« 2007年11月 | メイン | 2008年01月 »

2007年12月投稿分

2007年12月31日

一年間ありがとうございました

 いよいよ大晦日になりました。政治の世界もわが家も激動の一年でした。わが家については、何とか家族全員で新しい年を迎えることができそうです。一年間、「ホーセの見てある記」をお読みいただいたみなさん、ありがとうございました。

 入院中の父はお陰様で、だいぶ、調子が良いようです。長女からの連絡によると、父の大好きな平成音頭を歌ってやっている時に、途中で歌詞を忘れたら、何と、その続きを父が歌ったといいます。きょうは、新聞代の集金をしていたところ、90代の男性が肺炎から立ち直って元気にしているという話を聞きました。父と症状が似ているので、とてもうれしくなりました。

 これから、病院で付き添いです。大みそかは家族でカラオケに出かけようという計画は先送りとなりましたが、これは、きょうでなくてもいい話です。まずは父に元気になってもらわなければ…。それでは、良いお年をお迎えください。


2007年12月30日

爆睡

 3日連続、病院で泊まったので疲れがピークに達し、きょうは午後から家に戻りました。2時間だけ睡眠をとり、新聞代の集金に出かけました。議員団ニュースの欄外に「父の緊急入院で配達・集金が通常通りいかなくなりました」とお詫びの言葉を入れておいたこともあって、「お父さんの具合はどうか」「こんなことをしていないで病院へ行かなくていいのか」などとたくさんの人から声をかけてもらいました。夕方、雷の影響でパソコン通信は不可能となりました。それを直していただいてから、ちょっと一休みと思って横になったら、もうこの時間です。まだ何時間も眠れそうです。

 父の状態はいま小康状態から回復に向かって動き出している感じがします。夜は痰がたくさんでますが、今朝は黄色い痰を自力で出す場面がありました。痰は切れるようになりつつある。体温は36度7分と普通、血圧も上が120、下が75です。ただ酸素は供給してやらなければならない状況だと言います。ベッドの近くで、うっかりお茶を飲んだら、父は両手をさっと伸ばし、「おれにもよこせ」といった表情をしました。点滴による栄養補給だけでは満足できずに、飲食物に興味を持つようになっただけでも一歩前進かも知れません。


2007年12月29日

病院と吉川区を往復

 早朝の、まだ暗い時間に病院を出て、「しんぶん赤旗」日刊紙の配達をしました。配達後、家で市政レポートの印刷を済ませ、再び病院へ。長女と交代するまで、妻とともに父のそばにいました。夜中から、いつものように「おい」を連続して発しています。この「おい」を聞いている限りは、父の様態は少しずつ良くなってきているような気がします。

 午前11時すぎに妻と一緒に病院を出ました。家で約2時間の仮眠をとり、今度は「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしました。年末ですので、集金もしなければならなかったのですが、時間的な余裕はなく、ほとんど配達だけで回りました。いまは、また病院です。長女の話では痰が切れるようになってきたといいます。この調子で回復してくれればと願っています。


2007年12月28日

何とか持ちこたえたようです

 父に徹夜で付き添いました。きょうの朝までに命の炎が燃え尽きることもありうると言われたので、心配したのですが、何とか持ちこたえてくれました。家族全員の顔をみることができ、うれしかったのでしょう、ほんの一時でしたが、父の笑顔もこの目で見ることができました。市内に住む父のキョウダイや親戚の人たちなど大勢の人たちから見舞いに駆けつけていただきました。心から感謝します。

 昼間、回診にきてくれたお医者さんは、私の知っている人の息子さんでした。すらっとしたスタイルと丁寧な言い方は父親譲りです。まだ30代の若いお医者さんですが、退院後どうするかという話までだしてくれるなど、前向き思考でいろいろと教えていただきました。この人の話を聞いていたら、父もまだ頑張って生きてくれそうな気がしてきました。

 年末の忙しい時期の緊急入院で年賀状書きなどたくさんのことができなくなったり、遅れたりしています。関係者の皆さんには失礼を重ねておりますが、お許しくださいますよう、お願いします。


2007年12月27日

父、緊急入院

 きょうの夕方、救急車で病院に運んでもらいました。痰がつまり、飲食物を一切飲み込めなくなりました。肺炎だそうです。明日の朝までが山だと宣告されました。そこを無事に通過してもたいへんだという話でした。妻と二人で病院にいます。


2007年12月26日

初めて往診してもらった父

 まさか床ずれだったとは。父の足の付け根の「赤めどこ」は低温やけどではなく、床ずれでした。ベッドの上でほとんど同じ姿勢でいたことによるものだそうで、よく調べたら、3か所もできていました。これは昨日、デイ・サービスに行ってわかったことです。医者にみせた方が良いと言われ、きょうはかかりつけのお医者さんから往診していただきました。往診してもらうのは、父にとってはじめてのことです。母と長女が対応してくれました。長女は勤務でしたが、時間休暇をもらってくれました。

 医者が帰ってしばらくして私も家に戻り、父のそばに行ったのですが、きょうは、痰が詰まり、いつもより弱弱しく感じました。ご飯もほとんど食べなかったと母はいいます。もっと水分を摂らせなければだめだよ、と友人に言われました。確かに水分補給しないと口の中はべたべた、ねっとりといった状態になってしまいます。それにしても急に弱ったものです。父も疲れているのか、すぐに眠りにつきます。口を大きくあけて、いかにも病人という表情が気になり、しばらくベッドのそばにいると、「おじいちゃん、すぐに死ぬわけでないから、ついてなくてもいいわよ」と長女に言われてしまいました。

