春よ来い(7)


第75回 ありがとう

 簡単に言えそうで、なかなか言えない言葉があります。「ありがとう」もそのひとつです。お礼の気持ちを表す言葉としてよく使われますが、いざという時に声にならなかったり、はずかしさが先に出てしまい、何も言えないで終わってしまうことが多い。それだけに、「ありがとう」という一言が大きな感動を呼ぶことがあります。

 大島区のチヨノ伯母さんの葬儀が終わった後の、お斎(とき)の時の嵩治(たかじ)さんの挨拶の場合がそうでした。お斎の会場となった「庄屋の家」の大広間には遺族、親戚の人たちを中心に五〇人ほどの人たちが集まっていました。進行役を務めていたUさんが、「それでは、キョウダイを代表してアサ子さんにお礼を申し上げたいということで、嵩治さんの方から挨拶がございます」と述べた瞬間、予想外の展開に会場は静まり返りました。

 嵩治さんは、七人キョウダイの下から二番目。男のキョウダイでは一番下、親想いは人一倍です。関東で会社を経営している立場の人ですから挨拶は慣れているはずです。しかし、呼ばれてすっと立ったものの、全身が震えているようでした。「アサ子さんには九年間も母の面倒を見ていただきました。子どもを代表して……お礼を言いたいと思います……ありがとう、ありがとう……」涙で言葉が続きません。突然の「ありがとう」にアサ子さんは、はにかみながら、「いえいえ、私なんか何も……」と手を横に振ります。みんなもらい泣きしました。わずか一分ほどの挨拶、でも嵩治さんの「ありがとう」には、どんな長い挨拶でも表現できない感謝の気持ちがこもっていました。

 チヨノ伯母さんが体調を崩したのは一〇年ほど前でした。その後、県立松代病院への入退院を繰り返しました。退院すると、時々ショートスティの世話になりながら、自宅での介護が続きました。その介護をしてくれたのがアサ子さんでした。

 長年にわたる介護では、介護をした人でなければわからない気持ちの揺れがあります。「時々に天使と悪魔が入れ代わる吾の介護も十年目となり」。NHKの介護百人一首に選ばれた吉村惠美子さん(上越市寺在住)の歌のとおりです。外から聞こえてくる言葉は褒める言葉ばかりではなかったはずです。それでも九年間ずっと笑顔を絶やさず頑張った。すごいことです。

 伯母の葬儀があったのは二月一三日でした。豪雪地帯の二月といえば荒れる日が多く、みんなが悪天候にならなければいいがと心配しました。でも、この日はとてもいい天気になりました。空は青く、白い雲が流れている。三月下旬をおもわせるような晴れ方をしたのです。

 嵩治さんの挨拶を振り返っていて、ふと思い出したのは、火葬場に行った時のアサ子さんの慌てた様子と笑顔です。この日、五智の火葬場に着いてから、骨があがるまで結構時間があったので、アサ子さんや従弟たちと散歩に出ました。親鸞聖人が八〇〇年前に流され着いた居多ヶ浜が近くにあるよ。海も見えるから案内するさ。そう言って私が呼びかけ、礼服を着たままみんなで歩きました。道端ではタンポポが黄色い花を咲かせていました。青い空には飛行機雲が交差しています。遠く離れた東の方角には大島の山がくっきりと見えました。でも、肝腎の居多ヶ浜にはなかなか着きません。そして伯母の骨があがる時間が迫っていました。慌てたのはアサ子さんです。「骨があがるっていうのに嫁がいないって騒ぎになっちゃう」。そう言いながら早足で帰り始めたのです。この時のアサ子さんの恥ずかしそうな笑顔も心に残りました。



第74回 父の「旅行」

 重い雪が降ったその日、父はすっかり旅行へ行くものと思い込んでいました。「小遣いは持っていかんでいいがか」「ズボンのバンドはどうするがだ」などと言っては、そわそわしていました。よほど楽しみにしていたのでしょう、母によると、前の晩は一時間に一回の割合で起きてトイレに行くほど興奮していたそうです。

