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2004年05月投稿分

2004年05月31日

叔父の葬儀

 亡くなった叔父の通夜、告別式に参加するため、昨日から2日がかりで習志野市鷺沼にでかけてきました。大島村と吉川町の従兄などと1台のワゴン車に乗って往復しました。昨日は助手席で楽々させてもらいましたが、きょうは、私がずっと運転。なれない首都高速を走ったせいか、たいへん疲れました。向こうは晴れ、強風が吹いたものの、予想された雨は落ちませんでした。
 叔父は片方の目をちょっぴり開け、いまにも「きてくれたか」と語りかけてきそうな顔をして眠っていました。棺の中にはタバコと大島村のあさひ荘のマッチなどが入っていました。これに叔父が愛用した携帯電話が入っていれば、旅支度としては完全だったのですが、あちらの世界では文明の利器を使う必要が無いとのこと、まあ、それもいいでしょう。
 叔父の通夜も告別式も近くの慈眼寺というお寺で行われました。親戚の人たちを中心に、国鉄(JR)関係者、旅行仲間、友人など大勢の人たちが叔父との最後の別れをしました。叔父も喜んでくれたことと思います。私は、こちらから出かけた従兄たちとともに、このお寺のお御堂に泊めてもらいました。久しぶりに会った親戚の人たちも、突然の死にびっくりしたようです。「ニンジン送ってくる時期なのに電話が無いのでおかしいと思っていた」「同級会の面倒をよくみていて、故郷の大島村で計画していたらしい」。叔父の話はいつまでも続きました。
 今朝は叔父が生活していた鷺沼周辺を歩いてみました。すぐ近くに「虹色の湖」をヒットさせた中村晃子の生家があるとのことでしたが分かりませんでした。その代わり、彼女が再興したという「樋ノ口弁財天」を見てきました。こちらではこれから咲くアジサイ、ドクダミなどがすでに花開いていました。当たり前のことですが、場所によって花の咲く時期が違うことを自分の目で確かめるのも、いいもんです。


2004年05月29日

千葉の叔父、不帰の客に

 まさかと思いました。千葉県習志野市に住む叔父が亡くなったというのです。朝5時過ぎ、大島村の従兄より連絡をもらいました。すぐ母のところへ行き、「千葉の叔父さん、亡くなったよ」と伝えました。突然の訃報に母は、体を大きく左右にブルブルッと震わせ、「なしたがろな(どうしたのか)、かわいそうに」と言いました。「そういえば、退院したけど、はかばかしくないんだよ、と言ってた」とも。
 叔父は母にとっては一番下の弟にあたる人です。故郷を愛し、キョウダイや甥、姪をとても大事にしてくれました。ちょっとしたことでも心配し、「大丈夫か」と声をかけてくれる叔父でした。私が小学校に入学した時も、わざわざ祝いを持ってきてくれた記憶があります。なぜこんなことを覚えているかというと、叔父がわが家へ来てくれた日の忘れがたい想い出があるからです。この日、私は学校からの帰り道、雪の「がらんぽつ」(雪に覆われた穴)に落ち、泥だらけになってしまいました。家に泣いて帰りつくと、何と大好きな叔父が待っていてくれたのでした。叔父は、毎年、千葉の特産である落花生やニンジンを送ってくれます。こうした叔父を、わが家のキョウダイも従兄たちも、みんな、「千葉の叔父さん」と呼び、親しんでいました。
 面倒見の良い人でしたが、挨拶だけはどうも不得手だったようです。私のすぐ下の弟の結婚式の際には、司会者から親戚を代表して一言ご挨拶をと言われ、「挨拶は苦手なので、一曲やらしてもらいます」。司会者から、「いや、それは後ほどお願いします」と言い返され、叔父はたいへん困っていたとのことでした。もう20数年前になりますが、母は笑いながらこのエピソードを教えてくれたものです。
 叔父は一年に数回、大島村の実家にやってきて、わが家にも一年に一回はきてくれました。母や私たちの様子を見るためです。tibanoojisann231.jpg
いつもたくさんの土産を持参し、酒を飲み、楽しい時間をつくってくれました。家に帰れば、きれいな字で必ず礼状をしたためる、撮った記念写真はちゃんと送ってくれる、几帳面な性格の持ち主でもありました。(写真は2001年8月5日わが家で撮ったもの)
 
 その叔父が弱音をはいたことが一度ありました。数年前、直江津の労災病院に「竹平の伯父」(母の兄)を見舞った時でした。駅前の食堂で昼飯をご馳走してくれた叔父がぽつりと言いました。「次はオレの番だよ」。男のキョウダイが次々といなくなり、一人ぼっちになりそうなことをさみしく思ったのでしょうね。
 叔父の名は伊東義孝、長年、錦糸町駅に勤めた国鉄マンでした。毎年、JR東日本のカレンダーを送ってくれましたが、来年のものはもうこないでしょう。「千葉の叔父さん」、長い間ありがとう。明日、叔父さんのところへ行くからね。ゆっくり休んでいてください。
 (明日、明後日は叔父の葬儀のため留守にします)


2004年05月28日

スポーツ紙?

 今朝、「しんぶん赤旗」日曜版を手にして、おやっと思いました。いつもと違います、見た感じが。その原因はラストページ。いつもの「人」インタビューではなく、今回は2000本安打を打ったイチロー選手の大きな写真と記事になっていました。ラストページを上にしておけば、スポーツ新聞と思って手を伸ばしたくなる人も多いのではないかな。
 毎週発行の「町政レポート」に「赤旗日曜版、今週の紙面」という囲みの紹介文を書いています。日曜版を一通り読んで、お奨め記事を数行で紹介するというものです。読んでいてくれる人がどれだけいるのか分かりませんが、今週のトップは、「今週はアッと驚く紙面構成です」「スポーツ紙並みのレイアウトでイチローの偉業を報道」としました。
 「しんぶん赤旗」日曜版は30数年前から読んでいます。「お年寄りから子どもまで家族みんなで読める新聞」というキャッチフレーズはいまも生きていますね。配達に行って、子どもが取りに出る場合の多くは、「まちがいさがし」「なかよしクイズ」を読んでいます。芸能・テレビ欄の朝ドラマの案内も人気コーナー、来週の「天花」がどうなるかを読み、話題にしている人も少なくありません。「うれしい一品」を切り取って活用している女性もいます。今週号では、「知らないと損、お年寄りの入院費(住民税非課税世帯)減額されます」の記事を切り抜きする人が多いのでは、と思います。
 きょうは蒸し暑かったですね。朝から午後2時過ぎまで町政レポート作成、その後は「しんぶん赤旗」日曜版配達・集金でした。


