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2009年04月投稿分

2009年04月30日

「限界集落」の春

 6日前にテレビ局からいわゆる「限界集落」についてインタビューされたことはお知らせしたとおりです。2時間ほど記者の取材につきあいましたが、その時のことが3分ほどの映像にまとめられました(画像)。夕方のUX新潟テレビ21の「スーパーJチャンネルにいがた」です。いろいろ話をした中で何をピックアップしてくれるのか楽しみにして待ちました。
 「限界集落の春…夢を抱いて暮らしている」というタイトルで放映することをテレビの番組表で確認し、正直言ってホッとしました。農地の荒廃の状況、崩壊した家屋などが前面に出て暗いイメージを拡大することにならなければいいがと思っていたからです。山間地の住民の暮らしの中には人間として生きていく本当の暮らしが残っている。食べ物も美味しい。人と人の付き合いもいい関係になっている。私が「限界集落問題」を議会で取り上げたのは、その点をふまえながら集落の維持・再生に向けて対策を講じてほしいと願ってのことでした。きょうの番組は柿崎区の水野集落にスポットを当て、私の思いと共通の構成になっていました。春祭りを準備する人たちの表情、じつに生き生きとしていて良かったですね。
 アナウンサーが最後に言いました。今後も「限界集落」を取り上げていきたいと。今回は「限界集落の春」でしたから夏、秋、冬と続くのかも知れません。今後は、こうした集落が消滅の危機を乗り越え、再生させる道は何なのかについてもふれる内容に発展させていってほしいと思います。こちらも、市議会中山間地対策特別委員会で頑張っていかなければ……。


きょうの夕方、新潟テレビ21にでます

 全国的に大きな問題となっている「極度に高齢化が進んだ集落」の維持・再生について地元新潟の「UX新潟テレビ21」が特集をしてくれることになりました。すでに録画どりは終わっていて、きょうの夕方、6時15分過ぎになろうかと思いますが、放映されます。県内の方で時間が取れる方はぜひご覧ください。
 昨日は葬儀の後始末などでゆっくりしようと思ったのですが、先週の強風で思いがけない事態が発生したことなどから忙しく動きました。じつは自宅のトタン屋根が傷んで雨漏りがするようになってしまったのです。板金屋さんにみてもらったところ、強風というよりも時間が経過するなかでトタンが傷んだのが原因とのことでした。考えてみれば、家を移築して27年になりますから、やむを得ないでしょう。お金の都合もあって、今回は屋根の半分、直してもらうことにしました。


2009年04月29日

地質調査結果説明会

 民間事業者による長野県信濃町赤川地区内での廃棄物最終処分場建設計画は、3月議会で3人の議員が一般質問で取り上げるなど大きな話題となりました。このなかで、信濃町が山形大学川辺孝幸教授の協力を得て実施した建設予定地周辺の地質調査結果が質問に影響を与えたことは以前のブログにも書いたとおりです。
 昨晩、信濃町で川辺教授による地質調査結果説明会があるというので出かけてきました。同教授は「信濃町野尻赤川地区周辺の地形・地質について」と題して約1時間にわたってプロジェクターを使って報告しました(画像)
 この地区の調査結果概要報告は信濃町が公表した文書で見ていたのですが、こちらはまったくの素人ですから、文書を見てすぐ理解できるというわけにはいきません。川辺教授の報告を聴いて、初めて分かったこと、改めて重要性を認識したことがいくつもありました。
 この地域がフォッサマグマ地域北部に位置していて、第四紀中期更新世以降も活発な活動を行っている地域であること。廃棄物最終処分場予定地に登る林道の切り割りに北東ー南西方向の正断層群が露出していて、断層面に残された擦痕からは断層の北西側が地形的には高い西側に向かって動いたことがハッキリと分かること。そして、いまひとつ、赤川処分場予定地で確認できた活断層が動かなくても、周辺の活断層の地震動が引き金になって、岩手・宮城内陸地震で発生した大規模な地滑り・崩壊が起きる危険性がある。これは新鮮な指摘でした。
 今回の報告を聴いて、いま一度、現地調査をしたいと思いました。昨晩の説明会には上越からも地学団体研究会のメンバーの方が数人参加されていましたので、できれば、この人たちの協力を得て一緒に取り組みたいものです。


2009年04月27日

宗教人と日本共産党との懇談会

 笑って、学んで元気が出る。今晩の「宗教人と日本共産党との懇談会」(画像)はじつにいい取り組みとなりました。会場には110人ほどの人たちが参加し、イスに座れない人もいるほど盛況でした。
 真宗大谷派西性寺住職の田中圭悟 さんなど宗教人9人の呼びかけで取り組まれたこのような懇談会は北陸信越では初めてといいます。受付をしていた関係で、呼びかけ人を代表しての田中さんの挨拶はお聴きすることが出来ませんでしたが、日本共産党中央委員会書記局次長の佐々木陸海さんの挨拶以降、参加者の発言を全部聴くことができました。
 発言の皮切りは妙高市在住のキリスト教関係の青年でした。「殺してはいけない」「むさぼってはいけない」という十戒の精神を引用しながら、政府の労働政策を批判し、自殺者年間3万人という実態にふれました。中小業者のSさんは「いりいろな宗派があるがなぜこのように分かれているのか教えてほしい」と質問、この発言を契機にたくさんの発言が続きました。きょうの懇談会では、「憲法9条を守ろう、平和を」という発言と信仰についての率直な質問が多かったように思います。
 市内で活発な活動をされているカトリック高田教会のマリオ神父の話は初めて聞きました。同神父は、「9条の会の存在はありがたい。直江津の平和公園は素敵な公園になってうれしく思っている。共産党がこのように懇談する努力はありがたい。今後も続けてほしい」とのべました。
 日本共産党関係者の発言のなかでは、衆院比例北陸信越ブロック候補の山口典久さんの発言が印象に残りました。「宗教についてどう考えるか」といきなりふられたにもかかわらず、能登半島沖地震の際、大きな被害を受けた地域のあるお寺ががんばって翌日、いつものように鐘を鳴らした。その音を聞いた住民には大きな励ましになった。こういう事例を織り交ぜて話をしました。心にひびく話でしたね。


