尾神岳頂上から見た米山

 尾神岳の展望台から頂上に向って遊歩道が整備されている。たいした上り坂もないので、素人でも歩きやすいコースだ。
 途中、いろんな野の花に出会う。先日はキンミズヒキ、オトコエシ、ソバナ、ツリガネニンジンなどに出会った。また、山の幸もある。タケノコ、サルナシ、ヤマブドウなどがあるので、時期になればこれも楽しむことができる。
 ただ残念なのは、遊歩道は雑木林に囲まれているので、まわりの景色がまったくといってよいほど見えないことだ。ところが、ずっと景色を見ることができなくて、歩いている人の口から「これで周りの景色でも見えればねえ」という言葉が漏れ出すころになって、突然、北側の雑木がなくなり明るい景色が飛び込んでくる。そこが尾神岳の頂上だ。
 頂上には3つの祠(ほこら)がある。手を合わせると、向こうに霊峰米山と上越地域の水ガメである柿崎川ダムが見えた。
(2003年8月)



尾神岳から日本海を望む

 吉川町の絶景ナンバーワンは文句なしに尾神岳からの眺望である。とくに大気の汚れのない時に、日本海を望む景色は見事だ。
 今年のお盆に中学時代の同級生とともに尾神岳に登った。車を走らせながら、窓から見える景色に歓声がおこる。パラグライダー基地に立った私たちは、「あそこが中学校」「あそこに見える道がどこどこだ」などと、ひとつひとつ確認した。自分たちが生まれ育った郷土の地形をみると、先人たちが苦労して田を切り開いたことなどを再発見し、感動する。
 日本海の青い海。これがまたいい。大きな船が走ると、後ろには白い波がたつ。子どものころ、見たくて心がドキドキしたものは、果てしなく広がった海と蒸気機関車だった。遠い吉川町の山の中から日本海を航行する船でも見えると、それだけでも大騒ぎだった。
 尾神岳。ここに登ると、不思議と元気になる。
(2003年8月)



ラジオ体操

 夏の朝の空気はおいしい。子どもたちの朝は、その空気をいっぱい吸って全身を動かすことからはじまる。
 「みなさん、おはようございます。きょうは、新潟県は吉川町におじゃましています。吉川町は、酒造りをとりしきる杜氏さんが全国で一番多い町として知られています。今朝は町長さんをはじめ、たくさんのみなさんからお集まりいただいております。それでは第一体操からはじめましょう」
 もし、吉川町からラジオ体操の実況中継が行われるならば、こんな調子で指揮者が挨拶するに違いない。
 ここは吉川町は東寺集落のお宮さんの前広場。集まっている子どもたちは、この集落の子どもではない。下小沢、平等寺集落の子どもたちである。どちらの集落も子どもが少ないので、両集落の中間にあるこの場所をえらんでラジオ体操をやっている。
 お宮さんのある場所は、昔もいまも子どもたちのたまり場である。たった4人のラジオ体操だが、生活にリズム感を持った子どもがここから育っていく。
(2003年8月)



レンゲ祭

 人間が入ってこそ生き生きとする。農村にはそうした風景が少なくない。10年前から吉川町下町で取り組まれているレンゲ祭もその1つだ。
 木々が若葉につつまれたころ、さわやかな風は大地を静かに吹き抜ける。
 このレンゲ畑は、元は田んぼ。30数年前からはじまった減反によって、最初は稲の代わりに大豆などが作られてきた。稲に比べれば、たいした収入にならないのが現実である。当然、作っていてもおもしろくない。そんな気分が広がっているなかで、レンゲづくりがはじまり、減反を逆手にとった地域おこしに発展する。
 赤紫色のレンゲが咲き乱れる畑、大人たちはそこで酒を飲み、語り合う。近所づきあいが薄れつつあるなかで、ミズナのカス漬けや煮物などの「ごっつ
」を持ち寄り、「さあ、食ってくんない」とやっている。機械化の進展によって田畑から姿を消していた子どもたちも戻ってきた。畑でかけっこをする、レンゲを摘んで飾りを作る。子どもたちは、ほんとうによく遊ぶ。
 レンゲ祭10周年の今年。5月の風は、会場からギターや三味線の音を近くの集落へ運んでいた。祭がどんな風に発展していくのか、これからが楽しみだ。
 (2003年)


