすだけです。それで、「私にはわかりません。ただ、傘は食べるもんじゃありません」とひとひねりして答えることにしました。

 最後にもうひとつ、春日野在住のTさんのコメントも紹介しておきましょう。Tさんは、「橋爪さん、この下に和服美人がいますよ〜」というコメントを寄せてくださいました。きれいな日傘とくれば、その傘をさしているのは、やはり女性、それも和服を着ている女性でないとイメージが崩れますよね。

 1枚の写真とちょっとした説明しかないのに、私の投稿を見てくださった方は、それぞれの立場で、小粒姫日傘一夜茸への思いをふくらませて下さったんですね。それも、読んだ人たちみんなが、楽しくなったり、うれしくなったりすることばかりです。みなさん、ありがとうございました。            

  (2021年7月18日)

 
 

第666回 花開く瞬間

 オオマツヨイグサのつぼみが膨らみ、花が1枚、2枚とはじけるように開いていく。開き始めてからすべての花びらが開き終わるまでわずか1、2分の出来事でした。2021年6月25日午後7時過ぎ、こんな感動の一瞬がやってくるとは……。  

 大潟区雁子浜のKさんから電話をもらったのは6月議会の最中でした。「月見草が咲き始めました。良かったら見に来ませんか」とのお誘いでした。そして6月25日、柿崎の百足屋で買い物をしていた時、いま一度お誘いの電話をいただきました。

 電話は、「今年はいつもよりも早く咲き始めていて、昨夜は百個からの花が開いた。今夜も60個から70個は咲くでしょう。花が開き始めるのは午後7時少し前になります。だから、7時頃来ませんか」といった内容でした。

 この言葉を聴いたときには、電話で聞いた花が一日花だという意識はなく、「たくさん花を咲かせて賑やかな感じになるのかな」くらいのイメージで電話を受けとめていました。だから、毎週の活動レポートに連載している花の紹介欄で使わせてもらおう、そんな気持ちでいたのです。

 夕方になって、私は家を予定よりも少し早く出ました。というのは、月見草の写真を撮る前に、上下浜海岸で夕日または夕焼けの写真を撮ろうと思っていたからです。この日は水平線の少し上に雲があって、海に沈む夕日は撮れませんでしたが、赤い夕陽と海面に細長く映る夕日の光が見事でした。何枚かの気に入った写真を撮ることができたので、Kさん宅へ向かいました。

 旧国道からKさん宅へ向かうと、Kさん夫婦がすでに家の外に出て、私を待っていてくださいました。それだけ、私に見てもらいたいという気持ちが強かったのかも知れません。車をKさん宅にとめさせてもらい、さっそく花を見ることにしました。

 Kさんが月見草と呼んでいたオオマツヨイグサは道路脇の電柱を挟んで2つに分かれていました。すでに黄色の花のいくつかは開き終わっていました。Kさんは、私に向かって、花の様子について解説し、細長いつぼみが膨らみ始めたものを指差し、「これはもう少しだね」「これは、あと5分はかかる」などと言われました。おそらく、これまでたくさんのオオマツヨイグサの花たちを見て来られたので、直感で、花びらのすべてが開くまでの時間を予想できるのでしょう。

 この段階まで来て、Kさんが電話をくださった理由がわかりました。単にオオマツヨイグサの花を見てほしいのではなく、花びらがすべて開く瞬間(とき)を見て、撮ってほしいということだったのです。

「ほら、咲いた」「これもすぐだ」。Kさんの、そうした声を聴いて、私はデジタルカメラの動画モードで撮る気になりました。Kさんやお連れ合いから、「これがいいよ」と勧められたつぼみのそばでカメラを構えることにしました。

 構えて1分経つか経たないうちに、つぼみがかすかに動き始めました。向かって右側の方がゆっくりゆっくり膨らんできました。そして、他の花びらを押しのけるようにして1枚の花びらがさっと開きました。さらにほかの花びらも動き始めました。見ている方としては、じっとしてはいられません。「よーし、いいねぇ、もう少しだよ」、そんな声を掛けながら待ちました。その直後でした。残りの3つの花びらがいっせいに開き、全開となったのは……。

 オオマツヨイグサのつぼみが開き始め、すべての花びらが開くまでわずか1、2分、花の開く過程がこんなにも美しく、人の心を揺さぶるとは思いませんでした。自然界での一瞬の出来事に、私は心の中で大きな拍手を送りました。

 (2021年7月11日)

 
 

