天に一番近い田んぼ
 
 桜坂峠。吉川町のなかで全国に最も知られている地名は案外ここかもしれない。というのは、ここには無人気象観測施設が数年前まであって、「吉川町の桜坂峠で1時間に40ミリ」などと天気予報の際に紹介されることが多かったからである。
 雨がたくさん降る。雪もたくさん積もる。観測施設のそばにある数枚の田んぼは、そのおかげで田んぼでありつづけることができた。海抜は500メートルくらいになるだろうか。吉川町では一番高いところにある田んぼだ。
 5月のある日曜日、この田んぼの畔を歩いた。畔元に咲くニセアカシアの白い花を撮りたかった。田植えが終ったばかりの田んぼは水がきれいで、黄緑色の早苗がときたま揺れていた。
 畔のすぐそばに黒いかたまりが動いている。オタマジャクシだ。1匹や2匹ではない。数百匹がひとつになって尻尾を振っている。カエルが少しずつ増えてきていると聞いてはいたが、間違いない事実だ。私はしばらくオタマジャクシたちの動きを見つめ、田んぼで遊んだ遠い日のことを思った。


尾神岳のブナ林

 尾神岳の林道に車を止め、そばのブナ林に入った。たくさんのブナが山の斜面にすっと立っている。足元にはうさぎのウンコと間違えそうな小さくて黒い木の実がたまっている。カラカラ天気が続いたせいだろうか、たくさん積もった落ち葉の上を歩くと、サラサラという音がする。
 入った林の中央部に大きなブナの木が二本見える。不思議な木だ。この木の周辺には空気の流れがある。それも強い流れだ。どんどん吸い寄せられる。そばまで行くと、遠くで見た感じよりはるかに大きく、どっしりしている。大人が3人手をつないで、やっと一回りになるくらいの太さだ。根の周囲、半径10メートルぐらいは他の木も近づけない。
 この大きな木に圧倒された私は、車の中で待っていた娘のところに戻り、声をかけた。
「おい、すごいのがあるぞ」。木のそばに来て娘もまた驚いて言った。「こんなに斜めのところに、よくまっすぐ立っているよね」。
 2人とも木の肌にさわり、上を見上げた。「自然の力ってすごいよな」「うん」。大きな緑色の空からやわらかな太陽光線が降り注いでいた。




町田城から米山を望む
 
 いまから400年ほど前、ちょうど『利家とまつ』(NHK大河ドラマ)の時代である。上杉謙信が死んでから跡目争い(御館の乱)が起き、謙信の2人の養子、景虎と景勝は激しく戦った。最後は景勝が勝利を収めたのだが、町田城はこの戦いの舞台のひとつになった。
 町内には長峰城、顕法寺城などいくつもの城址が残っているが、私は町田城址が一番気に入っている。林道から簡単に登れることもあるが、何よりも大きな魅力は戦(いくさ)のことが次々と浮かんでくるところにある。敵の進入を防ぐために尾根を掘ってつくった「堀切り」の大きさといい、城の北側の斜面の急なことといい、簡単には攻め落とせないはずの城だった。
 町史によると、町田城が景勝方の手に落ちたのは1579年(天正7年)3月7日のことである。新暦でいうと4月の半ばくらいだろうか。城の周辺の草木が少しずつ緑に変わっていく頃だ。
 景勝方についた柿崎家中の上野九兵衛らは、芽吹いたばかりの雑木につかまりながら、急な斜面を登ったに違いない。城の上からは石や棒が降ってくる。もう少しというところまで攻上ったものの、槍にぐさっとやられたものもいる。城の周囲は、傷ついて、動けなくなった者、息も絶え絶えの者などがいっぱいだ……現地に行くと、そんなことをつい思い描いてしまう。

(写真は2001年7月撮影。米山とユリがぴたりだった)