 父が旅行と思い込んでいたのはショートスティ(短期入所事業)です。デイサービスを利用しながら家で介護するにしても、たまには休む日がないと介護にあたっている母が倒れてしまう、施設で短期間あずかってもらおう、家族でそう決めたのは半月ほど前のことでした。そして介護の支援センター(正式には地域包括支援センター)の担当者と相談し、初めてショートスティに行く日を迎えたのです。

 父のうれしそうな姿を見ながら、一方で、残される家族は心配しました。よそで寝ていて、もうぞうこいて(妄想をいだくこと)、「バチャ、オイ、オイ」と大きな声で呼ぶかもしれない。知っている人が一人もいない中でじっとしていられるだろうか。いろんなことが脳裏をかすめるのです。

 そもそも、父には数日前から「今度、泊まりに連れて行ってやるすけね」と言ったものの、詳しいことは教えていませんでした。父の性格からして、いやだというのは目に見えていたからです。今回の入所次第では二度と行かないと言い出す可能性もありました。間違っても、家族に見放された、おいていかれたと思われないようにしたい、というのが家族の気持ちでした。

 父がお世話になる施設はわが家から車で約三〇分のところにあります。最初は、長女が車に乗せていき、午後から私が入所した父を訪ねる計画でしたが、最終的には、長女の運転する車に私と母も乗り込み、送り届けることになりました。出かける仕度ができた時、父は母に言いました。「オレも行っかが」。一瞬、行かないと言い出すのかと思いましたが、「おまん、行かんでどうしるね」と母にさとされてから、父の次の言葉は出てきませんでした。

 施設に着いた時、玄関で待っていてくれたのは担当のHさん、とてもやさしい感じの女性でした。入所の手続き、薬剤師さんとの打ち合わせを済ませたのち、Hさんは入所されているみなさんに父を紹介してくださいました。施設の紹介もしていただきましたが、広々としていて明るく、落着いた雰囲気があります。これなら大丈夫、と安心しました。気がかりなのは父が気に入ってくれるかどうかでした。「何か心配なことがありますか」とHさんに聞かれた父は、「ありません」と答えました。あまりにも元気な返事だったので、母も私も笑ってしまいました。

 さて、いよいよ父と離れなければならない時がきました。「また来るからね」そう言って別れましたが、父は私たちを追うそぶりも見せません。一階に降りるエレベーターのところまで行ってから、何となく気になって振り返ってみると、テレビの前のテーブルのそばに連れて行ってもらった父は車イスに乗って身動きすることなく無言でした。どうも何か違うようだと思い始めていたのでしょう。

 今回の父の「旅行」は二泊三日。三日目の午後、長女とともに迎えに行くと、父は長女の顔を見たとたんに涙ぐみました。「じいちゃん、泣かんでよ」と言われ、声こそ出しませんでしたが、目の周りは赤くなっていました。担当した職員の話ですと、一日目から、ずっと母をさがしていたそうです。



第73回 晴れ姿

 あのユキちゃんがお嫁にいったということを聞いたのは、結婚式が終わって一ヶ月近くたってからのことでした。いやー、いい結婚式だったわね。近所のしょも、みんながビデオを見に来てくんなって、その度に涙が出て……。そう言って教えてくれたのは、ユキちゃんのおじいちゃんであるHさんでした。

 私がユキちゃんと知り合ったのは二十数年前ですが、私の記憶にずっと残ることになったのは彼女が小学校二年生になったばかりの頃に書いた作文によります。いまから十八年前のことでした。地元紙・新潟日報の上越版を開いたら、「うちの家族」というコーナーに、一生忘れることができないユキちゃんの作文が載っていたのです。

 「わたしの大すきなおとうさんは、一月十五日のさいのかみの日に、にゅういんをしました。びょういんへ行ったら、しにそうになっていました。何日も、気がついてくれませんでした。わたしは、足ががくがくして思わずないてしまいました。今は、やっと気がついて、元気になってきています。病院で、おとうさんとごはんをたべたら、いつもよりおいしかったです。おとうさんもにこにこ笑っていました。」

 読んだ途端に涙があふれてきて、どうにもなりませんでした。ユキちゃんやお父さんのことを私が知っていたということもあるでしょうが、読みながら、ユキちゃんの気持ちがどんどん伝わってきて、切ないやら、うれしいやら……。胸がドキドキしたものです。小さなスペースの中に自分の思いをこれほど見事に凝縮させた文章には、その後、出会ったことがありません。最高の作文でした。そこには、おばあちゃんそっくりのかわいい顔写真もありました。