2009年04月26日

強風と雨でも山菜の集い実施

 やはり強風と雨になってしまいました、きょうの山菜と音楽を楽しむ会は。でも後援会員の人たちが一生懸命努力して準備してくださり、実施することができました。集まってくださったのは区内の人たちを中心に30人ほどです。本当によくきていただいたと感謝しています。
 会では私の議会報告の後、山菜料理を食べながら、柏崎市の重野昌平さんと区内のギタリスト、山岸協慈さんの演奏をたっぷり楽しみました。山岸さんのギターは何度聞いてもすごい。そして重野さんのオカリナ演奏(画像)では懐かしい曲がいっぱいでした。とくにNHKドラマ「北の国から」のテーマソングの演奏は人間愛を感じるとても素敵なムードをつくりだしました。
 小田順子さんからは私が書いたエッセイ、「父の『旅行』」を朗読していただきました。父のことをよく知る小田さんならでは語りで、私も涙が出ました。
 今回の会の特徴のひとつは議会活動について活発な発言が相次いだことです。「自由発言」という時間帯を設けたところ、矢祭町のような議員報酬をどう考えるか、政務調査費はどんなふうに使われているかなどの質問が次々と出ました。田植えが終わってから、区内などで小さな議会報告の集いを実施する計画ですが、当面の暮らしの問題だけでなく、議会のあり方についての議論も活発になりそうな予感がします。


2009年04月25日

久しぶりの雨のなかで

 久しぶりの本格的な雨となりました。今年は雪が少なく田んぼの水不足が心配されていますので、こういう雨は歓迎です。
 きょうは「しんぶん赤旗」の配達、集金、山菜採りと忙しい日になりました。
 山菜採りは急な斜面を上り下りしたので、疲れました。小雨が降るなかでも、山菜は充分採れました。ウドのほか、蕗の茎、ワラビもありました。蕗はやわらかそうでした。そしてめずらしいものとしてはアサツキです。ぴりっと辛くておいしいものです。これで明日の集いがうまくいくかどうかは天気だけとなりました。予報はよくありません。強風と雨、昨年と全く同じパターンになりそう。がんばらなくては。
 配達集金では父のことを聞いてくださる方が何人もおられ、結構時間がかかりました。きょうの配達区域は父を知る人が多いところです。いろいろな思い出を語ってくださる方もありました。
 夜は写真探しをしました。来月予定している次男の結婚式でスライドをするらしいのですが、長女と長男のものはプロが撮ってくれたものを含めたくさんあるのですが、次男のものがきわめて少なく、私が議会報告等で掲載した写真も動員することにしました。わが家の子どもたちには、小さな頃、私が議会で保育の問題や教育の問題をとりあげた時、時々登場してもらいました。それで20数年前の写真を求めて探したということです。


2009年04月24日

テレビ取材などで山間部へ3回入る

 ちょっと寒い日になりました。炬燵はまだまだ片付けるわけにはいきません。きょうは吉川区の山間部へ3回行ってきました。
 1回目は山菜採りです。明後日の後援会の集いのために明日実施する予定でしたが、天気予報がよくないものですから、後援会事務局の人と一緒に1時間ほどウドを採ってきました。少し大きめでしたが、食べてのおいしさは短いものも長いものも変わりません。後援会員の方の中には雪の残っている地域まで出かけてコゴミを採ってきてくださった方もあります。すでにタラの芽も採ってあります。コシアブラは私の牛舎周辺にたくさんありますから、心配無用です。これで、明日、ウドがあまり採れなくても大丈夫な状態となりました。
 2回目はテレビ取材です。UX新潟テレビ21のKさんとともに2時間ほど山間部にいました。今回の取材は、上越市が2007年5月にまとめた高齢化が進んだ集落の実態調査とその後の動きについてです。この調査のきっかけとなったのが同年3月の私の一般質問でした。きょうは吉川区内で消滅した集落や荒廃が進んだ棚田などでカメラが回り(画像)、私も質問の動機、今後の対策をどう考えるかなどについてきかれました。きょう収録されたものは今月30日(木)夕方6時15分過ぎから「スーパーJチャンネルにいがた」のなかで放映される予定とのことです。ぜひご覧ください。
 3回目はボヤ騒ぎです。午後7時過ぎに最初入った情報では「建物火災発生」でしたので、びっくりして現地へ飛びました。車を走らせて現場近くに行っても火が見えなかったので、どうなっているのかと思ったのですが、幸いボヤですみました。消防や警察も入って現場から離れたのは午後9時45分頃でした。未確認情報ですが、原因はボイラーの煙突周囲が炭化していたことによるようです。気をつけなければなりません。


2009年04月23日

壇払いを終えて市政レポートづくり

 きょうの天気予報はどうだったのでしょうか、壇払いに出席してくださった方のなかから、「予報とは違っていかったね。ここんちのじいちゃんの騒ぎでは雨が降らないね」という声が聞かれました。お陰様で無事壇払いも終わりました。葬儀屋さんが明日片づけに来るそうですので、それが終われば、わが家の座敷も元通りになります。
 お斎が終わったのは午後1時過ぎでした。予定よりも少し早めでしたが、炬燵にもぐったら2時間くらい眠ってしまいました。アルコールが効いていたからです。
 目を覚ましてから、パソコンを持ち出し、市政レポートづくりをしました。今号の内容は区内路線バスの見直しについてです。すでに公共交通懇話会で見直し原案が示され、地域協議会にも説明されています。長年続いてきた定期運行が限定され、デマンド型運行に変わるところがあったり、運行ルートが変わるところもあります。吉川区の公共交通の歴史のなかで大きな転機を迎えようとしています。市政レポートでは見直し原案の内容を伝えるところに力点を置きました。ご意見がある方は早めにお寄せいただきたいと思います。
 「春よ来い」も書いてみました。まだ未完成です。父の葬儀後の動きの中で感じたことを綴ってみましたが、2回続けて父のことを書き、内容的にもセンチメンタルなところがあるので、少し時間をおいてから市政レポートやホームページに掲載したいと思っています。


