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2004年06月投稿分

2004年06月30日

月末

 きょうで一年の半分が終わり。元旦の「見てある記」に「今年は参議院選挙あり、そして市町村合併問題が大詰めを迎えます。たいへんな一年になると予想されますが、無理をせず、精一杯がんばっていきたい」と書きました。振り返ってみれば、大きな成果にはつながってはいないけれども、一生懸命がんばってきたと言えます。残る半年、どんな半年にするのか、じっくり考える時間をつくりたい。
 さて、きょうは月末でもあります。口座残金の確認、業者への支払いなど何かとバタバタする日になります。銀行へ行ったら、ひと月ほど前に手紙をくださった方と偶然出会いました。町政レポートに載せた歴史上の人物について資料を送ってくださった方です。その時は「こんなに丁寧に読んでくださる方がいる」と感激でした。口頭ではお礼をいってあるのですが、手紙を出そうとしていたことを思い出しました。選挙が終わり次第、書かなければ……。
 午前中に比例区ポスターの追加分を一気に張り出しました。幸い、雨も落ちることがなく、運がよかったです。ある人に静かな選挙だね、と言われました。二大政党、いずれが勝っても変わらないというあきらめムードがあるのでしょうか。それとも選挙期間中、「音のでる宣伝」の規制が強化されたために、音がほとんど聞こえてこないせいなのでしょうか。どんな理由があろうとも、わが党の前進によって「今度は変わる」という実感を多くの人に持ってもらえる選挙結果をつくりだしたいと思います。


2004年06月29日

運動会に参加したヤギ

 法定ビラ1号配布のため大島村、浦川原村と接している町内の山間部へ入りました。久しぶりに訪ねた大賀集落では、区長の中村睦男さんから、とてもおもしろい話を聞きました。
 中村さん宅では今年4月にヤギが出産しました。現在4頭の子ヤギが元気に育っていますが、このうちの1頭は生まれたばかりの時は衰弱しきっていたそうです。そこで中村さんは毛布にくるんで励ましながら育てました。哺乳には人間の赤ちゃんと同じくビンを使いました。母親にあたるヤギはいるのですが、この子ヤギにとって母親は中村さん。すっかりなついていて、中村さんが声をかければかけよってくるほどです。
 この子ヤギ、先日、旧源小学校で行われた地区運動会に参加しました。喜んだのは子どもたちです。ヤギにさわり、一緒に遊びまわりました。一番話題になったのは、幼児レースでした。このレースに中村さん親子、いや失礼、中村さんと子ヤギも参加したのです。中村さんが「おいで、おいで」と声をだすと、喜んで走っていく子ヤギ。この姿を見た大人も子どもも大喜びだったといいます。
 ビラ配布が終わってから、大島村板山まで行ってきました。伯母の顔を見てこようかと思ったのです。残念ながら伯母は留守。お土産として持参した山岸協慈さんの甘いトマトとわが家で採れたタマネギを置いてきました。帰り道、上川谷でキツリフネを見かけました。図鑑では秋の花に分類してある野の花です。


2004年06月28日

第12回上越地域合併協議会

 上越地域14市町村の合併協議会はきょうで12回目、市町村間での合併協議はこれで事実上終わりました。あとは県と協議中の新市建設計画を最終確認するだけとなりました。木浦会長が事実上、協議が終了したことを述べたうえで「ご苦労さんでした」と声をかけましたが、ひとつの拍手もなしでした。各委員においては、まだ終わったという実感が湧かなかったのでしょうか。
 帰りしなにある村の委員が私を呼びとめ、「このまま終わっていいんだろうか。支所がどうなるかだってまだハッキリしていないのに……」と声をかけてきました。そういえば、前回の全体会で会長が合併関連三法が早く成立したのを受け、事務局に内容などを精査するよう指示したと発言していました。その後、どうなっているかの報告はありませんでした。こういったことや職員の間で話題になっている手順書の問題などもキチンとただすことが必要でした。
 今朝のウォーキングで見かけた野の花は、ヒヨドリバナブタナシモツケヤマツツジネジバナハハコグサヒメジョオンシロツメクサアカツメクサトリアシショウマドクダミホタルブクロネムノキオカトラノオの14種でした。春に咲く花もまだかなり咲いています。オカトラノオ、ハハコグサは昨年とはちがったところにも咲き、広がっています。どんなふうにして増えたのでしょうか。そうそう、ネムノキが咲き始めました。今年のように空梅雨ならば、わが家の近くを流れる吉川流域は鮮やかなネムノキの花でいっぱいになります。楽しみです。


2004年06月27日

朝かと思ったら、夕方でした

 月末は「しんぶん赤旗」の集金で毎月忙しいのですが、今月は、これにプラス参院選ときています。支持のお願いをしたり、比例区のポスター掲示をお願いしたりでかなり時間がかかります。ここ数日の疲れがとれないこともあって、夕方、ちょっと横になったら1時間ほど眠ってしまいました。目が覚めた時、朝かと思ったくらいですから、よほどぐっすりと眠ったのでしょう。
 きょうも2軒でお茶をいただき、ゆっくりと話をしました。選挙の話だけでなく、花の話で楽しい思いをしたのはKさん宅。Kさん宅では夫婦揃って花が大好きで、様々な情報を集めておられます。花の不思議について話が進み、朝日新聞に掲載された「花の色」についての切抜きを見せていただきました。色がついているのは目立つための工夫の1つであり、紫外線対策もしているなどの指摘はとても興味深いものでした。
 「春よ来い」第22回の「ホタルブクロ」を掲載しました。ご覧ください。


