春よ来い(5)

第55回 バイキング

 旅に出た時の楽しみのひとつは食べものです。ばたばたした日常の食事とは異なり、その土地ならではの、おいしい食べものを特別な気分のなかで食べる。その時間と空間はまるで別世界です。でも50年あまりの食生活のなかできざみ込まれたことは、しっかりと残っているからおもしろい。

 7月の初め、四国は今治のあるホテルに宿泊した時のことです。1泊1万円ちょっという料金でしたが、建物はどこへ行ってもピカピカで、ホールも部屋も私には必要以上の広さだと思えるほどの豪華さがありました。翌朝の食事はバイキング、たくさんの料理がまさに山となっていて、これほどの贅沢(ぜいたく)をしていいのだろうかと思うほどでした。そこで私は思わぬ失敗をしてしまいました。

 バイキングの開始時間は午前7時。早起きの私にとっては遅いくらいの時間です。7時前には部屋を出て朝食会場に向かいました。すでに何人かの宿泊者が来ています。料理は洋食、和食ともにいろんなものが並んでいました。自分で食べたいものを選んで皿にのせ運ぶ。私の後ろに何人もの人たちが続いていることを考えれば、並べてある料理の一つひとつについて食べるか食べないか、すばやく判断しなければなりません。

 ところが慣れていない私は、端の方から並んでいる料理を次々と皿にのせてしまいました。ベーコン、レモンソーセージ、エビフライ、コロッケ、ウインナー、キュウリとニンジンの漬物、ホウレンソウのお浸し、玉子焼き、煮物、そして納豆と海苔、このほかにご飯と味噌汁です。四角いお盆は料理でいっぱいになり、両手で持っても何となく重い、と感ずるほどでした。

 そしてテーブルまで運んでみてから、ちょっぴり不安になりました。よそのお客と比べ、私がのせた料理の量は明らかに多いのです。こんなに食べられるんだろうかという思いがよぎりました。でも、だからといって元のところに戻すわけにはいきません。食べ残せば、「何だ、あのお客は…」ということにもなる。私は運んだ食べものを頑張って、何とかたいらげました。その結果、一日中、体がだるくなってしまいました。

 いま、振り返ってみると、ほんとうは全体を見渡して何を食べるか決める。それから食べたいものを皿に盛り付ける。そうすれば良かったのだと思います。そうしなかった理由は、後ろがつっかえているからだけではありません。私の意識の中では、この際、食べられるものは食べておきたいという思いが働いていたのです。

 戦後間もない時期、食糧不足の時代に生まれ育った私は、食べものに不自由した体験が体の中でまだ生きています。あの時代、野山に食べられそうなものがあれば、何でも食べました。たまによそから羊羹をもらい、母に切ってもらう時は、与えられた自分の分が弟たちのものより小さくないかと見比べました。ライスカレーを食べ終わった時には、皿についたカレーを丁寧になめ、きれいにしました。

 いまは飽食の時代です。食べたいものはお金さえあれば、いつでも食べることができます。農薬や遺伝子組み換えなど様々な問題を抱えてはいますが、おいしくて安全なものを選んで食べれば、豊かな食を確保できる時代になりました。でも、こういう時代なのに、何でも残さず、がつがつ食べるという少年時代からのクセがまだ残っているとは……。子ども時代の食体験は一生の食生活に影響を与えると思いました。



第54回 記念写真

 学生時代からの友人であるKさんが県立がんセンターに入院しているとの情報が入ったのは、研修先から戻った日曜日のことでした。30数年前、Kさんと私は同じ本屋さんでアルバイトをしていました。そこの元社長さんが、わざわざ市役所に私の連絡先を問い合わせて、教えてくださったのです。

 「どうも脳腫瘍らしい、それも悪性のようです。本人が手術後に電話をくれたところをみると、誰かに連絡してもらいたいということかなと思って……」。留守番電話に残っていた元社長さんの声は落着いていましたが、どこかさびしそうなところがあって気になりました。