第665回 晴れ舞台

 6月20日の月影歌謡祭≠フ前日や当日の動きを見て、改めて思いました。歌や踊りが好きな人たちは、数分の自分の出番のために最高の準備をするということを。

 前日の午後3時半頃、歌謡祭の会場となる月影の郷体育館に行くと、音響機器の設置や飾り付けなどはすでに終わっていました。そして、参加予定者はそれぞれ舞台に上がって音合わせを行い、舞台の雰囲気、会場での音の響きなどをチェックして、本番に備えていました。

 歌謡祭当日の午前もリハーサルです。歌や踊りで参加するみなさんは、再度、入念なチェックをして本番への最終調整をしていました。

 本番は12時半から。主催者や来賓の挨拶に続いて、60組の人たちが歌や踊りを披露しました。このうち、圧倒的多数が歌、日本舞踊とレクダンスはほんの数組でした。発表時間は全体で4時間、歌は2番までという決まりになっていました。

 プログラムに沿って歌謡祭を進めたのはMさん。ひとりで4時間、司会を続けました。「はい、続きましてAさんの津軽の花≠ナす。Aさん、どうぞ」。最後の「どうぞ」は語尾が上がる言いまわしです。しっかりした声で出場者名と歌だけを伝える簡潔な紹介と「何なにさん、どうぞ」は印象に残りました。

 天地真理の「ひとりじゃないの」を歌ったのはYさん。腰を振って、左手で拍子をとって、「ふたりで行くって すてきなことね いつまでも どこまでも」とやっていました。会場では舞台に向かって左右から照明があてられていたのですが、Yさんの腰などの動きは影も同じ動きになります。この影もまた楽しそうでした。

 男性の出演者の中で、男惚れしたのは、大島区田麦出身のTさんと元観光バスの運転手のHさん。北島三郎の「祭り」を歌ったTさんは和服姿がとても似合いました。Hさんは背が高く、スーツの左右のアクセサリーが素敵でした。「風を追い 風に追われて幾とせか……」男っぽさの漂う歌は聴衆を魅了しました。

 オレンジの和服で登場したFさんも着物と唄で聴衆を惹きつけました。少し前まで「あるるん畑」で寿司を握っていた人ですが、福田こうへいの「南部蝉しぐれ」を体育館全体に響く豊かな声量で歌いあげました。私のそばに座っていた安塚、浦川原レクダンスの女性陣も、「すごい声だわ」「ギャッホー」という声を出していました。歌の途中で拍手も起きました。

 歌を歌い、踊って、じつに楽しそうだったのは、KさんとIさんによる氷川きよしの「大丈夫」。団扇を持って腕をぐるぐる回し、「ひとりぼっちは味気ない お手を拝借、それバンバンバンバンバンバン、も一度、バンバンバン」とやる姿は楽しさ一等賞でしたね。

 この日、歌と日本舞踊がこんなにも合うものかと思ったのは、仁野分のS子さんが歌い、顕聖寺のY子さんが踊った「金沢の雨」です。緑のブラウスと白のスカートを着たS子さんが、「あなたと出会った 片町あたり 相合傘です 金沢の雨」と歌うと、白と薄紫の和服姿のY子さんが薄紫色の傘を広げ、S子さんに寄り添いました。歌と踊りだけでなく、二人の衣装と着物の色もぴたり合っていました。

 当日になってわかったことですが、歌謡祭に参加したみなさんのほとんどは歌や踊りのサークルに入っておられ、日頃から努力されている人たちでした。そして、この日のために舞台専用の素敵な衣装を身につけ、化粧もし、最高の歌や踊りを披露しようと集中しておられたのです。紙面の都合ですべての組を紹介できなくて残念ですが、みなさん、最高の晴れ舞台でした。

  (2021年7月4日)

 
 

第664回 救出作戦

 18日の午後、大島区のK建設に行く際、気になっていたことがありました。それは8日前に見たツバメの雛たちが元気でいるかどうかでした。

 この雛たちは8日前、K建設事務所脇の車庫の屋根裏にいました。私が見たとき、雛たちは、もう「虫の息」でした。ちょっと見ただけだと、「もう時間の問題だ」と思ってしまうほど衰弱していたのです。おそらく、ツバメの巣が屋根直下にあったことから、熱中症にかかっていたのだと思います。

 この生きるか死ぬかの危機を知ったK建設のカズトさんは、この雛たちの巣の近くに縦30a、横60aほどの「臨時の巣」を作り、ぶら下げました。同じ屋根裏でも、短いところでは30a、長いところでは70aほど屋根から離れた位置です。ここに巣を移せば、屋根直下のような高温は避けられるだろうという判断です。