2004年06月26日

日曜版が役に立った

 霧雨が降ったり止んだりするなか、「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金をしました。留守のところが多かったのですが、そうでないところではなるべく声をかけ、対話をしてきました。やはり最大の関心は年金です。Kさんは、「共済年金をもらっているが、市町村合併や年金の制度改革で確実に悪くなる」と訴えておられました。
 Tさん宅ではお茶をご馳走になりました。合併で町の財産、学校はどうなっていくかとか、町政レポートのことが話題になりました。うれしかったのは町政レポート掲載の「春よ来い」を全部コピーしてあることでした。吉川町から離れて暮らしている子どもさんのところへ送るためと聞いて、ちょっと恥ずかしくなりました。もっと丁寧に、時間をかけて書いていかねば……。
 夜になってある日曜版読者の方から電話がありました。先日の日曜版に掲載された「医療最前線」を興味深く読んだ、自分のからだのしびれがどこからきているかを特定し、確実な治療をしてほしいので、もっとくわしく知りたい、との話でした。さっそくインターネットで調べ、紹介されていた病院の住所、地図などを持ってその方のところへ届けましたら、とても喜んでくださいました。日曜版がこのように役立つ場面に接すると、感激です。
 山間部でクガイソウエゾアジサイが咲いていました。クガイソウは、数が少ないだけに目立とうとするのでしょうか、土手ににゅっと出て紫色の花を咲かせています。エゾアジサイはここ数年、増えてきているような気がします。道路周辺の草刈りをする人たちがこの花をちゃんと残して刈っていってくれるのはありがたいですね。


2004年06月25日

無題

 午前は農業委員会定例会でした。会長から中頸城郡市協議会総会の報告がありました。総会でかどうかは分かりませんが、各市町村で今年度の研修旅行についての検討が始まっていて、なかには合併前だから二泊三日にしようと行政側に補助を働きかけているところもあるとか。廃置分合議決もしないうちから、こういう動きがあるとは驚きました。
 午後からは上越市高田で街頭演説会。参院選始まってから初の演説会です。選挙区、比例区の候補とともに演説した上田耕一郎副委員長、すっかり声をからしていました。いつも大きな声で、ユーモアたっぷりの演説を聴いていたので、「大丈夫ですか」と声をかけたくなるような雰囲気でした。それにしてもここまで頑張る上田さん、すごいと思いました。
 金曜日は、「しんぶん赤旗」日曜版の配達で飛び回るのですが、きょうは会議と選挙でほとんどできませんでした。きょうは久しぶりの雨、明日は配達と集金中心の活動となりますので、晴れてほしいなぁ。


2004年06月24日

参院選公示

 先日、町内のあるお店に入ったら、「あんなこと勝手に決めてきていいんかしら」と話しかけてくる人がいました。「あんなこと」というのは、多国籍軍への自衛隊の参加です。きょうの夕方のテレビでは、小泉首相がインタビューにこたえて、例の調子でほえていました。「何も変わりませんよ、日本が自衛隊を指揮し、非戦闘区域で活動するんですから」。
 国民年金についても日常の会話に登場しています。「保険料はどんどん上がる、給付は下がる一方でしょ。これで若者の未納者がさらに増えるね」。これまで政治にあまり発言してこなかった人たちの中にもこうした声が広がり始めています。ところが小泉首相は、国民の変化に何も気付いていないようです。
 きょうは参院選公示日。自信たっぷりにほえまくれば国民はついてくる、小泉首相の思い上がりに審判を下す絶好のチャンスがやってきました。ポスターを貼り、ビラを配って大いに政治を語る、しっかりやりたいと思います。選挙区ポスター、わが陣営では初めてシール式になりました。ボンドと糊、または画鋲を使わないでいいので、ずいぶんはかどりました。


2004年06月23日

選挙準備

 参院選公示前日。どうしてもやっておかねばならないことを頭の中で整理し、ポスター撤去、はがき書きなどの作業をやりました。ポスターは景観、交通安全を考えて、なるべく民家の壁などに貼るようにしていますが、貼る時にお願いし、撤去の時にはお礼を言う、この当たり前のことをキチンとやるよう心がけています。それだけに、時間がかかります。
 昨日、高崎の葬儀業者にお願いしていた宅急便が夕方到着しました。香典返しの品々はわが家の分だけでなく、町内の親戚分がいくつもありますので、手荷物とするには無理でした。旅行へ行った時の土産を家へ送るのに宅急便を使ったことが何回かありますが、ほんとうに便利なものです。親戚の人たちには伯母の病状や葬儀のことなどを話しながら配達しました。