 私はその日の夜にKさんと親しかった数人の友人に電話をしました。「ええっ、今度、彼女と一緒になると聞いていたのに……。信じられない」「この前に会った時はとても元気そうだったよ。どうして、また」。連絡を受けた人たちは驚き、もっと詳しいことが知りたい様子でした。そうなれば、病院に近いところに住んでいる私の出番です。面会できるかどうかを確認して、すぐにでも見舞うことにしました。

 Kさんは学生時代、英文学を学んでいました。卒業後は高校の英語の先生になるものと思っていたら、伯母さんにあたる日本画家に師事し、その道を歩み始めていたので驚いたものです。普段は栃木県に住んでいて、新潟県内で個展などをやる時には必ず連絡をくれました。

 彼は、私の住んでいる吉川区にも何度か足を運んでくれています。かなり前の話ですが、突然、わが家にやってきたことがあります。何もご馳走の準備がありません。しかも母も妻もいないときている。どうしようもないので、私は得意にしているインスタント牛乳ラーメンをつくり、彼に出しました。ラーメンを普通につくって温かい牛乳をかける、たったそれだけのものですが、「うまい、うまい」と何度も言って喜んでくれました。

 県立がんセンターに彼をたずねたのは、連絡をもらった翌日の午後でした。手術してまだ5日目だというのに、ベッドについている食事用のテーブルの上には、もうパソコンが置かれ、メモ用紙ものっていました。私の顔を見た一瞬、びっくりした顔をしましたが、あとはいつもの笑顔で応対してくれました。

 昔から話し上手の彼は、これまでのことを一気に語ってくれました。最初は悪性でないと言われたものの、気になって別の病院で調べてもらった。腫瘍が見つかってからは、しばらく絵が描けなくなってしまい、納期を延期してもらったということを聞きました。そして手術前、医師からは、手術の結果次第では神経がおかしくなり、顔がゆがんだり、発音がうまくできなくなることもあること、さらに、彼にとっては命とも言うべき指も利かなくなることもありうると言われたのだそうです。

 まだ50代半ば、やろうと思っていることが山ほどある。なんでこんな時におれが、と沈んでいた時に彼を支えたのは同級生のHさんでした。まだKさん、Hさんとも独身です。「こうなったら、私、逃げられないわ」いつかは一緒に暮らそうと思っていた彼女はそう言って、入籍の約束をしました。そして手術前、二人は、いまの顔のままのものをと、記念写真を撮ってもらったのでした。

 手術は成功しました。Kさんの顔も指もいままでと変わりませんでした。もしものことがあったらと撮った記念写真でしたが、今度は結婚式の記念写真を撮ってあげたいものです。二人の春は、これからやってくるのですから。



第53回 牛飼いの勘

 妻の実家へ行っていた時でした。昼飯を食べ休んでいるところへ、突然、携帯電話が鳴りました。電話は長女からのもので、「じいちゃんが仔牛に声をかけてもまったく元気がないし、このままだと死んでしまうって」という声が聞こえてきます。直ちに、かかりつけの獣医さんに電話し、私も牛舎へ急行しました。

 軽トラを走らせながら祈りました。絶対死ぬなよと。私が朝、ミルクをくれた時には、ミルクが入ったバケツに元気に顔を突っ込み、ガボガボッと飲んでいました。それが何故こんなことになったのか。気になったのは下痢が始まっていたことでした。見つけたのは2日ほど前です。下痢止めの薬を飲ませておいたから大丈夫だとふんでいたのですが、素人判断で甘かったのかもしれません。

 この仔牛は死なせてはならない、その思いは今回、特別強いものがありました。というのは、生まれた時から何度もひどい目にあっている仔牛だからです。このシリーズの第51回で書いたように、生まれた直後には母親から蹴飛ばされ、母乳を一滴も飲ませてもらえませんでした。そうした状況はずっと続き、乳牛の初乳でつくったヨーグルトを薄めて飲んで何とか育ってきたのがこの仔牛でした。

