« 2007年04月 | メイン | 2007年06月 »

2007年05月投稿分

2007年05月31日

雨が降ればよく分かる

 「あいにくの雨」と書こうとしましたが、道路視察は雨が降ってこそ見えてくるものがあります。だから、きょうは運良く雨が降ってと書きはじめましょう。運良く雨が降って、昨日以上にいい視察になりました。一番良かったのは道路の路面状況をよく観察できたことです。水がたまりやすかったので、デコボコ状態をしっかり確認できました。管工事をやった場所でひどかったのは天林寺、片田、河沢でした。簡単な手直しよりも抜本的な対策をとってほしいとの声がありましたが、当然です。雨が降ったおかげで、山間部では排水が悪くて道路の流れ込んでくる場所も分かりました。
 この2日間の調査(一昨日も一部で調査したので厳密には3日間かな)で残念だったのは、すでに地元町内会などから修繕要望が出ているにもかかわらず放置してある箇所がいくつかあったことです。これは県道、市道、どちらにもありました。なかには2年以上も経っているところがありました。管理者サイドでは、まだ大丈夫という危機認識なのか、それとも予算がないのか。いずれにしても、このままでは困る、危ないと心配している人たちに十分な説明をしていないと思いました。安全管理はもっとシビアにやってほしいものです。
 今回の調査では路面状況、安全施設を中心に見て回りました。この話をしたところ、ある市役所職員から上の方も見るべきだとアドバイスをもらいました。さすがはプロです。道路を覆っている雑木などもチェックの対象にしないといけませんね。次回はチェックポイントを整理してのぞみたいと思います。今回の調査結果は急いで伝えることが必要と判断し、視察メモ、写真を総合事務所の担当および木田事務所の道路管理課に送信しました。速やかな対応を望みます。


2007年05月30日

道路視察の途中に緊急電話

 きょうから2日間は吉川区内の道路視察です。町議会があった頃は、所管の常任委員会で視察したものですが、合併後は広くなったので、災害でもないかぎり視察はありません。それならば、1人でも視察をやろうと決意しました。昨日から区内の道路地図とニラメッコし、路線番号、道路の位置などを確認して、きょうからの回るルートを考えました。27日付の市政レポート吉川版でお知らせしておいたこともあって、「どこどこを見ておいてくれ」などと電話などで連絡してこられた方もあるので、そういうところは忘れないようにメモしておきました。
 午前は吉川地区の一部、旭地区の全域、竹直地区を回りました。いつも通っている県道、市道以外の道路は久しぶりに行く道ばかりです。砂利道だったのが舗装してあったりして、その変わりように驚きました。なかには六万部の田んぼ中の道路のように、初めて通る道もありました。平場は全体として管理状況は良好でしたね。したがって、撮った写真も、路面の割れ、舗装が壊れ、穴になりかけているところなど数枚だけでした。これらはまとめて、近日中に総合事務所の担当のところにメールで送信する予定です。市内全域への目配りを強めてもらうために、木田事務所の担当課にも参考資料として送信しておきたいと思っています。
 お昼少し前に長女から緊急電話がありました。ショートスティへ行っている父が38度を超える熱を出し、迎えに来てくれといわれたというのです。また、入院していたバス運転手のTさんが亡くなったとも。父の迎えの方は、午後から勤務がある長女に頼み、医者へは私が連れて行くことにしました。父はぐったりしていて、まったく歩けず、医者まで連れて行く、連れて帰る、この移動だけでもたいへんでした。母とふたりがかりでやっと車に乗せました。家に着いたときは雨、車椅子も使えず、父の大きな体を抱いて、玄関まで運ぼうとしたら、動きません。おかしいなと思ったら、父が車にしっかりつかまって離そうとしないのです。これにはまいりました。かかりつけの医院では、注射、点滴をしてもらい、少し楽になったようです。というわけで、道路のきょうの視察は予定の3分の2くらいしかできませんでした。