2004年06月22日

高崎の伯母の告別式

 高崎市に住んでいた伯母の葬儀・告別式でした。伯母はすい臓がんを患ってはいたものの、10日ほど前までは自分で用を足せたといいます。その後、寝たきり状態に。入院せず、自宅療養していたところ、静かに息を引き取ったとのことでした。85歳の大往生。自宅で死んだ、という話を久しぶりに聞きました。告別式ではわが家が伯母の実家だというので遺族・親族代表として挨拶しました。
 伯母は橋爪音治郎・スガの次女として生まれ、7歳になる前にわが家から荻原家に養子として入りました。1943年(昭和18年)に最愛の夫を亡くしました。ニューギニアでの戦死です。伯母はまだ24歳でした。苦労して二人の娘を育てましたが、苦しさを顔に出さず、家族を守り続けました。こういった流れの中で、伯母がお盆泊まりに来た時のエピソード、ふるさと吉川町に咲くエゾアジサイ、ホタルブクロの話を交え挨拶しました。
 通夜や告別式後のお酒をいただいた席では、先の大戦の話が次々と出ました。母の姉にあたる人が1945年3月10日の大空襲で亡くなったという話をしたら、その頃、東京で地下鉄の運転手をしていたという人が生々しい話を聞かせてくださいました。さらに、大空襲の数日後に現地を歩きまわったという人も話に加わりました。3月10日の大空襲のことは早乙女勝元さんの『東京大空襲』(岩波新書)である程度知っていましたが、体験談を生で次々と聞いたのは初めてでした。
 高崎駅ビルの書店でおもしろい本を見つけました。田中修著『ふしぎの植物学』(中公新書)です。植物は何を食べて育つのか、どうやって体を守っているか、といった基本の話をじつに分かりやすく、ユーモアたっぷりに紹介してくれます。1つの花の中で、オシベとメシベが互いに接触するのを避ける「家庭内別居」状態になっているのは民法第743条の定めと同じだ、といった文章に接すると時の過ぎるのを忘れてしまいます。


2004年06月20日

消防団連合演習

 きょうは消防団の連合演習でした。会場の中学校グランドでは消防署、警察、それに町議会議員などが見守る中で機械器具の点検、小型ポンプ操法などが行われました。最初、台風の影響で蒸し暑かったのですが、次第に風も吹いてきて助かりました。上越地域の消防団関係の来賓の中に見たことのある人の姿がありました。安塚町の青田さん、2年ほど前まで、わが家の牛の爪切りにきてくれた方です。真面目な方だと思っていたら、消防団長をやっておられ、びっくりでした。
 明日から留守にするので二日分の粗飼料を確保しようと草刈りに出ました。ところが途中で雨が降ってきたので、逃げ帰ってきました。もう15分もあれば終わったのに、タイミングが悪すぎました。スコールほどではなかったものの、一時的な激しい雨。しばらく雨らしいものが降らなかったので、畑をやっている人たちは大喜びだったと思います。
 「ホーセの見てある記」のタイトルの上段に日本共産党の参院選政策特集ページのバナーを用意しました。年金、イラク、憲法などの問題をどうみたらいいのか、とても分かりやすく書いてあります。ぜひクリックして一度訪れてみてください。


2004年06月19日

また携帯が鳴った

 最近、携帯電話が鳴るとドキッとするようになりました。緊急事態の知らせとか悪い知らせが多いのです。きょうも「しんぶん赤旗」日曜版を配達中だった午前11時過ぎに鳴りました。発信元は長女です。「どうした?」と聞くと「高崎のおばさんが10時半ころ亡くなったって」。これで、ここ1ヵ月ほどの間に3つ目です。直ちに家に戻り、高崎の姉妹のところへ連絡をとり、どうするか話し合いました。
 とにかく新聞配達を早めに終えてと、急いだのですが、きょうは読者の方から声をかけられることが多く、簡単にさよならするわけにはいきません。この6月議会のこと、とくに手づくり公園整備問題と住民投票請願のことに高い関心があり、こちらが驚くほどでした。署名集めに協力してくださった読者も少なくありません。この人たちのところでは、こちらから声をかけ、お礼の言葉を言ってまわりました。
 高崎の伯母の通夜が21日、告別式が22日と決まりました。21日の朝から22日の夜まで留守となりますので、よろしくお願いします。


2004年06月18日

質疑打ち切り動議

 「橋爪さん、まだ(質疑に)時間かかるかね。少したったら打ち切り動議出させてもらうし……」。与党会派の代表が午後の審議開始前にこう言ってきました。なかなか丁寧なもんだな、と思いながら、私は「そうだね、あと30分もあればいいですよ。なんとかしましょう。ただ、(打ち切っていいかどうか)他の人にも聞いてね」と言いました。
 
 ところが彼が審議打ち切り動議を出したのは、何と、午後1時5分。審議再開後わずか5、6分後のことでした。ちょうど、私が町長の答弁の矛盾をひとつひとつ追及しはじめたばかりでした。「いまは(住民投票やアンケートなどを実施するのに)適当な時期ではない」「集落懇談会で住民の意思確認ができた」「まちづくり基本条例と(町の対応は)違っていない」などとする町長見解の誤りを明らかにすることは、そう難しいことではありません。おそらく、これじゃまずい、と思ったのでしょう。
 しかし、市町村合併は町の将来にかかわる重要問題です。しっかり議論して方向を間違えないようにしなければなりません。それなのに、こうも簡単に審議を打ち切るのは、議会の自殺行為というものです。与党会派の代表から打診もあったことだし、まあ、なんとか30分でまとめようか、と思っていましたが、ちょっと甘かったですね。(関連記事はこちらから
 役場から戻り、気分転換もかねてウォーキングをやりました。途中で大きな桜の実を見つけたので、口に入れると、ちょっぴり苦味と渋味があるけれどまずまずの味です。これなら妻や子どもたちにも食べさせてあげよう、そう思って後から採りに行きました。ところが、ちょっと食べただけで「美味しくない」。子ども時代に味わった懐かしい味なのに、こんなに反応が悪いとは……。


