春よ来い(34)
 

第811回 最後の巣立ち

 16日の午後、上越市富岡のパティオにいるときでした。コウノトリの巣の近くで田んぼを耕作しているTさんから携帯電話がありました。

 電話に出たら、Tさんはいきなり、「巣の中、いま、からっぽになってるよ」と言いました。

 正直言って、「しまった」と思いました。じつは前日の夕方、4羽のヒナのうちまだ巣立っていない1羽が巣の上で盛んにジャンプを繰り返しているところを見ていました。16日の朝もすでに巣立った1羽が最後の1羽に寄り添い、盛んにジャンプを促していました。これまでの経験から言って、そう遅くない時期に巣立つ可能性が高いと思っていたのです。

 ところが、16日の午後になったら、今月下旬に実施する「小さな作品展」の準備で動き回っていて、最後のヒナの巣立ちのことが頭からすっかり離れてしまっていました。

 Tさんには、「すぐに行きます」と返事をし、「いま、何時かね」と訊きました。というのも、現地に行くまでの所要時間は40分弱でしたので、私が撮影場所に到着するまでに鳥が巣に戻っていなければ、「巣立ち」として認定できると思ったからです。車を走らせながら、「おれが着くまでは巣に戻らないように」と祈りました。

 富岡からは約35分でわが家に到着。カメラを用意して、すぐ車に乗り込み、いつもの撮影場所をめざしました。

 撮影の現場に着くと同時に、巣を見ました。肉眼で見るかぎり、巣の上にはコウノトリの姿はありません。カメラのズームを伸ばしても姿はなし。これで巣から30分以上離れることという巣立ちの要件はクリアしたことになります。「よし、やった」そう思いながら、総合事務所に最後の1羽の巣立ちの様子を報告しました。

 吉川の営巣場所から13日に巣立ったヒナたちは、巣立った後、近くの田んぼに下りていました。今回もそうなるかも知れないと思って、田んぼの近くに住むTさんに電話を入れると、「おらったりの田んぼに、いま3羽いるよ。隣の町内会との境にも1羽いるみたいだ」という情報が入りました。

 そこでいったん、いつもの撮影場所を離れ、Tさんが見たという田んぼの見える場所まで移動しました。

 車を移動している最中、巣の近くの田んぼのなかに、2ないし3羽のコウノトリの姿を確認できました。車を止めてから、三脚を使い、望遠ズームを使って見たら、1羽は母親、他はすでに巣立っている幼鳥でした。ただ、この時、最後に飛び立ったヒナの姿は見られませんでした。

 しばらく田んぼの中の幼鳥たちの動きを見ていると、農道に上がり、歩いています。その姿は多少ぎこちなさはあるものの、わずか3日前に巣立ったばかりとは思えないほど堂々とした歩きっぷりです。

 5月の上旬に誕生したヒナたちは4羽。このうち2羽は13日に、1羽は翌14日に巣立っていました。残るは1羽。その段階で私には気になることがありました。最初に巣立った2羽のヒナたちが巣に戻ってきたとき、身動き一つせず、巣にべったりと寝ているのがいました。いかにも具合が悪そう。それが最後のヒナだったのです。

 2日後、そのヒナは巣の上で1分間に10回以上もジャンプを繰り返すほどになっていました。それでも、私は何かなければいいがと心の中で思っていました。

 それだけに、最後のヒナが巣立ったことを知ったとき、私は心の底からうれしくなりました。そして、この日の夜、私は久々にビールをひと缶飲み、巣立ちを静かに祝いました。   

  (2024年7月21日)

 
 

第810回 生きていた鯉

 ずっと気になっていたんです。留守家になってから、Hさん宅の脇の「たね」(小さな池)にいた鯉たちはどうしているかと……。

 7月上旬のある日の午後、Hさん宅に着いた私は、玄関前に車を止めて、近くの「たね」に行きました。「たね」には4㍍ほどの高さから水が細く落ちていました。その中心部から波が広がっています。気になっていた鯉たちですが、何処かの陰にかくれていたのか見当たりませんでした。

 そこで、久しぶりに帰省していたR子さんに声をかけると、「鯉はいますよ」と言われました。それならばと、2人で再び「たね」へ。いつの間に出てきたのでしょうね、「たね」のそばまで行くと、体長が70㌢ほどの大きな鯉が2匹いて、そのうちの1匹がバシャッと跳ねました。様子を見ていたR子さんは私に向かって、「喜んでいるんですよ」と言いました。確かに、私も喜んでいるように見えました。

 この「たね」には1994年(平成6)から鯉がいたそうですから、もう30年になるんですね、鯉たちが棲(す)んでいたのは……。数年前まで、鯉は6匹いたそうですが、サギなどにやられてしまい、現在は2匹だけになったそうです。