 ただ、衰弱した雛たちの姿を見たときは、これまでの屋根直下の巣から「臨時の巣」に移動したとしても、「よほど運が良くないと、生きていけないだろうな」と私は思っていました。

 18日、K建設の事務所への階段を上りました。このとき、正直言うと、私は「臨時の巣」を覗いて見る気にはなりませんでした。どういう結果になっているかを知るのが怖かったのです。

 それだけに、K建設社長のお連れ合いのY子さんから、「1羽はだめだったけど、あとは元気になったでね」という言葉を聞いたときはホッとしました。

 1羽が亡くなったのは残念でしたが、ほぼ全滅だと思っていただけに、私は、「よく生きていたねぇ」「おまんちの若手はたいしたもんだ」そう言いながら、階段を下り、「臨時の巣」を見上げました。

 巣を見上げた瞬間、びっくりしましたね。巣の端っこから顔を出していた4羽の雛たちが、信じられないくらい、大きくなっていたのです。4羽はそろって巣から顔を出し、首をくるくると動かしていました。みんな、親が運んでくるエサを今か今かと待っているところでした。 

 私は、「こりゃ、すごい。いつの間にこんなに大きくなったんだろう。親がいっぱいエサくんたがろでも、それにしてもすごい」と言いました。8日前には、ダウン寸前になっていた雛たちが、見事に元気を回復し、しかも一気に成長したのです。うれしいなんてもんじゃありません。

 感心していると、一緒に「臨時の巣」を見上げていたY子さんが、私が知らなかったことを話してくださいました。「屋根のすぐ下だというのもあるでも、最初の巣そのものが小さかったんだね。その巣も移動したんだわ」と。

 本来の巣から「臨時の巣」に雛たちを移動させるにあたって、少しでもなじんでもらおうと工夫してあったというのです。そこまで聞いたら、じっとしてはいられなくなりました。私は階段のところに上がって、巣の様子を見てみようとしました。それでも「臨時の巣」の中は見えません。それで車庫の中ほどにあった脚立を借りて、見せてもらうことにしました。

 脚立の最上部まで上がって、「臨時の巣」の近くから中を見せてもらい、なるほどなと思いました。中には茶色の薄い毛布のようなものが敷かれ、その上には、元の巣のうち、半分くらいが置いてあったのです。雛たちを少しでも安心させたいというカズトさんの思いがあったのでしょう。

 どうあれ、雛たちはいのちの危機を乗り切り、元気な姿を見せてくれました。これからヘビやカラスなどに襲われないとも限りません。ここまで来たら、無事に巣立つところまで見てみたいです。

  (2021年6月27日)

 
 

第663回 三十三観音

 吉川区町田から頸城方面へと車を走らせると左側に杉林が見えます。先日、初めてこの杉林の中を歩いてみました。

 杉林へ行くため、県道の広くなったところに車をとめると、そこからは吉川区の町田、六万部、西野島、頸城区の畑ヶ崎が見え、遠くには米山さんがよく見えます。

 県道を挟んで、この広い場所と反対側に小さな「三十三観音」の案内板があります。この案内板のところから入って、杉林の中へと続く道は、車からも見えます。いつ、この場所を通っても、きれいに整備されているので、一度は歩いてみたいと思っていました。

 今回、この道から奥へと進んでみようと思ったのは、何か素敵な野の花に出合える予感がしたからです。

 予感はすぐに当たりました。案内板のところから数歩歩いてだけで、タツナミソウに出合ったのです。ガマズミの木の下で4、5本、花を咲かせていました。

 タツナミソウはシソ科の植物、花の形が独特で、1回見ただけで覚えてしまいます。草丈は20a〜40aほど。花は筒状で青紫色、先が丸く膨らんでいます。20数年前、吉川区山方地内でこの花を初めて見かけた時、私はツバメの子どもたちを連想しました。親ツバメがエサを運んできたとき、子ツバメたちが巣の中からいっせいに顔を出す姿にそっくりだったからです。

 杉林の中の道は少し砂利が入っていて、しっかり固まった土(つち)の道です。道の両側には15bから20bほどの杉がまっすぐに伸びています。ピスピスピスという小鳥の鳴き声が聞こえます。下の県道のさらに向こうの田んぼからでしょうか、カエルたちの鳴き声も聞こえてきました。

 2分ほど歩くと、「薬師堂」に至る石段のところに着きます。緑色のコケ類が広がり、近くにはシダ類が多くありました。様々な明るさの緑色と茶色でつくられた簡素で落ち着いた空間を見ると、何となく時代劇で見る風景を思い出します。