2004年06月17日

空転

 なんとも情けないことが起きました。まだ予算が通っていないのに、ある業者が工事にとりかかっていたのです。道の駅「杜氏の郷」近くの手づくり公園整備工事です。金額的には150万円足らずの仕事ですが、行政側のあまりにも初歩的なミスといったらいいのか、怠慢といったらいいのか、それによって生まれた法的には許されない行為でした。
 この問題で、一般会計補正予算質疑は朝から午後4時近くまで何回も休憩を挟む展開となりました。質問者は私と五十嵐議員。ここのところ、緊張感の薄い議会が続いていましたが、きょうばかりは張り詰めた空気が議場にあふれました。質問を受けた人たちは、日常の付き合いのなかではとてもいい人ばかりです。でも役所の仕事にはいいかげんなことがあってはならないことを肝に銘じてほしく思います。
 夕方、町民福祉課の担当の方から先日の人間ドッグの結果を渡されました。ある程度は予想していましたが、今回も要精密検査でした。肺などいくつか病気の疑いありとの結果です。議会が終わったら、遅くない時期に病院にいってきたいと思います。この結果を見て、議会中はウォーキングを休むことにしていたのですが、それではダメと思い、いつものコースを歩きました。オカトラノオが咲き始めましたね。


2004年06月16日

住民投票不採用発言相次ぐ

 きょうは一般質問。市町村合併での住民の意思確認が最大の焦点となりました。まちづくり基本条例では、町に係わる重要事項は住民投票で住民の意思を確認しましょう、としています。これはこれからの自治を発展させる上で重要な制度です。ところが、今回、この制度を使わないでいい、あるいは使う必要がないとする見解を引き出そうとする発言が相次ぎました。町長もこれに呼応し、答弁をしていました。
 驚いたのは町長答弁です。先に実施した集落懇談会で意思確認をした、私が直接足を運び、この目で確かめるこの方法に勝る意思確認はないとまで言い切ったからです。条文を素直に読めば、こんな条例解釈は出てきません。それに、意思確認というのは、自らの意思を自由に示すことができる環境の中で行われることが何よりも大事です。この住民一人ひとりを大切にする姿勢を忘れて、何が意思確認か、といいたくなります。町の幹部がいて、しかも自分がどういう意思を示したかみんなに分かる状況下で、どれだけの人が正直な気持ちを表せるでしょうか。2日前にある住民からまちづくり条例について評価する声を寄せていただき、感激したのですが、今度、その人に会ったときに何と言ったらいいのか。さみしくなりました。
 「合併問題を考える吉川町住民協議会」が住民投票の実施を求めて集めていた請願署名数は、512になったという報告がありました。有権者の1割を超える人たちから集めたことになります。少ないメンバーでよく頑張ったと思います。町主催の集落懇談会の参加者数は682人でした。そこで意思確認できたと町長が言っているのですから、数字的には重みのあるものになりました。
 夕方、柿崎町のある議員がわが家にこられ、大潟町と同様、柿崎町の住民アンケートの内容について行政側が修正してきたと、知らせてくださいました。内容を見ていないので安易な評価はできませんが、住民運動が影響していることは確かです。知らせを聞いて、「おまんたのところは一人ひとりの確認できるすけ、いいねぇ」と、つい言ってしまいました。


2004年06月15日

質問準備

 きょうは一般質問の準備と参院選の支持のお願いで一日が終わりました。6月議会は明日から。一般質問は明日で、私は6番目です。質問通告した内容は、私より前に質問する議員とほとんどだぶっています。どんな答弁がやられ、それにどうつないでいくか。こちらでほしいと思っている答弁にどう接近していくか。そのことを考えるだけでけっこう時間がかかります。
 私の初めての一般質問は26年前の12月議会でした。以来、日本共産党が複数議席を持っていていた時期をのぞき、欠かさず登壇してきました。毎回徹夜に近い状態で準備し、質問に臨んできましたが、最近は無理。今回も半月の間に2つの葬儀が入り、選挙準備もある。そういう中でしたので、テーマは中山間地対策と市町村合併の2つにしぼりました。明日の一般質問は100回目、無理をしないでがんばりたいと思います。
 スイバを大きくした感じの野草、マダイオウの写真を掲載しました。


2004年06月14日

ビューティフル・マンディ

 梅雨入りしているとは思えないようなさわやかな青空が続いています。尾神岳や米山がこれだけはっきりと見えると、一人で見ているのはもったいない。大勢の人たちに見てもらいたくなります。きょうは、緑色に染まった山々と田んぼが美しい月曜日でした。この天気はまだ何日か続くといいます。天気のいい日にやっておきたい仕事がいくつかあったのですが、新たに到着したポスターの張り出しを優先的にやりました。
 議会事務局で一般質問通告一覧を見せてもらいました。質問する7人の議員のうち、吉川町まちづくり基本条例と関連させて市町村合併問題を質問する議員が私を含めて3人もいることが分かりました。同条例の第29条1項は「町は、吉川町にかかわる重要事項について、直接住民の意思を確認するため、住民投票制度を設けます」となっていますが、質問の対象にするのはいいことです。まちづくり基本条例についての理解が一層深まることでしょう。
 きょうは、吉川町まちづくり基本条例を初めて読んだという町内のある男性と話をする機会がありました。小さくても、住民一人ひとりを大切にしたまちづくりをめざしているところが気に入った、特に前文がとてもいい、と彼は言います。インターネットで引き出した同条例を片手に持ち、町民がまちづくりについて語る、こういう姿を見たのは初めてでした。この男性とは、同条例が出来るまでのことや町行政の対応などについてゆっくり話をしました。うれしかったですね、こういうことは。