 ユキちゃんはこれまでの人生で三度もつらい体験をしました。子どもの頃の足の大やけど、お父さんの急性脊髄炎、そして五年前のお母さんの急死、いずれも切ないことばかりでしたが、ユキちゃんの周りには、いつも家族がいて、親戚の人たちがいて、近所の人たちがいました。みんなが心配していてくれる。ユキちゃんはそのことを決して忘れることがありませんでした。

 さて結婚式、ユキちゃんは自宅での着付けにこだわりました。自分の晴れ姿をお母さんをはじめ、お世話になったみなさんに見てもらいたい、そう思ったのです。当日は青空の広がった秋晴れでした。自宅での着付けを終わって、高田の式場から迎えのバスがくる頃には、自宅前の広場は親戚や友人、近所の人でいっぱいになりました。子どもも大人も、元気な人だけでなく、体の調子がいまひとつの人もみんな集まってくれたのです。

 結婚式での両親へのお礼の挨拶。薄緑色のウエディングドレスを着たユキちゃんは自宅での着付けにふれながら、亡くなったお母さんや親戚、近所の人たちなどへの感謝の気持ちをのべました。そして、それが終わったところで、今度は父親のSさんが司会者に託したユキちゃんへのメッセージが読み上げられました。

 「ユキ、おぼえていますか、三歳の時、大やけどをしてしまったことを……。お父さんが脊髄炎で一ヶ月以上も意識不明になった時にはお母さんがずっと付っきりで、学校行事にも参加できなくてわるかったね。ユキをはじめ、子どもたちみんなにつらい思いをさせてしまったけれど、ユキの結婚、みんなで喜んでいるよ。これからも父として応援していきます」

 新郎と連れ添ったユキちゃん、右手にハンカチをギュッと握り、輝いていました。      



第72回 開通

 人間というのは、うれしい時に「うれしい」と言葉に出すとは限らない。上川谷の県道の開通式で改めてそう思いました。テープカットが終わり、百メートルほどの災害復旧ヶ所を地元住民、工事関係者など、集まった全員で下の方へ歩いた時がそうでした。長靴を履いている人も靴を履いている人も、ほとんどしゃべらず、ぞろぞろと歩きました。本当に開通したことを喜んでいるのだろうかと疑いたくなるほど、誰もが静かに歩いていたのです。

 開通の喜びをはっきりと確認できたのは、祝宴の会場となった旧川谷小中学校体育館に入って、デジカメ写真の写り具合を点検した時です。写真の真ん中に写っているヤエさんの顔がえびす顔になっていました。すぐ前を歩くケンゾウさんの顔には白い歯も見えます。「やはり、うれしかったんだな」と思い、何となくホッとしました。

 祝宴が始まってから、今度は地元の皆さんの会話の中身で喜びを確認できました。地元の皆さんのところに酒を注ぎにまわると、「ひさでした」「お元気でしたか」「達者でいたかい」大正一三年生まれのカネさんがじつにいい表情で、ひと言ひと言ゆっくりと沢(屋号)のサイチロウさんに語りかけています。
「いいやんべだね、これから……。おっかちゃ、風邪ひかんかったかや」 「これから、ちょこちょこ、顔見られるねや」と続けています。これにたいして沢のとうちゃんは、細い体をひねりながら言いました。「今年は忘年会やろさ」。カネさんが「うん、やろ、やろ」とすぐ返していました。とてもいい雰囲気です。

 そして祝宴が終わり、農協川谷出張所でコーヒーをご馳走になっていた時もこの雰囲気を味わうことができました。カネさんやヤエさんたちがやってきて戸を開けると、すぐ、上川谷の人たちに向かって、「おー、おー」とやっています。「どっこいしょ」と言ってイスに腰掛け、「あらー、久しぶりだよ。いかった、いかった」。