「薬師堂」入り口を過ぎてすぐの所に「慈眼視衆生・福聚海無量」という言葉が彫られた石柱があります。いきとしいけるものをやさしく見つめ、海水のごとく福を集める。何と素敵な言葉でしょう。

 そしてさらに3分ほど歩いて階段を上がると、急に平らになって、開けています。そこが「三十三観音」のある場所でした。階段を登りきった場所から見ると、石で造られた観音様が左側から右側へコの字型に並んでいます。いずれも赤い前掛けをつけていました。

 左側から1つひとつ見てみようと、1番目の観音様のところへ行くと、細長いトンボがすーっと飛んできて、案内してくれました。観音様はいずれも目をつむっていて、18番目、28番目のように右の耳に手をあてたもの、首を右側に倒したものなど様々です。これは人間のあらゆる苦悩を慈悲の心で包み込んでくださることと関係があると言われています。

 この「三十三観音」が置いてある場所は、縦5b、横15bほどの広場です。いまから206年前、1815年(文化12)に、畑ヶ崎の布施助ニ良がつくったと言われます。200年以上にわたり、多くの人がこの場所を訪れ、平和と幸福を祈り続けてきました。静けさに包まれたなか、観音様に手を合わせていると、気持ちが落ち着き、身も心もきれいになっていきます。 

「三十三観音」からの帰り、少し杉林の高い方へと足を伸ばしました。そこではムラサキゴケと出合いました。花言葉は「あなたを待っています」。一所懸命に生きていても、なかなか悲しみや苦しみが消えていかない。そんなとき、「三十三観音」を訪ねてみてはいかがでしょうか。   

  (2021年6月20日)

 
 

第662回 感動の反応

 6月最初の日曜日は地元町内会の草刈りでした。総勢28人で用水路、ため池等の草を刈り払いました。

 草刈りの作業中は草刈り機を動かしているので、参加者同士で話をすることもなく、ひたすら草刈りをしました。それだけに、休憩時間や終わってからの時間は会話がはずみ、賑やかになります。

 ため池のそばで休んでいたときのことです。私から、「サンコウチョウの鳴き声、聞いたことある?」とまわりの人たちにたずねたところ、「どんな鳴き声だね」と質問されました。「直江津駅で流されていた小鳥の鳴き声だこて。最後にホイホイホイと鳴くんだわ」と答えたのですが、まわりの人たちは、どうもピンとこなかったようです。それならば、実際の鳴き声を聞いてもらおう、そう思ってスマートフォンを使い、「サンコウチョウの鳴き声」の動画を動かして聞いてもらいました。 

 この日はよく晴れていて、スマホからの音も伝わりやすくなっていたようです。「ツキ ヒ ホシ ホイホイホイ」。この鳴き声が池のまわりに響きました。すると、何ということでしょう、近くの林から「ツキ ヒ ホシ ホイホイホイ」という鳴き声が聞こえてくるじゃありませんか。私の近くにいたNさん、Mさん、Kさんなどがびっくり、「おお、スマホの鳴き声に、つられたんだね」「反応したね」などといった声が出ました。もちろん、私も驚きました。

 私の人生70年余のなかで、こちらが発信したものに応えて小鳥が鳴いたのは初めてです。こんなことが現実に起こりうるとは思ってもみませんでした。

 スマホとサンコウチョウのやりとりを聞きながら、Mさんに向かって「これ、いるろね。おまんちの裏山に。おれも聞いているもん」と言うと、Mさんも「うん、いるいる」と言いました。

 ここまでくると、話はどんどん進みます。私は「アカショービンもいるでしょ。キョロロロローと鳴くが」と言いました。すぐに反応がなかったので、ふたたびスマホで調べて、アカショウビンの鳴き声を聞いてもらいました。これにも、「いるいる、確かにいる」という言葉が返ってきました。

 アカショウビンはカワセミの仲間です。私は昨年、柏崎市の用水路で初めてカワセミを見て、撮影もできました。そのことを話すと、Mさんは「カワセミならオラチの裏の用水のところを飛んでるよ」と言いました。また、Kさんからも、「すぐそばの吉川でも行ったり来たりしている」という話が出ました。サンコウチョウが私の住んでいるところにもいるなんて信じられませんでした。話を聞いてみると、どうも知らなかったのは私だけだったようです。