2004年06月13日

牛舎を守り続けたネコ、力尽きる

 わが家の牛舎で10数年働いてくれたネコが死にました。搾乳していた頃には、搾乳が終わる時間になると必ず姿を見せ、ニャーン、ニャーンと鳴きながら牛乳を催促。そのかわり、牛舎内のエサをねらうネズミ退治をしてくれました。搾乳をやめてから一時姿を見せなかったものの、最近では仕事をしているところへ度々やってきていたので安心していたのですが、残念です。死んだ場所はモミガラ置き場、最後に見かけたのは今朝のエサくれの時でした。苦しそうに横たわっていたので、「にゃーん、死ぬなよ、元気出せよ」と声をかけ、頭をなでてやりました。その時、ニャーンと応えてくれたのに……。
 きょうは朝から夕方まで、署名集めをお願いしておいた人たちのところを回りました。このうち多くの人は運動会などで留守、まだ明日も回収を続けなければなりません。頸城村の住民組織のように署名集めをする人を150人も組織できればよかったのですが、吉川町ではその5分の1、全く手付かずの集落もかなりあります。それでも、署名を集めてくださった方々は忙しい中、隣近所などに声をかけてくださいました。なかには集落の全戸を回ってくださった方も。ご協力に心から感謝します。署名は明後日には最終集約をやり、議会へ提出することになっています。
 署名集め、ポスター張りの途中、2週間くらい前から通い続けているブナ林に入りました。ねらいは、昨年、花期を過ぎてから見つけたイチヤクソウ。今年こそ写真におさめたいとチャンスを待っていたのです。下向きの丸い小さな花は白く輝き、まさにベストタイミングでした。きょうは晴天でしたので、ブナの葉で覆われた林の中も比較的明るく、フラッシュをたかずに撮影できました。花全体の姿が見える写真は、このホームページの「夏に咲く野の花」に載せました。


2004年06月12日

第11回合併協

 久々に上越地域合併協議会が行われました。新市の議員の定数及び任期については、上越市と13町村で対立が続いていましたが、きょうの小委員会で上越市の代表が13町村の気持ちを理解することを表明。最終的に定数特例を次の一般選挙でも適用することで合意しました。小委員長からこの報告を受けて木浦会長は、協定書記載文案を協議会に提案しました。この結果、新市の議員の定数及び任期については、次回の合併協議会で正式に決定する運びとなりました。
 きょうの協議会は殆ど発言もなくたんたんと進みました。上越市側の動きについては、すでに新聞発表されていたこともあって、静かに受けとめられました。むしろ、注目されたのは、地域自治組織についての議論を廃置分合議決前からやったらどうかという会長提案です。合併関連3法が早期に成立した以上、当然のことです。大事なことは、この問題についても廃置分合議決前に十分時間をかけて議論を尽くし、協定書記載文案についても見直すことです。話し合いの開始時期を前倒しするだけ、ということにならないようにしてほしいものです。
 きょうの午前は、合併協議会までに「しんぶん赤旗」日曜版の配達を終了させるためフル回転しました。うれしかったのは、亡くなった千葉の叔父について新たな情報を寄せていただいたことです。大島村の実家の菩提寺が吉川町にあることから、叔父はそのお寺に何回かおじゃましていたのですが、そこへも毎年、鉄道カレンダー(国鉄、のちにJRのカレンダー)を送り、法事などの写真も封書に入れて送っていたとのことでした。しかもご住職の子どもさんたちは、その鉄道写真を楽しみに待っていてくれたというのです。町政レポート先週号の「春よ来い」に書いてよかったと思いました。


2004年06月11日

告別式

 告別式。朝3時過ぎに起きて、町政レポートの仕上げ、一般質問通告のまとめをしました。疲れからなのか、それとも早起きしたせいか葬儀が終わって香典などの整理が一段落したら眠くなりました。人間一人亡くなることによって分かるのは、亡くなった本人や子どもたちのつながりです。そして、じつに大勢の人たちによって人間は支えられ、生きている、そのことをあらためて感じました。
 今回一番気になったのは天候です。私たちの地域では、親類縁者以外の集落の人たちが告別式に参加する場合、普段着で来て、外で焼香するようになっています。また棺を出す時に雨が降っているかどうかも気になるところ。台風が近づいてきているので、きょうはどうなるか心配しましたが、幸運にも晴れでした。雨が降り始めたのは、初七日になってからでした。
 午後から議会運営委員会、各派代表者会議が連続して開かれました。6月定例議会の会期は3日間、一般質問には7人の議員が登壇することが予定されています。一般質問をやる議員数はこれまでの議会タイ記録、まだ質問通告内容を見ていないので、正確には言えませんが、廃置分合など合併関連議案の審議が近づきつつあることを意識し始めていることだけは確かです。


2004年06月10日

クモキリソウ

 午後から通夜・告別式関連の準備が続くので、午前に町政レポートの原稿書きをしました。今回は時間が無いため、片面だけとなります。原稿を書いている時、気分転換にすぐそばの杉林の中へ入ってみました。そうしたら、幸運にもラン科のクモキリソウと出会いました。何年も前からさがしていた花です。けっこう、あちらこちらにあるといわれていたものの、なかなか見つかりませんでした。
 きょう届いた郵便物の中に、研文出版からのものがありました。同社から出版される古厩忠夫先生のもう1冊の本、『日中戦争と上海、そして私』に掲載予定の私の追悼文・「Fゼミ通信=人生の応援メッセージ」のゲラです。原稿そのものは昨年書いたものです。短い文章ではありますが、心を込めて書かせてもらいました。1年以上経過して読み直すと、懐かしさを感じます。文章って、不思議なものです。
 「野の花」にクモキリソウともう1つ、ツルアリドオシを掲載しました。ご覧ください。