 きょうは旧上越市へ2往復しました。午前は党地区委員会による上越市長への予算要望、午後は妻の送迎です。12月下旬とは思えないほど暖かく、高田公園でトイレに行き、少し休憩していたら、いつの間にかウトウトして1時間ほど眠ってしまいました。


2007年12月25日

自衛隊駐屯地で申し入れ

 昨日の話題から。クリスマスイブを意識していたわけではありませんが、昨日の夕方、吉川区の泉谷地内にある大きなイルミネーション(画像)を見てきました。数年前からテレビなどで話題となった家です。電飾美とでも言えばいいのか、萱ぶき民家の形を活かした見事なイルミネーションは今年も「健在」でした。上越市内の各地で、今年は電飾がぐんと広がりましたが、ここが元祖であり、出発点であったように思います。

 さて、きょうは午前が旧吉川町議会議長、八木一郎氏の叙勲祝賀会でした。私の父よりひとつ年上なのに、とても元気なのにはびっくりでした。腰の痛みがまだ取れないので、自席でしか交流できませんでしたが、旧町議や各種団体の役員さんたちと久しぶりに会えて、話ができたのが一番うれしかったですね。関東地方で働いている吉川区出身者の方とか消防署の幹部の人などがこの日記を毎日のように見ていてくださるという情報も寄せていただきました。

 午後からは、明日の予算要求に向けての最終チェックの会議、そして夕方には自衛隊高田駐屯地を訪れ、日米共同訓練の中止を求める要請行動に参加しました。訓練中止を求める上越地域の会の嶋田五郎会長が面会所で申し入れ文を読み上げました。平和活動での実績からくるのか威厳を感じましたね。ところで、駐屯地へは高田図書館前から歩いて行ったのですが、駐屯地の入り口の反対側には母校である高田高校があります。新築されたばかりの校舎を初めて近くから見て、ずいぶんイメージが変わったなと思いました。

 市政レポート1326号、掲載しました。ご笑覧ください。


2007年12月24日

長井英世議員亡くなる

 柿崎区選出の長井英世議員が亡くなったとの知らせが入りました。長井さんは、12月定例会前に倒れ入院加療中でしたが、心不全のため帰らぬ人となってしまいました。長井さんとは、「合併問題を考える頸北議員の会」の活動を通じて知り合い、05年の市議増員選挙で当選した13区の議員仲間のひとりでした。

 市議会では、農民出身議員として農政に対して鋭い意見を表明し続けた人で、「農政のことなら長井さん」と言われるほど一目置かれた存在でした。私もこのブログで彼の質問について何回か書いたことがあります。昨年の9月議会では次のように書かせてもらいました。

 三番手は長井議員、この人の語る一言一言は詩のよう、しかも農業実践に裏付けられているから聴衆の心をつかみます。「幅広いコメづくりも生産者に求められている」として、農協が推進してきた「適期田植え」を批判、酒造好適米については、旧東頸城地域で「コシタンレイ」の作付けを広めて日本一の酒をつくってほしいとのべました。同議員は「中山間地の農業は宝の山。自分のコメは自分で売る。販売力なくして自立なし」だとも訴えました。聞き応えのある質問でしたね。
 
 長井さんの書いた原稿は淡々としてはいましたが、ヒューマニズムにあふれたものでした。私のところへは今年1月、手紙を寄せていただきました。私の『春よ来い』出版記念会に出席できないということで、「私にとっての春よ来いはこういうものでした」と長井さんの農業歴、農業への想いがA4サイズの紙に1枚半も綴られていました。うっとりする文章です。この日記で紹介しようと探したのですが、どこかにしまいこんでしまったようです。見つかり次第、掲載したいと思います。

 上越市議会は大切な人を失いました。


2007年12月23日

ハリ治療

 腰痛がひどくなりました。朝、蒲団から起きようとしてもなかなか立てませんでした。歩くときは腰を曲げないと歩けません。そんなわけで、新聞配達はきょうも手伝ってもらいました。配達が終わってからハリ治療をお願いして、やってもらいました。腰の右側が炎症を起こしているとのことです。ハリ治療は20年ぶりくらいでしょう。治療が終わったとき、うつぶせになっていたのですが、腹をまったく浮かせることができませんでした。明日も治療を予約してきました。

 夕方、妻とともに柏崎の父を見舞いに行ったのですが、義父は私の格好を見るなり、「なんだ、俺よりも悪いねか」と言いました。妻は生協で購入した食材の一部を大きなナイロン袋に入れて土産として持参しました。きょうは千客万来だったとか。義姉夫婦も私たちよりも早く見舞いに来て、掃除などの手伝いをしていったようです。義父もうれしかったのでしょう、ナイロン袋を見ながら、「サンタのおじさんがクリスマスプレゼントを持って来てくれたようなもんだのう」と笑顔でした。


2007年12月22日

気合いが入った花火

 腰の痛みが強くなってしまったので、「しんぶん赤旗」日曜版の配達は、私が車を運転し、後援会の人から配達の援助をしてもらいました。
 夜は原之町で商工会青年部の人たちなどが取り組むイベントに出ようとしたのですが、無理でした。食べ物も売っていて、ゲームもあり、最後は花火を上げるという話でした。会場は家から直線距離にして1Kちょっとです。ドンドーンという音がしたので、何とか外に出てみたら、大きな花火が何発も打ち上げられていました。冬の夜空の花火は格別です。きれいでした。次男は会場まで行ってみてきたとのこと、帰ってきて「いや、なかなか気合いの入った花火だった」と言っていました。まちおこしのために頑張る人たちに拍手です。