 続いて、キツネのことも話題になりました。私が、「タキシタ(地名)でやせたキツネを見た」と言うと、Mさんが「キツネはこの間の朝、畑の方からオラチの方へ歩いてきたから、じっと見ていて、そばに来てからシッ≠ニ言ったら、やっこさん、びっくりして飛び上がって逃げて行った」と話してくれました。

 すると、今度はNさんが話しました。Nさんは前日の夜、米山さんに登り、草刈りの日の朝4時過ぎに起きて下りてきたといいます。その際、「米山ではきれいなカモシカに出合い、追いかけられた。2ついたから、あれはつがいだったかも。それと小さな黒い動物も見た。コグマかもしれない」などと話をしました。

 この日は、草刈りが終わってからも話が出来ました。サンコウチョウの感動の反応から始まり、小鳥や動物、野の花などの話をして改めて思いました。ここは実に自然豊かで、いいところだなと。

  (2021年6月13日)

 
 

第661回 夜中の対話

 日中は朝から出かけることが多く、母と話をする時間をなかなかとれずにいます。夜は私の帰りが遅くなっても、母と同じ部屋で寝ていますので、昼間に比べたら、話をするチャンスはあります。

 もうひと月以上も前の夜のことです。何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、母が蛍場に住んでいた頃のことを話し始めました。 

「どしたが」
「ネコ、手を前に出して、いらっしゃいませ≠オてと」
「そりゃ、たいしたもんだ」
「ホトラバにネコ、二ついたもんだけど、どしたかな」
「はえ、いねこてね」
「ほっか、いいネコだったでもな」

 わが家が蛍場にあったのは昭和57年の秋までです。「いらっしゃいませ」のネコは夢の中に出てきたのだと思います。そして、蛍場の家のネコのことは39年も前の話です。母の頭の中では昔のことも今のことも横並びになっているようです。

 次は、5月下旬のある晩のこと、時間は深夜の午前1時近くになっていました。ベッドに寝ていた母が突然目を開け、回りを見渡し、どうしたんだろうという表情をしました。

「どしたが」
「いい歌、聞いとー」
「へー、とちゃか」
「ううん、子ども」
「子どもが歌、歌ってたがか」
「うん」
「そりゃ、いかったね」
「うん」
「寝ないや」
「うん」

 ここでいう「とちゃ」は、父、照義のことです。父は田んぼでも牛舎でもよく歌を歌っていましたから、母は夢の中で父の歌を聞いたのかと思ったのですが、そうではなく、子どもたちでした。

 母が夢の中で聞いたという子どもの歌声は、誰だかはわかりません。ただ、牛飼いをしていた頃のわが家の牛舎には、近くの子どもや保育園、小学校の子どもたちがよくやってきていました。母は、そうした子どもたちのことを思い出していたのかも知れません。

 これも5月下旬の夜のこと、私が遅くなって家に入った日でしたから、午後10時過ぎだったと思います。寝室に入ると、寝ていると思った母がベッドのところにちょこんと座っていました。その時の母との会話です。

「どしたが」
「しっこしたが」
「へぇー、そりゃ、えらいもんだ」
「なして、それくらいできるよ」
「そっかね、えらい、えらい」
「早く寝ないや」
「うん」  

  99歳で他界した板山の母の姉は退院後も寝たきりにならないように、はってでもトイレに行ったと聞いています。母もその血筋ですから、どんなに具合が悪くなっても自力で頑張る意思がありそうです。

 最後はつい先だっての深夜です。時間は午前の2時、3時頃だと思います。寝室の電気が点いて明るくなっていたので、目が覚めました。見ると、母がまたベッドのところに腰掛けてニコニコしていました。

「どしたが」
「ふふふ」

 この日、母は昼間も眠ったのでしょうか。私の方は眠たくて、朦朧(もうろう)としているのに、母の方は細い目をしっかり開けて笑っていたのです。母との夜中の対話は、まだまだ続きそうです。

  (2021年6月6日)

 
 

第660回 童心に帰って

 人間の記憶というのは面白いものですね。ちょっとしたことがきっかけになって、思い出し、新たな体験につながっていくことがあるのですから。

 先日の朝、散歩しながら野の花を探していた時のこと、目当ての花が無く、ちょっとさみしい思いをしていました。そんなときに、目に留まったのがゼンマイです。

 ゼンマイは、多年生シダ植物です。山菜として食べる時期はとっくに過ぎています。うずまき状で綿毛におおわれていた茎の姿は一変し、左右の小枝には長い楕円形の葉がたくさんついていました。

 この姿を写真に撮り、「ゼンマイはいま、大きくなって葉を広げています。子どもの頃は、これくらいになると、片側の葉を落とし、飛行機にして遊びました」という説明を付けてフェイスブックに投稿しました。