 考えてみれば災害が発生して交通止めになってから、川谷地区の上川谷とその他の集落は分断され、思うように交流できなくなりました。毎週木曜日に農協川谷出張所の売り出しで顔を合わせ、一緒にお茶を飲む楽しみもかなわない、稲作農家の若いTさんのかわいい子どもさんとも会えなくなりました。会えたのは運動会と正月のサイの神の時ぐらいなものでした。

 開通を喜んだのは、地元の住民だけではありません。川谷地区と交流のある人たちもずっと災害復旧工事の行方を見つめていました。五日の開通式に参加しようと呼びかけたのは新潟市に住むHさん、法政大学人間環境ネットのメンバーのひとりです。この日は主催者や市役所職員などよりも早く現場にかけつけました。同ネットからはスリッパ六〇足がプレゼントされ、法政大学人間環境学部のT教授からはお酒も届けられました。祝宴で司会者がこのことを披露すると大きな拍手が起こりました。

 主要地方道大潟高柳線の上川谷地内の道が交通止めになったのは昨年の六月二八日の梅雨前線豪雨の時でした。一年五ヶ月前、この場所は大きな岩や大量の土砂に覆われ、復旧の見込みは立たないのではないかと思うほど深刻な被害に見えました。それが、いまはすっかり片付けられ、きれいに舗装されました。災害で道は五二六日間分断されましたが、地域住民の心はつながり続け、さらに強まったのではないか、そんな気のした一二月五日でした。



第71回 招待旅行

 今春、社会人になったばかりの次男が私たち夫婦を温泉旅行に連れて行ってくれるという話をしたのはふた月ほど前のことです。それも、費用は勤務先の会社でもってくれるというのです。会社での働きが評価されてのことだというのですが、それにしても思い切ったことをする会社があるものです。

 夫婦で泊りがけの旅行に出たのは、結婚して数年後、松之山温泉に一度行ったくらいしか記憶に残っていません。乳搾りをしていた関係で、そういう時間はなかなかとれなかったのです。三人での温泉旅行はもちろん初めて、どんな旅行になるのか楽しみでした。

 さて、当日。午前中に仕事を済ませた私は、家に戻って、着替えました。最初はブレザーを着ていこうと思ったのですが、妻に、「きちんとした格好してね」と注文をつけられたので、スーツを着て車に乗り込みました。旅行はすべて次男任せです。ホテルまでの車の運転、宿での様々な手続きなど全部やってくれました。おかげで気楽な旅となりました。

 宿は、旅行関係者が選ぶ「いい宿ランキング」全国第二位というホテルです。行きの車の中では、一人ひとり別の部屋になるか、男と女は別の部屋になるだろうなどと勝手な予想をしていたのですが、二〇畳もある大きな部屋に三人が泊まるようにセットされていました。それも最上階、着替え室、お風呂、洗面所などが付いていて、まるで貴賓室といった感じでした。

 泊まる部屋の豪華さに驚いたのは序の口、夕食もすごかった。通常、夕食は食堂か宴会専用の部屋でとりますが、少人数ということもあって、泊まる部屋でとるようになっていました。私たちのために一人の仲居さんがついていてくださり、飲み物や料理を次々と運んでくれます。こういう待遇をされたのは初めてでした。

 「おしながき」を見ると、「柿の白和え」からはじまって「松茸土瓶蒸し」「甘鯛幽庵焼」「南京・里芋などの炊き合わせ」「かますの竜田揚げ」など一四もずらりと並んでいました。たいへんなご馳走です。

 この一四の食べものを約二時間で食べるようになっていたのですが、うれしかったのは、のんびりと自由に食べることができたことです。身内だけなので、誰にも気兼ねすることなく、飲みたいときに飲み、食べたい時に好きなだけ食べる。この「わがまま」を通すことができました。

 家族三人だけの宴会は、時間がゆっくり流れます。ビールを二本もいただいたので、一つの食べものが出てから次のものが出るまで待っている時は、どうしても横になりたくなります。そこで、待ち時間が長い時には、着替え室で昼寝用の小さな布団を敷き、ひと眠りさせてもらいました。仲居さんが料理を運んでくれて部屋から出る頃になると不思議と目が覚め、宴席に戻りました。妻に、「ほら、また、お父さんが起きてきた。おいしいものが出ると必ず起きてくるんだから」と笑われました。