 日常的に「たね」の鯉の世話をする人は1年数か月前まではいました。でも、1人で暮らしていた人も亡くなり、現在はいません。ただ、時々、私と同年代の子どもさんたちがやってきて、家の管理をしています。そのときはエサを与えていることと思います。でも冬から春にかけてはずっと留守でした。だから、鯉たちはどうなったか心配していたのです。

 今回の訪問でR子さんから説明してもらい、納得しました。「たね」の山際には、奥が深い「むろ」のようなものがあって、どうやら、鯉たちはそこで冬を過ごしていたようです。それにしてもよく冬を越し、これまで生きてきたと思います。R子さんによると、大きな鯉はネズミだって食べてしまうとか。食えるものは何でもとって食べていたのかも知れません。

 この日、「たね」の様子を見に行ったとき、紫色のクガイソウが5、6本、土手に咲いているのが見えました。私は浦川原区の有島や吉川区の石谷あたりでしか見たことがありませんので、数少ない珍しい野の花なのかも知れません。

 私が「クガイソウだね」と言うと、R子さんは、「紫色だけでなく、白いものもありますよ」と言うので、案内してもらいました。ひょっとすれば、初めて見るクガイソウかもと心は踊りました。でも、「白いクガイソウかも」と言われた植物があった杉林にはクガイソウはなく、オカトラノオがありました。R子さんが見たのはオカトラノオだったのです。昔はここでオカトラノオを見た記憶がありませんので、植物の生態も変わったんでしょうね。

 その後、Hさんの家の近くにある梅の木のところにも2人で一緒に行きました。R子さんが「花梅」と言っていたその木には1個だけ梅が生っていました。実は熟し、黄色くなっていました。「食べていいですよ」と言われたのでいただきましたが、味はけっこう美味しいものでした。木の幹の周りには梅の実が見当たりませんでしたから、今年はこの1個だけだったのかも……。貴重な一個をいただきました。  梅の実を食べてからもう1回、「たね」へ行きました。「たね」に落ちてくる水を運ぶ管を支えているのは2本の細い丸太です。そのうちの1本の丸太の頭には、15年前に亡くなったH男さんがかぶせたというアルミ製のキャップがそのまま使われていました。2匹の鯉が生きる「たね」にはいろいろな歴史が刻まれているんですね。  

   (2024年7月14日)

 

第809回 じじ、見て

 先日、7月下旬に開催する「橋爪法一の小さな作品展」に亡き弟・勇の作品も展示してもらいたいと思い、大潟区四ツ屋浜の家に寄りました。

 お茶をご馳走になりながら、6月23日の上越市消防点検後の懇親会の席で、Sさんという方が私に「残念でしたね」と慰めの言葉をかけてくださったことを弟の連れ合いの加代子さんに伝えました。

 すると、加代子さんは、「葬儀にはSさんが夫婦で参列してくださったんです。勇さんが高田の店に勤めていた頃、奥さんもどういうかたちだか忘れたけど勤めていなったんだわ。Sさんはとても良くしてくださる方で、いまも自動車のことで世話になっているの」と教えてくれました。Sさんと話をしたとき、弟とは濃密なお付き合いをしてくださった方かもと思ったのですが、それほどお世話になっていた方だったとは……。びっくりしました。

 その後、今年の大潟かっぱ祭りの話になりました。今年のかっぱ祭り、私は時間がなく、初日のお昼頃の音楽ライブだけ見てきたのですが、吉川区尾神とかかわりのある人がフェイスブックにあげたかっぱ祭りのスナップ写真を見て、「まさか」と思いました。弟そっくりの男性が写っていたからです。

 その写真はかっぱ祭りの2日目に行われた民謡流しの様子を撮ったものです。写っていたのは土底浜の人たちです。写真の手前には、日頃お世話になっているM子さんがいて、その奥の方に青い法被(はっぴ)を着た男性がいました。いくぶん弟よりも若い感じがしましたが、横から見た時の目鼻の形といい、あごの出具合といい、勇と瓜二つでした。

 写真を見た後、加代子さんにはその画像を送り、「そっくりの人っているもんだね」と話したのですが、加代子さんは、弟の生前の写真と思い込んでいたようです。でも写真は明らかに今年のかっぱ祭りで撮影したものでした。亡くなってから9ヶ月経った今でも、元気でいてほしかったと思っていますが、その思いがそっくりさんを見つけることにつながったのでしょうね。どうあれ、今年のかっぱ祭りに弟が参加しているように感じられて、とてもうれしく思いました。

 亡き弟はかっぱ祭りが大好きで、民謡流しの際には女装したりして盛り上げていました。加代子さんは、「近所の人たちが、〝勇さんがいなんねと祭りを盛り上げるのが大変なんだわ〟と言ってくんなってね」と、うれしそうに教えてくれました。

 この言葉が出てふと思い出したのでしょうか、加代子さんが、「四ツ屋浜の民謡流しが来たとき、弦之介がじじの写真をもって見せたの。弦之介はとってもやさしい子」と言いました。