2009年04月22日

わずかな時間を利用して

 壇払い(壇引きともいいます。父の姉妹と私の弟、裸人足の人、家族だけでやることにしました)の前日です。ほとんど家にいましたが、家で少しでも時間があれば、パソコンで弔問客など名簿一覧の整理をしました。この名簿は手書きの香尊帳を基にしたものです。葬儀後のものは私が記載していますので、他人が読める字ではありません。誰かがなくなった時に、香典などをどれくらいいただいているか、などをチェックする際に役立てるようにしておくにはキチンとした文字で整理しておく必要がありました。整理したものをプリントして香尊帳と一緒に仏壇に入れておけば、誰でも活用できるはずです。
 きょうは天気の方もまずまず。この間から、時間をつくってぜひ行ってきたいところがありました。それは尾神地区の山菜が採れる山です。山菜を楽しむ会を準備する人たちが確実に採ってこれる場所へ案内するためにも事前調査をしておきたいと思っていました。きょうは午前の時間帯に今年初めての山菜採りをしてきました。車での移動時間を含めわずか1時間、山菜採りは実質30分ほどでしょうか。ねらいはウドです。手頃なウドを採るにはちょっと遅いくらいでしたが、北向きの斜面のある山で買い物袋に2つ分ほどウドを採ることができました。
 夜、妻との会話の中で大塚直吉さんの遺作集『春日山城とその支城群』(画像)のことが話題になりました。先日、町田城跡に行ったことで妻ももっと知りたくなったのでしょう。じつは一昨日、私も本屋でこの本をのぞいてみました。吉川区に関しては顕法寺城跡と町田城跡のことがこの本の中で紹介されていました。大塚さんの本の魅力は丁寧な調査とそれに基づく城跡の絵です。この間書いた町田城跡の堀切について言えば、私たちが登り下りした大きな堀切に負けない大きさのものが天守閣の反対側にもあることが描かれています。また行きたくなりますね、こんなに詳しい絵図を見ると。


2009年04月21日

さがしもの

 父が帰らぬ人となった日、家族、親戚などで家の中の片づけをしました。その時は大忙しだったようで、どこへしまったか定かでないものもあります。きょうは母からの注文で、父が大事にしていた皮のカバンをさがしました。母によると、戦争中に使ったものだそうで、そのなかには母が宝物にしていたものも入っていたといいます。押入れ、牛舎などあちこちさがして、夕方には見つかりました。居間の戸のところにぶら下がっていたもので、私も見たことのあるものです。母はホッとしていました。
 探しものをしていて、病院から持ち帰った品々も久しぶりに見ました。紙おむつ、ガーゼ、綿棒、椅子などじつにたくさんあります。病室の狭い物入れの中によく入っていたものです。
 一つひとつのものを見ていると病室での父のことが次々と浮かんできます。それらの中のひとつに「アイ浄綿」という目の周りをふく専用の綿がありました。父の目ヤニをとるために、私が毎回のように使っていたものです。1包みを朝晩2回に分けて使っていたのですが、箱の中には封を切った包みが残っていました。父が死んだ当日の夕方に使うつもりでいたものです。ちょっと切なくなりました。
 それにしても大量の紙おむつ、どうしたらいいものか。妻に話したら、1年4か月の入院期間中、ほとんど病室が一緒だったHさんにまず声をかけてみようということになりました。


2009年04月20日

「山菜料理を楽しむ会」の準備

 きょうは朝から会議の連続でした。飯山市議会の政新会のみなさんとの懇談会、議員懇談会、議員勉強会と続きました。
 議員勉強会は観光庁の大黒地域振興部長の講演です。観光をめぐるいろんなデータを示しての話は初めてでしたので興味深く聴きました。新潟県の観光客のうち、県内の客の割合がずばぬけて高いことなど数字で見るのも大事ですね。
 夜は地元後援会役員の皆さんと、「橋爪法一を囲む会」の山菜料理を楽しむ会の準備でした。2005年の春から始めた会は今回で5回目となります。今回は柏崎の重野昌平さんからきてもらい、オカリナの演奏も楽しみます。昨年は強風と雨に泣かされました。今年も天気が心配ですが、山菜採り、料理の係り、当日の司会進行など具体的な話をしました。こういう時の話というのはこれまでの会の思い出話が出たりしてとても楽しい。あとは天気が良いことを祈るだけです。