2004年06月09日

ヤマボウシが薄紅色に

 私のウォーキングコースにはヤマボウシが何本もあります。花はかなり前から咲いています。花の色は白、緑色に染まった山の中でその白さは目立ちますが、花の色が薄紅色へと変化しはじめました。とてもきれいです。花が咲いて散るという流れを単純にたどらず、お色直しをしてもう一度輝いてから散る。これはどういうことなのか、調べてみたくなりました。
 ウォーキングから戻ったら、母から「隣の慶喜さん、亡くなったと…」。病院に入院しているもののあまり良くないとは聞いていたのですが、さみしい知らせです。わが家がいまの住所に引っ越してから「家うち(やうち)」として付き合いをさせていただいていますが、ほんとによく働く人でした。満年齢で87歳でした。朝8時に集合してほしいとの要請があり、親戚のみなさんと葬儀などの相談をし、動きました。明日の通夜、明後日の告別式と、しばらく忙しくなりそうです。
 昼間、昨日書いた古厩忠夫先生の連れ合いの喜美子さんと電話で話をしました。今回の出版を一番楽しみにしていた人です。昨日は「涙と鼻水でくしゃくしゃになりながら読んだ」とのこと。亡くなった忠夫先生がこれまでどんな道を歩まれたのかをまとめた本ですので、一緒に歩んだ人にとっては想い出が次々と浮かんで来たのでしょう。本当に良かった。


2004年06月08日

『Fゼミ通信』刊行

 5月11日付「見てある記」でも紹介した元新潟大学教授・古厩忠夫著『Fゼミ通信』が出来上がってきました。同著は古厩先生がゼミの教え子などに発信したFゼミ通信をまとめたもの。私にとっては、ベストセラーとなった『裏日本』(岩波新書)とともに忘れることのできない1冊になりそうです。『裏日本』は、私が生きてきた戦後を問い直すきっかけを与えてくれました。今度の本は、出版に至る過程で微力ながらお手伝いをさせていただいたこともあり、自分の本が出来上がるような気持ちで刊行を心待ちにしていました。
 ゲラの段階で全文を読んでいるのですが、本になった段階での文章は風呂上りの体のように、きれいになってさっぱりとしています。また、通信として発行されていた時にはなかった写真も掲載されている。うれしかったのは、出版の打ち合わせの時に候補に挙がっていなかった古厩先生の還暦祝いパーティの写真です。私も写っていてびっくりしました。今回の出版にあたっては、先生の学生時代の友人のみなさん、Fゼミ通信愛読者など何人もの素敵な人との出会いがありました。これから出版記念会をやろうという声も出ています。『Fゼミ通信』がどんな交流を生み出し広がりをみせてくれるか、楽しみです。
 きょうは議会総務文教常任委員会でした。メインは学校訪問です。総務文教常任委員会の学校訪問は本当に久しぶりでした。おそらく前回の訪問から5年以上は経っているでしょう。今回の訪問では、学校の施設、備品などを調査するとともに、学校経営の方針、当面の課題について説明をうけました。前回と比べて大きく変わったことの1つは、安全対策が強化されたことです。窓からの転落防止の横棒が目立ちました。また、学校経営目標の実現のために方針が具体化されている点も前とは変わりましたね。「授業が分かるという生徒を75%に増やす」「異学年の子ども同士のかかわりができたを70%以上にする」などといった具体的な提起の仕方はとてもいいと思います。
 委員会の学校訪問にあたって気を使ったのは、教職員のみなさんから、緊張しないで、リラックスしてもらうこと。ありのままを見せていただき、よりよい学校教育実現のために何をしたらいいのかを見出すには大切なことです。この点では各委員が気配りしてくれました。特に委員と教職員の面識会では、ユーモアたっぷりの自己紹介で笑いが続出、楽しい会になりました。極め付きは吉村一博副議長の中学校での自己紹介、いきなり「How do
you do」にはまいりました。脱帽です。
 (『Fゼミ通信』のご注文受け付けます)
 『Fゼミ通信』は1冊2500円です。出版元の同時代社または私のところにメールなどで連絡いただければお送りします。


2004年06月07日

入梅

 午前は新田のお寺の乙羽さんの葬儀。近隣の僧侶、それと女性の方々の参加が多い式でした。お寺の檀家は町内だけでなく、柿崎町の桜町、金原、それに黒川地区まで広がっていることを初めて知りました。このお寺には、明治期に自由民権運動で活躍した鈴木昌司に係わる文書が多く残っているとのことですが、彼の活動範囲とだぶって見えました。どういう歴史があったのでしょうか。野菜づくりと文学、それに星を見るのが好きだった乙羽さん、もっと話をしてみたい人でした。
 葬儀の時は晴れ時々曇りだった天気も午後からは雨となりました。夕方のニュースでは入梅したとのことです。これから1ヶ月半、じめじめ、べたべたした天気が続くと思うと、いやですね、この季節は。先週からの疲れが取れないので昼寝をし、その後、役場で農業委員会だより「みどり」の編集、明日の議会総文委員会の準備をしました。雨が降ったときは建物の中での仕事を優先させてしまいます。
 きょうはたいへん懐かしい人と再会しました。役場から出る時に玄関で、「橋爪さん?」と声をかけてきた男性がいます。すぐには分からなかったのですが、20数年前、同じ職場で働いていたYさんでした。人と接するのがうまく、手先も器用、なかなかのやり手だと思っていたら、その後、独立し、設計事務所をはじめました。20数年ぶりの再会、握った手はしばらく離せませんでした。