2007年12月21日

ぎっくり腰が再発

 恐れていたことが現実になりました。ぎっくり腰が再発してしまったのです。朝、父の着替えを手伝っていたときでした。電気毛布による低温やけどで父の右足の外側が「赤めどこ」状態になっていることを長女が発見、薬を塗るというので父の体を後ろから抱き上げようとした瞬間、腰がぐずぐずとしてしまったのです。午前は車を運転して市役所へ行ったものの、午後からは、椅子から立ち上がるにも手間取るようになりました。歩いていても、腰を伸ばすことができません。困ったことになりました。

 きょうは午前に議員団会議、午後から文教経済委員会、学校給食を考える会と市教委の話し合いと続きました。文教経済委員会では佐渡汽船の小木直江津航路問題がテーマでした。新潟県と佐渡、上越両市が現在取り組んでいる航路に関する意見募集をめぐって厳しい意見が相次ぎました。2隻体制を前提にした公的資金の投入を始めた初年度に1隻または1.5隻体制案を示して意見を募集するとは何事か。案に関するデータは貧弱で、どういう運航体制に持っていこうとしているかが見え見えだ。案を示しての意見募集は中断してやり直せ。市民の税金を投入することについて、市民代表として厳しく対応するのは当然のことです。

 学校給食の民間委託をめぐっても予定の1時間をオーバーする議論となりました。既報のように、市教委は、新年度は城北中学校での民間委託(請負)は継続し、新たに4校で民間委託を目指し、初年度は労働者派遣による給食を実施し、次年度から同じ業者に民間委託(請負)させる方向性を示しています。この方向性について、「法の網をくぐって民間委託をさせるやり方はやめるべきだ」「契約は単年度契約のはず、次年度に同じ業者にまかせるということは、どんな契約をするつもりか」などという意見や質問が続きました。きょうの議論を聞いていて、新年早々から、来年度に労働者派遣で給食をやろうとしている学校の保護者説明会をやろうとしても無理だと思いました。


2007年12月20日

ベッドから落ちた父

 父の体温が37.7度まで上がり、下がったかと思えばまた上がるという状態が2日ほど続いています。市役所に出かける前に父のベッドのところに行ったところ、顔は横にしてよだれがだらりと出ています。顔全体が幾分膨らんで見えました。「大丈夫か?」と尋ねると、「大丈夫」という声が返ってきました。毎日、様子を見ている母など話では、これくらいならゆっくり休ませておけば心配いらないというので、出かけました。

 夕方、まず父の所へ行こうと玄関を開けると、母が「とちゃ、いいところに来てくれた」と言います。父がベッドから落ちて、そのまま動かせないというのです。寝ている時はたいがい足をベッドの脇に出している父ですが、この日は、そのままずり落ちてしまったのでしょう。ベッドのそばに落ちてぼけっとしている父を後ろから抱き、引き上げました。ぐいっと持ち上げたところ、いやに重たいと思ったら、父が衣装箱を手でしっかりつかんでいるではありませんか。これには、まいりました。

 市役所では議会だよりの原稿を書いたり、吉川区以外から寄せられた生活相談で動きました。また、学校給食運営委員会があるというので傍聴してきました。新潟労働局から請負について指導があったからには、運営委員会はもう一度開催し、来年度からの民間委託をどうするか検討すべきとの私の主張に応えた会議です。市教委は、来年度から民間委託を予定している4校について、初年度は労働者派遣で、慣れたら、請負に切り替えるという方針を示しました。会議はいろんな質問が出て、なかなか終わりそうのない雰囲気でしたが、会長が「来年も民間委託という方針でいく」ことを確認して終わりました。新方針については明日、市教委と学校給食を考える会で話し合います。


2007年12月19日

学校給食調理部門民間委託で新たな動き

 上越市の学校給食民間委託は新たな展開をはじめようとしています。城北中学校での調理部門民間委託が偽装請負の疑いありと報道され、12月議会でも激しい批判を浴びた結果、来年度実施予定校での保護者説明会が延期されたことは前にも書いたとおりです。その後の動きですが、きょう、非公開で教育委員会が開催されました。人事案件でもあるならば非公開はわかりますが、学校給食運営委員会が明日予定されていますから、おそらく学校給食関係の審議なのでしょう。そうだとしたら、ひどすぎます。

 こうしたなか、市職労の学校給食調理員部会全員集会が開催されました。12月議会での論戦の内容やその後の動きについて説明し、今後のたたかいの方向について話し合う集会です。学校給食を考える会所属の議員などが報告したのですが、注目したのは、市教委が民間委託の請負でなく、労働者派遣でやろうということで腹を固めたようだという点です。栄養士を1校専任とし、対応したいとしていますが、十分な実例調査もやらずに飛びつくととんでもないことになるでしょう。きょう入手した学校の保護者向け市教委ビラを見て、論戦の意欲がわいてきました。

 集会では、ベテラン調理員から、「市教委をつつくだけでなく、他(大本であるところ)をつついてほしい」との意見がありました。この点は、今後頭に入れて、論戦に臨みたいと思います。また、きょうの市職労の報告によれば、組合と市との間で確認してある職員配置基準が守られていないことも明らかになりました。問題があろうが無かろうが、学校給食は民間委託を拡大していくのだという市教委の姿勢についてはますます批判が高まっています。市教委は、新たな展開については、市議会にも報告しながらすすめていくことを約束していますので、明日の学校給食運営委員会のあと、どうするかも注視していきたいと思います。