2009年04月19日

久しぶりに町田城址へ

 昨日、花輪が取り外されました。葬儀が終わってもう8日目です。弔問客も少なくなり、徐々に平常の生活に戻っていきます。二人の姪がわが家にやってきて、母を励ましてくれました。その際、昨年撮影した写真を姪たちとともに見てびっくりしました。わが家の庭のコブシは父が逝った8日に満開となりましたが、昨年もまったく同じ日に満開状態だったのです。今年のコブシは最後に残ったつぼみが花開いて、あと3日くらいで散るところまできました。時の流れの速さを感じます。
 きょうは夕方、妻とともに久しぶりに町田城址へ行ってきました。ここはいまから400年ほど前に御館の乱が起きたとき、戦いの舞台のひとつになったところです。吉川町史によると、町田城が景勝方の手に落ちたのは1579年(天正7年)3月7日となっています。吉川区内には長峰城、顕法寺城などいくつもの城址が残っていますが、私は町田城址が一番気に入っています。その理由は、敵の進入を防ぐために尾根を掘ってつくった「堀切り」の見事さにあります。天守閣のそばの「堀切り」の深さは約8メートル、幅は20メートルくらいかと思います(画像)。とにかく大きい。
 林道町田道之下線から歩いて5分。きょうは天気も良く、ゆっくり歩きました。林の中にはたくさんのチゴユリが咲いています。そして小鳥たち、とくにウグイスの鳴き声がひびきわたっていました。天守閣があったところ(画像)からは米山もきれいに見えましたよ。
 今週木曜日、父の姉妹、子どもだけでダン払いをします。これで父の関係は一段落となります。議会活動は明日から普段通り。この間、党議員団の仲間をはじめ、多くのみなさん方から助けていただきました。ありがとうございました。 


2009年04月18日

野山の景色がきれい

 朝5時過ぎから午前8時頃まで「しんぶん赤旗」日刊紙及び日曜版の配達をし、午前11時半頃から午後3時頃まで再び日曜版の配達で動きました。
 後半は吉川区の山間部です。2週間ぶりでしたので、野山の景色がずいぶん変わっていました。村屋や尾神のしだれ桜は既に散って黄緑色の芽が出ています。ヤマザクラも最盛期を過ぎています。尾神の人たちの話によると、桜は2日間くらいしか持たなかったということでした。でも、山ではいま、いろんな木が芽吹きをしてとてもいい景色をつくりだしています(わが家があった蛍場の山の画像)
 農作業も本格化してきましたね。肥料まきをしている人、トラクターで畑や田んぼを打っている姿があちこちに見られました。小鳥たちの鳴き声も賑やかでした。高沢入で聞いたウグイスの鳴き声です。


2009年04月17日

「宗教人と日本共産党との懇談会」の準備

 父の葬儀後初めて、日本共産党の会議に参加しました。きょうの会議は今月27日午後7時から上越文化会館で開催される「宗教人と日本共産党との懇談会」の準備です。何人ものお寺さんや宗教関係者が呼びかけ、党中央委員会から緒方靖夫副委員長も参加して開催されるものですが、10日前の段階での準備状況を確認し合い、今後の取り組みについて話し合いました。上越地域は全国的にみても寺院、神社などがたくさんある地域といいます。どんな話が出るか楽しみにしています。ぜひ成功させたいですね。

 かく言う私も宗教には大いにかかわりがあります。そもそもわが家の屋号、法生(ほうせ)はお寺の名前からきています。どれくらい前からは定かではありませんが、わが家は昔、「法生坊(ほうさいぼう)」という小さな山伏寺だったと聞いています。この「法生坊」が時代の流れの中で「ほうせ」になったのでしょう。私の名前は屋号から一文字をとり、祖父がつけたものです。そしていま、わが家は真宗大谷派専徳寺の檀家でもあります。今回の葬儀も真宗大谷派のやり方で行われました。

 夕方、妻を職場に迎えに行き、ともに帰りました。これまでなら、妻の職場から病院に寄って帰るのですが、その必要はなくなりました。稲田の十字路を直江津方向に曲がらないで車を進めるのが何となくさみしい。そして特別養護老人ホーム「いなほ園」の近くを通った時には、父をショートスティで送迎した時のことが浮かんできました。初めてショートにお世話になった時は母と長女と3人で連れて行ったのですが、帰り際に父は「置いていかれる」ことを察知し、切ない表情を見せました。しばらくの間、いろんなところで父を思い出すことになるのでしょうね。


2009年04月16日

「介護労働実態調査結果報告書」

 久しぶりに高田・直江津地区に出かけました。父が亡くなった8日以来です。きょうから勤務復帰の妻を職場まで送り、その後、父が入院していた病院へ寄ってきました。1年4か月あまりにわたって病院に通い続けていたこともあって、病院へ行くと父に会えるような気がするから不思議です。病院ではお礼を言わないままとなっているある病院関係者を訪ねたのですが、残念ながら仕事中のため会えませんでした。病院から出る前、売店に立ち寄りました。朝飯を食べる余裕がなかった時に、ここで1個150円の大きなおにぎりを買って市役所に向かうクセがついています。今朝も食べていなかったので、いつもの「たらこ入りおにぎり」を買い求めました。

 短時間でしたが、市役所にも寄ってきました。議員向け連絡用のボックスに書類などがたまっているだろうと思ったからです。土日をはさんだ期間でしたので、思ったほど書類はありませんでした。ただ、そのなかに、ずっと待っていたものがありました。上越市が実施した「介護労働実態調査結果報告書」です。概要版は先月10日の市議会厚生常任委員会で出ていたのですが、全文が掲載された報告書はまだだったのです。この調査は、私が一般質問で実施を求めてきたものですが、国の調査データと比較できるところに特徴のひとつがあります。そのなかには興味深いものがいくつもあります。たとえば、きょう読み進んでいくうちに、「現在の仕事を選んだ理由」というところで、「働きがいのある仕事だと思ったから」(56.1%)「資格・技能が活かせるから」(40.8%)に続いて「お年寄りが好きだから」が36.7%にものぼっていることがわかりました。これは国の調査よりも9.4ポイントも高いのです。これはうれしい数値でした。報告書の全文は上越市のホームページに掲載されています。