花さき山


 源地区の海抜200メートルクラスの山々は4月、山全体がカタクリの花でいっぱいになる。そのなかでも私が特に好きなところは、尾神岳の南側に横たわる屏風のような形をした山だ。
 この山は、私が少年時代に遊びまわった場所でもある。スキーをはいて、ウサギを追いかける。山菜採りに行く。秋になれば、アケビとミヤマツをもぎに行った。だから、山へ入っただけでも胸が熱くなってくる。写真を撮った場所は、この山に入る大事な道があったところだ。小さな笹が茂ってはいたが、まだ道の跡がしっかりと残っていて、いまもウサギたちは自分たちの道として使っている。
 大学を卒業した翌年、私は、斎藤隆介の絵本、『花さき山』を手にして感動した。美しい花はどうして咲くのか、人としてどうあるべきか、その答えを教えてもらった。人間、やさしいことをすれば花が咲く。つらいことをしんぼうして、自分のことよりも他人のことを想ってがんばると、そのやさしさと、けなげさが花になって咲き出す。この絵本によってどれだけ励まされたことか。そしてカタクリの大群落を見るたびに思う。ああ、これこそ花さき山だ、と。




野の花の世界

 数年前のある休日のこと、「ごみごみした市街地ではなく、近くの山へ出かけようよ」と妻が言う。そこで尾神岳周辺へ行くことにした。
  最初に訪ねたのは坪野親水公園。大出口ほど水量は多くはないが、きれいな水が湧き出ている。公園自体は10アールほどの池とその周辺に雑木が数十本あるくらいの小さな公園である。 池の周囲にミニ遊歩道があり、妻と2人でゆっくり歩いた。
 この時、妻から教えてもらった花がある。ヒトリシズカ。雑木の下でそっと咲いていたこの花には、それまで見たことのない気品があり、清純な美しさがあった。 この日、妻に紹介してもらい、初めて出会った野の花はヒトリシズカとニリンソウの2つ。いずれも強く印象に残り、以来、私は、見知らぬ野の花との出会いを楽しむようになった。
  写真のニリンソウは私が住んでいた源地区にある群落の1つだ。ある日のこと、道の近くに咲いていた花を撮ろうとしたら、花は林の中にどんどん広がっているではないか。胸がときめいた。林の奥へ初めて入った時の感動は一生忘れないだろう。木洩れ日をまともに受け、バレリーナのように優雅に咲いている花、日陰でチョウのごとく舞っている無数の花、私はこの光景を妻や子どもたちに見せたいと思った。




田んぼと屏風山と

 昨年の5月の半ば頃のことだ。ちょっと時季はずれだと思ったが、山ウドが欲しくなって尾神岳に登った。200メートルクラスの低い山では終わっても尾神岳の高いところへ行けばまだ手ごろのものがあるはず、そう思ったのである。
 見晴らし荘を過ぎて、少し上ったところで車を停めた。当初想定した場所よりも標高はずいぶん低いところだが、以前、この道下でウドを見つけた記憶がふっと沸いてきたのだ。道から眺めおろしたがウドらしいものは見えない。それでも、ひょっとすればと思い、土手を降りていった。
  長年のウド採りの経験からくる勘がズバリ当った。古いカヤ(ススキ)の下に結構いいものがあった。太くて柔らかそうなものが数本、これで十分だ。もちろん、気分も上々である。
 その時、何とはなしに私の少年時代の遊びの舞台のひとつであった山を見た。屏風のような形をした山々は、田植えが終わったばかりの田んぼの向こうにゆったりと横たわっている。もし、この数枚の田んぼが草ぼうぼうに荒れていれば、屏風のような山々は目立つことがないだろう。遠くにはまだ雪を抱いた県境の山々、そして少し西の方には妙高、火打、焼の頚城三山がうっすらと見える。田んぼと屏風の山々と県境の山々、この3つが織りなす風景はドキッとするほど美しかった。 (写真は2002年6月撮影)


郡境から見た尾神岳
 
 私の少年時代は歩きの時代、バスの走らないところはすべて歩きだった。5キロや10キロを歩くのは平気だったし、当たり前のことだった。
 楽しみが待っているときの足取りは軽い。だが、いくら楽しみが待っているとはいえ、子どもにとって長距離を歩くのは大変なこと、ある程度歩くと、つい自分の歩いたところを振りかえり、どれくらい歩いたかを確認したくなる。  
 写真を撮った場所は、中頸城郡と東頸城郡の郡境である。ここは私が母の実家へお盆泊まりに行く時に通ったところだ。季節は言うまでもなく夏で、風通しもよく、必ずといってよいほどここで休憩した。 ここに立つと、尾神岳の中腹にあるトンネルの付近から下川谷までの道、それに少し前に登ってきた広い道も見える。自分が歩いた距離の長さを目で確かめ、「よく、ここまで歩いたなぁ」と感心してしまう。そして、「よし、もう少しで竹平に着く。がんばろう」という気持ちになったものだ。
 郡境から見た尾神岳は普段見慣れたおっぱいのような形とは違う。だが、面白いものだ。どんな形であれ、見えるうちは一人で歩いていても安心感があった。この郡境を過ぎた途端、尾神岳の姿は見えなくなり、別世界へ入った気がした。