2007年12月18日

知らない顔

 日中はずっと雨でした。時々晴れてくれればいいのですが、降りっぱなしで、強く降ることもありました。こういう時は家の中での仕事であればいいなと思います。でも、きょうは久しぶりに、吉川区で一日を過ごすことができる日です。土日以外はなかなか進まない市政レポートの配布や「しんぶん赤旗」の集金に精を出しました。

 市役所木田事務所に行かないことで、いつも職場まで軽乗用車に乗せていく妻は、行きは電車、帰りは高速バスとなります。行きは電車の決まった時間ですが、帰りは職場での仕事の具合などで時間は定まりません。しかも、きょうのようにバスに乗り遅れることもあります。その時の連絡はすべて携帯のメールです。忙しい時に何回もメールがくると、「自力で通勤できないのか」と思うこともあるのですが、そこのところは妻も承知しているようで、メールの最後に絵文字でラブマークを付けてきます。絵文字というのは便利で、かつ遊び心がありますね。

 夜、気分転換をかねて幸田文の『番茶菓子』(講談社文芸文庫)をめくってみました。日曜日の新潟日報読書欄で紹介された、この本の中に入っている「雨の萩」などを読んでみたくなったからです。「雨の萩」は、雨で倒れかかっている萩の花を傘できれいに起こしながら歩く姿が目に浮かぶ素敵な短文でした。さらに読みすすんで、これは面白いと思ったのは、「知らない顔」という一文です。毎日のように鏡で見ている自分の顔でも「あまり逢ったことのない顔」がある。顔にはまったく自信のない私ですが、なぜかホッとするエッセイでした。


2007年12月17日

小包

 「千葉から小包、届いているど」と母が声をかけてくれたのは昨日のことでした。「はいよ、ありがと」と答え、取りに行ったら、郵便局の宅急便でした。通称、ユーパックというのだそうです。
 「小包」といわれると頭にパッと浮かぶのは、白い紐で縦横にしばってある小さな箱です。子どもの頃は、郵便屋さんが小包を届けてくれると中に何が入っているかワクワクしたものです。いまは紐をほどく時のワクワク感はだいぶ薄れました。でも、ここ数年、千葉や埼玉などから届く「小包」には特別のうれしさが伴います。以前の送り主が亡くなっても、叔父などの気持ちを引き継いでくれる人がいる。これがとてもうれしく感じるのです。
 千葉からは、今年もJRのカレンダーと海苔が届きました。Eちゃん、ありがとう。


2007年12月16日

『山村集落再生の可能性』が紹介されました

 今朝の新潟日報26面の「にいがたの一冊」欄で『山村集落再生の可能性』(画像)(自治体研究社・1500円)が掲載されました。紹介してくださったのは新潟大学の農学部の伊藤亮司先生です。本書について先生からは、「著者四人の住民の暮らしに寄り添うという視点の統一が本書の最大の魅力であり、かつ地域住民に近い所からの発信として大きな価値をもつものであろう」という評価の言葉をいただきました。私のルポについてもほめていただきました。全く面識のない方ですが、心から感謝します。
 この本は、上越市内では、春陽館書店、柿村書店、戸田書店に出ているはずです。ぜひご一読くださいますようお願いします。

 きょうの昼間、地元の代石町内会で捜索活動が行われました。7月の中越沖地震後行方不明になった森口郎治さんの捜索です。私はだいぶ前から予定していた会議があり、参加できないので、妻から出てもらいました。森口さんはきょうの捜索でも発見されなかったということです。いったいどこへ行ってしまったのか。家族の人がかわいそうです。


2007年12月15日

自力で立とうとしない人間の重さ

 また雪になりました。山間部では午前から降り始め、尾神では10センチ近くまで積りました。この調子で降り続けると、明日の朝はブルドーザーが出動するでしょう。こうした天気でしたので、普段は「しんぶん赤旗」日曜版の配達は、平場からはじめて山間部で終わるようにしているのですが、きょうは逆にしました。午後の方がたくさん降ったので、この判断は正解だったと思います。途中、専徳寺の近くで風景写真(画像)を撮りました。写真は午前10時頃のものです。

 10日くらい前から、父の具合が悪い方へまた一段上がりました。全く歩けなくなったのでポータブルのトイレを使っているのですが、そこで立つことができなくなったのです。気合いを入れても、自力で立とうという意欲はなく、ベタッと座ったままです。今朝、日刊紙の配達中に長女から携帯電話があり、出ると、父がトイレに30分も座ったままで、パンツをはかせることができないことができない、手助けしてくれという内容でした。父を抱きかかえて、自力で立とうとしない人間の重さを初めて知りました。人間が石になったようなものです。

 市政レポート1324号、ようやく掲載できました。1325号も同時掲載です。トップページからお入りください。


2007年12月14日

ミスとトラブルと

 まいった、まいった。昨日から悪いことが続きました。議員団控室でこの日記を書いてから市政レポートづくりを3時間くらいかけてやったのですが、ファイルの保存がうまくいかず、かまっているうちに、ファイルをうっかり削除してしまったのが最初でした。書いた文章の記憶が多少は残っているにせよ、もったいないことをしました。杉本議員にこの話をしたところ、「そりゃ、おれのホームページ読んどくべきだったね。まずファイルの名前を付けて、Ctrl+Sで保存するクセをつけておかなきゃ」と言われました。