2004年05月27日

集団検診

 一年に一度自分の体を調べてもらう。いつから始まったのか、集団検診の仕組みはよくできていると思います。きょうは町の集団検診の流れの中で取り組まれている上越医師会館での健康診断(人間ドッグ)がありました。町では一定の年齢ごとに受診する場合に補助金を出していますが、私は補助が無い年もここで受診しています。
 昨年の場合は要精密検査項目が2つもあり、いよいよ医者通いかなと覚悟したのですが、結果は心配なし。今回一番心配したのは肥満です。昨年より数キロ太ったと思っていたのですが、実質的には1キロ増でした。ちょっぴり安心しましたが、減量が最大の課題であることには変わりありません。先日から再開したウォーキングを続ける、ご飯を減らす、間食はとらない、甘いものはなるべく避ける、これを習慣化できれば私のボディ改造も健康維持も成功するでしょう。
 きょうは健康診断を受ける前に、住民投票の請願の関係で賛同者になってもらい、署名を集めてくれそうな人を訪ねる活動を約3時間しました。元町議、農業委員など7人からこころよく引き受けてもらいました。ある人からは、「あんたがいつ来るかと待っていた。がんばってもらわんと困る」と叱咤激励されました。思った以上に反応がよく喜んでいます。


2004年05月26日

住民投票請願

 午前に大島村まで出かけてきました。国道沿いにある青空市場に寄ったら、山菜が並んでいて、先日の同期会の時に食べたギョウジャニンニクがありました。思っていたより葉が大きいなと思いました。それに、きょう、初めて知ったのですが、アマドコロも山菜として食べられるんですね。ゆでてマヨネーズでもかけて食べると美味しいとか。ギョウジャニンニクとアマドコロ、買ってきてしまいました。
 夜は「合併問題を考える吉川町住民協議会」の会議でした。前回の会議で決めていた住民投票を求める請願書の提出は、賛同署名をそえてやることを再確認しました。参院選がぶらさがっているので、法律上の制約があり、直接請求はできません。そのかわり、請願で対応する。6月議会まであまり日はありませんが、中身の濃い運動に発展させることができればと思います。請願書は来週早々に提出し、賛同署名はその後も集めていくことなりました。
 21日の「見てある記」で書いたササユリのことが話題になっています。sasayuri04521.jpgバイオテクノロジーで増やすことに挑戦した町民がいるとか、NPO団体が来月吉川町にやってきて観察会をやるなどの話が聞こえてきました。ササユリが新潟県にあるのはめずらしく、吉川町が北限だという人もいます。『新潟県野草図鑑』(新潟日報事業社)にもササユリは載っていませんね。


2004年05月25日

日本共産党の全県議員会議

 6月議会を目前にして日本共産党の全県議員会議が新潟で行われました。自治体部長や県委員長から、いまの〝動乱〟とも言える政局にどう臨むか、報告がありました。それを受けて質疑、意見交換がありました。具体的なテーマは参院選をどうたたかうか、市町村合併と6月議会対策でした。
 注目の年金問題では、日本共産党がいち早く国会議員の保険料納付状況を公開し、公開の流れをつくったこと、任意加入段階と強制加入段階を区別して対応してきたこと、自己負担増を伴わない制度改革をなぜ提案することができたのかなどの話を聞き、頭の中がすっきりしました。
 自治体部長の話の中で興味深かったのは、市町村合併問題です。県内では、直接請求運動を中心にして住民の共同と住民運動の画期的な発展がみられること。合併推進派が積極的に合併の意義を語れる状況はなく、「合併しなければやっていけない論」で住民にあきらめさせる戦術に出ていることなどを具体的に報告してもらい、なるほどと思いました。
 
 夜は「住民とともに合併問題を考える頸北議員の会」。大潟町や柿崎町が取り組もうとしている住民意向調査の案を聞き、参加者はみんな驚き、あきれました。両町の合併についても質問文はほぼ同じで、合併を誘導し、できるだけ反対にマルを付けさせないようにする魂胆が露骨に出ているのです。例えば柿崎町の文言は、「市町村合併について、あなたはどのように考えますか」の質問に、
1、町が進めている市町村合併に賛成する。
2、合併することに不安はあるが、財政状況、地方分権への対応、及び自立できる自治体の構築など将来のことを考えると、町が進めている合併でやむをえない。
3、将来、様々な部分で住民負担が増えたり、行政サービスが低下しても、合併はしない方が良い。
4、わからない。
 これらの4つの中から選んでマルをつけるようになっています。
 意向調査、アンケートには、誘導的な質問はしない、質問者にとって都合の良い回答カテゴリーにしないなど一定のルールがあります。調査結果が歪められないようにするためです。会議の中では、「これじゃ、公正な調査にはならない。ひどすぎる」との声が相次ぎました。どこかの市のアンケートのように、もっと分かりやすく、「賛成」「どちらかといえば賛成」「反対」「どちらかといえば反対」とできないのか、という声もありました。


2004年05月24日

農業委員会定例会

 早朝のウオーキングをしました。歩いて見える景色は車に乗って走るのと違います。細かい部分も見えるし、小さな変化にも気付きます。昨日、目に入らなかったハハコグサ、きょうは2箇所で見つけました。空気も新鮮、ちょっとした匂いが流れてくることもあります。今朝は、豆を煮ている甘い匂いが漂ってきて、空腹感を刺激しました。
 背中から太陽の光を受けると、自分の影を追いながら歩くことになります。朝の場合は、太陽の位置が低いので、足の長い影ができます。横から光を受けると、今度は自分の影を横に見ながら歩くことになります。影を見ながら、気になったのは肩がとても丸くなっていること、それとお腹です。お腹が出ているのは分かっていましたが、まさか富永一朗の漫画に登場する人物たちそっくりの体のラインになっているとはね……。
 午後からは農業委員会定例会でした。小野寺会長が中山間地農業守れの立場で、「直接支払い制度」の縮小・廃止を許してはならないと力説しました。きょうの会長の発言は力が入っていて、日農時代の闘士だった頃をほうふつとさせるものでした。話し合いの結果、国の関係機関に意見書を提出することになりました。また、町議会にたいしても意見書提出を要請していくことを確認しました。