 次の災難は、先日の梅雨前線豪雨です。わが家の牛舎にも大量の水が流れ込み、隣の頸城区の家畜商の牛舎に全頭避難する破目になりました。牛舎から避難させようとした時、一番てこずらせたのは、この仔牛でした。ヨーグルトをいつも与えていた父を自分の母親だと勘違いしていたのかもしれません、父の姿が見えない中で、牛舎からなかなか出ようとしなかったのです。最後は家畜商と私が2人がかりで水の中を歩かせました。正確にいえば、ムリヤリひきずり、動かしたのです。

 もう、これからは普通に育ってもらいたい、そういう思いがある中での危篤の知らせでした。妻の実家からは車をとばし、35分ほどで牛舎に到着しました。おそるおそる仔牛が入っている木製のハッチ(仔牛の育成のための大きな箱)の中をのぞきました。仔牛はぐったりして、首を持ち上げる元気がありませんでしたが、まだ生きていてくれました。数分後、獣医さんも到着。下痢によって脱水症状がでていて重症だと診断されました。体は冷たくなりはじめ、足はいくぶん硬直していました。

 獣医さんはリンゲル液などの点滴治療を施してから、「これで何とかもってくれればいいが……」と言いました。下痢は仔牛にとっては致命的だと言う人もいるくらいです。それだけに簡単には回復してくれませんが、この仔牛も危篤状態からなかなか抜け出せず、世話をしてきた者、みんなが心配しました。目は相変わらずとろんとしています。耳は垂れ下がったままです。父はハッチの中に入り、「おい、元気出せや」などと声をかけながら、仔牛の体をワラでこすり続けました。

 そして夜の九時過ぎでした。牛舎へ行ってみたら、仔牛の表情ががらりと変わっていました。耳をチャンと立て、目は元気を取り戻しキラキラと輝いているではありませんか。体温も上昇してきて皮温も正常になっていました。イイコ、イイコ、よく頑張った、もう大丈夫だぞ。仔牛の頭を何度もなでてやりました。

 それにしても、仔牛の異常に気づき、危篤だと察知した父の勘の鋭さには驚きました。父の歩く姿にはかつての力強さはなくなりましたが、まだまだ牛飼いの勘は確かです。父の発見がもう少し遅れていたら、今回は間違いなく仔牛の葬式でした。 



第52回 新ジャガ

 もうすぐ7月。今年は梅雨入りが遅く、畑仕事に精を出している人たちは、一雨降ってくれないと困る、と気をもんでいます。わが家の畑を管理している父母もそう、毎日のように牛舎からホースで水をひき、水くれをしています。そんななかで先日、母と一緒にジャガイモを2株ほど掘ってみました。

 クワでサクッとやると、直径3〜4センチのイモと1センチ前後の小さなイモがいくつも出てきました。雨がほとんど降らないとはいえ、ジャガイモはしっかり育っているんですね。周りの土は、少雨のせいでしょう、べたつかず、パサパサしているので、とても掘りやすい。どんどん掘ってしまいたい気持ちになりましたが、そこは我慢して試し掘りだけにしておきました。

 掘ったものは、すぐ台所に持って行きました。鍋に水を七分目ほど入れ、沸かしはじめます。その間にイモをサッと洗い、大きなものは半分に切っておきます。もうお分かりでしょう、何をしようとしているか。ジャガイモの水煮です。ゆで上がったら、塩をパラパラとふって食べる。あるいはバターをつけて食べる。新しいジャガイモを美味しく食べるには、これが一番です。

 ゆで上がったジャガイモはもちろん皮付きです。小さなものはそのまま口の中に放り込む。大きなものは手で分けて食べます。ホクホクした食感が何とも言えません。栄養学者の話によると、野菜の皮やその近くには、栄養分が多く、中身の栄養をも守っているのだそうです。ということは、最も単純な調理の仕方で栄養満点のものを美味しくいただいていることになります。

 私の新ジャガにたいする思いは、子どもの時からのものです。40数年前にさかのぼりますが、当時は今と違ってどこの家でも畑を大切にしていました。わが家のジャガイモ畑は家から2キロメートルくらい離れたナナトリ(尾神・国造山)という山の中にありました。海抜200メートルほどの高さで、そこからは名木山という集落が見えました。