 弦之介くんは、まだ5歳の小さな男の子です。この子が亡くなったおじいちゃんに民謡流しの様子を見せたい、そう思って、縦20㌢、横10㌢ほどの弟の写真を民謡流しの隊列に向けて掲げたというのです。

 この様子は弟の家族が動画に撮り、スマートフォンに保存してありました。四ツ屋浜の通りを西側からオレンジの服を着た人たちが踊りながら進んでくる。曲は大潟かっぱ音頭でしょうか、「はー、さとのみずうみ 朝日に映えてヨー……」の唄が聞こえてきます。その踊りの隊列に向かって、弦之介くんが左手に持った弟・勇の写真をさっと掲げ、「じじ、見て」と言った表情でじっと動かない。これにはぐっときました。

 おーい、勇。弦之介くんの気持ち、わかったかー。民謡流し、見えたかー。もし見えたなら、夜中でいいすけ、弦之介くんの頭、そっとなでてくれや。頼むど。  

    (2024年7月7日)

 

第808回 お茶飲み場

 数人が集まって気軽にお茶飲みできるたまり場、昔は農機具屋さん、鉄工所さん、酒屋さんなどけっこうありましたね。

 先日、田んぼの干ばつ被害調査の途中、数少なくなったお茶飲み場のひとつ、吉川区福平の農産物直売所に寄ってきました。

 誰がおられるかなと、車のスピードを落とし直売所の中を見たら、E子さん、F子さん、Hさんなどの姿が見えました。

 時間は午前10時半頃です。直売所に野菜などを持ち込み、売り物を並べ終わった段階でお茶飲みを始め、まだ続いていたようです。車を止めて中に入ろうとすると、Hさんに、「あらー、いま、先生帰んなったばっかだよ。おまんに頼みたいことあるそってなったよ」と言われました。

 Hさんが言う先生とは私の中学時代の恩師、實英先生のことです。たぶん、がっかりしている様子が私の顔に出ていたのでしょうね、Hさんはすぐに先生に携帯電話をかけてくださって、先生には再びお茶飲みの場に戻っていただきました。

 私がお茶飲みに参加して最初に言われた言葉は、「選挙も終わったし、来(き)なんねがかね、と噂してたがだ」でした。今年度直売所がスタートして初めての訪問でした。どういう言葉であれ、私のことを気にかけてくださるのはうれしいことです。

  「いやー、いろいろと騒ぎが続いてね。なかなか来れねかったがどね」と言ったのですが、実は私自身も、ずっと気になっていたのです。

 私の言い訳が終わってからは、いつものように楽しく、面白い話になりました。

 一番新鮮に聴こえてきたのは、料理の話です。K子さんだったと思いますが、「ひとかたけだけ、残らんように作るのは大変なんだわ」と言いました。久々に聴く「ひとかたけ」です。誰かが「一人分作るのって大変だよね」と言ってからは、一人分の料理のことが話題の中心になりました。

 實英先生が「大根一本もらっても、どうやって使い切るか悩むこて」と切り出すと、「昔は煮物に入れてあまっても、次の日のお昼に食べたもんだ」「夏場になりゃ、ニオイかいだぐれにして食べた」「いまの若いしょは衛生的なんだよね。冷蔵庫の中を見て、じいちゃん、これダメだよって言うんだよ」「おら、作るがやだ」などと賑やかに続きました。

 話を聴いていて、私が思い出したのは、2か月ほど前の夕方、原之町で見かけた素敵な光景です。昔、下宿屋もやったことのある80代のK子さんが、道をはさんで反対側に住んでいる同級生のU子さんに、「おまん、夕飯作ったかね。作ってねかったらおら家で一緒に食べねかね」と声をかけていたのです。K子さんもU子さんもすでにお連れ合いを亡くし、一人暮らしです。一人分の料理をどう作るかも大切ですが、こんなふうに助け合って食事するっていいなと思いました。直売所でのお茶飲みでは、この2人のことも紹介しました。

 この日のお茶飲みでは、それぞれの結婚をめぐる話でみんなが大笑いしました。

 誰かが私に、「板山のY子さん、どうしてなるかね」と訊いたので、「生きていなるよ」と冗談まじりに答えました。そうしたら、「よくあそこに行きなったよね」「父ちゃんが土方に来て、連んてったがだ」「旦那に惹かんたがだこてね」「他人(ひと)のこと言ったって、みんなそいがだ」「おらだけだ。騙(だま)さんてきたがは」と話が終わらなくなりました。

 直売所では約1時間、過ごさせてもらいました。誰でも歳を重ねます。連れ合いを亡くしてひとりになるときも来ます。そんななかで切ないこと、悲しいことを忘れ楽しむ。それができるお茶飲みの場所は大事にしたいものです。    

 (2024年6月30日)

 
 

第807回 見守り隊

 5月25日の朝、5時46分でした。布団の中でスマホを操作していたところ、突然、携帯電話が鳴りました。

 電話をかけてきたのは、コウノトリの巣のそばの田んぼを耕作しているTさんです。Tさんは私の友人で、気持のやさしい人です。電話は「親鳥が頻繁に下りたり、上がったりしているがど。エサが足りないんだろうか、それとも何かあったのかね」という問い合わせでした。