 温泉には三回も入って、部屋では次男を真ん中に「川の字」になって眠りました。翌朝、一番早く起きたのは私。次男の寝顔を見ながら思いました。ろくな子育てもしなかったのに、大きくなって、まともな人間に成長してくれたものだと。それにしても、こんなに伸び伸びとできたのは本当に久しぶりのことでした。



第70回 医者の「面接試験」

 このところ、父の容態が良くなったり悪くなったりして、ビックリさせられることが続いています。半月ほど前のことです。弟から緊急連絡があり、父が玄関で転倒したとの情報が入ってきました。後で母に聞いたところ、その日は体調もよくなかったらしく、コンクリートの上にドドンと音をたてて転んだといいます。一時、意識を失ったのか、父も何が起きたかわからないと言っていました。

 今年に入って、父の転倒は、これで3回目。1回目は牛舎内、この時は転んだあと、仔牛に腹の上にのぼられるというオマケまでつきました。2回目は寝室で圧迫骨折。そしてこの日の玄関での転倒と続きました。

 転倒の度に弱っていくので、転倒したと聞いただけでドキッとしますが、もっと驚いたのは翌朝でした。朝の6時半。牛舎に向かって歩いてくる人の姿を見てびっくりしました。杖をつき、麦わら帽子をかぶり、足を引きずるようにして歩いてくる姿はまぎれもなく父です。前日に転倒したのがうそのようでした。前の晩に発熱し大騒ぎしたというのに、家から500メートルもよく歩いてきたものです。すぐそばまでとんで行き、「どうした、じいちゃん」と声をかけると、「牛にエサをくれなきゃならん」。牛飼いをやめたことは、もうすっかり忘れているのでした。

 今週の前半もわが家は大騒ぎでした。私が東京へ行っている間に父の具合が悪化、ほとんどご飯を食べようとしないというのです。それで、翌日の月曜日、市内の病院へ行き、いろいろと検査をしてもらいました。その結果、脱水症状などからくる意識障害がかなり進んでいることなどから、医師に翌日入院するようすすめられました。

 その日は点滴をしてもらい、父を連れて家に戻ったのは夕方の5時過ぎでした。しかし、「明日入院するんだよ」と言っても父はなかなか納得してくれませんでした。おれは悪いところが無いのに、なんで入院しなければならないんだ、と頑固に頑張るのです。そして一人で風呂場に行き、浴槽につかりながら、いつものように「平成音頭」を歌っていました。2日間ろくに食べなかった食事も少しずつとるようになりました。

 さて入院当日。前日の点滴が効いたのでしょうか、食事は朝から普通に食べられるようになりました。午前は理髪屋さんに行き、髪も顔もきれいにしてもらいました。入院は午後からです。入院に必要な物をすべて持って病院に行きました。

 入院の直前には診察があります。担当の医師から次々と出された質問のほとんどに、父は的確な答えをしていました。まともに答えられなかったのは、この日の日付と前回病院に来た日だけでした。前日の言動からは想像できないことで、これには私もビックリでした。そして、なんということでしょうか、入院することになっていたその日の診察で、父は入院するまでもないと診断され、通院して様子を見ることになったのです。

 入院が中止になって大喜びしたのは父でした。「医者の面接試験に合格した」と言って喜ぶ姿を見て、みんなで笑いましたが、正直言ってホッとしました。これまでも、父の病状は良くなったり、悪くなったりしています。今回の好転がそのままいくとは限りません。でも、いい時ぐらいは自分の住みなれたところで楽々させてあげたいと思います。



第69回 姉と妹(2)

 春になったら大島区板山の伯母の家に連れて行ってあげる、という母への約束をようやく果たしました。九月のある日曜日の朝でした。約束がずっと気になっていた私は、吉川区のもっとも山間部にある集落へ議会報告チラシを配布に行く際、足を伸ばして伯母の家まで行くことにしました。

 「ばちゃ、板山へ行くかね」と声をかけたら、母はすぐに「おう、行く」と返事をしました。それからがたいへんです。台所に買ったものはないか、畑には何があるか。母の頭の中では、土産に持っていくものを何にしようかということが、ぐるぐる回りはじめたのです。