2004年05月23日

ウオーキング再開

 昨日の同期会の収穫の1つは健康維持の大切さを学んだこと。じつは昨日は体調があまりよくなく、酒も加減しながら飲みました。このところずっと忙しくて、疲れがたまりすぎていたことや体重がここ数ヶ月の間に数キロ増えたことが影響したのだと思います。もう50代の半ば、いつ、どんな病気に侵されるかわかりません。そんな中、昨日、糖尿病とたたかっている人から入院体験談、現在の健康維持のための運動などについてゆっくり聞くことができました。
 話を聞いていて、発病前の状態が私の現在の状態とそっくりなのにはビクッとしました。運動について教えてくれたSさんは、一日一万歩、歩いているといいます。私も2年ほど前は1週間に3ないし4回はウオーキングをやっていました。その効果はよく知っているつもりです。ただ、アカギレや多忙を理由に次第に回数が減り、最後は完全に止めてしまいました。健康第一を忘れてしまったのです。
 もうまったなし。きょうはやるべきことがたくさんありましたが、まず、休みました。布団の中でゆっくり寝ました。それと久々にウオーキングをやりました。最初はゆっくり歩こう。そう決めて、わが家から柿崎町の下黒川地区内を1時間あまり歩きました。ヤマボウシガマズミなどの花を見ながら、以前の歩いていた時の感覚を思い出しました。また、ご飯も腹八分にする、間食はできるだけとらない。今週から意識的に取り組もうと思います。
 「春よ来い」第19回「方言の魅力」を掲載しました。町政レポートNO1145号に掲載した文章に補筆してあります。ごらんください。


2004年05月22日

再会の喜び

 高校時代の同じ学年の者が集まって交流する同期会がありました。最初に高校見学、そして夕方からは池の平温泉で懇親会がありました。36年ぶりに3学年だった時の教室へ入ったら、雰囲気は昔とまったく同じ、床も黒板も教壇も変わりませんでした。ただ教室が思っていた以上に狭いのには驚きました。いまは私が通学していた時代より一クラスの生徒数が10人以上少なく、40人とのこと。それでも机や椅子の周辺に余裕があるようには思えません。昔、50人からの生徒がよく入ったものだと思います。
 同期会や同級会の最大の楽しみは普段あまり会えない級友たちと再会できることです。きょうは、吉川町川谷出身の小泉節子さん、高校1年の時同じ下宿だった妙高村出身の高水純夫さん、糸魚川市出身でM造船の幹部として国内外を飛び回っている渡邊猛さんなどと、久々に会いました。高校時代の話ばかりでなく、その後の興味深い話もたくさん聞きました。高水さんからは「じつは(吉川町の)水源分校、設計したのはおれなんだ」と聞いてびっくり。渡邊さんはこの間もパリに行って営業活動をしてきました。「フランス語もやるんかい」と尋ねると、「いまは英語ができればいいんだよ。おれでもなんとかやっている」。こっちは、英語はすっかり忘れ「アイラブユー」ぐらいしか言えませんから、くやしいですね。高校3年の時に同じ部屋で自炊していたMさんとは音信不通ですが、京大卒業後、医師になったという情報も入りました。手がかりがつかめ、ほっとしました。
 ホテル、交流会場となったアルペンブリックホテル、妙高高原ビール・タトラ館は、同期で応援団長だった荒井三ノ進さんの経営、美味しい食べ物、ビール、格安で奉仕してもらいました。心から感謝します。料理の中で一番興味を持ったのは山菜の天ぷらです。会場の一角で次々と揚げられる様子をじっくり観察しながら、用意された山菜の全ての種類を味わいました。ウド、コゴミ、タラの芽はおなじみでしたが、モミジガサ、ギョウジャニンニク、ヤチウド、ハリキリは初めてでした。今度、植物図鑑でしっかり調べて自分で採って揚げてみたいと思います。それとタケノコ汁、ギンブキのお浸しもうまかったです。ぜひ一度訪ねてみてください。お奨めです。
 再会の喜びという点では、北朝鮮に拉致された日本人のうち、蓮池さん夫妻、地村さん夫妻と子どもさんたちが、きょう、やっと再会できました。良かったですね、曽我さんも遅くない時期に家族みんなで一緒に暮らせることでしょう。小泉首相の今回の訪問を契機に、拉致された人たち全員の消息がわかり、関係者の再会につながってくれればいいなと思います。


2004年05月21日

ササユリ撮影できました

 ここんところ梅雨のような天気が続いていたのですが、きょうは五月晴れ、さわやかでとても気持ちのよい一日でした。朝、「しんぶん赤旗」日刊紙の配達をしていたら、尾神岳の中腹あたりから次々と霧が発生していく様子が見えました。これはいい風景だ、写真に撮ろう、そう思って車の中をさがしてもデジカメは無し。こういう時にかぎって忘れてくるなんて……。
 2年前から撮りたかったけれども撮れなかった野の花の1つにササユリがあります。一昨年はどこに咲いているかわからなくて撮影できず、昨年は花を見つけたものの、最盛期をすぎ枯れかかっていた。というわけで、今年は10日ほど前からチャンスをうかがっていました。私が見つけたもののうち、きょうは1本だけでしたが、見事に咲いていました。淡いピンク色の花と笹のような葉が特徴的なユリです。林の縁に美人が立っている、というと大げさかな。来週になれば複数の花が付いたササユリを撮影できるかと思います。
 明日は高校の同期会、池の平温泉に泊まる予定です。どんな顔ぶれが集まるのか楽しみです。