2004年06月06日

特効薬

 参院選を前にした日本共産党の大演説会、会場となった新潟市の県民会館ホールは参加者があふれ、第5会場まで用意されるほど盛況でした。選挙区予定候補のくわはら加代子さん、比例区予定候補の笠井あきらさん、二人の演説は何回か聴いていますが、選挙直前にふさわしく、元気の出るいい話でした。
 いつも母のことを語り、聴衆の心にぐっとせまる笠井さん。今回は自衛隊員の息子を持つある母親と自分の母親のふたりにふれました。自衛隊のイラク派兵について各党に電話をかけ、必死になって中止を求める母。その姿がありありと浮かんできました。広島で被爆した母、きょうの話は被爆時の様子をこれまで以上に生々しく伝えるものでした。人間の死体の上に板をかぶせ、その上を歩かざるをえなかったという母、どんなに切ない思いでこの話を息子に伝えたことか。
 国会議員の前は医者だった小池晃政策委員長の話を聞くのは今回が初めて。こんなにユーモアたっぷりで、分かりやすい訴えをする人だとは知りませんでした。「大企業べったり病」の病原菌は「キギョウケンキン」。それにもっとも感染しているのが小泉純一郎。三年間も「改革」を言い続けるが一向に進まない。この人が医者だったらどうなるか。患者に病状の説明はしない、処方箋は示さない、この先どうなるかも言わず、ただひたすら「痛みに耐える」ことばかりを言っている。これじゃ世の中、良くならないわけだ。笑いと共感の拍手が充満し、会場が爆発しそうな演説でした。
 「大企業べったり病」と「アメリカいいなり病」に侵された日本の政治。年金問題、イラク問題とっても小泉政権では良くなりません。最近、「自己責任」が強調されていますが、問題にしなければならないのは、「自公責任」です。そして日本の政治に巣くう病気を治す特効薬は、病原菌が近づこうにも近づけない日本共産党の躍進です。きょうの演説会で、参院選に向かう気持ちがしゃんとしました。
「春よ来い」の第21回は、「千葉の叔父さん」です。「見てある記」に書いた文章を手直ししたものです。ご覧ください。


2004年06月05日

井上乙羽エッセイ集

 きょうも夏日。「しんぶん赤旗」日曜版配達、支持のお願い、住民投票署名のお願いでフル回転しました。山間部に住む老人世帯の家を訪ねた時に、「まあ、入ってくんなさい」と言われ、お茶をご馳走になりました。そこのお年寄りの言葉が印象に残りました。「これまで、統合だとか、合併だとかを何回か経験してきたがその度に過疎になった。なんでこんなことをするのか、わからねぇ」。
 朝早く、用事があって地元集落のお寺へ行きましたら、住職夫妻、その子どもさん全員が出てこられて、私のところにある印刷機で印刷してほしいと頼まれました。その印刷してほしいといわれたものは、B5サイズの紙に書かれた十数枚の原稿です。昨日亡くなった「お寺のおばあさん」こと井上乙羽(おとわ)さん(90歳)が40年ほど前から朝日新聞や『主婦と生活』に投稿し、掲載されたものでした。これを小冊子にして、葬儀などで来られた方たちに配りたい、というのがご家族の希望でした。
 夕方から約1時間かけて、二人のお孫さんたちとともに印刷しました。印刷しながら乙羽さんの文章を読み、どんどん引き込まれてしまいました。豊かな表現力とリズム感のある文章で身の回りの出来事を感動的に伝えるエッセイです。これほどの文章の書き手が私の住んでいる集落におられたとは……。全文18ページの『井上乙羽エッセイ集』、最後のページに載った文を紹介したいと思います。
 【種をまく喜び、今も】井上乙羽
 大好きな畑仕事も今年限りになるかもしれないと、思うようになってから三年になる。
 この春、冬中痛み通しだった腰と足が少し治ると、あきらめていたはずの、畑仕事をこらえられなくなった。それで結局、ジャガイモ、キュウリ、ナス、ホウレンソウ、大根などを少しずつ作ることにした。
 腰が曲がっているので、歩くのも容易でないのに、好きな畑に行くときには、どこからか力がわくから不思議なことだ。
 その喜びも、迫りくる老いにはとうとう勝てなくなった。今度こそ、秋野菜は一切まかぬことに決めた。家の者に、はっきりと告げた。
 九月になって急に朝晩涼しくなり、近くの田んぼは日ごとに稲刈りが終わりに近づいてきた。見渡せば、あちらこちらに、秋野菜をまく人たちの姿が目立つようになった。
 先日の台風であれほど毎日もぎ続けたキュウリが、ばったりならなくなって枯れてしまった。ナスやピーマンまで枯れはじめて、畑はすっかりさびしくなった。おまけに、グラジオラス、ダリア、百日草、アスターなどの花までが、折れたり、倒れたりした。
 その代わりに、道端の野菊やアカマンマが、生き生きと咲き出した。孫たちが小さかった日に、この秋草の中でトンボやイナゴを追って、喜々として遊んだ。大根が芽吹くように、はつらつとしていた。
 生まれるということが、こんなに楽しみな感動的なことだったかのか。私はまだ生きている。
 ついに我慢ができなくなって、大根種を、こっそりとまいた。
                                  (1996年9月)