 すると、「飛ぶんですか。こういうので『飛ばす技術』を競うのが、健全な成長に役立ちそうですね」「その遊びは知らないです。紙飛行機みたいに飛ぶんですね?」「子ども時代はあるもので想像力をふくらませて工夫して物を作り、愉快に遊びましたよね♪」などといったコメントが次々と寄せられました。なかには、「動力はゼンマイですか?」といった「舌を巻く」ようなコメントもありました。

 食べ物としてのゼンマイは広く知られていますが、生長して葉を広げた姿はあまり知られていません。おもちゃの飛行機を作れることについてはなおさらです。

 たくさんのコメントを読んだ私は、もう一度、ゼンマイのあるところに戻りました。手でゼンマイの茎をつまんでみると、けっこうかたくなっています。これなら、飛行機を作れそうだと一枝折りました。

 そして、飛行機の翼を想定し、小枝の葉の片側を指で落として形を整えました。その後、左右のバランスを考え、翼の長さを同じくしました。出来上がった飛行機は一番前の翼が左右それぞれ12aほど、2番目、3番目の翼は8a、3aほどの長さです。胴体の長さは25aほどにしました。

 出来上がれば、あとは飛ばすだけです。近くの田んぼの乗り入れのところで飛ばしてみると、「昔とったなんとか」で見事に3bほど飛びました。そして何度か繰り返しているうちに、滞空時間が長く、7、8bくらい先まで飛ぶものも出てきました。大成功です。

 これらはいずれも動画撮影をしましたので、これまたフェイスブックに投稿すると、「面白い、初めて見ました」「こんな遊びもあるんですね」「えっ!すごい飛ぶ!初めて見ました。いつか飛ばしてみたいです」「子どもの頃は暗くなるまで遊んでいたでしょう」「結構よく飛びますよね。主翼や尾翼の葉っぱの後ろを切って微調整したくらいにして」「おお、科学だ!」などというコメントが続きました。

 注目したのは、私の投稿を見て、何人もの人たちが関心を持ち、実際に飛ばしてみようとしていることでした。夏休みなどのイベントでいろんな実験をして子どもたちに人気の上越科学館の館長さんも関心を持ってくださいました。おそらく、次回のイベントでは、ゼンマイを使った最新型の飛行機を作成し、子どもたちと一緒に飛ばす実演をされることでしょう。

 私自身も、すっかり童心に帰って、より優れたゼンマイ飛行機を作って飛ばす計画を頭の中に描いています。この日の翌日、柏崎市へ行った帰り道には、私は聖ヶ鼻の駐車場から海に向かって、ゼンマイ飛行機を飛ばしました。その時は風向きもあって、なかなかうまくいきませんでしたが、何回か実験を重ね、次回は、尾神岳の展望台から飛ばしてみようと思っています。

  (2021年5月30日)

 
 

第659回 旗持山へ

 先日、柏崎市の旗持山(はたもちやま)へ行ってきました。旗持山は柿崎や大潟などからよく見える山で、標高366b。数年前、上越市教育委員会のある女性から、「あそこは野の花の宝庫ですよ」と言われて以来、ずっと気になっていた山です。

 米山町の国道脇の登山口から登ることにし、聖ヶ鼻(ひじりがはな)にまず行き、車を止める場所を探してから歩きました。

 聖ヶ鼻の高台からは米山町を初めて見下ろしました。町並みはもちろんのこと、海岸がずっと先まで見え、直江津の火力発電所も見えます。「ワオー」と叫びたくなるほどの絶景スポットでした。そこへ2両編成の電車がやってきましたから、たまりません、大急ぎでシャッターを切りました。

 登山口のところには小さな看板があり、「登り60分、下り40分」とありました。標高もたいしたことない、これは楽勝だと思いましたが、甘かったですね。

 最初は小鳥たちや野の花の撮影をし、ゆったりと歩いていたのですが、いったん下り坂になり、再び杉林の中の上り坂になってからが長かった。登っても登っても薄暗く、青空が見えてこないのです。何よりもずっと続く坂道が70歳を超えた体にはきつく、10回くらい木の根に腰掛けて休みました。

 ほっとしたのは野の花と出合ったときです。道にはスミレやクサイチゴなどが咲いていました。特に杉林の中の登山道脇で小さな白い花を咲かせている植物を見つけた時はうれしくなりました。この花は、十数年前に初めて出合ったクルマムグラです。久しぶりの出合いで疲れを忘れました。