 1アール(一畝)あるかなしかの畑は、そこへ行くだけでも難儀でしたが、収穫したジャガイモを背負って家に持ち帰るのはもっとたいへんだったと思います。どういうわけか、私の記憶では、子どもを含めて家族のほとんどが畑まで行き、イモを拾い、袋につめるところまでは覚えているのですが、その後のことは覚えていません。恐らく家までジャガイモを背負って帰ったのは祖父や父母だったのでしょう。

 収穫したジャガイモは、どんなに小さくとも袋に入れて持ち帰りました。そして母は、採れたてのジャガイモをすぐにゆでてくれました。その、新ジャガの美味しさは格別でした。ホクホクして甘味もある、食べ始めたらやめられない。塩も何もつけないで夢中になって食べましたね。

 初物で採れたてならではの美味しさは、毎年味わっているのに、いつも新鮮な喜びを伴います。ジャガイモだけでなく、キュウリもメロンもみんな同じです。でも、この喜びは作る者がいるからこそ味わえるものです。わが家では80歳前後の父母が作っていてくれるうちは大丈夫ですが、私も妻も畑作は全然ダメときていますから、父母が作らなくなればおしまい。そろそろ、畑仕事を覚えないと食の最大の楽しみを失うことになりそうです。よわりました。



第51回 母乳を飲めない仔牛

 8ヶ月ぶりに牛がお産をしました。予定日よりも9日も遅れての出産です。腹の中の仔牛が大きくなりすぎていないかと心配でした。足が出始めてから、なかなか進まなかったので、父と2人で手助けをし、仔牛をとりあげました。生まれた仔牛はオス。予想通り少し大きめでしたが、正常な形で産ませることができました。

 お産のあった日は、伯父が手術をすることになっていて、ちょうど牛のお産と手術の時間が重なってしまいました。お産が終わってからの片付けは父にまかせ、すぐに病院へ向かいました。お産はうまくいった。和牛だから、あとは母牛にまかせておけばいい。何かあっても父がやってくれるだろう。そう思って楽々していたのですが、その後、思わぬ展開が待っていました。

 伯父の手術の成功を確認してから牛舎に戻ると、どうも仔牛の様子がおかしいのです。普通なら産後1時間も経過すれば、しゃんとします。すでに産後3、4時間は過ぎている。それなのに仔牛は母牛の近くにいるものの、ふらふらしていて、やっと立っているといった風でした。これは母親のおっぱいを飲み足りないのだ、そう直感した私は、仔牛のお尻を押して母牛のそばへやりました。

 ところが、何ということでしょう、生まれて間もないわが仔だというのに、母牛は思いっきり蹴飛ばしたのです。倒れはしませんでしたが、仔牛は大きく飛ばされました。それでも仔牛はお腹がすいてたまらなかったのでしょうね、ふらふらしながらも再び母牛のところへ行こうとします。

 それからは見ていられませんでした。何度も近づこうとする仔牛に、母牛は角を向ける、蹴飛ばす、柱に押し付ける。まったく受け付けようとはしません。一方、仔牛は蹴飛ばされても、転ばされても母親のところへ行こうとしました。その姿は、あわれとしか言いようがありません。このままでは仔牛が死んでしまう、そう思った私は、仔牛を母牛と離すことにしました。

 母牛がなぜ仔牛を受け付けないのか。私が病院へ行っている間に何かショックを受けたのか、それとも乳房の病気にかかっていて、わざと仔牛を寄せ付けないのか、あるいはその他の何かがあるのか、そこらへんは分かりません。いずれにせよ、お乳を欲しがる仔牛を喜んで迎え、おっぱいをふくませる母牛の姿しか見たことがない私にとっては、信じられない事態となりました。

 仔牛には何も飲ませないわけにはいきませんので、翌朝、酪農仲間だったYさんから初乳のヨーグルトを分けてもらいました。そのままでは濃すぎるので、水で薄めたものを暖め、飲ませます。最初はなかなか口をつけようとしなかった仔も次第になれ、一週間後にはバケツに顔を突っ込んで飲むほどになりました。こうなればもうしめたもの、どんどん元気に育つでしょう。