2004年05月20日

合併問題の学習・交流集会

 「市町村合併を考える新潟県ネットワーク」と「にいがた自治体研究所」共催の学習・交流集会に参加してきました。たまには全県的な集会に参加してみるもんですね、全国でトップクラスの合併推進県と言われた新潟県ですが、合併推進の流れをくいとめ、「自立」を求めた反撃もかなり強まってきていることが分かりました。直接請求による住民投票条例が否決された後、首長リコールまたは議会解散請求といった原則的な対応をしようとしてところが予想以上に多いことも参考になりました。
 住民運動が進んでいるところは、量と質の両面で努力しています。よく学び、女性が運動の中心になっている点は共通しています。そしていま住んでいる町や村の宝が何かをよくつかんでいます。いずれにしても、自治体らしい自治体を守り発展させるのか、白旗をあげて投げ出すのか、ここ2か月ほどが天王山。各地で取り組まれている住民運動に学びながらがんばるしかありません。
 学習・交流集会で加茂利男編著『自治体自立計画の実際』(自治体研究社)を購入してきました。この中に津南町の計画作りや関川村のむらづくり基本条例(素案)が紹介されています。高速バスの中で『相手に「伝わる」話し方』を読み終わったので、今度はこの本を読みたくなりました。『大人のための算数練習帳』は少しお預けです。


2004年05月19日

そそっくさい

 頸北町村の住民組織の動きが活発になってきています。頸城村では住民投票の直接請求、大潟町では投票条例の実施を求める請願署名が取り組まれています。吉川町でもこのままではいけない、と検討が始まっていて、近々、具体的な行動計画が確定する予定です。午前には「住民とともに合併問題を考える頸北議員の会」の小関代表と打ち合わせを行いました。来週の25日には、10回目の頸北議員の会を開催することになりました。
 午後から大岩集落内での田植え風景を撮りに行ってきました。きょうは、永田農法に取り組んでいるグループの田植えの様子を記録するため、東京のダイナーズクラブの関係者がきておられました。カメラ、ビデオ、そして文章で記録するとのことですが、今回のテーマは水とか。「この田んぼは、そそっくさい代かきしてあんな」と誰かが言ったら、一生懸命メモを取っている女性が「そそっくさい」ってなんですか、と聞いてきて、地元の人たちは大笑い。「そそっくさい」はこちらの方言で、「粗雑」「丁寧でない」という意味です。
 きょうの参院本会議で市町村合併三法案が成立したといいます。知事が「構想」をつくって市町村に合併協議会設置を「勧告」できるようにする、「地域自治区」「合併特例区」をつくれるようにはするものの、住民の総意が反映される保証もなければ、権限も限られたものにするなど、合併押し付けへの新たな仕組みができたといってよいでしょう。上越地域合併協議会の動きとの関連で言えば、協議を一応終了させた形になっている「地域審議会及び地域自治組織(仮称)」の小委員会を再開することになるかと思います。というのは、協定書記載文案に「地域自治組織(仮称)については、法律の改正等があった場合には、合併後も含め、改正等の内容を考慮して検討する」としてあるからです。それにしてもこんなに早く市町村合併三法案が成立するとはね。
 昨日買った本は、『向田邦子の青春』を読み終わり、『相手に「伝わる」話し方』を読み進んでいます。明日は新潟で、合併問題の学習・交流集会ですので、高速バスの中で読了できるでしょう。


2004年05月18日

「分かりやすく伝える」ことを学ぶ

 用があって日本共産党上越地区委員会と上越市役所へ出かけてきました。そのついでに本屋へ。当初からさがしていた本はなかったものの、何か良い本はないかと、ぶらついているなかで気に入った本を3冊購入してきました。池上彰著『相手に「伝わる」話し方』(講談社現代新書)、向田和子編著『向田邦子の青春』(文春文庫)、佐藤恒雄著『大人のための算数練習帳』(講談社新書)です。
 何冊も購入した時には、その日に購入したすべての本を少しずつ読むのが私のクセ。夕方から読み始めて気が付いたのは3冊に共通点があったことです。それは「分かりやすく伝える」ことを学ぶことができるという点です。文章でもそうですが、最近、特に意識しているのは、分かりやすく話すことです。私の場合、これがなかなか上手くできない。何とか上達したいという気持ちから池上さんの本に手を伸ばしたのです。
 池上さんはご存知でしょう、NHKの「週刊こどもニュース」のキャスターです。難しい時事問題などを分かりやすく解説してくれるのでテレビでもホームページでも見ています。短い挨拶でも原稿無しではダメだった池上さんがどういう苦労をして分かりやすい説明を生み出してきたか、「語りかけるニュース」ができるまでを知りたい。そう思ってわくわくしながら読み始めました。
 視聴者に分かりやすくするために、記者の書いた原稿を書き直した経験が池上さんの本の最初の部分に出てきます。これと似たようなことが佐藤さんの算数の本でも出てきました。問題文を読んでも、何が目標なのか、どこから手をつけていいのか分からない時には、「視点を変えて、自分で理解できる言葉に言い換える」といいそうです。これを「翻訳力」というのだそうですが、その中身は①文字を使いこなす力、②図や表を使いこなす力、③文章または式を言い換える力です。国語と算数がこんな風につながっているとは面白いですね。
 3冊のうち、きょう、もっとも読み進んだのは『向田邦子の青春』。すでに半分は読みました。向田邦子の文章は私のあこがれです。彼女の本はこれまで繰り返し読んできましたが、とにかく分かりやすくて、おもしろい。妹の和子さんが若かりし頃の邦子さんの実像を伝えてくれるので、恋しい人を知りたいのと同じくらいの関心度で読んでいます。