 この失敗のおかげで、きょうは昨日書いた部分を書き直し、さらに裏面も新たに書きました。要した時間は3時間半。さあ、今度は印刷だ、と意気込んで印刷を始めてまもなくでした。紙がからまって、ドラムが動かなくなってしまったのです。とても私の手で直せるトラブルではありませんでした。機械屋さんにきてもらい、、印刷が終了したのは午後2時半すぎでした。

 午後3時前から、今度は「しんぶん赤旗」日曜版の配達に出て、途中から大潟区総合事務所へ。地域事業について自主審議をするというので傍聴してきました。何よりも関心があったのは市長に提出するという意見書(案)です。会長と副会長が用意してきた案文をみんなで話し合ったのですが、発言する人が多いのには驚きました。「財源を確保では弱い。当初の配分事業費を確保…と書くべきだ」「議会で総合計画が通ったあとで、意見書を提出して意味があるのか」なかなか厳しい発言が相次ぎました。


2007年12月13日

12月議会終了

 12月議会が終わりました。きょうは委員長報告、討論、採決です。あらかじめ、党議員団で任務分担していて、私は保育園通園バス分担金徴収条例と第5次総合計画基本構想の改定について反対討論をしました。早朝、2つの議案についての討論原稿をバタバタと作成し本会議に臨みましたが、登壇して顔を上げたら、原稿とはだいぶずれた討論内容になってしまったようです。それでも、他党派議員から、「分かりやすかったよ」と声をかけてもらいましたから、まずまずといったところでしょうか。

 会議が終わってからは市政レポートの作成にかかりました。議員団ニュースよりもスペースがありますので、7日の私の一般質問をしっかりと載せることにしました。集落懇談会での要望と回答も、そろそろ掲載しなければなりません。この原稿はいま、議員団控え室で書いています。夕方までに、時間があれば、「春よ来い」の第89回も書こうと思っています。議会最終日でもあるので、お客さんもいつもよりあるだろうから、ちょっと欲張りすぎかな。


2007年12月12日

パブリッシャー2007へ

 午前は厚生常任委員会の所管事務調査を傍聴し、午後から政治倫理条例についての議員団としての意見調整、議員団ニュースづくりなどで動きました。厚生常任委員会で最初に調査対象となったのは子どもの権利条例です。すでに素案ができ、パブリックコメントに入る直前まで来ています。市側では事前審査とならないようにと条例の概要しか示しませんでした。それだけではわからないから、条文案も示してほしいという声が委員から出ました。パブコメの結果を受け、最終的な条例案に進むのですから、今の段階で委員会に素案を提出してもいいと私は思ったのですが、提出しなかったこともあって委員会での議論は入り口でつっかえた感じがしました。質問する側も答弁する側も、何が事前審査に当たるのか、あいまいだったように思います。

 議員団ニュースの最新号はパブリッシャー2007を使って作成してみることにしました。これまでパブリッシャー2000で作成してきましたが、写真などが入るとファイルがとても重くなるので、新しいソフトに移らなければならないと思っていました。ところが時間がないものですから、きょうまでズルズルと来てしまったのです。新しいソフトは写真ひとつとっても機能が充実しています。使いこなせればいいのですが、まずは簡単な作り方で慣れようと思います。印刷した出来上がりがどんなものになるか、半分心配、半分楽しみです。


2007年12月11日

時間はゆっくり流れた

 一般質問の最終日でした。仲田、石平という2人の論客が登場するので、答弁する市長も教育長も構えているのがよくわかりました。議場に緊張感がある場合、時間はゆっくり流れます。仲田議員の学校給食民間委託に関する質問は、先日の委員会審議を整理するような内容となっていましたが、注目したのは教育長の「(来年度は)派遣も選択肢」発言です。民間委託しても、4月、5月はどうしても栄養士が調理現場で頻繁に指導しないとやっていけないという現実の中で、追い込まれていることを事実上認めたと言ってよいでしょう。しかし、これは、偽装請負という指摘を逃れるために市教委が今後どうするかが見えた発言でもありました。こちらとしても追撃態勢に入らなければなりません。

 お昼休み時間に吉川区内の友人から交通事故情報が入ってきました。総合センター近くの交差点で人身事故が発生し、救急車で運ばれたという情報です。電話をもらって、「また、起きたか」と思いました。この場所での事故は毎年といってよいほど繰り返されています。私が記憶している事故だけでも3件あります。信号機設置を何度も要請していますが、ここまで事故を繰り返しても設置されないのは交通安全のための予算が少なすぎるから。県内でこのような事例がどれだけあるか、今度は県議とも連携してクローズアップさせたいと思います。

 事故の情報が入ってすぐに県警から派遣されている交通安全専門官のTさんのところへ行き、現場を一緒に見て協力してほしいと要請しました。夕方、区総合事務所職員、原之町駐在なども加わってもらい、現場を見て検討しました。Tさんは専門家だけあって、回転式メジャー(正式名称忘れました)で道路の長さを測り、「一時停止をしても、60キロのスピードで車が来た場合、交差点に3秒で到達する」などと現場の交差点の問題点を具体的に解明してくれました。早期に当面の対策、抜本策を示してくれるものと期待しています。