丸滝のフジ

 吉川町の奥地に丸滝温泉がある。山間の静かな場所にある小さな温泉で、あまり目立たないが、のんびり一日を過ごすにはいいところだ。
 数年前の5月のこと、この丸滝温泉のそばの川沿いにフジの花がたくさん咲くことに気づいた。新緑の広がるなか、あちこちに紫色の花が川をおおうように咲いている。わずか200メートルほどの長さではあるが、紫色の美しさに惹かれ、車をとめて眺めたことを記憶している。
 今年になってもう1つ気づいたことがある。フジの花は、この丸滝だけでなく、周辺の雑木林や杉林にも広がっているのだ。
 ある古老にこのフジの花の話をしたら、
「そりゃ、きれいだでも、山が荒れていることの印だ。昔はフジ切りをしたもんだけども、いまは、ぜんぜんかまわんすけね」という言葉が返ってきた。
 山が荒れると、川が衰弱し、海も駄目になる。どこかで、こういった話を聞いたことがあるが、フジの紫は人間に「山を見直してくれ」と訴えているのかもしれない。

(丸滝温泉の電話は025-247-2400)

 

ポンポコ山の大山桜

 野に咲く花は草だけではない。樹木もまた花をつけ、私たちを楽しませてくれる。
 野の花に興味を持ってから面白いクセが身についた。咲く花を見て、木の存在を確かめることが多くなったのである。
 たとえば5月中下旬に花をつけるヤマボウシ、少年時代にこの実を好んで食べたものだが、最近は車を走らせていてもヤマボウシの木のある場所を見つけることができるようになった。その目印は、いうまでもなく白い花である。
 ポンポコ山というのは、山の頂上付近の形がちょうどタヌキのお腹のように丸くなっていて、訪ねると必ずタヌキの溜めグソがあることから、仲間たちが勝手につけた名前だ。この山に大山桜があることを知ったのも近年のことだ。ゴールデンウイークのころに尾神集落からポンポコ山を眺めていたら、たくさんの山桜の花が咲いていて、その中に濃い紅色をした場所が2ヵ所あった。
 どうしてもその木を確かめたくなり、晴れた日の午後、濃い紅色をめざした。30分くらい登ったところにその木はあった。地面に紅色の花びらがたくさん落ちていた。木の太さは一抱え以上もあり、下から見上げると、天に向かって力強く伸びている。威風堂々とした姿に圧倒された。一瞬、私は、ああ、これは桜の神様≠セと思った。


春霞

 季節の変わり目にはさまざまな自然現象が起きる。そのひとつが早春の霞(かすみ)だ。気象用語としては霧ということになろうが、春の霧はやはり「霞」と呼びたい。
 私は日刊新聞を早朝配達している。そのお陰で毎年、この霞がかかった風景に出会う。
 今年は、雪が少なかったこともあり、春霞はいつもより一月ほど早くやってきた。
 霞が発生しているときに冷たい雪の表面を舐めるように風が吹くのか、それとも霞自体が風を引き起こすのかわからないが、春霞が流れていく光景は、美しいというよりも幻想的という言葉の方がぴったりだ。
 いつも見慣れた家並みが砂漠の中の集落のように見えることもある。また、この場所では毎朝、中年の女性が犬と一緒に散歩しているのだが、姿が霞に消えたかと思うと、また、見えてくる。その様子をじっと見ていると、何か、絵本の世界に入った錯覚に陥るから不思議だ。
 もっとも、そんなのんびりしたことを考えているのは私だけかもしれない。春霞が見られる頃になると、稲作農民の頭の中では田んぼ仕事のことが少しずつ広がっていく。