 杉林を抜けたのは1時間以上歩いてから。山の尾根ともいうべき場所へ出たとき、海が見えました。波はすじ状になっていて低く、色はブルーでした。そして、「海の高さ」を感じました。具体的に言うと、手前の海岸部が低く、遠くの海が高くなって見えたのです。下から吹き上げてくる風もじつに気持ちいいものでした。「みはらし」と書かれたミニ看板がある近くでは、上輪大橋がよく見えました。アーチ型のきれいな橋ですね。

 山頂に着いたのは午後2時40分頃です。登山口からは1時間40分弱かかったことになります。

 山頂の平なところに2つの小さな看板がありました。「旗持山山頂」と「旗持山城址」です。4月に郷土史家の植木宏さんから上杉謙信の時代の山城について話を聴いたばかりでしたが、旗持山城は海岸警備の要で、春日山城の支城群の1つです。この日は残念ながら木の枝が邪魔をして、春日山城址を望むことはできませんでした。また、旗持山と柿崎側の山の空間は、下で見ると、手塚治虫の漫画、「ハトよ天まで」に出てくる黒姫山と久風呂岳の景色に似ていますが、そこもよく見えませんでした。

 私が山頂から一番見たかったのは高速の北陸道です。柏崎から柿崎方面へと走る時、正面に見える旗持山から見たら高速道はどんな感じに見えるのだろうかと思っていました。今回、やっと念願が叶いました。高速道のラインは美しく、山頂から走っている車を見ると、大きな動物が足元で動く虫を見ている感じになるんですね。

 山頂からの下りは上輪大橋の近くに出るルートにしました。ロープが随所に張られるほどの急こう配の坂道です。杉林のところに出るまでは靴がすべりやすく、ずっと緊張しました。国道まで下りたのは午後4時頃だったと思います。

 今回の旗持山登山で出合えた野の花は、この時期ですからクルマムグラ、オオハナウドなどほんの数種でした。でも、山頂からの眺望は抜群、旗持山城の重要な役割も理解できました。N先生に感謝です。
  
  (2021年5月23日)

 
 

第658回 牛飼いの心、今も

 考えてみれば、これまで母と一緒に映画を観た記憶はありません。ひょっとすると、今回が初めてかも知れません。

 「ひょっとすると」と書いたのは、60年ほど前、旧源小学校水源分校で青年会主催の映画を観た時、母も一緒だったかも知れないからです。記憶にないのですが。

 今回、母と一緒に映画を見たのはテレビ初登場のドキュメンタリー映画、「夢は牛のお医者さん」です。私はこの映画を高田世界館などで4回観たのですが、長年にわたって牛を飼っていたわが家のことと重なることが多く、「これは母にもぜひ観てもらいたい」と思っていました。

 ただ、普通の映画館や映写会場まで母を連れていくのは無理でしたので、今回のテレビ放映は願ってもないことでした。

 「夢は牛のお医者さん」の放映が始まったのは今月7日の午後6時15分から。母は電動イスに座ってテレビを見つめていました。牛が出てくる映画に母がどういう反応をするか、私は時どき、母の表情を見ながら、映画を観ました。

 母がこの映画に反応し、最初に口を開いたのは「牛の卒業式」のシーンです。映画の主人公の知美さんが旧松代町莇平小学校の児童だった時の出来事でした。子牛の段階から長期間世話をしてきた牛を出荷する前に、子どもたちは「牛の卒業式」を行い、泣きながら、牛たちに感謝の言葉を伝えていました。母はこの場面を見て、わが家で父が乳搾りを始めた当時のことを思い出したのです。

「とちゃ、村屋の中村さん、どうしなったもんだ。おらちに来て、乳搾り、教えてくんなったこて」
「もう亡くなったよ。いま、あそこんちは柿崎へ出なったよ」
「へー、そいがか」

 中村さんというのは司法書士をされていた中村英一さん(故人)です。中村さんは山間部の源地区で酪農をした草分け的な存在でした。

 知美さんたちは、学校で子牛だけでなく、豚も飼いました。子牛はある程度肉がつけば、肥育の素牛として売られます。豚とて同じです。母は、豚の出荷の場面をじっと見ながら、言いました。

「階段とこ、チョンチョンと上がるわ。子ども泣いているな、はらいながって」

 わが家でも、牛を家畜商のトラックに乗せて別れるときはいつもつらかったものです。母は、映画でそのことを思い出していました。さらに、父、照義が豚肉を食い過ぎた時のことも思い出したようです。