 家に戻ったのは午前10半過ぎでした。郵便受けをのぞいたところ、見たことのある手書きのハガキが一枚届いていました。『ざ・むーん』の柳川月さんからです。父が旅立ったこと、それについてこの日記などに書いていることを誰かが月さんに伝えてくださったのでしょう。素敵な手書き文字で励ましの言葉を寄せてくださいました。そこには、「紅こぶし 咲く春を逝き たまひしと 人伝てにきく 父君の訃を」という短歌もそえてありました(画像)。月さん、ありがとうございました。


2009年04月15日

雨が降って庭の木々は緑色に

 一日中、雨がしとしとと降っていました。気温も15度前後まで下がりました。こうなると、炬燵はなくてはならないものになります。雨が降ったことも関係するのでしょうか、コブシやプラムの花が散り始めました。コブシは例のコブシです。8日に開花して、きょうはもう半分くらいがパラパラと落ちていきました。風が吹くとまとまって散ります。このところ、毎日のようにわが家に来てくれている従姉が「コブシ、もう散ってしまうの。何か短いみたい」と言っていました。
 わが家の庭の木々はこの雨で緑色になりました。梅の木を見たら、もう緑色の小さな粒がついていました。梅の実です。時間が経つのは早いものですね。父が植えたものなのか、庭の一角にアケビのツルが伸び、紫色の花を咲かせていました(画像)


2009年04月14日

蛍場出身の人たちも

 葬儀が終わってから従妹のひとりが言いました。「おじちゃんのお陰で懐かしい人たちに会わせてもらった」と。わが家ばかりではないことですが、こういう機会だからこそ普段なかなか会うことのできない人たちが集います。
 きょうは父が蛍場(私が32歳まで住んでいた場所・尾神地内)で子ども時代を一緒に過ごした人たちが3人もわが家に来て下さいました。一番遠いところは長岡市与板(旧与板町)からです。みんな声を掛け合ってこられたようでした。たまたま、数十年前の蛍場の人たちが写った画像を何枚かもっていたので、パソコンの画面で見てもらったところ、大喜びしてもらいました。私の祖父・音治郎と娘、井戸尻(屋号)のお父さんの結婚式、大西(屋号)に集まった蛍場の子どもたち、これらの写真を見た人たちは、「今度、ホトロバ(蛍場)会をやろうね」と言っていました。ぜひ実現させたいものです。
 夕方、昨日から泊まりに来ていてくれた板山の伯母が帰りました。30年ほど前、母が屋根から落ちて5か月も入院した時以来、母に何かあるといつも伯母がそばにいてくれます。今回もまた、母が一番せつない時にいてもらいました。


2009年04月13日

ムシカリやトキワイカリソウが咲く中で

 ちょっぴりでしたが、今朝、久しぶりに雨が降りました。このところずっと晴れの日が続いていましたので、庭の木や草も喜んでいるように見えます。この雨で、咲いて間もないムシカリ(虫狩・スイカズラ科)やトキワイカリソウも一段と美しくなりました。どちらも家の近くに咲く花です。撮ってきたものをパソコンで見たら、小さな虫たちが何匹もいました(トキワイカリソウの画像)。おそらく蜜を求めているのでしょう。
 きょうも弔問客が続きました。いうまでもなく、故人と付き合いのあった人がほとんどです。埼玉県は寄居の造り酒屋さんで4年間父と一緒に仕事をしたという方は、父から酒造り唄や祝い唄などを習ったと教えてくださいました。この方は90歳を超えておられるのですが、電動自転車に乗ってわが家にこられました。自転車に乗ってからの動きが早く、びっくりしました。元酪農家のお連れ合いの方とも話がはずみました。吉川町酪農組合婦人部で旅行に出かけた話が始まると、母も身を乗り出してきました。組合のみなさんは牛のお産の時やサイロ詰めの時などお互いに助け合って生きてきました。それだけに思い出はいっぱいです。
 お昼過ぎに吉川区総合事務所の戸籍窓口で各種申請書を書いていたところ、大島区板山の従弟から電話が入りました。「夕方、おらちのばさま連れて行くし、一晩泊めてくんねかえ」と言います。母がさみしいだろうから一番の話し相手である伯母と一緒に過ごしてもらおうという配慮です。ありがたいですね。母は大喜びでした。


2009年04月12日

昔の話をいっぱい聞いて

 きょうもまた晴れの天気となりました。葬儀が済んだものの、忙しさは相変わらずです。朝の7時半頃に一人目の方が見え、それから夕方までお参りに来るお客さんの対応に追われました。
 お客さんや母、妻と一緒になって父のことや私の幼い頃の話をたくさん聞かせてもらいました。乳搾りをしていた父にとって、旅行は数少ない楽しみのひとつでした。牛に足の指を踏まれて骨折したにもかかわらず、すぐに医者に行かず、旅行に出ていった話を初めて聞きました。おそらく、温泉旅館で歌をいっぱい歌いたくて、足の痛みをがまんしたのでしょう。私がまだ母の背中におんぶしていた頃、顔に出来物ができて、近所の若いお母さんたちと一緒に柿崎のあるお寺まで歩いて行ってはらいをしてもらったという話も初めてでした。そこのお寺のご住職は、私を見て、頭の大きい子どもだと言ったとか。
 いつものことながら母の記憶力のすごさには感心します。きょうは疲れなおしにこれから温泉に行ってきます。