2004年05月17日

月曜日の病院

 母を乗せて柿崎病院へ行ってきました。駐車場が満杯で、待合室にも大勢の人たちがいて、その中には、知っている人が何人もいます。考えてみたら、きょうは月曜日でした。多分、月曜日の病院へ外来できたのは初めてかと思います、なかなか混んでいるもんですね。もっとも母については午前10時の予約をとってあったので、30分くらいですべて終了しましたが。
 外科、会計、薬とそれぞれの待合室で知り合いの姿が見えました。同じ集落のお寺のご住職もお袋さんを入院させるとかで来ておられ、マムシに咬まれた母の具合などについて話をしました。待合室でおやっと思ったのは、お年寄りに付き添う人が何人もおられたことです。お年寄りが病院へ通うにしても、車を運転したり、バスに乗って、病院で診察をしてもらうなど自分ですべてやれるのは、人により差はあるものの、一定の年齢まで。以後は誰かに一緒に行ってもらわないと、何もできない。そういう時がわが家もふくめてやってきているのだ、ということを意識しました。
 午後からは「こんにちは」パンフレットの配布で4集落を回りました。留守の家が多く、思ったよりも早く終了しました。約3時間、車に乗って移動しながら配布しましたが、足の具合を考えると、これくらいがちょうどいいようです。わが家の親戚の親戚に当たるTさん宅でお茶をご馳走になり、世間話をしました。私の父と同年代のTさんも最近、車の運転を止めたとのこと、「金がかからなくていいが、行動範囲がぐんと狭くなった」とぼやいておられました。


2004年05月16日

和牛導入へ

 搾乳の仕事を止める時点から考えていた和牛導入計画、ようやく実現することになりました。きょうは頸城村の荻谷畜産へ行き、静岡県から購入してきたという和牛10数頭を見て、交渉してきました。その結果、近々、2頭導入することにしました。和牛は20年程前に少し飼ったことがあるものの、どういう飼養管理をしたらいいかなどまったくの素人、これから徐々に勉強したいと思います。
 午後からは下町のレンゲ祭に参加してきました。あいにくの雨でしたので、レンゲ畑で交流会はできず、公民館での実施となりましたが、集落の皆さんだけでなく、牧村と上越市からお客さんが見え、楽しい交流会になりました。この祭りには、これまで6、7回は参加してきましたが、魅力は手づくりの美味しいご馳走がどっさり出ることとまちづくり活動でがんばっている町外の人との出会いがあることです。
 出されたご馳走には、タケノコのきんぴら、わさびの粕漬け、わらびのなんとか漬け、ほうの葉につつまれた赤飯(しまった、これは公民館の玄関においてきてしまった)などがありました。最初の2つは今回初めて食べました。牧村からきたOさんは20年程前から顔だけは知っていましたが、話をしたのは初めてでした。県職員のMさんとも話しをするのは初めて、お二人とは地域づくり、市町村合併についてたくさん意見交換をさせてもらいました。たっぷり食べ、たっぷり飲む。このところ、こういう機会が増えました。
 「春よ来い」第18回、「花外蜜腺」を掲載しました。ごらんください。


2004年05月15日

緊急地区役員・議員会議

 朝早くから「しんぶん赤旗」日刊紙、日曜版の配達で大忙しでした。町内を回ると、いろんな光景に出会います。今回は、先週の土日と同様、あちこちで田植えをしている人たちを目にしました。最近は乗用田植え機で植えている人が圧倒的で、歩行型田植え機はほとんど姿を消しました。田植えをしている人たちの多くは、普段は勤め人なのでしょう、仕事は土日に集中します。
 午後からは緊急地区役員・議員会議。昨日の全国都道府県委員長会議をうけて、参議院選挙をどうたたかうか、年金問題をどう訴えていくかなどについて話し合いました。国会議員の年金保険料納入状況の公表を他党に先駆けて行った日本共産党と年金改悪法案が通るまで隠し続けたいくつかの党と違いがよく分かり、いい会議でした。参加者の意見交換の中でWさんが発言、浦川原村の元村議・宮川哲夫さんは「こんにちは」パンフレットを配布する時に、乗っていった車に日本共産党ののぼり旗を立ててがんばっていると紹介してくれました。宮川さんは議員時代、難病を患い、いまも病気と闘いながら奮闘している人です。こんな話を聞くと、じっとしていられなくなります。
 夕方、家に戻ってパソコンを立ち上げたら、柿崎町のWさんから初めてのメールが届いていました。いつもこのホームページを見ていてくださるとのことで、「たくさんの情報ありがとう」とありました。町外の人の中にも、こういう人がいるというのはとてもうれしい。
 トップページの写真、入れ替えました。きょうの田植えで、これから画面の田んぼは少しずつ変わっていきます。定点での撮影による変化を楽しんでいただけたらと思います。


2004年05月14日

合併協、新たな動き

 昨日紹介した『ブナ林の里歳時記』の表紙写真を撮った方は、ここ数年親しく付き合いをさせていただいている柏崎市の高橋正彦さん(吉川町立源小学校の最後の校長先生)であることが分かりました。高橋さんからの電話によると、同書の編集責任者の大橋寿一郎さんとは同じパソコン教室に通っておられるとのことでした。1つの情報を共有したことによって思いがけない展開がある。いやはや、世間がいかに狭いかよく分かりました。
 きょうは午前中に「住民とともに合併問題を考える頸北議員の会」の小関会長と情報交換しました。また、他町村の議員から合併協議会の新しい動きについて情報を寄せてもらいました。木浦会長が「具体的なブロック案を示して、ブロック制の議論を深めてはどうか」という提案をし、それに基づいて新市の議員定数及び任期についての小委員会委員長がそれぞれの小委員に文書を出したというのです。委員長が出した文書の中には、ブロック制(案)を作成する上での前提条件というのが3つ書かれていて、①合併後最初の一般選挙については、定数を法定数の上限の38名とする、②一票の格差をできるだけ是正する、③各町村から最低1名の議員が選出される可能性を持たせる、とありました。「各町村から最低1名の議員が選出される」選挙から「各町村から最低1名の議員が選出される可能性を持たせる」選挙への後退は反発必死。ますます、先が見えなくなってきました。
 おかげさまで、母は夕方退院しました。右手の腫れも少しだけですが、ひいてきた感じです。お医者さんから、普通に仕事しても良いですよ、と言われたとかで、母は上機嫌でした。明日から、もう畑仕事に出る考えでいるのですから、困ったもんです。