 昨日の日記のなかで小林章吾議員の絵(画像)のことを紹介しましたが、きょう、デジカメに撮らせてもらいました。クリックしてご覧ください。


2007年12月10日

開会前の1時間

 このところ市議会に到着するのは山岸議長に続いて2番目のことが多くなっています。妻を職場に送っていく関係で私も早いのですが、開会の10時までの1時間余りの間にいろんなことができます。生活相談で動くことができる。コーヒーを飲みながら原稿も書ける。登庁ランプがついていると、きょうのように早く来た傍聴者が訪ねてくれることもあります。きょうは板倉区のNさんから委員会や本会議についての感想を聞いたり、板倉区地域協議会の情報などについて教えてもらいました。

 Nさんと話が終わってから議会事務局へ行ったら、小林章吾議員が私と吉田議員を呼んで、「ちょっと、来てくんない」と言われたので、彼の所属する会派の議員控室へ行きました。同議員は元市議会議長です。新市建設計画か何かで注文でもつけてくるのかと思ったら、何と、彼が描いたという絵を見てほしかったのです。縦60センチ横1メートルほどの絵(画像)は小林議員の友人のみなさんをコンテで描いたものでした。小さな写真をもとに描いたそうですが、写実的で見事なものでした。こういう能力を持っている人だとは全く知りませんでした。

 さて、市議会は一般質問4日目です。廃棄物処分場問題を毎回でもやるわと言っていた樋口議員がトップでした。同議員は前回は地質上の問題から反対を訴えましたが、きょうは春日山という史跡、景観を守る視点から問題に迫りました。春日山城に登って西方の処分場予定地周辺を望む。ここまでなら誰でもやるでしょうが、標高295メートルの城ケ峰にまで登って西方から春日山方向を望むとどうなって見えるかを確認してきたのには感心しました。宮野尾に処分場をつくらせないという彼女の執念が見えた質問でした。


2007年12月09日

お茶やコーヒーもご馳走になってビラ配布

 よく持ちました。雨が降りそうでいながら、ときたまポツポツと落ちたくらいで夕方まで傘なしで過ごすことができました。山間部では雪になりそうだとの予報でしたが、吉川区では大丈夫だったようです。助かりました。

 きょうは市政レポートの配布を思いっきりやろうと決めていたのですが、ほぼ目標数配布できました。ビラ配りはポスティングではなく、声をかけて対話する方式が一番です。「テレビで質問見たよ。たいへんだね」「まだ本ある?おまんのビラ、楽しみにしているがだでね、いつも」「お父さん、その後、具合はどうだね」「側溝のこと、書いておいたけど、頼むわね」いろんな人が声をかけてくれました。お茶やコーヒーもご馳走になって、楽しい活動でした。

 昨日からきょうにかけて何人かの方が私の一般質問について電話やメールをくださいました。そのうちのひとりはMさん、初めてテレビで私の質問を見たとか。「おまんは終始一貫がんばった。ありがとう」短い言葉でしたが、大きな激励でした。


2007年12月08日

一字脱落

 きょうこそはと一枚のビラづくりに専念しました。私のプロフィールなどを紹介するビラです。すでに下書きはできていて、あとは原稿の最終的なチェックをして印刷をするだけ。それだけなら、すぐに終わると思われるでしょうが、新しいパソコンを使って印刷するのは、じつは今回が初めてでした。プリンターとのつなぎの設定、そして印刷物の刷り具合の調節(写真の濃淡など)で予想を大きく上回る時間を要しました。2時間はかかったでしょう。

 そしてやっと印刷に入り、目標枚数のほぼ3分の2まで進んだときでした。近くにいた仲間のSさんが「あれー、この文章、すすめら、になっているよ」と言うのです。なんということでしょう、「すすめられ」と書くべきところを「すすめら」と書いてあったのです。どこで、こんな単純ミスが生まれたのかはわかりません。ビラづくりに慣れている3人がチェックをしてゴーサインを出したというのに。おそらくチェック後、何かの拍子にデリートキーを押したのでしょう。

 間違いに気付いてそのまま印刷を続けるというわけにはいきません。すでに印刷したものは廃棄し、新たに印刷しなおすことにしました。色上質紙を使っていましたので、紙を買いに行き、印刷などすべての作業が終わったのは午後3時過ぎとなってしまいました。たった一字の間違いと見る人もおありでしょうが、一字がないだけで文章のお粗末さが大きく見えてしまいます。今度からは試し刷りをしたら、もう一度チェックをすることを心がけたい。


2007年12月07日

気骨のある論戦

 一般質問は3日目になりました。きょうのトップバッターは杉本議員。国民健康保険税について取り上げた同議員は、一般会計からの繰入をしてでも国保税を上げるべきでないと主張、さらに「国に医療費に関わる国庫負担率の引き上げを求め、国保税を年間一人1万円、4人家族で4万円の引き下げを」と訴えました。日本共産党の参院選政策を踏まえた展開は当然とはいえ、党議員としての論戦の在り方を示すものでした。学ばなければなりません。

 他の議員の質問でいくつか注目したものがありますが、柳沢議員の「14市町村合併の評価について」の論戦は気骨に満ちたすばらしい論戦でした。同議員の論戦の切り口の上手さは、通園バス問題でバスを利用する子どもたちの保護者からお金を取ることに対して「受益とは何か」とやったことなどで定評があります。きょうも、市長の答弁で気になるところがあるとして、「行政の評価する合併効果と市民の評価する合併効果は違う」「何人もの議員が取り上げてもそれは市民の声でないと聞こえる。議員以外の動きにならないと市民の声と受け止めないのか」などと追及しました。市政は市民の声をしっかり聞いて運営すべきことを具体的な事例で浮き彫りにした、とてもいい質問でした。