2009年04月11日

最後の対面

 父の葬儀の日。昨晩は1時間ほどしか眠れませんでした。どういうわけか、布団に入っていてもぐっすり眠ることができません。それで、朝の4時頃から「しんぶん赤旗」日曜版の配達をはじめました。時間が時間ですから、読者の方に会ったのはほんの数人だけです。2時間半ほどで配達が終わりました。また、吉川区、大潟区の新聞屋さんのところにも行き、毎週発行している市政レポートの折り込みを依頼してきました。
 葬儀では喪主として挨拶しなければなりません。きょうもたくさんの方が参列してくださいました。そのなかには通夜、葬儀ともに参列してくださった方もおられますので、なるべく昨夜の挨拶とちがった話をするように心がけました。私の大学時代の生活費などの仕送りを最優先し、牛のエサ代の支払いが滞ったこと、歌好きの父が病院内でも「岸壁の母」などを歌っていたなどのエピソードを紹介させてもらいました。どんな父だったか、少しでも知っていただければうれしい。
 父との最後の対面はやはりつらかったですね。病院ではいつも専用のガーゼを使い、目ヤニをとってやっていました。きょうも父の目がくっついているのが気になり、そこをそっとさわり、「じいちゃん、ありがとう」と声をかけました。そこまでは何とかもったのですが、母が父の頭をなでている姿を見たら、涙が流れました。
 私の祖父は72歳で他界しました。祖母はもっと早く亡くなっています。満80歳を過ぎてからの父の口癖は、「おれ、80になった」でした。よほどうれしかったのでしょう。家族からも、「じいちゃんえらいねぇ、80だもんね」と言われつづけました。父は82歳と2か月生きたことになりますから、大往生です。でも、さみしいですね、骨になってしまうと。「おい」でも「ああん」でもいい。たまには、その声を聞きたいです。
 市政レポートNO1392掲載しました。また、「春よ来い」第103回「べにこぶし」も載せました。ご笑覧ください。


2009年04月10日

棺にはウドやコブシも

 きょうは納棺、通夜と続きました。父の棺に何を入れようかと考えた時、一番先に浮かんだのはわが家のコブシ。これは私だけではありませんでした。何人もの人たちが「コブシの花、忘れなんな」と声をかけてくれました。山間部出身のHさんはきょう採ったばかりのウド、コゴミ、タラの芽を持ってきてくれました。太くてしっかりした山菜です(画像)。見れば、父もびっくりすることでしょう。父が入院してからいろいろ手伝ってくれた弟は手紙を書いて入れました。
 こうして、父の棺には、葬儀屋さんが用意してくれた花のほかにコブシ、ウドなどが入りました。私は明日、私が書いた最初の本、『幸せめっけた』(恒文社)を入れたいと思っています。9年前、この本を出した時に、父が繰り返し読んでいた姿を思い出したからです。
 通夜の会場に向かう時、霊柩車はわが家の牛舎に立ち寄り、クラクションを鳴らしてもらいました。おそらく、父にとっては4年ぶりくらいでしょう、牛舎を見たのは。だんだん足が弱り、歩くのはいよいよ限界という時に、父は朝早く、麦わら帽子をかぶり、新聞を片手に持って牛舎へ来ました。その姿を見て、これで最後になると私は直感しましたが、その通りでした。久しぶりに牛舎を見て、きょうは喜んでくれたと思います。
 明日は葬儀です。みんなで相談して父の酒づくり唄を流してもらうことになりました。「揃た揃いました コラヤノヤ、一ころニころ四ころにゃ足りない 三ころ突きゃ揃た 三ころづき…」という「三ころ」です。この唄は父の18番でした。大勢の人から聴いてもらえれば、父も大満足だと思います。


2009年04月09日

父の唄を聴いて

 父が他界して2日目になりました。毎日のように通っていた病院へ行かないでよくなったというのは落ち着きませんね。エレベーターに乗って6階へ行く。ナースセンターで訪問名簿に書き込む。病室へ入って、父の顔の位置を確認して、「おはよう」と挨拶する。額に手を当てて、熱があるかどうか、咳はしていないかをチェックする。1年4か月間にすっかり体にしみ込んだことがぷつんと切れるとおかしな気分です。病室ですっかり顔なじみとなったHさんの奥さんはきょうもステッキカーを押して通い続けているだろうか。心配しないでいいことまで考えてしまいます。
 きょうは、一日中家にいて、通夜や葬儀の準備をしました。昨日ほど電話が来なくなり、静かになったものの、時間はどんどん進んでいきます。
 夕方には、父の姉妹3人が顔をそろえました。3人とも足が悪いので、椅子に腰かけて「あと残ったのはおらたちだけか」とおしゃべりです。私のパソコンで祖父の懐かしい写真ファイルを開いたところ、3人とものぞき込んで(画像)、「こりゃ、誰だ」「男親だこて」などと言っては喜んでいました。数年前、父がうたう酒造り唄などのテープを作成しましたが、これを弟から持ってきてもらい、みんなで聴きました。元気だったころの父の声を聴くのは久しぶりという人がほとんどです。伯母たちはとても喜んでくれました。父が唄う「長持ち唄」の触りをお聴き下さい。


2009年04月08日

紅辛夷(べにこぶし)が咲いて父逝く

 午前11時頃でした。父の容態が急変した、すぐに来てほしいとの電話が病院から入りました。市議選の応援で糸魚川市能生地区へ行っていましたので、高速道路で病院へ直行。病室に着くと、看護師さんたちが心臓マッサージをしていているところでした。死亡が確認されたのは午前11時54分、私が病室に着いて数分後です。担当医に聞くと、痰がつかえたらしい。直接の死因は急性呼吸不全でした。
 父は4日ほど前から熱が上がり、昨日は38度7分もありました。でも今朝は、36度8分まで下がっていたので大丈夫だと思っていたのです。父とは午前8時50分頃、話をしました。「夕方にはまた寄るから、さみしくてもがまんだよ」と声をかけたときには首を縦に振ってくれました。それから2時間後に急変したことになります。ですから、まさかと思いました。
 わが家の庭では昨日、紅辛夷(べにこぶし)が開花しました。父の大好きな花です。昨日はひと枝を病室に持ちこみ、「ほら、じいちゃんが植えたこぶしの花が咲いたよ」と言って父に見せると、うなずいて喜んでくれました。リポビタンDの小瓶に入れた病室の紅辛夷は朝の段階では咲き始めたばかりだったのに、昨日の夕方、満開となりました。父もそれを見てホッとしたのかも知れません。どうあれ、昨日、見せてやって本当によかったと思います。
 父がわが家に戻ったのは1年4か月ぶりです。この間、お見舞いに来て下さったみなさん、治療にあたってくださった病院のみなさん、たいへんお世話になりました。きょうはお天気もよく、庭の紅辛夷は満開でした(画像)。そこへ父が戻ったことになります。「おい、とちゃ、見てみろ、紅辛夷がきれいに咲いているど」。父の声が聞こえるようでした。