2007年05月29日

板山で沢菜料理に古代米も

 9時からの葬儀が終わってから最初にやったことは礼服をクリーニングに出すことでした。遅くとも金曜日には仕上げてほしいとお願いしてきました。これで結婚式に着ていくものはオーケーです。考えてみると、今月上旬に出そうと思っていましたから、ずいぶん葬儀などが続いたことになります。土曜日は、それこそ5年ぶりくらいかな、久々の結婚式です。これで目出度い方の流れができるとうれしいのですが……。
 きょうは昨日の会議の方針に基づいて、山間部へビラ配布をしてきました。2軒でお茶を飲み、その他の家でも留守でなければおしゃべりをしていたものですから、時間はかかりましたね。農協川谷出張所でカップラーメンを食べてから、上川谷の一部の配布を残し、大島区板山の伯母を訪ねました。
 突然の訪問にもかかわらず、伯母はとても喜んでくれました。顔が幾分むくんでいる感じがしたのが少し気になりましたが、外での畑仕事などは心臓に負担をかけないように、なるべくしないことにしたそうです。伯母は沢菜(ミズナとも呼ぶ山菜)を材料にした料理を3品も出してくれました。さらに古代米のおにぎりも3個出してくれたので、2個食べました。伯母からは、竹平の「のうの」のばちゃが夢に出てきたので、「お迎えに来たがかえ」と思ったとか、サツマイモの植え方を(私の従弟に)教えたら、しっかり覚えないで、いい加減な植え方をよそに広めてしまったなどと言って笑っていました。まあ、この調子なら、まだまだ大丈夫でしょう。
 板山からの帰り道は久々に市道尾神川谷線(旧尾神林道)を通ってきました。工事の完了検査が間近の尾神北線の工事現場も視察してきました。報尽碑手前のSカーブは予想以上にきついのが気になりました。きょうは、市道の管理状態を意識的に見ながら走行しましたが、しっかり状況を記録するにはそれなりのものがいると判断、明日からの2日間の道路視察に備え、アルミ製の測量ポール(1690円)と巻尺(1350円)を夜になってから購入してきました。


2007年05月28日

忙しい月曜日でした

 2日間続いた黄砂の後に雨が降りました。そして青空が広がる。すっきり、さわやかでじつにいい。市役所木田事務所への行き帰りは、周りの景色を楽しみながら車を走らせました。
 きょうの午前は柿崎区の小池直英さんの葬儀でした。小池さんは尾神岳のふもとの坪野の出身で、農業改良普及員時代は何度も我が家を訪れて指導してくださった方です。また退職後は、吉川で農業支援センター職員として奮闘されました。そんなこともあって、葬儀には吉川区在住者の顔もたくさんありました。明日も吉川区で葬儀です。次の土曜日は親戚の婚礼です。それまでに礼服をクリーニングに出したいので、これで葬儀はしばらくお休みしてほしい。
 午後からは党議員団で視察です。行政改革の影響が教育分野でどのようにあらわれているかを見るために市内のいくつかの学校を訪ねたいと思っているのですが、きょうは旧市内の学校へ行ってきました。その後、6月議会で提案される高田小町(町屋を改造した交流センター)を訪ねてきました。高い天井、木の温もり、そして歴史を感じる品々がある。なかなかいい雰囲気です。これなら、気軽に入れそうだと思いました。
 夜は党支部会議でした。義父の付き添いに行っていた妻の迎えなどで夕飯をゆっくり食べることができなかったのですが、参加者のなかに、ちまき、パインを持ってきてくれた人がいて、ご馳走になりました。パインは生協で注文して取り寄せたものとかで、ちぎって食べるタイプのもの、甘くて美味しかった。ちまきは今年初めてです。もう、新しい笹がとれる季節になったのですね。


2007年05月27日

戦争は戦争の顔をしてこない

 真宗大谷派のお坊さんの中には憲法を守り、平和を求める点で確固不抜の意思を持っている人がたくさんいます。県議選で上野公悦候補を応援した地元の方もそうでした。でも、そうした人たちの考えは、これまで全部、新聞やビラでしかお目にかかることができませんでした。いつか、生の声で聞いてみたいものだと思っていたところ、きょうの親鸞聖人越後御流罪八百年記念大会でようやく実現しました。
 生の声で語ってくださったのは池田勇諦(いけだ・ゆうたい)氏、宗教界では超有名人で、同朋大学学長などを務められたことのある人です。『いのちとひかり』(東本願寺伝道ブックス)など多くのベストセラーの著者でもあります。きょうの記念講演、「困難か法難か…親鸞聖人のご流罪に学ぶ」の中で平和を求める声が2000人の聴衆で埋まった会場に響き渡りました。
 戦争は戦争の顔をしてこないんです。じゃあ、どんな顔をしてやってくるのかとある人が質問されたので、私はこう答えました。「美しい国づくり」という顔をしてやってきますよと。「戦後レジュームからの脱却」だなんておっしゃいますが、戦後体制の出発点は「戦争は再びしません」が出発点でした。そこからの脱却だなんて、黙っていられません。真宗門徒はお念仏の教えを受けている者として、しっかり監視していく必要があります。幸い、この800年の法要に合わせて参院選挙があります。主権者として、具体的な1票で表現しましょう。
 すごく力強い、お話でした。感動しました。
 市政レポート吉川版NO1296を掲載しました。ご覧ください。