2004年05月13日

石黒の昔の暮らし

 母は明日には退院できそうです。ただ、右手は腫れ上がっていて、元に戻るまでにはかなり時間がかかるとのこと。小さなグローブのような手を見せた母は、しばらく仕事ができそうもないためか、悔しげでした。
 きょうは、母を見舞ってから、別の病院へ行き、父の薬をもらってきました。父が1月末に車の運転を止めたので、父母がやっていた買い物、病院通いなど、ずいぶん多くの仕事が私にまわってきています。たいへんですが、どこかで大きな事故を起こすよりは良いかと思っています。
 夜の参院選対策会議で仲間から1冊の本を貸してもらいました。石黒(現在の刈羽郡高柳町石黒地区)の昔の暮らしのことをまとめた『ブナ林の里歳時記』です。全文約450頁、年中行事や農作業、日常の暮らしなどが記録されています。開いてみると、編集責任者は、私の知っている大橋寿一郎さん(電話0257‐23‐1667)で、ほかにも知っている人が何人か編集に携わっているので驚きました。
 石黒は昨年の夏に初めて訪れたのですが、母の故郷・大島村旭地区の隣なので、どぶろくづくりの話とか、大きなケヤキの話などを聞いて知っていました。とても感じのいいところでした。今回の本は、昔のことがじつに丹念に記述されていること、昔の石黒での暮らしの写真がちゃんと載っている点ですごいなと思いました。とくに「子どもの暮らし」は秀逸です。残雪を掘って土を出し、そこで遊んでいる子どもたちの写真、稲そいの時の写真など、貴重なものがいくつもあります。


2004年05月12日

議会広報研修会

 きょうは県町村議長会主催の議会広報研修会でした。二人の講師のうち、ひとりは常連で、「センターページは使い方次第で思い切った活用ができる」「表紙写真は左右に目線を向けるだけでなく、奥の方も見よ」などいくつか興味深い指摘もあったのですが、「広報研修については自分が講師として最高だ」という意識丸出しで、がっかりしてしまいました。
 休み時間によその議員と話をすることができました。市町村合併で頸北町村の動きが活発になってきていることに関心が寄せられ、「住民投票はどうなる」「これからどんなことをやるのか」などと聞かれました。全体的にはまだあきらめムードが支配的な中で、こうした声が出ることに何となくホッとしました。こうなれば、もっとがんばらなければなりませんね。
 夕方、家に帰るなり、長女から電話があり、母がマムシにかまれ、緊急入院したと知らせてくれました。病院へ行ってみたら、右手全体がふくれあがっていましたが、大したことはなさそうなので安心しました。「ひどい目にあっちゃった。右手がちくんとしたすけ、何だと思ってみたら赤マムシがずるっとずっていきやがった」。母は笑いながら語りました。それにしても長女が私のいない留守にてきぱきと対応してくれたのには驚きました。


2004年05月11日

『Fゼミ通信』、出版秒読み

 いやー、寒くて暑い日でした。何を言っているのかと思われるでしょうが、きょうは寒いところから暑いところへ自分の体を移動したのです。ほぼ1年ぶりの上京でした。ほくほく線に乗って越後湯沢へ行くまでは、雨も降っていて肌寒い感じがしました。ところが新幹線に乗ってトンネルを越えたら太陽光線が降り注ぐ上天気だったのです。びっくりしたのは水道橋駅を出たときです。こちらは冬服を着ていたのですが、むっとする暑さ。見渡してみると、歩いている人たちはみんな夏用の服を着て歩いているではありませんか。新潟と東京ではこうも違うとは思いませんでした。
 さて、きょうの上京の目的はFゼミ通信の出版についての最終的な詰めをする会議です。Fゼミ通信は昨年2月に亡くなった古厩忠夫新潟大学教授の私的通信で、古厩ゼミの卒業生などに送られていたもの。大学教育の問題、環日本海研究、がんとの闘病、母の介護など実に幅広いテーマをとりあげ、深い思索と行動を記録した文書として読者からは高い評価を受けていました。
 今回は著者の古厩忠夫夫人、啄木研究者の近藤典彦氏、そして同時代社の川上徹社長と私の4人で話し合いました。約2時間の話し合いの結果、今月末か来月初旬には1冊の本が誕生することになりました。タイトルは、『Fゼミ通信…古厩忠夫の思索と行動の記録』、全文約300ページの大作です。すでに校正作業もすすんでいて、きょうは、タイトル名のほか、どんな写真をどれくらい使うか、そのキャプションを誰が書くか、出版案内をどうするかなどを決めました。
 会議が終わってから水道橋近くの居酒屋で懇親会をやりました。その店は、新潟の地酒を飲ませてくれるというので、「越の寒梅」「〆張鶴」などを飲みながら古厩先生の思い出話、Fゼミ通信の感想などを語り合いました。もっとも私は酒はあまり飲めないので、ビールで付き合いをさせてもらいました。よほど気分がよかったのでしょうね、中ジョッキで4杯も飲みました。おそらく私の飲み量の最高記録です。時計をみたら午後9時を過ぎていました。眠り上戸の私がしっかり目をあけて3時間以上も飲み会をやるというのはめずらしい。


2004年05月10日

左足が再び痛み出す

 文字サイズの表示によっては「見てある記」と更新履歴がだぶってみえるということを、かなり前から指摘されていました。「どこでも配置モード」から「標準モード」に切りかえてもだめで、結局、更新履歴そのものを単純化し、「見てある記」との間のスペースを広げてみました。いかがでしょうか。「こうすればいいよ」という技術的なアドバイス、大歓迎です。
 さて、きょうは2トンダンプを借りてきて、牛舎脇の畑に土を入れました。ちょうど近くの土砂崩れの工事現場で不用となる土が出るというのでいただいてきました。ダンプで11台分、これは天気になったら畑の低くなった部分に入れて均す予定です。久々に一生懸命体を動かしたせいか、3月に痛めた左足が再び痛み出し、また、まともに歩けなくなりました。明日は東京、かなり歩かなければならないはずですが、ちょっと心配です。
 夜は元青年団仲間といっぱいをやりながら、これからの吉川町について語り合いました。市町村合併の話では、「このまま吉川町を終わらせたくない。何らかの意思表示をさせてもらいたい」という声が強くだされました。議会や町が取り組んでいる懇談会についても注文がいくつもありました。