 ※父の通夜は10日(金)午後6時から、告別式は11日(土)午前10時からとなります。いずれも上越市大潟区雁子浜441番地1「JA虹のホールおおがた」(電話025-535-1210)にて。


2009年04月07日

「花のまち」上越の切手

 市内高田公園の桜が開花し、きょうは五分咲きくらいになりました。この調子なら、次の土日あたりが一番見ごろでしょうか。穏やかな天気でしたので、きょうはお客さんもかなり出たようです。
 さて、今朝の地元新聞に郵便局がこのほど発売したフレーム切手のことが載っていました。今回の切手は「花のまち上越」と題して高田公園の桜をアピールしたもの。高田郵便局と上越鴨島郵便局の局長さんが木浦市長と上越コンベンション協会の田中会長にこの切手を贈呈したことが写真付きで報じられていました。写真を見てびっくりしました。そこに、懐かしい顔があったからです。上越鴨島郵便局の増村登局長さんは私の高校時代のクラスメートでした。私と違って、体型も顔かたちも高校時代と全く同じ。うらやましいかぎりです。きょうは40年ぶりに増村さんと電話で話をすることができました。「声も顔も変わらないねぇ。こんなに近くにいるなんて思わなかった」「去年の夏の同期会で会えると思ったんだけど…。時々、橋爪のことが話題になるんだよ」「懐かしい声をきかれてよかったよ」話がはずみました。
 さて、この「花のまち上越」切手ですが、シートには50円切手が10枚あって900円で発売されています。私もこのシートを前島密記念館がある前島記念池部郵便局(長谷川均局長)で購入しました。「花暦春…桜」と書いてあるところをみると、夏、秋と続編が出るのかも知れません。夏の花ならササユリかカキラン、秋は…、シロバナサクラタデがお薦めです。今回のシートは郵便局の通販ショップでも購入できます。


2009年04月06日

小中学校で入学式

 市立小中学校(城北中学校をのぞく)の入学式でした。私は午前に吉川小学校、午後には吉川中学校の入学式に参加しました。どちらの学校も校長先生を含めた先生が変わり、入学式の雰囲気もいままでと違っていたように思います。
 吉川小学校の一年生は30人。「あるこう あるこう わたしはげんき あるくの だいすき どんどんいこう」。『となりのトトロ』の主題歌に合わせて入場です。いつものことながら、担任の先生を先頭にして入場する姿はかわいいですね(画像)。新しい校長先生は中嶋賢一先生。地元出身のとても真面目な方です。お祝いの挨拶では、「ふたつのお願い」として、自分の命を大切にすること、友だちと仲良く過ごしてほしいと訴えられ、最後に「元気に遊び、たくさん学んで大きく成長してください」と結びました。歓迎の言葉をのべたのは関澤悠里さん、「学校には楽しい行事がたくさんあります。分からないことがあったら何でも聞いて下さい。早く慣れて楽しい学校生活を送りましょう」と呼びかけました。
 吉川中学校は40人が新一年生です。こちらはブラスバンドに迎えられ、二人ひと組ずつが行進して入場しました。新しい校長先生は青木孝史先生です。がっちりした体格ながら語る言葉はやさしく聞こえてきました。新一年生を代表して「入学の言葉」をのべた原佳実さんは友人の子どもさんです。落ち着いていて、とてもいい挨拶でした。
 きょうはほとんど地元、吉川区にいました。土曜日の事故でハンドルが重くなっていること、でこぼこ道での車の震動が直接的でおかしいことから、自動車屋さんへ行き、愛車を診てもらいました。結果は、本格的な点検が必要とのことでした。


2009年04月05日

用水路にはシジミがいっぱい

 今朝はだんだん天気が良くなって仕事日和になりました。日が照り始めると小鳥たちの鳴き声がとても賑やかです(鳴き声はこちらから)。きょうは地元集落の普請です。農道の補修、用水路の掃除などが主な仕事ですが、久しぶりにスコップを持って力仕事をしました。私の担当は昨年に続いて用水です。用水路にたまった泥や砂などをスコップでさらって外に出すのが仕事でした(画像)。昨年、たくさんのたなごやシジミと出合いました。今年はどうかなと楽しみにしていたところ、残念ながら、たなごはほとんどいませんでした。その代り、シジミ(画像)が多かったですね。それにドジョウやカワニナもいましたよ。仕事の時間は約3時間でした。スコップを使ってのしごとですから、これが限度でしょう。明日は体のあちこちが痛くなるはずです。
 午後からは上野公悦議員の後援会主催の議会報告会兼観桜会でした。議会報告が終わって、司会者が何か質問とか要望ありませんかと声をかけると、サッと手が上がりました。「あやめバスの料金が100円から200円になった。障がい者のみなさんがこのバスに乗って仕事ををしにきているが、収入は月に5000円くらい。バス代をひくとマイナスになる。なんとかしてほしい」「市道の側溝のふたが壊れた。どれくらいの負担をしなければならないのか」など次々と要望や質問が出ました。
 懇親会の方はいつものことながら、とても楽しい。弁当の他に、手づくりの料理も出て、ご馳走がいっぱい。それと、今回は初めて踊りもありました(画像)。誰かさんが言ってました。「踊り、とても色っぽくて素敵だよね」って。
 