 この仔牛の世話はいま、父がやってくれています。毎日、朝早くから牛舎に入り、「ほら、ジチャ来たど。元気か」などと仔牛に声をかけ、ヨーグルトを飲ませています。本来なら母牛がやることを父がしているものですから、仔牛も甘えて、父の股ぐらにもぐったりして遊んでいます。仔牛に好かれ、頼りにされる。足が弱くなった父ですが、牛舎に通う姿には、酪農家として働いていた当時の力強さが少し戻ってきたように感じます。



第50回 カエルの歌

 先日、山菜を採ったり、春の風景写真を撮ったりしようと、友人と一緒に山間部へ出かけてきました。その際、陽あたりの良い田んぼのなかで動き回っている小さな生き物が目にとまりました。オタマジャクシです。田んぼの真ん中あたりの水溜りで、尾を盛んに振って動く姿は、とても元気そうでした。

 雪解けがすすんで最初に目にする植物はフキノトウです。雪国に住む者にとっては、この柔らかな黄緑色を見つけた時のうれしさは格別ですが、動物のなかで最初に見かけるオタマジャクシとの出会いもいいものです。子どもだった時分、まだゼリー状の膜におおわれている卵の段階から、観察をはじめ、オタマジャクシになって泳ぐ姿を楽しく見たものでした。

 田んぼの中に入り、いくつもの黒い点を見る。上から手の平でそっと押してみる。手ですくう。ドロッとした卵のかたまりは、好奇心が旺盛だった私にとっては「不思議なかたまり」でした。そのかたまりからオタマジャクシが誕生し、カエルになって道や草むらへ上がってくる様子は、水中生活から陸上生活へと生活領域を広げていった動物の進化の過程そのものですが、オタマジャクシのシッポがどうなっていくかなど、興味津々でした。

 カエルは学校生活のなかでも登場します。そのひとつは体操の時間です。もうお分かりでしょう、カエル跳びです。手を後ろに組んでしゃがみ、カエルのように跳ぶ、あの運動はきついものでした。その一方で、楽しかった思い出として残っているのは、「カエルの歌」の輪唱です。

カエルの歌が聞こえてくるよ クワッ、クワッ、クワッ、クワッ、
ケケケケケケケケ、クワッ、クワッ、クワッ


 単純な歌ですが、輪唱していると、本当にカエルの合唱そっくりになります。とても覚えやすく、歌いやすいとあって、大きな声で繰り返し歌ったものでした。

 私が通っていた源小学校水源分校の音楽教室は一、二学年の教室と三、四学年の教室にはさまれていました。この歌を歌うときには、みんなが大きな声を出せるだけ出して歌いましたから、隣の教室にも響きました。でも先生や隣の教室の子どもたちのなかで誰一人として文句を言う者はいませんでしたね。もし、誰かが外で聞いていたとしたら、賑やかさに驚いたはずです。

 もう何十年もやっていない「カエルの歌」の輪唱ですが、ひょんなことからやることになりました。この間、私の後援会幹部の人たちと後援会のイベントについて話し合った時に、参加者全員が声を出して楽しもう、そのためには、みんながよく知っている歌を歌おうじゃないか、ということになりました。そこで選ばれた曲の1つが「カエルの歌」だったのです。

 イベントの当日、山菜料理を食べ、お酒も飲んで賑やかになってから、3つのグループに分かれて、「カエルの歌」の輪唱をはじめました。
カエルの歌が(ハイッ)、カエルの歌が(ハイッ)、カエルの歌が…
ケケケケケケケケ、クワッ、クワッ、クワッ

お酒も入っていて、小学校の子どもたちほど上手くはいきませんでしたが、とても懐かしい気分に浸ることができました。



第49回 朝の風景

 市役所本庁に行く時、回り道をして妻を職場まで送っていくことが多くなりました。そのおかげで、毎朝、いろいろな光景を目にすることができます。定年間近とおぼしき人がレインコートを着てさっそうと歩いているところ、銀行の職員が職員専用口で暗証番号を入力している姿など、とても新鮮に映ります。