 身支度をしてから、大急ぎでいつもの撮影場所まで行きました。この場所は、コウノトリの巣から250㍍ほど離れたところにあります。

 三脚を立て、カメラを回し始めました。オスの親鳥が巣の上に立っていて、ヒナたちが巣の中から時々頭を出しています。Tさんからの電話で、「ひょっとしたら、ヒナの一部が巣から落ちたかも知れない」と思っていたこともあって、4羽のヒナたちが無事であるかどうか一番気になりました。「あっ、1羽いる」「2羽目、3番目もいた」。ところがもう1羽の姿がなかなか見えません。しばらくして最後の白い頭がかすかに動きました。「おお、いたいた。大丈夫だ。みんないる」。4羽とも顔を上げてからは、動きがとても活発になりました。良かった、良かった。ヒナたちはみんな無事でした。

 すぐにTさんのところへ電話を入れました。「大丈夫だったよ。4羽、ちゃんといたよ」と言うと、Tさんも安心したようです、「そりゃ、いかった」と言いました。

 私がこの日、撮影場所にいたのは約40分です。Tさんからの電話をきっかけに知ったことですが、コウノトリの親子はけっこう早くから動いているんですね。

 Tさんが電話で言った、巣から離れ、巣に戻る親鳥の頻繁な動きは、巣のメンテナンス(手直し)の材料運びでした。枯草や木の枝などを運んでいたのです。

 この日、注目したのはヒナも親の巣づくりを手伝っていることです。1羽のヒナが杉の葉が残った枝をくちばしに挟み、動かしている姿にはびっくりしました。ヒナが誕生してからまだ20日足らずです。それなのに親と協力して巣の手直しをしている。大したものだと思いました。

 Tさんからの電話を契機にわかったのは、コウノトリの動きを静かに見守っている人がいることです。それも1人や2人ではありません。近くの田んぼの耕作者、毎日のように望遠鏡で観察を続けているお寺さん、自宅の二階から望遠鏡やカメラのズームを使って見ている人など大勢いることがわかりました。誰かが呼びかけたわけではないのですが、自然にコウノトリの「見守り隊」ができていたのです。強い風が吹いた日、冷たい雨が降った日、30度を超える夏日となった時などは、「見守り隊」のみなさんが「コウノトリは大丈夫か」と心配しています。

 私も「見守り隊」の一員です。最近は忙しく、朝の5時半過ぎから30分くらいしか見守りができませんが、この時間帯がまたいいのです。親鳥がエサ探しから戻って、ヒナたちに与えるときはとても賑やかです。ウグイスなどの小鳥たちも毎日やってきて、さえずります。そして、お寺の鐘の音や防災無線から時報も聞こえてくる。このゆったりした時間の流れは素敵です。

 コウノトリのヒナたちは6月17日、兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」からやって来た専門家のみなさんによって足環をつけてもらいました。もう20日ほどすればヒナたちは巣立ちを迎えます。高い電柱の巣の上から最初に飛び立つには勇気がいるはずです。飛ぼうとして、戻る。また挑戦する。その繰り返しの中で飛び立った時には拍手を送りたい。    

  (2024年6月23日)

 

第806回 思い出の花

 1つの花が懐かしい人とつながっていて、花を見るとその人を思い出す、ということがありませんか。

 先だっての日曜日のことです。吉川区の山間部にある専徳寺に用があって行ったところ、前住職のお連れ合いの眞知子さんからお茶を飲みませんかと勧められました。お茶会の場には、亡き弟の同級生であるY子さんとお連れ合いの姿がありました。

 偶然、花好きの人が何人も集まったことから、この日はお茶をいただいているときも外に出て庭園を見せていただいた時も花をめぐる楽しい話が続きました。

 眞知子さんから出していただいた細いウドとワラビの漬物をご馳走になりながら最初に話題になったのは、ネコヤナギの花でした。

 コヤナギは大潟区に住んでいた弟の勇やお世話になった1人の大工さんとの思い出につながっています。

 弟は毎年のように、蛍場の川のそばからネコヤナギを採ってきていました。その動きを見て、私は近くの吉川橋の上流右岸ににあるネコヤナギの様子を見に出かけたものです。

 ちょうど新しいエッセイ集の出版が間近だったこともあり、Y子さんに「今回の本の中にもY子さんの名前が入っていますよ」と言いました。本の中には、数年前、急に亡くなった大工さんの所へネコヤナギを持ってお参りに行ったときのことを書いたものが入っていました。「春ですね」という題名です。その文章の最後にY子さんのことをちょっぴり書いていたのです。