 私は、運転免許証更新、雪対策、介護施設労働者の労働条件改善をとり上げました。柿崎交番での更新手続き復活について市長は、厳しい状況にあるものの、機会をとらえ、県警に要請していくと表明しました。また、市が送迎バスを運行することについて検討してみたいと答えました。効率的な除雪体制の検討をの訴えには、新年度に、本庁及び各区総合事務所の実務担当者から成るワーキングチームを編成させ、除雪事業者の皆さんからご意見をお聞きした上で、サービス水準の維持を前提に、除雪体制の現状を効率面から検証するとの答えが返りました。そして介護労働者の問題、市内の実態調査を約束するとともに、「介護保険施設への人件費補助や介護給付費の法的負担率などは、いずれも国においての抜本的な対策が必要。市といたしましては、地域における労働環境や労働実態を十分に把握し、その声を国等に伝えていかなければならない」との答弁を引き出すことができました。答弁内容は満足できるものでしたが、反省点がないわけではありません。いい答弁が戻ってきた時の質問の仕方、もっと市を励ましてスッと引くような形の方がよかったのかも知れません。勉強してみます。


2007年12月06日

聞き惚れました

 きょうの一般質問では2人のベテラン議員の質問に聞き惚れてしまいました。一人は市川文一議員、地元春日山が生んだ名将・上杉謙信の生き様をいま学校現場でどのように教えているかを教育長に問いました。四九年一睡夢一期栄華一盃酒(49年のわが生涯は、振り返ってみれば一睡の夢にすぎなかった。この世の栄華は一盃の美味しい酒に等しい)。謙信の辞世の詩から入り、自分の中学時代に二人の指導者から教えていただいたという話が実に心に沁みました。たんたんと述べたその内容は教養の豊かさを感じさせ、ドラマに満ちていました。市川議員は山城が好きで、先日も謙信が初陣を飾った栃尾城をお連れ合い、その妹さんと一緒に訪ねたといいます。足腰が弱ったお連れ合いを気遣い、「休みながらも登ってくれました」と語る、その優しさがなんともいえませんでした。
 いま一人は田村武男議員。自ら農業を営む議員ですが、農業以外のことでも貪欲に学び語ります。前々回だったでしょうか、高校の恩師で、数学者、詩人として有名な高野喜久雄の生涯を紹介した内容は感動的でしたが、今回は、謙信の時代よりもはるか前の越後国分寺の所在地を特定するために本格的な調査をと訴えました。平安時代まで使われていたという布目瓦を議場に持ち込み、こちらも議場にいる人たちをぐいぐい引き寄せ語りました。

 さて、明日はいよいよ私の出番です。質問の準備はこれから最後の仕上げにかかります。きょうのベテラン議員の質問に学びながらも、自分なりの質問スタイルで市長に迫りたいと思います。時間的には、明日の午後2時頃から4時頃までの間になるでしょう。


2007年12月05日

除雪車出動

 昨日から降り始めた雪は10センチを超えました。今朝は4時前には除雪車が我が家の近くの道路除雪にやってきました。毎年のことながら、この降り始めの頃は、自動車の運転にとても気を使います。市役所への所要時間はこれまでの35分から最低50分はみておかなければなりません。ただ、今朝は除雪が行き届いていて、いつもよりも5分くらい余計かかった程度ですみました。それにしても、家の周りの羽目板を弟から手つだってもらったおかげで助かりました。

 市議会はきょうから一般質問でした。宮崎、武藤議員が農業問題をとり上げたので注目しました。議場の雰囲気が一瞬変わったのは、コシヒカリBLについての泉田知事発言を武藤議員が問題にしたときでした。知事は、2005年に県などが導入したコシヒカリBL(BL米)について、「在来(のコシヒカリ)米とBL米の違いを分からないようにして売ってしまおうという戦略だった。『情報隠し』だった」(新潟日報)と述べたものですが、武藤議員は、「自分たちは(品質的には)従来と同じコシヒカリという認識だった。販売する側としては不利な発言だった」と知事発言を批判しました。市長は「(知事発言は)消費者に十分説明する中で販売していくべきだという趣旨だったと思う」と知事に気を遣った答弁をしていましたが、米の産出額が全国第4位の上越市のトップとしてもっと怒ってよかったと思いました。武藤議員はまた、最近、稲作農家から不評の「農地・水・環境保全向上対策」についてもとり上げ、生産者サイドの膨大な事務量について、「農家のためなのか国のためなのか、とても素人レベルでできる仕事ではない。監査のための書類の山にしか思えない」と鋭く批判しました。実際に農業を営む者ならではの発言は説得力がありましたね。

 ところで今朝の「上越よみうり」に『山村集落再生の可能性』(自治体研究社)が写真入りで紹介されました。新聞紙上で紹介されたのは今回が最初です。私が書いたルポなどについては「過疎化が進む集落の様子が克明に描かれている」と書いていただきました。にいがた自治体研究所からの情報によりますと、新潟日報紙でも近々、この本の紹介が日曜日の「新潟の一冊」に載るということです。上越市内では春陽館書店と柿村書店の店頭に出ていますので、ぜひご一読願いたいと思います。


2007年12月04日

 吉川高校の跡地利用、白紙に

 市議会での議論がまったくないのにマスコミが重視する情報があります。先日の文教経済委員会での学力テスト結果情報もそうでしたが、きょうの総務委員会でもそうなりそうなのが県立吉川高校の跡地利用問題です。

