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人生の先輩たちの興味深い話

 きょうは午前から東頸城郡の大島村、さらに柏崎市へと車を走らせました。大島村から柏崎市へ行く時に、初めて高柳町の石黒地区を通ってみました。石黒については、「大きなケヤキの木が何本もあるところ」「ドブロクの産地として有名だったところ」ということを繰り返し聞かされてきたのですが、ケヤキは見当たりませんでした。山奥の割には、道路がよく整備されていて感心しました。
 昨日、きょうと興味深い話をいくつも聞きました。いずれも私よりも長い人生を歩み続けてきた人の話です。
 話の1つは、サイレンの音についてでした。昨日の地質調査の現場近くには発破を予告するサイレンが鳴る所がありました。ちょうど、お昼を食べている時間にサイレンが鳴り、この音が甲子園球場の高校野球でも聞けること、さらに空襲警報と同じであることへと、話が広がりました。
 柿崎在住の仙田先生は、このサイレンの音を聞くと長岡空襲のことを思い出すと言います。実際には爆撃機が自分の頭の上を飛んでいっただけで、被災しなかったのですが、あのときの空襲警報がこのサイレンと同じ音でした。サイレンの音を聞いてから、1週間くらいは、怖くなると防空壕に逃げ込んだとのことでした。私のように、戦時のサイレンの音を聞いていない世代は、抵抗感がまったくありませんが、音を聞いたらすぐに空襲とリンクしてしまう世代の人たちもいる。戦争体験というのは一生引きずっていくものだということを知りました。
 2つ目はヤマボウシの木についてです。春の比較的遅い時期になって、白いきれいな形の花をつけます。いまそのヤマボウシの実が熟し、赤くなっています。ここまでは私も知っていました。
 赤い実を採って食べるうちに、この木の材質が極めて硬いことが話題になりました。地質調査をされていた渡辺先生の話では、餅つきの時の杵としてこの木を使ったとのことです。さらに、きょう、柏崎市の親戚で聞いて驚いたのは、スキーの板としてもこの木を使ったというのです。材質をしっかり掴んで暮らしに生かす努力をしていた時代があったのですね。
 3つ目。大島村へ行く時に、わが町の中心部である原之町から最も山間部にある上川谷まで一人のお年寄りを車に乗せました。92歳の塩崎英雄さんです。塩崎さんからは、昭和42年1月17日に通学途中の子どもたちが雪崩にまきこまれた時の生々しい様子、さらに健康と歩きの関係を教えてもらいました。
 36年前の雪崩は、私が高校2年生の時のことで、忘れることのできない事故でした。当日、ラジオで知ったのですが、塩崎さんの娘さんもこの雪崩にまき込まれていたといいます。雪崩発生の知らせをうけて、塩崎さんは一旦家に戻り、スコップをもって現場にかけつけたそうです。酸欠状態に陥る寸前だった娘さんたちは幸い、軽い雪が滑って発生した雪崩だったおかげで無事救出されたとのことでした。
 この事故は、私がふるさと吉川町を離れて暮らしていた時に、切ない思いで聞いた最初のニュースでした。自分のふるさとを語るときに何回もこの事故のことを引用させてもらいましたが、事故にあった子どもさんの親から当時の話を聞いたのは今回が初めてでした。
 健康はやはり足から。塩崎さんが健康で長生きできた要因の1つは、歩いて足を鍛えていたからだ、ということを今回再確認できました。コメの検査員をやっていた塩崎さんは、一時期、川谷から尾神岳の中腹を通って柿崎町の黒岩まで歩いていたといいます。往復に要した時間はなんと5時間だったとか。その塩崎さんいわく、
 「いやー、人間は足から弱ってくるもんだね。どうも昨年あたりから足が弱ってきちゃって…」
私なんか、もう足の痛みがきているというのに、すごいもんだと思います。
 


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概要

2003年08月25日 00:00に投稿されたページです。

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