 お茶会では、「ネコヤナギに触った時の感じ、いいよね」「懐かしいね」などと言いながら弟などの思い出に浸りました。

 お茶をいただいていた場所からは、外の庭木が見えます。眞知子さんは「あそこの淡いピンク色の花はウンナンナツロウバイというんです。ウンナンは雲南省の雲南です。そのそばにある白い花はサンショバラです。山椒の木のあのサンショです」と説明してくださいました。いずれの花も私が初めて見る花でした。

 お茶会後、みんなで庭に出て、駐車場の近くでツリガネニンジンの茎や葉を見ているときでした。すぐそばで、ドクダミが白い小さな花をきれいに咲かせていました。

 この花を見ると、千葉県習志野市に住んでいた叔父を思い出します。叔父が亡くなる数年前、叔父と共に労災病院に入院していた母の実家の伯父を見舞い、直江津駅前の食堂、「多七」で食事をしました。私の記憶では、叔父との最初で最後の食堂での食事でした。そのとき、伯父は、「次はおれだよ」とボソッと言ったのです。

 叔父の葬儀の時、叔父の家の近くにあるお寺に泊めてもらいました。告別式の朝、散歩をしていて、その年に初めてドクダミの花を見ました。見た瞬間、こんなにもきれいな白い花だったかと驚きました。その印象が強かったので、ドクダミの花を見るたびに、叔父との思い出が浮かびます。

 専徳寺の北側の庭ではクリンソウの花がいくつも咲いていました。眞知子さんがY子さんに分けてあげますよということになって、その作業をされているとき、私はその先の池を見ました。池の中を見ると、緑の葉に囲まれた鮮やかなピンクのスイレンが咲いていました。そのスイレンを見て私は数年前、前住職と一緒にお茶飲みをさせてもらった時のことを思い出しました。

 その際も、「モリアオガエルがいるんですよ」と言われたのですが、緑色のカエルを見つけた後、池の中のスイレンが目に入りました。その美しさに惹かれ、池のそばまで行ったのは言うまでもありません。  そのスイレンがまた咲いている。私は、なぜかうれしくなりました。    

  (2024年6月9日)


 

第805回 有線放送2

 先日、上越市内から有線放送が無くなってしまうという話を聞いて、急にYさんと話をしたくなりました。

 Yさんはいまから50ど前、旧源農協の有線放送の交換手さんだった人です。顔を合わせて話をすることはほとんどなかった人ですが、透き通ったきれいな声は何百回も聴いていましたので、いまでもよく覚えています。

 現在、新潟市に住むYさんに電話をすると、私の父のことはよくご存じでしたが、私のことはうっすらとしか記憶に残っていませんでした。でも、私からの電話を懐かしく受け止めていただきました。

  「尾神というか蛍場にあった橋爪照義の子どもです」と言うと、「よくわかりますよ。乳をしぼっていなったでしょ。お父さんは、いばって何かをするとか、人をけなすことのない穏やかな人でしたね」と言ってくださいました。「けっこう頑固なところもあったんですけどね」と私は言ったのですが、父のことをこんな風に評価してくださるのはうれしいことでした。

 旧源農協時代の有線放送では事務所の交換手が電話をつなぐ仕事をしていました。

 電話をかけるときは、ダイヤルではなく、受話器を外し交換手さんに、「8番ですが、何々の3番にお願いします」などと言います。すると、交換手さんが相手の家の番号を「3番さん、3番さん」と言って呼び出してくださったものです。

 当時の有線放送では、電話といっても1軒ごとにつながるのではなく、数軒のグループ(回線)につながるので、電話がかかってくると、他の家にも声が聞こえる仕組みでした。だから聴く気がなくても、大きな声だと、やりとりがある程度聞こえました。いうまでもなく、交換手さんにもやりとりは聞こえます。でもYさんは、「人の秘密を知るというのはヤダだったから、聴くことはなかった」と言います。

 当時、交換手は2人体制で、私が知っているのはYさんと川袋のKさんの2人体制だったころでした。

 今回初めて知ったのですが、2人体制とはいっても、2人の職員さんが1日交代で電話交換の仕事をしていたということです。ですから、同じ交換手が1日中、仕事をしていたということになります。 「それなら、昼飯を食べたり、トイレに行く時間もないじゃないですか」と訊くと、「そんなに苦にならなかったですよ」Yさんは言いました。でも、トイレが近いKさんにとっては大変だったようで、当初、1階にしかなかったトイレは2階にも作ってもらったそうです。

 人間ですから、食べたり飲んだりしていればトイレには必ずいきます。交換台の席に戻って電話に出ると、「おまん、トイレに行っていたがか」と言われたこともあったそうです。交換台にいると、「言葉の優しい人もいれば、きつい人もいた」とか。

 交換手の仕事は電話交換のほかに「お知らせ」の時間に一斉放送する仕事がありました。当時、有線放送は大事な伝達手段の1つでした。交換手さんにとっては、書いたものを読むだけだったそうですが、「気分がのらない原稿のときはべらべらと読んだの」と言って、Yさんは笑いました。