 同校の跡地利用については、既存の施設を利用して新潟工科専門学校が醸造実技実習を行う場として利用することで合意されていました。しかし、地域振興部長のきょうの報告によると、本年6月に進出計画の見直し案が提出され、実習期間が当初の通年利用から1か月程度に、生徒数も40人規模から15人規模にするなどの大幅な計画縮小案が示されたといいます。それを受け、市では、「見直し案では酒文化の伝承と醸造を中心とした専門高等教育を官民一体で推進し、吉川区の中心地の活性化を図るという当初の目的を達成することが困難である」「施設と土地を県から取得したうえで無償で新潟工科専門学校に貸与する、必要な施設整備は地域事業費約1億5500万円を投じて行うとした計画の効果は期待できない」との結論に達したといいます。そこで市と専門学校側の双方で協議した結果、10月23日に指定解除確認書を取り交わし、計画を白紙にしたということでした。また、市ではその後、同校の有効活用を検討したものの、新たな利用計画が見いだせないことから、11月15日に、新潟県教育庁に対して、跡地譲渡要望について取り下げ書を提出したそうです。残念ですが、致し方ないですね。

 今日の総務委員会では、第5次総合計画改定版の審議が一番活発でした。新市の将来都市像については市民クラブ。市政会議、共産党議員団が共同で修正案を提出しましたが、賛成少数で否決されてしまいました。提出者を代表して中郷区選出の吉田議員が合併への思いを心をこめて語りましたが、歴代の村長に申し訳ないとのべた重い決断だったという話は感動的でした。


2007年12月03日

ごみ有料化説明会

 9月議会でごみ有料化を決めた後、市役所では、市内にある820からの町内会を対象に説明会を開催しています。今晩は、私が住んでいる町内会での説明会でした。会場である町内会の公民館に行き、まずびっくりしたのは、参加者のほとんどが女性だったことです。数を調べてみたら、参加者の75%にもなっていました。「おや、きょうは女衆ばっかりだね」と言うと、「ごみ出すのは女だねかね」という声が返ってきました。ごみの分別、集積場へのごみ出し、女性がそれを担当しているケースが多いことを改めて確認しました。

 説明会には区総合事務所の市民生活グループの2人の職員が来て、ひとりは説明役、ひとりは書記の仕事をしていました。説明はわかりやすく、声がいいこともあって、参加者の中にはうなづきながら聞いている人も何人かいました。参加者が関心がぐんと高まったのは、2月から販売される新しいごみ袋が会場に回されてから。材質はバイオマスポリエチレン、古米などを原料にした植物性のものです。来年の4月から有料化の対象となる「燃やせるごみ」「燃やせないごみ」「生ごみ」の袋はそれぞれ赤、青、緑の文字で書かれ、どの袋かすぐわかるようにするそうです。「市内には外国の方が多いですから、6ヶ国語で書きます」との説明には何故かドッと笑いが起きました。「これまで有料化していた11の区の中で3つの区で下がり、8つの区でごみ袋代が上がります。吉川区は大きい袋の場合、3倍になります」との説明のときは、シーンとしましたね。

 説明が終わってからの質問時間、私の議会報告会よりも活発でした。女性の皆さん方が次々と質問を繰り出す光景は初めて見ました。しかも質問は具体的で、短い。「紙おむつのごみを出すとき、減免対象となるのはどういう人たちですか。そして申請はどうなりますか」「燃やせないごみで、30キロ以上のものは出せないのですか」「市が助成しているコンポストは町時代に一度助成してもらったことがあるけど、前に助成してもらっていても申請していいですか」「陶器の割れたものは、これまでダンボールに入れて出していたが、同じやり方で出せますか」。すごいなと思いました。

 市議会は厚生常任委員会でした。午前中は傍聴し、午後からは、他会派との打ち合わせ、生活相談などで5時過ぎまでかかりました。


2007年12月02日

信州りんご

 党支部では、30年ほど前からりんごの販売をやっていました。活動資金を集めるためです。信州は須坂市の農民組合を通じて仕入れ、それを注文をとった家に届けていたのです。いまでは手がなくて、組織的な取り組みはしていませんが、その名残があって、須坂市の農家の方が我が家までりんごを運んでくださいます。それを常連客となっている人たちに届ける仕事をきょう、やりました。たいした数ではないものの、軽トラをやめて軽乗用車にしたものですから、いつもより時間がかかりました。

 今年のりんごは天候のせいでしょうか、ものすごく美味いですね。蜜の入りがよくて甘みはたっぷり、蜜の部分はまるでパイナップルの缶詰のような味です。きょう、届けた家の中には、あまりにも美味しくて、追加注文してもらえないかという要請までありました。我が家はりんご大好き人間ばかりです。私は一日に最低1個は食べますし、妻も昔からリンゴが好き。子どもたちもリンゴを食べて育ってきましたから、みんな、自分で皮をむいてどんどん食べています。今年は、この調子だと、すぐに追加しなければならなくなりそうです。


2007年12月01日

家族サービスデー

 もう12月になってしまいました。土曜日なので、自分の思い通りに動ければいいのですが、そうもいきません。わが家の一員であることを意識して、動きました。まず、母に頼まれ、大島区の青空市場へ。続いて、長女に催促され、父の薬をもらいに大潟区へ。それが終わったら、今度は妻の求めに応じて柏崎へと出かけました。戻ってから、ようやく、「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金の仕事をすることができました。ま、こういう家族サービスデーがあって当然なのでしょう。ないと、家族の一員として認めてもらえなくなりますから。


2007年12月投稿分

2007年12月に投稿された全てです。

前:2007年11月
次:2008年01月

過去の投稿

小さな町の幸せ通信