 まだ朝飯前。母は三輪自転車に乗って牛舎の近くにある畑まで出かけました。しかし、なかなか戻ってきません。畑に行く直前に伯母のところへ電話をしていたのでしょう、しばらくして、伯母から電話が来ました。「おまんた、何時ごろに来るかと思ってそ」。伯母の方も、「お客」に何を食べさせようか、考えていたのです。

 畑から戻ってきた母は、三輪自転車のかごにツルムラサキなど何種類もの野菜を載せていました。それらを新聞紙にくるくるっと包みます。そして、お菓子などと一緒にダンボールに入れ、軽トラに積み込む。これで準備オーケーです。あとは、ささっと着替えて、出発しました。

 一時間半後、板山に到着。伯母は、もう来るはずだと、玄関に出て待っていてくれました。前回訪ねてから、おそらく一年以上たっていたと思います。ふたりにとっては久しぶりの再会でした。

 居間のテーブルの上にはすでにご馳走が用意してありました。おにぎり、いなり寿司、ヨウゴの煮物、ダイコンの酢漬け、コンニャク・豆腐・里芋の煮っころがし、ミョウガの味噌漬け、シソの実の漬物など母の大好きなものばかりです。

 伯母は、母が朝飯を軽くしか食べてこなかったをすっかり見抜いていて、妹を見るなり、言いました。
「まんま、くわっしゃい……。ひとりじゃ、食いずらいかえ?」
母が最初に手を出したのは、大きな梅干が入ったおにぎりです。それを半分食べたところで、茶碗に盛られたご飯にも目を向け、今度はそれを一生懸命食べ始めました。伯母はご飯も用意しておいてくれたのです。白いご飯の上にはイクラが乗せてありました。パクパク食べている、母の様子はまるでお腹をすかした子どもが遊びから帰ってきた時の姿とそっくりでした。

 姉妹はふだんから電話で話をしているせいなのか、久しぶりの再会だというのに、食べてばかりいて、最初は、ろくに話をしませんでした。でも、私と従弟で近所の民宿をたずねている間に、話はずいぶんはずんだようです。帰りの時間になったので、「どうだね、おもしい(おもしろい)話したかね」と聞くと、「うん、おもしかった」

 姉、八九歳。妹、八二歳。七人キョウダイの中で、生きていて話ができるのは、このふたりだけです。どちらも畑が大好きで、話好き。ふたりは、今度はわが家に泊まって遊ぶ約束をしたとか。まだ十年くらいは、姉妹のおしゃべりの手伝いをしなければいけないようです。いいやんべです。



第68回 操作番号

 数字の1、2、3が生活のなかで、こんなにも役に立っているとは思いませんでした。父が愛用しているポータブルCDプレーヤーを久しぶりに見た時のことです。電源を入れる、音量を調節するなどの操作の順番を表す数字が丸く切った白い紙に書かれ、それぞれの場所に貼り付けてあったのです。書いてくれたのは長女。なるほどと思いました。これなら、操作の順番を忘れても安心して使うことができます。

 家にいる時、父の一番の楽しみは昔も今もテレビ放送で歌番組を観ることです。歌番組といっても、いまはやりの若者の速いテンポの音楽ではありません。演歌や民謡です。若い時から歌を歌ってきた父にとって、こうした番組は自分の気持ちとピタリと合うのでしょうね。

 父は歌番組がない時はCDプレーヤーをかけます。お気に入りは氷川きよし、なかでも「大井追っかけ音次郎」が大好きです。いまから5年前にヒットした「大井追っかけ音次郎」は、「やっぱりね そうだろね しんどいね 未練だね」というフレーズが有名ですが、父がこの演歌を好きになった最大の理由は、この歌の最後に出てくる「音次郎」です。「大井追っかけ音次郎 音次郎」の「音次郎」の部分がすっかり気に入っているのです。その理由は簡単、自分の親の名前・「音治郎」と同じオトジロウだからなのです。

 毎日のように「大井追っかけ音次郎」を聴いていた父でしたが、最近、CDプレーヤーの操作をなかなか思い出せなくなってしまいました。CDプレーヤーにはいくつもスイッチやボタンがついています。どれをどうしたらいいのか、その順番が分からなくなるのです。