 Yさんとは、有線放送のことだけではなく、「農協の参事さんがクリスマスケーキをリュックに入れ、バイクに乗って帰った」とか「源中学校時代、絵を描いていたら、熊倉先生が〝こうやって描いたらいいよ〟と手直ししてくださった」など興味深いエピソードをいくつも聞きました。

 いまは情報技術は進み、スマホでテレビ電話ができる時代となりました。便利ではありますが、昔の有線放送がなつかしく思い出されるのは何故なのでしょうね。    

  (2024年6月2日)

 

第804回 鐘楼の中から

 忙しくてあまり発信できませんでしたが、市議選の最中に心を揺さぶられた出来事がいくつもありました。今回はそのいくつかを書き留めておきたいと思います。

 4月18日、牧区原でのことです。街頭演説が終わって50㍍ほど車を走らせたときでした。「がんばって」の声がはっきりと聞こえたので、車を降りて人の姿を探しました。でも姿は見えません。「どこにいなるんだろいね」と言いながら、あたりをぐるりと見渡すと、何とそばの鐘楼の中に男女2人の姿を確認できました。

 この鐘楼のある明願寺は、全国で最初に有線放送を始めたことで有名で、十数年前、私は全国家族新聞交流会のみなさんとともに訪れたことがあります。でもその際、鐘楼には入りませんでした。「上がらしてもらっていいですか」と2階におられた2人にお願いすると、「どうぞ」と言われました。2人の方は初対面でしたが、私がこのお寺のことについてエッセイに書いたこともご存じでした。そしてこの人たちは「激励の鐘だ」と言ってゴーンとやってくださったのです。感激でした。

 2つ目。選挙戦では、人の姿が見えないものの、どこかで聴いていてくださる方があるかも知れない、そう思って演説することが何回かありました。その思い出です。

 投票日の前々日の夕方、宣伝カーは柿崎区の黒岩地内を走っていました。黄砂の影響だったのでしょう、その日は夕日の色が白く、お月様のような感じになっていました。夕日の周りは黄金色です。こんな夕日になることもあるのかと思うほど美しいものでした。

 お店だった橋本屋さんのところから南黒岩へと上がる途中で、車を降りて、マイクを握りました。ここなら、北黒岩に住む人たちにも聞こえるかもしれない、そう思ったのです。ただ、これまでの経験から、演説すると必ずこだますることがわかっていたので、「みなさん、橋爪法一です。いよいよ、明後日が、投票日です」といった風に短く区切って、演説しました。

 薄暗くなっていましたので、演説中に有権者の姿は確認できませんでした。でも、なぜか感じたんです。ピピッときたんです。声は遠くの集落に間違いなく届いている。何人かの人たちに私の思い、訴えが伝わっている、と。

 吉川区川谷での演説でも同じような体験をしました。演説した場所は2年前の3月に大規模な地滑りが発生した県道です。下川谷側から上川谷に接近した場合、宣伝カーはこの地滑り現場までしか行けません。約300㍍離れた上川谷の家々に向かって、ボリュームを上げ、その場所から地滑り現場の早期復旧への決意などをのべました。上川谷には現在、2世帯3人が住んでいます。その3人の顔を思い浮かべながら訴えました。ここでも聴いている人のリアクションはありませんでしたが、伝わったなと思いました。

 最後は市議選最終日でのことです。大島区の一番南側にある菖蒲の田中屋さんの近くの作業所で何かをしている5、6人の人たちと出会いました。握手をしようとそばまで行くと、そのなかに背の高い男性に抱っこされている生後1か月の赤ちゃんがいました。とても小さく、ほっぺがかわいい。さわりたくなりました。いったいどこの赤ちゃんだろうかと思いながら、菖蒲西へ行ったとき、Kさんに「赤ちゃんはどこの子ね」と尋ねたところ、何と近くの念宗寺の若夫婦の子どもさんだったのです。

 山間部の奥まった集落に赤ちゃんがいる。それは希望です。車の中から念宗寺の方を見たら、鯉のぼりがひらひらと揺れています。今年初めて見た鯉のぼり、とても素敵に見えました。

    (2024年5月26日)

 

第803回 コウノトリの郷に

 5月6日の14時40分でした。巣の中にいたコウノトリのメスが飛び立った後、巣に残ったオスの様子がいつもと違ってきたのは……。

 観察を始めて5時間半が経っていました。オスは肩にグッと力を入れ、とってきたエサを体内から吐き出そうとしていました。私は、酒を飲みすぎた人間がトイレの便器に向かって吐く姿を連想しました。その姿はあまりにも苦しそうで、大丈夫かなと心配になるほどでした。

 近くの木の上からは小鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。田んぼを耕すトラクターの音も聞こえます。そして数秒後、コウノトリのオスは、とうとう、嘴(くちばし)を広げ何かを吐き出しました。小さな魚かカエルのどちらかだと思います。