2004年05月09日

学習総決起集会

 全県の党組織の幹部、議員などを集めた学習決起集会が吉田町で行われました。講師は日本共産党中央委員会の学習教育次長可知正氏で、先の党大会で採択された新しい党綱領を4時間かけて学びました。
 1週間の疲れがたまっているから、すぐに寝てしまうのでは、と心配したのですが、「日米安保条約は、いかにしてアメリカから押しつけられたか」など改訂綱領の説明のために紹介された資料が興味深いものばかりで、ぐいぐいひきこまれました。きょう配布された資料は全部で39ページにも上る分厚いもの。読み物としてもおもしろそうなので、近いうちに全部読んでみようと思っています。
 全県規模の集まりで楽しみなのは、日頃なかなか会えない人に会えること。きょうは学生時代からの友人で病院労働者のSさん、吉川町出身のYさんなどに会うことができました。学習会で理論的な確信を得ることも大事ですが、こうした再会で元気エネルギーを補給するのもいいもんです。
 「春よ来い」の第17回「送別」を掲載しました。


2004年05月08日

春ゼミ鳴く

 五月晴れ。とてもいい天気でした。午前は、「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしながら大島村まで行ってきました。親戚の家にネギやヤツガシラを届けるためです。途中で通った、吉川町のもっとも山間部にある上川谷でも、もう田植えをしていました。今年は平場も山間部も田植えは一緒です。雪消えが早く、水不足を心配して早めに田植えをしている農家もあるようです。
 きょうは地元、代石集落で町の合併問題についての懇談会が行われました。説明をじっと聞いていたら、会場の公民館にいろいろな音が飛び込んできます。自動車、田んぼのトラクター、ごみ収集車、そして今年初めてになりますが、春ゼミの鳴き声も聞こえてきました。この鳴き声は五月晴れにぴったり、とても気持ちよく響きます。
 懇談会の最後で町側は、「いまの形で合併をすすめていいでしょうか」「うなずくなり、横を向くなりお願いしたい」と呼びかけました。懇談会をスタートさせる前に開催された議会各派代表者会議では、それぞれの会場で、そこに応じた意思確認の方法を考えたい、と町側がのべていたのですが、どうもこれまでの集落懇談会はすべてこのやり方できたらしい。懇談会終了後、何人かの参加者に聞いたら、「あれで意思確認と言われてもねぇ。ちょっと違うんじゃないの」との声がありました。当然です。


2004年05月07日

無題

 昨日の疲れが残っているせいなのか、目の奥がとても痛い。困ったなと思いながらパソコンに向かい、午後1時までになんとか町政レポートを作成することができました。昼食後は、夕方までずっと「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしました。ある読者から、「ノノバって、どんな山菜か」と聞かれ、「今度、米山へ行くからその時に採ってきてあげましょう」と約束をしました。じつは、足の怪我のため、今年はまだ私も採りに行けなかったのです。
 車の故障の主たる原因は燃料ポンプだということでした。思った以上に修理が早く終わり、夕方には軽トラに乗ることができました。急いでいたとはいえ、軽トラで高速に乗るのはもうこりごりです。「スピードが出て、エンジン音もいい」とホンダの軽トラに乗り続けていますが、同車のエンジン能力への過信がありました。これからは「軽トラなんだからハイスピードで走るのは無理」という常識にのっとって対応することにします。
 高速バスでのトラブルについては、メールでバス会社にありのまま報告しました。担当の方がわざわざ私たちが乗車した高速バス停までいって調べてくださいました。その結果、「表記方法ももう少し考えてみたい」との回答をいただきました。ていねいなもんですね。それにしても昨日の運転手は誰だったのだろう。実は昨日、高速バスを降りた時、義父に「あの運転手は、おまえさんを知っている人だったようだな」と言われたのです。確かに運転手からは、「あんたは柿崎で(降りる)すよね」と言われました。普段、私が柿崎の高速バス停で乗り降りしていることを知っているような口ぶりでした。が、思い出せません。記憶力もだいぶまいってきたようです、これでは。
 


2004年05月06日

付いてない日

 きょうは農業委員会の初委員会でした。会長、職務代理などの役職を決め、新体制を確立しました。私は3期連続で会長職務代理者となりました。農業委員は27歳の時からです。3年任期ですので、今度は10期目のスタートを切ったことになります。
 農業委員会が午前中に終わったので、午後から義父とともに、新潟市内の病院に入院している藤巻泰男さんを見舞いました。新潟へ向かう途中、高速道路上で車が故障してしまい、途中から高速バスに乗り換えて行くということになりました。この結果、新潟まで約4時間かかってしまいました。故障原因はラジエーターの水漏れだったようです。
 藤巻さんは手術して間もないにもかかわらず顔色もよく、元気そうなので安心しました。見舞ったこちら側の方が逆に激励された感じでした。付き添っている奥さんに聞いたことですが、昨日付けの「ホーセの見てある記」を見て藤巻さんの入院を知り、見舞ってくれた方もあったといいます。この記録が役に立つこともあることを知り、うれしくなりました。
 さて、帰り。再び高速バスで帰ったのですが、降りる予定だった柏崎インターにはバスが停まらないことを刈羽村で知り、1つ手前の停留所で降りざるをえなくなるということに。新潟市内のバス停では時刻表で停まることを確認したはずなのに、信じられない事態になり、疲れ果ててしまいました。結局、わが家に着いたのは9時半過ぎ。付いてない日は次々といろんなことが起こるものだ、と思いました。
 「私の好きな風景」に「巨大な鏡」を掲載しました。ごらんください。