2009年04月04日

大きな事故にならなくてよかった

 このところ疲れが取れず、あくびばかり。昨日は病院を出て交差点で信号待ちしていたら、そこで眠ってしまいました。ほんの一瞬ですが、クラクションが鳴るまでわかりませんでした。車のギヤはドライブでしたので、ブレーキが効いていてよかったなと思いました。
 これだけでも何とかしなければいけないと思ったのですが、きょうはこれを上回る大変なことになってしまいました。成人式が終わって帰宅途中のことです。今度は車を運転していて眠ってしまいました。これも一瞬の出来事でしたが、無意識のうちに右側走行し、コンクリートの壁にぶつかってとまったのです。対向車は一台だけ、幸い歩行者がいなかったからよかったものの、もうちょっとで大事故になるところでした。
 というわけで、きょうは午後から1時間ほど昼寝をして、「しんぶん赤旗」日曜版の配達集金に出かけました。短時間でも睡眠の効果はあったようです。夕方、何もなく家に戻ることができました。最近、疲れの残っている状態が慢性化しています。土日に疲れをしっかりとる生活スタイルにしないといけません。


2009年04月03日

竣工式で

 旧高田盲学校を改造してできた福祉交流プラザがオープンしました。きょうはその竣工式です。関係団体や来賓など130人を超える人たちが集まって竣工を祝いました。
 会場へは30分ほど早めに行きました。3階にある顕彰コーナーへ行ってみたかったからです。そこには市川信夫さん原作の映画『ふみ子の海』に関するいろんな資料が展示されていると報じられていました。目にとまったのは大きなファイルです。ファイルには各種新聞に掲載された『ふみ子の海』制作の記事や市川さんへのお便りなどがたくさんありました。
 映画『ふみ子の海』を観た時の感動はいまでも忘れませんが、このファイルの中に2007年9月25日の朝日新聞夕刊に掲載された俳優・森繁久弥さんのメッセージがありました。「映画人のひとりとして『ふみ子の海』の完成を心から喜んでいます…よくぞ作ったとエールを送りたい。…かつてはたくさんあった、あの美しい山や川を思い浮かべ、人の情けについて考えるときではないだろうか。…ラストシーンの浜辺でふみ子と一緒に『砂山』を唄い、失ってしまった日本の心を共有したかった」全文を紹介できなくて申し訳ないのですが、これもまたすばらしい文章でした。
 偶然とは面白いもので、このコーナーを出て2階へ降りる階段のところで市川信夫さんに初めてお会いしました。明るい色のスーツを着た小柄な方でしたが、市川先生の「おはようございます」の声が弾んでいるように聞こえました。きょうの日がうれしかったのでしょう。
 式典では利用者を代表して期待の言葉をのべた加藤C子さんの話がとても印象に残りました。「(出来上がった建物が)とてもきれいで広くてびっくりしています。去年の秋ごろから仕事が少なくなってがっかりしていたところへ(この建物の)お掃除の仕事が回ってきてとても喜んでいます。いままでよりも体を動かす仕事です。たくさんの人たちにこのプラザを利用してもらいたいと思っています」障害を持った人たちをも直撃したいまの不況の中で仕事をもらえた喜びがよく伝わってきました。よかったね、C子さん。


2009年04月02日

川谷経由で大島区へ

 やるべきことがいっぱいあって落ち着かない。3月議会中に頼まれ、「議会が終わるまで待って下さい」と言っておいた生活相談がいくつもたまっています。それに加えて、議会が終わってから連絡をいただいたものも出てきました。一つひとつやるしかないのですが、解決済みの件数はなかなか増えていきません。
 きょうは午後から、吉川区上川谷経由で久しぶりに大島区へ出かけてきました。上川谷経由としたのは途中でネコノメソウ(画像)など野の花の写真を撮ろうと思ったからです。ネコノメソウは撮れたのですが、他のものはだめでした。下川谷から上は雪が降って、今朝は除雪車が出動したとのこと、野山は雪に覆われていました。上川谷は冬場、2軒が関東方面に出ていましたが、すでに戻ってきていて、6軒になりました。2軒増えただけで明るくなった感じがします。
 大島区は仕事上の問題での相談です。専門家の力も借りて対応することにしましたが、解決までには時間がかかりそうです。帰りに、気分転換も兼ねて大山温泉に入ってきました。ここのヌルヌルした湯はいつ入ってもいいですね。温泉から出たところで大島区総合事務所の新しい幹部とバッタリ出会いました。「(ご利用)ありがとうございます」と声をかけてもらいました。


2009年04月01日

新鮮!新年度スタート

 たった一日でこんなにも雰囲気が変わるものでしょうか。きょうから新年度がスタートしました。市役所では新たな部署に着いた人たちの表情がとても新鮮です。毎日、市役所から出て帰ろうとするときに必ず目に入る男性職員がいます。昨日まで窓際にすわっていた人ですが、きょうからは副課長席にすわっていました。何となくうれしそうな感じがしました。議員控室で原稿書きをしていたところへ挨拶に来てくれた職員もいます。まだ20代か30代前半の若い人です。えらいなぁ。顔に緊張感が出ていて、こちらもちょっぴりかたくなりました。
 きょうは午後2時過ぎまで議会報用の原稿や私の議会報告の原稿書きをし、その後、病院に立ち寄り、旧頸北地区へ。独り暮らしの高齢者の生活相談です。耳が遠くなった方で、お連れ合いが入院中とのこと。医療費や退院後予想される通院費のことなどをゆっくりとした口調で話されました。約1時間の訪問の中で、相談ごとだけでなく、世間話も次々と広がりました。独り暮らしのさみしさがよく伝わってくる方でした。


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