サルトコの朝

 夜空に星がいっぱい出ている冬の日の翌朝は冷え込むことが多い。水道が凍り、道路の水溜りには厚い氷が張る。鉄製の階段を歩くと、長靴の底がペタペタと張り付く。
 こんな日の朝、私はなんとなくウキウキしてくる。ガリガリに凍った雪の上を歩いた時の気分がよみがえってくるのだ。凍てついた雪の上を歩くことを一般的には「しみわたり」と言うが、私の生まれ育ったところでは「サルトコ」と言っていた。サルトコができる日は、たいがい、雪がしまってくる3月にやってくる。田の上であろうが、野原であろうが、雪さえあればどこでも自由に歩くことができた。道でもないところを自由に歩きまわれる解放感はたまらない。木製の小さな箱の底に竹を打ちつけただけのソリを作り、雪の急斜面を滑ったのもこういう日だった。
 今年、サルトコのできる日が最初にやってきたのは、異常気象なのだろうか、1月だった。近くの田んぼまで行ったら、偶然、薄茶色のキツネが雪の上を走る姿が目に入った。かなりのスピードだ。あっという間に田んぼを横切り、杉林の中に消えた。キツネが駈け抜けた雪原には、無数の「ダイヤモンド」がキラキラと輝いていた。


柿のある風景

 冬の果物といえば「こねり」しかなかった時代があった。「こねり」というのは柿の名前である。わが家でとれた柿の中では最も晩生の品種で、実は硬く、冬に入っても簡単には 腐らなかった。私の記憶では、1月末ころまで食べていたような気がする。
 当時、柿の実は甘柿であろうが渋柿であろうが、冬になる前にきれいに収穫した。柿の木に残っている実は数えるほどしかなかったものだ。それも、冬になれば、子どもたちや鳥、そしてウサギの絶好の「エサ」となった。もちろん、私も「エサ」をねらっていた一人である。
 そうした時代を生きてきただけに、雪の中で柿の木が実をつけたままになっているのを見ると、懐かしさでいっぱいになる。それにしても、もったいない。



黒姫山と妙高山

 手塚治虫の漫画、『ハトよ天まで』を読んだのはもう10年ほど前のことだ。物語では久呂岳(くろだけ)と黒姫山の1千年以上にわたる争いの話が冒頭の部分から出てくる。2つの山のあいだにはいつも雨や風が続き、寒さや日照りのために近くの村はコメも麦もとれない。そんななかで村人たちの闘いのドラマが次々と展開していくのだが、私はこのドラマの舞台が長野県信濃町ではないかと思った。
 私は、毎年11月下旬から12月上旬に長野県須坂市に出かけている。その際、国道から妙高山と黒姫山を横に見ながら車を走らせる。2つの山は物語に出てくる山の姿とはずいぶん違うが、野尻湖を過ぎ、柏原付近まで行った地点になろうか、妙高山が怒った顔に見えるところがある。それが、なんとなく漫画の久呂岳に似ているのだ。
 実際のところは2つの山ともおだやかな感じなのに、『ハトよ天まで』までを読んでからは、2つの山のあいだで火と風の激しいぶつかり合いをしている様子がつい浮かんでしまう。そして、麓に住む住民たちが、荒れ狂う大地の上で必死に生きていく姿も……。国道沿いの売店で売っているソバや焼きトウモロコシも、開拓者たちの血のにじむような努力によって改良された大地で育てられたに違いない。


雪の中の紅葉

 2002年11月5日。朝、寝室の窓から外を見たら真っ白。例年よりも1月も早い降雪だった。ちょうどこの日は町議選の告示日だったからたまらない。山間地では40〜50センチも降ったところがあり、思うように飛び回ることができなかった。
 街頭演説には、背広の上にアノラック、ズボンの上には透明のナイロンズボンという格好で出たが、左手全体に雪混じりの雨が染み込み、服も手袋も台無し、おまけにナイロンズボンが破れていてパンツまで濡れてしまった。
 雪のお陰で散々な目にあったのだが、2日後、まったく予期しなかった光景に出合った。尾神岳の南側に横たわっている屏風のような山々、ここの紅葉が雪の中で一段と美しさを増していたのである。 私の人生でこういう景色を見られるのは、おそらくこれが最初で最後だろう。



「私の好きな風景」一覧に戻る   トップページへ