 吐き出した瞬間、「ヨシ、ヤッター」と思いました。というのは、ヒナが誕生していることが明らかになったからです。その日の前日、私は、兵庫県豊岡市のコウノトリの郷公園の専門家の方から「ヒナがかえっても、巣の中は上からでないと見えないが、親鳥がエサを吐き出すところを確認できれば、生まれたヒナにエサをくれる行動に入ったと判断していいですよ」とアドバイスしてもらっていました。

 嘴からエサを吐き出す様子は動画で撮影しました。ヒナの誕生は間違いないと思いましたが、やはり専門家に最終的な判断をしてもらいたいと思ったからです。すぐに家に戻り、コウノトリの郷公園の担当者に動画を送信すると、「間違いありません。おめでとうございます」と言われました。

 事前にいただいていた情報では、この上越市がコウノトリのヒナが誕生した最北の地となります。県レベルでみると、新潟県はトキとコウノトリの双方のヒナが誕生した全国で唯一の県となりました。こうして5月6日は記念すべき日になりました。

 私がコウノトリと初めて出合ったのは、5年前の8月17日の夕方でした。友人のHさんから、「ツルらしきものが飛来してきている」と言われ、大急ぎでカメラを持って出かけたことをよく覚えています。

 場所は吉川区赤沢の田んぼです。そこには見たことのない、大きな鳥がいました。体長は一㍍を超え、羽の後ろの方は黒く、白と黒の組み合わせが素敵でした。正直言って、コウノトリかもと思ったものの、それまで飛来したという話は聞いたことがなかったし、コウノトリだと断定する自信がありませんでした。翌日の朝に書いたブログでも「多分、コウノトリかと思います」と書くのが精いっぱいでした。

 そのコウノトリは数日にわたって、赤沢、下中条などにいました。その間に、私は兵庫県豊岡市のコウノトリ担当者と連絡をとりました。その結果、鳥は間違いなくコウノトリであり、足環の色の組み合わせから前年の4月19日生まれのオスであることが判明しました。

 コウノトリはいつのまにかいなくなりましたが、その鳥は上越市吉川区を忘れてはいませんでした。翌年の8月13日に再びやってきたのです。見かけた場所は下中条でした。コウノトリは地図を持ち歩いているわけではないのに、ちゃんと1年前に来た場所を覚えていてくれました。

 コウノトリと初めて出合ってからまもなく5年になります。いまや上越市全体がコウノトリの飛来する場所になりつつあります。吉川区だけでなく、大潟区、柿崎区、頸城区など市内各地で出合っています。

 コウノトリは幸せを運ぶ鳥と言われていますが、肝心なのは安全なエサを確保できるかどうかです。環境保全型農業が重要です。今回のヒナの誕生を機に農業のありかたを見直し、コウノトリがいっぱい、幸せいっぱいのコウノトリの郷をつくりたい。 

  (2024年5月19日)

 
 

第802回 鯉の産卵

 車を下りたら、近くでバシャバシャという音がしました。何事かと思って、すぐそばの池を見たら、鯉が暴れているじゃありませんか。

 4月の最後の日、朝7時頃のことです。「しんぶん赤旗」の配達を終え、活動レポートをFさん宅へ届けようと、吉川区にある小苗代池のそばに車を止めた時でした。池の道路側の一角にある浅瀬で「事件」が起きていたのです。

 浅瀬にいたのは体長が50㌢くらいの鯉です。5、6匹はいたと思います。普段は池の中ですいすいと泳いでいるのですが、この時は鯉たちが競い合って浅瀬を猛スピードで移動し、からみ合い、水しぶきをあげていました。見たところ、水があろうがなかろうが、関係なしといった感じでした。浅瀬にあったショウブの茎はなぎ倒されていました。このような鯉の激しい動きは初めて見ました。

 Fさんに、「鯉のすさまじい動きを見ました」と伝えると、「鯉の産卵です」と言われました。  Fさんによると、産卵行動では1匹のメスの鯉の上に何匹ものオスが乗っかかろうと激しく争い、水しぶきを上げるとか。私が見た「事件」はまさにその光景だったのです。浅瀬のショウブの芽が出る少し前にもこうした動きがあったとのことでした。

 私にとっては人生で初めて見た鯉の産卵でしたが、Fさんなど産卵場所の近くに住む人たちにとっては昔から繰り返し見てきた光景です。産卵は毎年4月頃から始まって7月頃までに2、3回行われるとのことでした。

 小苗代池には今回見た浅瀬だけでなく、昔はそこから20㍍ほど離れた東側のへこんだ場所の木の下にも鯉が集まっていたといいます。Fさんは中学生の頃、雪の重みで曲がり、池の水面近くに伸びている木の枝の上から鯉をヤスで仕留めた思い出があるそうです。Fさんの一番下の妹さんは5月1日生まれだとのことですが、妹さんが生まれた時、近所のおばあさんに、「お母さんに鯉を食べさせると、おっぱいがいっぱい出るよ」と言われ、鯉をヤスで捕まえたとのことでした。