 いま、私の一番の「お気に入り」は、ある駐在さんの交通指導ぶりです。まだ30代でしょうか、若い駐在さんが十字路に立って笛をくわえ、信号の変化の度に笛を鳴らす、その姿がすっかり気に入ってしまいました。見た目は単純そうな仕事ですが、手の振り方、笛の鳴らし方に、その駐在さんの個性も感じられて、とてもおもしろいのです。

 十字路は時間帯によっては混み合い、自動車もノロノロ運転となることがあります。先日、実は、信号機が青から黄に変わった後に十字路に入りました。車の流れからいって、停止線で停まると後続車に迷惑がかかる、そう判断したからです。駐在さんも、そこらへんは心得たもので、笛を鳴らし続け、私が十字路を抜け出した瞬間に、「ピィッ」とやりました。

 その判断力の良さ、きびきびした笛の鳴らし方は、職業とはいえ見事でした。
「うまいもんだな。おれも、やってみたくなったなあ」 そうつぶやくと、軽トラの助手席に乗っている妻が笑って言いました。
「そんなにやりたいんだったら、今度、駐車場かなんかで(交通整理の)仕事をやらせてもらったら」

 というわけで、その後は妻の職場に着くまでしばらく、笛談議に花が咲きました。笛を鳴らすことによって人を動かすことができるが、その時、笛を鳴らす人の気分はどうかとか、笛は、あまり安物を買うと突然音が出なくなるものがあるなど、笛にまつわる話は尽きません。

 高校生の登校風景もいいですね。こちらは何十年も見ていなかったので、懐かしさをともないます。ちょうど桜が満開になった日でした。桜並木のある歩道を大勢の生徒たちがとぎれることなく歩いてくる光景に出会いました。桜の花と朝の光のなかを歩いてくる姿は実に生き生きとしていて、写真に撮りたくなるほどでした。

 登校風景を見ていると、40年ほど前の自分の姿が浮かんできます。なかでも私が最初に高校へ登校した時のことは、いまでも忘れることがありません。

 その年も今年のように雪解けが遅い年でした。私が当時住んでいた源地区では、まだ、道路にも雪が残っていたのだと思います。初めて登校する時に私が履いていったのは長靴でした。ところが、高田の町の通学路には雪はなく、私以外は全員、靴か下駄履きだったのです。みんなが私を見ている、そんな気がして、下校してからすぐに靴屋さんへ行きました。

 買ったのは、確かビニール靴だったと思います。千円以上はしたでしょう。つやつやした黒い靴を履いた時は、これで安心して学校に行ける、そう思ったのですが、下宿代1万5千円の時代です、少しの小遣いしか持っていなかったなかでの出費は切ないものでした。



第48回 残された黒板

 市議会の文教経済常任委員会で、小学校の校舎だった建物を宿泊できるようにした浦川原区(旧東頸城郡浦川原村)の施設を視察した時のことです。きれいに改装された1階と2階を見たあと、3階にあがって、心がときめきました。そこには、子どもたちが、まだ生活していると錯覚するほど、教室がそのまんまの状態で保存されていたからです。

 すでに閉校となってから3年を過ぎています。それなのに、床にはチリひとつ落ちていませんでした。きちんと並んだ机があり、椅子もあります。そして黒板を見た途端、「これは、すごい」と思いました。右端には平成14年3月22日(木)、日直「十弘」と書いてある。「きょうは卒業式」という文字もあります。ということは、この黒板は、この教室で学んでいた子どもたちが卒業式当日に使って、それが最後となったということです。

 この日、子どもたちは、どんな思いをいだきながら教室での時間を過ごしたのでしょうか。その手がかりは黒板に残っていました。何人かの子どもたちが自分の気持ちを記しておいてくれたのです。黒板の真ん中には大きく、太い文字で「月影小学校」と書かれています。そのまわりに、「さようなら」という文字が6つ、「ありがとう」という文字がひとつありました。なかには文字の脇にハート型のマークがついているものもありました。