2004年05月05日

なかなか予定通りには…

 休日はなかなか予定通りにはいかない。急な用事が次々と入ったので、午前中はほとんど家にいることができませんでした。その代わり、飛び回ったおかげで、外の様子を見ることができました。稲作農家はいまが農繁期、平場では代かき作業が最終盤を迎えています。一部では田植えをしているところもありました。昨年から、農協などが遅い作付けを農家に指導していますが、農家の受け止め方はいまひとつでした。今年はどうか……。
 原発問題住民運動全国連絡センター代表委員だった柏崎市の藤巻泰男さんが新潟市の病院に入院されていることが分かりました。藤巻さんは妻の叔父にあたる人で、私も選挙のたびにお世話になってきました。しばらくお会いしていないので元気なものと思っていたのですが、入院されているとは。原発トラブルの度にテレビに出る人だったのに、そう言えば、最近、テレビにまったくといってよいほど出ていませんでした。近々、義父とともに見舞いに行くことにしました。
 きょう予定していた原稿書きは手紙一通と宣伝チラシ3ページ分、それに町政レポートの裏面。どうも欲張りすぎたようです。書いたのは手紙と次号の町政レポートの三分の一ぐらいかな。書かなければならないことは、いまも頭の中でグルグルと回っています。締切り直前の明日がいそがしくなりそうです。


2004年05月04日

「雨読」

 連休に入って初めての雨。一日中、しとしとと降っていました。午前に党大会のハイライトビデオを仲間に届けたり、買い物に出かけたほかは、ずっと「雨読」でした。
 きょう読んだのは、町内大字山方在住・竹内昭二さんの自分史『絆』と奥村宏著『判断力』です。竹内さんは叔母が嫁いだ家と親戚関係にある人、数日前にこの本をいただきました。前々から几帳面な性格の方だと思っていましたが、この本を読んで再確認しました。重要だと思われることはしっかりと記録をとっておられたのです。結婚式や葬式などの参加者、費用など自分の家に関するものから山方集落の出来事、さらには昭和の町村合併に至るまで、じつに丹念に記述されているのには驚きました。
 岩波新書の最新刊『判断力』は期待した通りの面白い本でした。約200ページの本を一気に読んだのは久しぶりです。先を読みたくて、どんどん読み進む。小説やエッセイ以外でこんなふうに読んだのは、とてもめずらしいことです。「ジャーナリストに判断力がないから、権力の情報操作に簡単に乗せられてしまう」「日本の政治家は、判断を誤る以前に、判断を他人に任せ、自分では判断しない人が多い」。こういったことを、連日報道されているイラク戦争などを例に分かりやすく書いてあるせいかもしれませんが、社会科学関連の本で、これだけ惹きこまれるとは……。
 明日は連休中に書きたかったものを書き上げたいと思います。連休の終わりと同時に、また町政レポートの原稿も書かなければなりません。ほんとに1週間は早いですね。


2004年05月03日

休めという合図

 朝起きたら頭がおかしい。まるで二日酔いのように体が重く、バランスがとれません。寝不足、疲労困憊の体が私に休めという合図を送っていたのでしょうね。それでも無理をしなければいいだろうと、午前は少し動きました。
 まず、雨が降ってからでは遅いと畑打ちをしました。先日打った同じ畑の二度打ちです。トラクターを運転していると、小さな白いものが風に乗って流れていきます。たんぽぽの花です。それと、牛舎脇にあるエンジュの木がようやく芽吹きました。これは芽吹きのラストランナーです。春はどんどん進んでいるなと感じました。
 その後、頸城村の上野議員が経営する店へ行ってパソコンがらみの仕事を手伝いました。コーヒーをいただいてから約2時間がんばりましたが、やはり頭がボーッとしてちゃんと働いてくれません。それで、妻に迎えに来てもらい、家に帰りました。
 午後からは布団に入って休みました。新書を枕元に置いたのですが、1行も読むことなく、夕方までぐっすりと眠りました。夕方からは本を読んだり、テレビをみたり、ゆったりと過ごしました。体のためにはこんな時間も必要なのだと思います。


2004年05月02日

送別

 年をとり、一人では住めなくなった。それで遠くへ嫁いでいる子どものところで世話になることになった。子どもの頃から仲良くお付き合いをさせてもらっていたHさんが、そう言って挨拶にこられたのは、つい先だってのことでした。そのHさんが出発するのは明後日とのこと。きょうは、まずHさんのところへ行ってきました。そしたら、知り合いの人が4人もきていて、みんなでお茶飲みをしました。みんな、しばらくは会えないだろうと思っているんですね。
 午後からは妻の実家へ行きました。中学時代の同級会があるというので妻を送り、ついでに骨休みをしてきました。軽トラに乗っていたので、ちょっぴり義父の仕事の手伝いをして、あとはゆっくり本を読みました。連休中に読みたい本は2冊、1つは岸本葉子のエッセイ集、もう1冊は奥村宏の『判断力』。何とか読了できそうです。ところで、義父は予定した以上に仕事ができたと大喜びでした。年をとると、「婿殿」や孫が顔を見せるだけでもうれしいようです。まして、自分の仕事を手伝ってもらえるとなれば……「最高の気分」なのでしょう。
 「春よ来い」第16回に「ウド」を掲載しました。また「春に咲く野の花」に「ヤブジラミ」を追加しました。ご覧ください。


2004年05月01日

メーデー集会

 何年ぶりでしょうか、メーデー集会に出たのは。地元吉川町でのメーデー集会がなくなってから参加していませんでしたので、3年や4年は経っているかもしれません。きょうはメーデー上越集会に参加してきました。上越集会は初めてです。年金者組合や農協労連などいろんな団体の人たちが集まって要求を確認し、気勢を上げました。日頃一緒に活動している人だけでなく、さまざまな団体に所属していて、こういう時でないとなかなか会うことのない人たちとも手を取り合う。いいもんです。20年ほど前に搾乳を手伝ってもらったAさんや農協のNさん、Sさんとも久しぶりに会うことができました。
 デモ行進も久しぶりでした。70年安保の頃は、新潟市や東京で何回も行進していましたし、メーデー吉川集会でも10数年前までは原之町を歩いたものです。都合がつかなかったのか、その後、平和行進も参加してきませんでした。ですから、きょう、高田の町を歩いたら懐かしい気分になりました。ビルの窓から身を乗り出して行進を見ている人たちがいる。知っている人に出会うと手をふってくれる。買い物客や通行人などが見ているなかで仲間と歩く昂揚感、これはすっかり忘れていたものでした。


2004年05月投稿分

2004年05月に投稿された全てです。

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