「とちゃ、豚の肉、いっぺ食って、腹のまわりカイカイになった。栃窪の温泉に通って治したがど……」

 映画を観ながら母と共にテレビ画面に釘付けになったのは、知美さんの実家での牛のお産の場面でした。難産となっている牛を助けるために、破水して出てきた、子牛の足にロープを巻き、家族みんなが力を合わせてひっぱる、こういうことは、わが家でも何度も経験しました。

 映画ではロープを使ったかどうかは 不明ですが、子牛の足が出てきて、子牛の体全体を引っ張りだすまで、無意識のうちに腕に力が入り、「よし、よし、よーし」と声をかけていました。母も声こそ出さなかったものの、私と同じ気持ちだったと思います。  

 「夢は牛のお医者さん」は、牛の病気を治すために獣医になりたいという知美さんの夢を追うドキュメントです。97歳の母は、十数年前まで搾乳時の「あとしぼり」や子牛の体をこするなどの仕事をして頑張っていました。映画に登場した牛が産後、エサを食えなくなった姿を切ない目で追う母を見て、「母はいまだに牛飼いの心を持っている」と思いました。  

  (2021年5月16日)
 

 

第657回 トイレ介助

 今年の3月から母の部屋で一緒に寝ています。

 私が母と一緒に寝るのは12年ぶりです。前回は父が他界し、さみしいだろうと思ったからでした。今回は、母に病気の発症などの緊急事態が起きた場合に備えて決めました。

 私が布団に入るのは早くて23時頃、遅い時は午前1時を回ることもあります。母と一緒に寝ている時間は6時間ほどです。

 おかげ様で一緒の部屋に寝るようになってから今日に至るまで緊急事態はなく、ホッとしています。その代わり、私の新たな役割がひとつ、出てきました。母がトイレに行く時の介助です。

 母がトイレに行くと言っても、トイレはポータブルトイレです。ベッドのすぐそばにありますので、車イスを使う必要はありません。ベッドとトイレの移動をスムーズにできるようにすること、母のズボンやパンツの上げ下ろしを手伝うことが私の主な仕事になります。

 母はトイレへ行きたくなると、暗くなっている部屋の電気をつけます。次いで、ベッドの手すりやポータブルトイレの手を置く場所につかまって移動します。所定の位置に移動をしたことを確認してから、ズボン、ももひき、パンツを順に下ろします。その後、便座に座ることになりますが、母は「はぁー、どっこいしょ、ありがとね」と言いながら、座ります。

 このとき、ポータブルの真ん中にキチンと座ってもらうことが大事です。ややもすると、浅く座ったり、斜めに座ったりしますから。それをちゃんと直さないとたいへんなことになります。おしっこがとんでもないところに流れ出てしまうからです。

 便座にうまく座ってくれると一安心です。母の小便がトイレの容器の中に落ちる音を聞きながら、折りたたんだトイレットペーパーを母に手渡しします。受け取った母は、いつも、「あっりがとう」と言います。そしてペーパーで陰部をふいた後、「よいしょーの」を1回ないし2回言って威勢を付けて立ち上がります。立ったところで、パンツ、ももひき、ズボンの順に上に引き上げます。そして、再び布団の中にちゃんと寝るようにしてあげる、これでトイレ介助はおしまいです。

 このトイレ介助は朝起きるまでに少なくとも3回しなければなりません。単純な介助とはいえ、2時間に1回の割合となると、こちらはなかなか深い眠りをすることができなくなります。それがつらいところですね。

 母はトイレに行くと、たいがいはすぐに布団の中で眠るのですが、眠れなくて、布団の中から私に声をかけてくることがあります。

 3月の末ごろでした。「ああ、とちゃがいていかった。おれ、おっかね夢見たがど……」と言って私に声をかけ、どんな夢かを語ってくれました。

 先日も眠れなくなったのでしょう。つながりのない、いろんなことを思い出し、語り続けました。

「庄屋の家に子どもがいたがど……。どうしたかなぁ」
「なに、田麦の話か」
「うん。おした(半入沢にあった家の屋号)の親戚で、ひとり暮らしの人、いなったこて。あの人、どうしなったろな」
「守さん、何年も前に亡くなったよ」
 
 言うまでもなく母がショートシティ(短期入所)に行っていて家にいないときは、トイレ介助をする必要がありません。そういう時は、「今夜は楽々眠れるな」と思って、布団の中に入るのですが、母がベッドに寝ていないと、ろくに眠れず、目が冴えてしまうのです。不思議なものですね。  

  (2021年5月9日)

 
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