 中央上部に描いてある小さなカット(絵)は、言葉以上に子どもたちの気持ちをよく表していました。この学校を象徴するには月がぴったりですが、ちょっぴり太目の三日月の絵が描かれていました。これには目も入っていて、それがまた、いかにも寂しそうです。「私たちは卒業です、そして学校もなくなってしまいます、残念です」。閉校という現実に、何もできない子どもの悲しさが伝わってくる絵でした。

 黒板に書かれた文字は別れのメッセージだけではありません。黒板の左上には、明らかに担任の先生が書いたと分かる文字で、「明日のもちもの。はみがきセット、ぞうきん3まい」というのがありました。これは、卒業式よりも前に書かれたものなのでしょう。このほかに、「あそびにきたよ」という文字がありました。閉校後に来て書いたとは思えませんから、おそらく、これを書いた子どもは、この教室に戻ってくることを想定して、この文字を残したのでしょう。

 月影小学校閉校後の施設利用計画は、交流のあった大学院生のみなさんがワークショップを積み重ねた後、地域住民のみなさんと関係機関が「小学校再生検討委員会」を設置して検討してきたといいます。再生のキーワードは、「学校らしさを残す」でした。1、2階はすでに整備済みで、紹介した3階部分は、これから計画を作り、改造していく予定だとのことです。ぜひ教室も黒板も残して、「学校らしさを残す」ことにこだわりをみせてほしいものです。

 私の学んだ小学校もすでに閉校となっています。4年生まで学んだ分校は、この学校と同じく宿泊施設に変わっています。学んだ当時の面影が残っているのは、校庭にあった桜と柳の木ぐらいなものです。それだけでもなつかしく、見ればホッとしますから、もし教室が残っていれば、どんなにうれしいことか。



第47回 花

 人の死は往々にして突然やってきます。親戚のKさんの場合もそうでした。おだやかな春がようやく訪れ、大好きな花づくりができると楽しみにしていたのに、さぞかし残念だったにちがいありません。ある日の夕方、急に胸が痛み出し、救急車で病院に運ばれたものの、まもなく息をひきとってしまったのです。心筋梗塞でした。

 亡くなれば、まずはじめに身内への連絡です。娘のMさん、そして兄弟の方々へと突然の訃報が伝えられました。病院に駆けつけた親戚は、いうまでもなく病院でKさんの死を知ることになります。救急車に同乗し、ずっと夫のそばにいるはずの、お連れ合いが病院の夜間出入り口で看護師と話をしている姿を見て、「どうしたのだろう」と不思議に思ったのですが、その時はもう亡くなっていたのでした。

 身内が急に不帰の客となった時には涙が出ないことが多いと聞いていましたが、Kさんの、お連れ合いもそうだったようです。驚いて涙腺がふさがってしまったのでしょうね、きっと。そのかわり、そばにいた私にも分かる小刻みな震えが時々、体を揺さぶっていました。

 Kさん夫婦の子どもは、東京都内で保育の仕事にたずさわっているMさん一人だけです。列車の時間がうまく合わなかったため、彼女が実家に戻れたのは翌日の午前9時半過ぎでした。

 「ただいま」「帰って来たかね」という娘と母の短い会話の後、Mさんは父親と対面しました。別室にいた私には、その時の様子は分かりません。ただ、親戚の人たちの前に姿を現した時には、「この度は、お世話になりまして、ありがとうございます」と気丈に振舞うので驚きました。母親と同じく、涙を流した痕(あと)は見受けられませんでした。

 この母と娘は葬儀が終わって二人きりになった時、涙を流すのだろう。ひょっとすると、ずっと涙を見せることがないのかもしれない。そう思うほど、二人は冷静で落着いていました。ところが、思いがけない場面でMさんが涙を浮かべる姿を目にすることになります。