2004年06月04日

大潟町、住民アンケートの内容を変更へ

 真夏のような暑さが続いています。新聞配達をしていても、「ちょっと異常だね。真夏になったら寒くなるんでないだろか」とか「10年前のような干ばつにならなければいいが」などといった声を聞くようになってきました。振り返ってみれば、今年は2月に気温25度以上を記録して以来、何度もおかしな天気がやってきました。こういう声が出るのも当然でしょう。
 きょうの日中は町政レポートの作成と「しんぶん赤旗」日曜版の配達、夜は頸北地域の日本共産党代表者会議でした。配達時の話題はやはり住民投票です。関心がじわりじわりと広がっているのを感じます。直接請求の時のように1ヶ月くらい時間がほしいですね。夜の会議では参院選挙対策と市町村合併問題の2つの活動をどう結合して闘うかが焦点になりました。年金問題や日朝交渉問題などで他党に無い日本共産党の魅力をどう訴えていくか、これについても熱い議論がありました。
 大潟町では住民アンケートの内容を変更したというニュースが入ってきました。大潟町と柿崎町の住民アンケートに対しては5月25日付「見てある記」でも書いたように、合併推進に有利になるように「工夫」した「回答カテゴリー」が用意されていて地元の住民組織が大きな問題にしていました。今回のニュースは住民運動の威力を感じさせます。柿崎町も住民組織がこの問題を取り上げた宣伝チラシをすでに印刷済みで全戸配布する予定とのこと、すごい馬力です。


2004年06月03日

キイチゴ熟す

 朝4時半頃には目が覚めたので、きょうのウォーキングはいつもより余計に歩きました。日中の暑さとは違い、朝はひんやり。歩き始めは手が冷たく感じました。でも、しばらく歩くと、背中にじわっと汗がにじんで来て、太陽の光を浴び続けることを避けたくなります。こんな時には、木陰が続くとありがたい。熱くなった体全体を冷やすことができて、とても気持ちよくなります。
 千葉県習志野市で見かけたドクダミ、向こうは白い花を一面に咲かせていました。こちらはどうかと意識して見ているのですが、やっと開花が始まりました。来週には全面的に開花するでしょう。今朝のウォーキングでは、数ヶ所でキイチゴの黄色い実を見つけました。例年より少し早いように思います。午後になってから、このうちのいくつかを採って食べました。とてもすっきりした甘みが口の中に広がりました。キイチゴは野イチゴの王様、うまいですね。
 きょうは「合併問題を考える吉川町住民協議会」のメンバーと今後の活動について打合せをしました。臨時議会に向けての請願署名集め、その後の作戦、集まればいろんなアイデア・知恵が出てくるものです。八木孝一代表のところには、何人もの町人から激励の言葉が寄せられているとのこと、これから10日ほどの間にどんなドラマがあるか、楽しみになってきました。


2004年06月02日

草刈り

 和牛を飼い始めたことで、これまでと違った仕事が1つできました。草刈りです。草刈りは20年ほど前まで、乳牛のエサを確保するために毎日のようにやっていました。しかし、頭数が増え、ちょっとやそっとの量では間に合わなくなって、北海道や外国産の乾草を購入するようになりました。いま飼っている和牛は2頭、一日にくれる草の量もそう多くはありません。軽トラの荷台に3分の1もあれば十分です。
 そんなわけで、ここのところ、トラックに草刈り鎌を入れておいて、どこでも草があれば刈っています。昨日は大島村でススキの若い茎をどっさり刈り、きょうは、牛舎のそばで刈りました。茎が硬くなる野草であっても、今の時期はやわらかい段階なのでOK、牛もほとんど残さず食べてくれます。
 これから雨が多くなると、草刈りもたいへんですが、梅雨の時期が過ぎたら、乾草も自家産のものを少し確保しようかと思っています。天気さえ良ければ、田のあぜ、土手などで簡単に乾草づくりができます。今年は、乾いた草のいい匂いを久しぶりにかげそうです。
 町内で住民投票を求める請願署名運動が始まったことから、町民の関心が徐々に高まってきているのを感じています。きょうも、数人の人たちから「いよいよ忙しくなったね」「始まったね、がんばってくんない」などと声をかけられました。夜には、上越市が新市の議員の定数・任期問題で特例期間を7年余とすることにした、という情報が入ってきました。これで合併協議会もまた動き出します。かつてない忙しい6月になるかも知れません。


2004年06月01日

キョウダイ

 千葉の叔父が亡くなって、母のキョウダイのうち生きているのは女性だけとなりました。ただ、一番上は寝たきりで、まともに会話をすることはできません。きょうは、母が大島村板山に住む伯母のところへ連れて行ってくれというので、「アッシイ君」をつとめました。目的はナマスカボチャなどの苗を届け、フキをもらってくることと母は言いますが、本当は伯母に会いたかったのだと思います。
 車で約40分、伯母の家に到着。伯母はそばの畑にいました。母が大きな声で「ばーちゃ」と呼ぶと、「おー」と答える伯母。千葉の叔父の死によって、この二人は話し相手になれる唯一のキョウダイとなりました。いろいろ電話で話をしていたのか、千葉の叔父についてはほとんど話題にせず、フキやミズナなどを使った料理や畑の野菜などの話ばかりしていました。
 きょうは農業委員会の振興部会がありました。先の定例会で部会に一任されていた「中山間地直接支払い制度」に関する意見書や議会請願について話し合いました。用意した原案に、財務省の最近の動きや吉川町の取り組み実態に触れた文言がない、ぜひ入れてほしい、との注文がありました。当然の注文です。それで午後から、事務局と一緒に手直し作業をやりました。
 「春よ来い」は20回目、「ウォーキング再開」を載せました。


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