 今回、私が偶然出合った鯉の産卵は4月30日、Fさんが中学生の時、出合った産卵は5月1日。わずか1日違いです。

 Fさんからは、「最高のタイミングで鯉の産卵と出合いましたね」と言われました。鯉の産卵は水深の浅い場所で、早朝、いっときの時間に行われるそうです。訪問の時間次第では出合えなかったのです。 「最高のタイミング」と言われ、思い出したのは、3年前に同じ小苗代池で見た川鵜による魚の「鵜呑み」の様子です。

 3月の土曜日の正午頃、黒い鳥が30㌢ほどの大きな魚をくちばしにはさんでいました。魚は鯉だったように思います。デジカメのズームを伸ばして見たのは、魚を取り逃がさないように、くちばしで必死になって押さえている鳥の姿と、鳥のくちばしから逃げようと盛んに体を揺さぶり動かしている魚の姿でした。最後は、黒い鳥は大きな魚を丸ごとくちばしから喉へと呑み込みました。あの時もびっくりでした。

 小苗代池には数日後、鯉の産卵後の様子を見に出かけました。産卵時に痛めつけられ、なぎ倒されたショウブの茎は立ち直ってきていました。ショウブの群生地から池の中を見たら、大小さまざまな木の枝などが沈んでいました。

 産卵前の風景が戻りつつあり、一見、何事もなかったように見えましたが、池の中の木の枝の周辺には薄黄色いものが付いています。ひょっとすると、鯉の卵かも知れません。これから先、どういう展開になるのか楽しみになってきました。

  (2024年5月12日)

 

第801回 たんぽぽの花

 たんぽぽの花が好きです。ずっと前から好きです。いまはどこでも咲いていますが、咲き始めの頃の花に特に惹かれます。

 4月上旬、活動レポートなどの宣伝活動で忙しい日々が続いていました。

 ある晴れた日のことでした。車を運転していましたので、スピードを出していればおそらく気づかなかったと思います。わが家の近くの農村集落排水処理場の土手に黄色いものがぽつりぽつりと見えたので、車を止めました。「たんぽぽの花が咲いたのかな」と思っていましたが、間違いなく、たんぽぽの花でした。今年もまた咲き始めたのです。素敵なすじ状の雲が浮かぶ青い空をバックに何枚か写真を撮りました。

 大好きなたんぽぽと出合ったことで、この日はうれしいことがいくつも続き、気分よく行動できました。

 まずはお寺の掲示板です。処理場からそう遠くないところにある善長寺の掲示板が新しくなっていました。掲示板は月がかわるごとに新しいものと入れ替えられるのですが、まさに「春が来た」ことの喜びがそのまま表現されていました。

 四月の風はやさしい
 イヌフグリに笑いかけ
 タンポポやスミレに
 ウィンクする
 ツクシの頭をなでながら
 また来るよと
 去っていく

 この掲示板の見どころはもうひとつあります。折り紙と切り絵です。今月は切り絵でしょうか。たんぽぽとツクシが掲示板の左隅に貼られていました。

 続いて、懐かしい出会いです。ずっと会いたいと思っていた人と何人も出会うことができました。

 ある家のわき道を歩いているときでした。家の中から音楽が聞こえてきました。春の天気の良い日に、家の中から音楽が流れてくる。いいなあと思いながらその家の玄関で声をかけると、すぐに曲は止まりました。1年ぶりに会ったその家の人に、「外でずっと聞いていました」と伝えました。その後、そこの家の人と、亡き弟のことや音楽やイラストなどお互いの趣味のことで話が弾みました。この方は、私の悲しみをよくわかってくださっていて、弟の葬儀の時には参列したかったとまで言ってくださいました。それだけで胸がいっぱいになりました。時間があるときならば、もう30分くらい話をしたかったです。

 わが家の次男のことを良く知っている人とも会いました。この人とは地元の特別養護老人ホーム、「ほほ笑よしかわの里」の祭りで会って以来の再会です。子どもさんたちと一緒で、とても楽しそうでした。次男が帰省したら、「子どもたちに硬式テニスの指導をしてほしいと思っている」と言われました。次男が硬式テニスをしていたとは知りませんでした。

 私のSNSでの発信や活動レポートをよく読んでいてくださり、「今度、コーヒーを一緒に飲みましょう」と約束していた方とも会いました。話をしていて、ここ数年の間に母親やイトコなど身近な人を何人も亡くされ、私と同じような体験をされたことを知って驚きました。

 たんぽぽを見つけ、うれしいことが続いた後、久しぶりに門倉さとし作曲の「たんぽぽ」をユーチューブで繰り返し聴きました。 ♪ ゆきのしたの ふるさとのよる つめたいかぜとつちのなかで  で始まる曲です。私はこの歌のなかにある「どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう」というところが好きです。ここだけはしっかり覚えていて、曲がここまで来ると、つい声を出してしまいます。

  (2024年4月28日)

 

 
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