 お通夜を前にして、祭壇が整えられ、いくつもの生花がその周りに飾られました。花もいい、廻り灯籠もきれいです。一通りの準備が出来て、納棺も済み、さあ、これからお通夜を始めましょうかという時になって、生花が四つも到着しました。

 花かごにアレンジ(整える)されたものは、デルヒニュームの空のワルツ、薄いピンク色のアリストロメリア、黄色の蝶が群れ飛んでいる感じのオンシジューム、カサブランカ、カスミソウなど、とても美しい。花屋さんが持ってきた伝票には、Mさんが勤めている職場の上司や同僚などの名前がずらりと並んでいました。

 「インターネットで(花屋さんを)調べておくってくれたんだって……」
 おそらく、職場の人たちの一人ひとりの顔が浮かんだのでしょう、母親に語りかけるMさんの目には涙が光っていました。花はこの時、祭壇を飾るだけでなく、もうひとつの役目を果たしていました。「さみしいだろうけれど、がんばってね」「お母さんを大事にしてね」こういったメッセージを伝え、Mさんを励ましていたのです。

 Kさんは、春とは思えないほど暖かい日、家族や親戚、友人、近所の人たちに見送られました。そして、大好きな花に囲まれて旅立ちました。



第46回 万年青

 わが家の万年青(おもと)については『幸せめっけた』のなかで書いたことがあります。母の実家のおじいさんが、父と母の結婚の記念にとプレゼントしてくれたものでした。ですから、わが家にもらわれてきてから、すでに50数年経過していることになります。

 もらった万年青は20数年前、わが家が代石(たいし)に移転した時、2つの植木鉢に入れてもってきました。1つは直径20センチくらい、いま1つは10センチほどの小さなものでした。2つとも牛舎脇の広場の草むらやコンクリートの上に置いて育てました。

 この万年青、たいして手のかかるものではありませんが、ずっと父が管理していました。時々、水をくれる。雑草を取る。風が強く吹く時は、風のあたらないところへ移す、こういったことを父は続けてきました。いいのかどうか知りませんが、乳を搾っていた時には、あまった牛乳を「飲ませる」ということもやっていました。

 万年青はどんどん大きくなって、植木鉢が破裂するのではないかと思うくらいになりました。葉に斑点ができ、枯れるものも出始めてきました。それで、数年前、大きい方は、縦横それぞれ25センチ、深さ30センチほどの四角い入れ物に移しました。小さな植木鉢のものは大きな鉢に移し替えました。

 この移し替えが良かったのか、一時期、元気を無くしていた万年青が再び青々として葉を広げるようになりました。そして昨年の11月頃だったと思います、濃い緑色の葉の付け根の部分にいくつもの赤い実をつけているのを見つけたのは。わが家の万年青が実をつけているのを見たのは初めてでした。おそらく、その前に花も咲いていたにちがいありません。

 何十年も実をつけることのなかったものが赤い実をつけた、このことはきっと何か良い知らせにちがいない。うれしくなった私は、この実のことをいろんなところで語りました。役場で、新聞配達をした家で、道端で……。「おらちの万年青、赤い実をつけてねぇ」と。

 選挙前に取り組んだ集落懇談会の場でも、このことを伝えたところがあります。朗読ボランティアの小田順子さんが懇談会終了後に『幸せめっけた』の中の、「万年青」というタイトルの話を読んでくださった会場です。「じつは、この話に出てくる万年青が初めて赤い実をつけたんですよ。きっと良い知らせだと信じています」と語ったものでした。

 市議会議員の選挙が終わってから数日後のことでした。わが家の万年青を久しぶりに見てみました。緑色の葉がどっしりとした感じで広がり、とても生き生きしています。赤い実のいくつかは落ちたのでしょうか、残った実が周りの白い雪の中で、とても輝いて見えます。

 そして万年青の世話していた父にもひとつの変化が出てきました。ここ1年くらいの間に、歩く姿が急激に弱弱しくなった父でしたが、牛舎管理舎の階段の上り方に元の力強さが戻ってきたのです。階段を一段ごとに両足をそろえて上るのはやめて、足をひとつずつ出して上るようになったのです。これには驚きました。

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