 こうした父の姿を見て、長女は操作順の番号を紙に書いて、操作ボタンやキーのところに貼り付けたのでした。プレーヤーに貼り付けられた番号に従ってスイッチを入れたりボタンを押したりすれば、停電でもしないかぎり曲は流れてきます。これで思い出せなくても大丈夫です。間違えることもなくなりました。父はニコニコしながら、番号に従って操作、「大井追っかけ音次郎」などを聴いています。

 先日、ある家でお茶をご馳走になった時、番号を書いてもらい機械などの操作をしている人は父のほかにもいることを知りました。山間部に住むTさん。75歳を超えてはいますが、まだ田んぼ仕事については現役です。田植え機などの機械を使う仕事は、ご長男が休日などを利用して帰省し、やってくれることが多くなりましたが、晴れた時に使うコンバインなどはTさんが操作せざるをえない場面もあるということでした。

 ところがTさんもまた、父と同じように物忘れがひどくなっていました。お連れ合いは、「一分前に言ったこともすぐ忘れてしまう」と言って笑います。今年も稲刈りはもうすぐ。コンバインが動かせるかどうか心配でした。それでどうしたかというと、農機具屋さんから操作盤のところに黒いマジックインキで数字を書いてもらったというのです。もちろん、操作順の番号で、1、2、3……と。

 きょうも父は番号に従ってCDプレーヤーをかけています。最近は「平成音頭」もお気に入りに加わりましたが、やはり最後は「大井追っかけ音次郎」、オオイオッカケオトジロウ オトージロウ……このメロディがわが家の居間にあふれます。



第67回 帰省

 愛知県に住む弟が突然帰省したのは先だってのことでした。朝早くに電話をかけてきて、「兄貴、同級会に出ないかと誘われたもんで、きょう行くし、頼むわ」。しばらく連絡がなかっただけに、急な電話に驚きました。でもこの知らせを聞いて喜んだのは両親でした。

 弟には数ヶ月前、「オヤジもだいぶ弱ってきたし、たまにはオヤジの顔を見に来てくれ」と話しておきました。それが頭にあったのか、小中学時代の同級会にめずらしく参加し、その際、家に泊まることにしたのでした。弟が帰省するのは数年ぶりです。便りがない、電話がないと言っては、弟のことを心配していた父は、「オジは生きているのか」とまで言うようになっていました。

 同級会は日曜日の午後でした。電車に乗ってやってきた弟は、JR上下浜駅で降りて、そのまま会場にむかいました。恩師のところにも寄ってくると聞いてはいたのですが、何時に家に着くかはわかりません。夕方になると、父は落着かなくなったのか、「オジはまだこねがか」と何回もききました。

 弟が家に到着したのは夕方6時半過ぎ。家に入ると、飯台のそばにすわって待ち続けていた父の手をギュッと握り、「とうちゃん、久しぶりだね」と声をかけました。父の、やせて、しわの多い顔は、くしゃくしゃになりました。

 いうまでもなく弟の帰省を母も喜びました。いつもなら、母の歓迎料理は押し寿司です。でも今回は突然やってきたので、間に合いませんでした。そのかわり、キュウリの酢もの、山菜、塩スルメなどが飯台の上に並び、母の得意料理のライスカレーもでました。大潟区に住む弟も加わって、一緒に母の手づくり料理を食べましたが、弟たちは、なつかしい母の料理を楽しみ、「この酢もの、ほんとうにうまいなぁ」などと言っていました。同級会で結構食べたはずなのに、また食べたくなる、母の料理というものは不思議な力をもっています。

 久しぶりに親子全員がそろい、父は大満足でした。ものわすれが激しくなり、体も弱くなった父は要介護度をつけてもらうほどになっています。この日は、介護が必要とは思えないほど元気で、好きなタバコを吹かしながら、「若いしょ(衆)が3人になって部屋が狭くなった」と言っては笑っていました。

 帰省した日の翌日のこと、弟は蛍場にあるわが家の墓参りをした後、長峰温泉ゆったりの郷に出かけ、ゆっくりと温泉につかってきました。そのことを父にちゃんと話したというのですが、父は五分に一回くらいの割合で「風呂に入れや」と言い続けます。弟は最初、困ったオヤジだと思ったそうですが、二階で休んでいるところまで上がってきて、「オレの風呂に入れや」と言うのを聞いてハッとしたというのです。