峠の大木

 車の中で、妻が笑いながら子どもたちに言った。「おまんた、お父さんが生きているうちは、同じ話を聞かされるわよ」。
 もう20数年も前のお盆にさかのぼった話だ。妻の実家がある柏崎市からわが家へ帰る途中、あまりにも暑いので、大きな木の下で車を停めて休んだ。
 その木がなんという木なのかは知らない。幼児を乗せた車は静かに引き寄せられた。たくさんの小さな葉によって作りだされた陰のなかで、風は静かに流れていた。涼しかった。子どもたちはとても気持ちよさそうだった。そして、私自身もまた、何か母に抱かれているようなくつろいだ感覚を味わった。
  たった一回きりの体験でも忘れないのは、毎年、お盆にこの木のそばを通るからだ。ちょうど海水浴シーズンと重なることもあって、妻の実家への行きも帰りも柿崎町から小村峠を通り、柏崎市へ抜けるこの道を利用している。峠から柏崎市の野田方面を望むながめは絶景。しかも対向車は何台もない。子どもたちが幼かったころは、目的地に着くまでに何台の車と会うか、かけをして遊んだくらいだ。
 今年もこの大木の陰で休んだ話を車の中でした。運転手は長男。助手席に座っていた私は木のそばでスピードを落すよう命じた。「ほら、ここだよ」と言った瞬間、アレッと思った。大木の根本に野仏が立っていたのである。 (2002年8月)


倉下の滝

 誰にも、ふと思いだし、もう一度会いたくなる風景がある。
 夏のある日のことだった。むっとする暑さの中でうとうとしていると、川の流れが記憶の中からよみがえってきた。
 水はさほど多くなく、澄んでいる。流れの中で、濡れた草がゆれていた。川の中で遊んでいる子どもたち。一抱えもある石の下に手を入れて魚をさがす者がいる。水中メガネをつけて柳の木の下にもぐっている者もいる。気持ちいい。何ともいえない心地よさが全身の皮膚から伝わってくる。そこには時間の経つのを忘れてしまう空間があった。
 あそこの滝はまだあるだろうか。さわやかな気分を懐かしく思い出した私は、少年時代に倉下の滝≠ニ呼んでいた場所へと車を走らせた。
 杉林の中を通り、草むらをかきわけながら川まで下りた。セリが白い花を咲かせている。葉に乗っかって休んでいるのはキボシカミキリだ。滝の音がする。柳の木もある。そして水の色も、高温と低温がぶつかりあう中で放つ川面の匂いも昔とちっとも変わらなかった。みんな同じ……。30数年ぶりに倉下の滝≠訪れた私は、しばらく動けなかった。


収穫の秋

 昔は稲刈りというと9月の半ば過ぎから11月上旬までの長期戦だった。どこの農家でも同じ時期に稲刈りをするので、田植えのようによその人の力を借りるわけにはいかなかった。したがって、年寄りも子どもも稲刈りからロールまで駆り出された。
 それがどうだろう、コンバインが導入されてからは稲の収穫風景はがらりと変わってしまった。子どもの姿は消えた。年寄り、特におばあちゃんの姿が見えなくなった。そして家族が力を合わせる場面がほとんどなくなった。
 代わりに登場してきたのは集落内の農家が力を合わせる収穫作業である。近年、町内では集落営農組織が新たな農業の担い手として広がりをみせている。作業は、ハジ刈りをする係、コンバインを運転する係、トラックで籾を運ぶ係などよく分担されていて、スムーズだ。
 天気のいい日の稲刈り風景、昔と変わった様子を遠くの山々はどんなふうに見ているのだろうか。


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