 じつは、父は弟のためにわが家の風呂にお湯を入れて待っていたのでした。牛舎での牛飼いの仕事をすっかりやめた父にとって、いま唯一の仕事はお風呂を用意することです。自分がお湯を入れたお風呂に入ってもらいたい、そして、その風呂に入って喜ぶ子どもの姿が見たい、父にはその思いがあったのでした。

 人間、いくつになっても、自分の仕事を誰かに認めてもらいたいし、評価してもらいたい気持ちがあるものです。お風呂を用意することも立派な仕事で、父にとっては最大のもてなしだったのです。弟は「オヤジのお風呂」にも入りました。



第66回 梅もぎ

 先日のこと、まだ雨が残っているというのに、父が朝早くから梅もぎをすると言いだしました。毎朝、がんぎにある石に腰をかけてはタバコをくゆらしていましたので、すぐそばにある梅の実りぐあいが気になっていたのでしょう。それにしても、こんな日にもぐとは……。

 父が梅をもぎはじめたことを知ったのは母からの電話でした。「じちゃが梅もぐてがで牛舎へハシゴとりに行った。軽トラで運んでやってくれ」梅をもぐ天気模様かどうかは母もわかっているはずですが、説得できないと観念したようでした。

 雨が降ってまもない時間帯。いうまでもなく梅の木も葉もぬれています。普通なら、晴れるところまではいかなくとも、しずくが切れるまでは待つでしょう。しかし、父は待てませんでした。それにしても、私がいなかったら、家から五百メートルも離れた牛舎から重いハシゴをどうやって運ぶつもりだったのか。

 父はまだ八〇前とはいうものの、足がだいぶ弱くなってきています。母から連絡をもらった時に頭に浮かんだのは、梅もぎをしてハシゴから落ちないだろうかということでした。「こりゃ、忙しいだのなんだのと言っていないで、おれがもごう。そうしなければとんでもないことになるかもしれない」そう思って梅の木のところまで行くと、木のまわりには、すでにたくさんの梅がころがっていました。

 梅の木の高さは四メートルくらい。ハシゴをかけ、すぐに梅もぎをはじめました。梅の実も葉も緑色ですので、下から見たときには、たいして生っていないと思っていたのですが、手に届くところまでのぼってみると、思いのほかたくさんあります。最初は手でもいでいたのですが、下で様子を見ていた父や母が、「棒でしゃいで落とせ」というので、木の周りに青いシートをしいて、短いステッキのような棒を使って枝をたたき、実を落としました。

 梅をもぎ、父や母の様子を見ていたら、何となくおかしくなりました。私にとっては子どもの時以来の数十年ぶりの梅もぎでしたが、梅の実のもぎ手と拾い手が昔と入れ替わっていて、木の下でワイワイ言っている父母が子どもっぽく見えたからです。

 わが家が尾神岳のふもとの蛍場にあった頃、わが家の梅の木は納屋のそばにあった老木一本だけでした。年をとっている割には幹はしっかりしていて、実は小粒で梅干をつくるのには手ごろな大きさでした。

 梅もぎの時期は、田植えが終わって一ヶ月くらいしてから。稲がどんどん生長しはじめたころ、当時はパラチオンという農薬を散布しました。これの散布の前に梅をもぐ、これは祖父だか父の判断でした。木の周りにしいたのはムシロです。長い竹ざおを使って木の枝を揺さぶり、この上に落ちるようにしました。竹ざおの使い手はもちろん大人、子どもはそばで見ていて、梅拾いの手伝いをさせられたものです。

 この老木に子どもたちがまったく登らなかったわけではありません。梅干用の梅をもいでも木には梅の実が必ずいくつか残っていました。これは鳥たちに食べさせるためという人もありましたが、実際は子どものおやつになったのです。私も何回か木に登り、実を傷つけないようにしてもいだ記憶があります。ちょっとすっぱくて、かりっとした歯ごたえが何ともいえませんでした。

 私が梅のもぎ手で父母が拾い手。こういう関係を長く続けたいものです。


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