2007年05月26日

あべこべ政権

 「うまい。座布団1枚!」つい、そういう声をあげたくなったのは日本共産党参院比例代表候補の井上さとしさん(現参院議員)の挨拶を聴いた時です。きょうの新潟県党の全県活動者会議で最初に挨拶に立った井上さんは、国民の暮らしを破壊し、改憲をめざす阿部政権の最近の動きについて、じつに分かりやすく告発しました。いま、1年間に100億円以上納税している高額所得者は日本に7人いるが、阿部政権はこういう人たちに1人あたり28億円もの減税をしようとしている。その一方で、交通費を1円でも減らそうと自転車に乗って節約に節約を重ねているような労働者の税金は上げる。このような阿部政権は「アベ政権」と言うより「あべこべ政権」じゃありませんか。自分たちのやっていることが間違いだと分からないなら、国民の声で分かってもらうしかありません。こう述べて参院選への決起を訴えました。
 きょうの会議は、一斉地方選の教訓を参院選に生かす立場で引き出し、勝利に向けて意思統一を図るのが目的です。感動的な話がいくつもありました。定数2の選挙区で票を大量に伸ばしながらも議席に届かなかった五十嵐完二前県議、選挙後、新潟市木戸地域の後援会が取り組んだ「山菜を食べる会」では「上を向いて歩こう」を歌い、「いまの僕の気持ちです」と語っていたと後援会ニュースにありました。その五十嵐さん、「悩みに悩んだ末、4年後の議席奪還を目指すことにしました」と述べ、いま、1軒1軒訪ね、お礼の挨拶と参院選の支持を訴えているといいます。会場からはじつに大きな拍手が起こりました。旧小国町から長岡市議に当選した細井良雄さんは、後援会ニュースを全世帯の4分の3まで広げ、全集落を対象にした懇談会を重視した経験を語りました。改めて、宣伝活動とともに、組織活動でも他党を抜く活動の量と質が求められていることを浮き彫りにしました。そしてもう1人、頸城支部の上野公悦さん、「いつも元気、さわやかな上野です」と切り出し、選挙を闘う度に組織を大きくしている経験を語りました。お連れ合いが地区委員会に送信したファックスを紹介し、「選挙をたたかってよかった。いつも明るく、楽しい支部活動をやっていきます」。上野さんの話を聞いていると、いつも気持ちが楽になり、元気になりますね。このほか、書ききれませんが、大勢の人から元気をもらいました。
 夕方、わが愛車にニセアカシアの花房を2つほど入れました。ここ数年やっていることですが、こうすると素敵な甘い香りが車の中に漂うのです。有効期間は3日間くらい。匂いがしなくなったら、また新しい花を入れる。これから10日間ほど楽しめます。最近、市役所に通う約40分間、高橋真理子のCDを聴いています。これに加えて、今度はニセアカシアの匂いを味わう。農村ならではの「ぜいたく」な生活です。


2007年05月25日

まさか「廃線論」が出るとは

 朝、新潟日報を手にしてビックリしてしまいました。上越市議会の最大会派「毘風」が「北陸新幹線で在来線廃止提言」とあったからです。近隣の市とも連携して在来線をどう守っていくか、党派を超えて真剣な取り組みが広がりつつあると思っていただけに、目を疑いました。でも、新聞には、「存続に向けた巨額の財政負担は困難とし、並行在来線の経営分離後の実質的な廃線や、『ほくほく線』の新幹線新駅・上越駅(仮称)への延伸などを求める『提案書』をまとめた」とあります。間違なく、事実です。今回の提案がどういう過程を経て出てきたかは分かりませんが、在来線問題で苦しんでいる自治体議会で、一部とはいえ、こうした提案が出されたのは初めてでしょう。
 きょうの会合などでは、どこでもこの話題でもちきりでした。「一体、何を考えているんだ。提言の前に市民の声を聞いているのか。こんなとんでもないものを出されては迷惑だ」「これで市長との関係もおかしくなる。市長を支えると言ったのは誰だ」「このまま、放置しておいたら上越市議会の信用がなくなる」などと怒りの声ばかりでした。目前に迫った6月定例議会で、北陸新幹線と在来線問題が焦点の1つになるのは確実です。


2007年05月24日

5人の県議が顧問に…県道新柿線議員連盟

 午前は妙高市議選についての作戦会議。党中央委員会から田熊さんが現地に2日間入り、状況を把握して、きょうの会議です。4人の候補必勝のためにどうしたらいいかを田熊さんが語りました。4人がこれまで進めてきた活動の特徴、市民アンケートに見る住民の願いなどをふまえ、具体的な提案をしていく。その内容があまりにもリアルで説得力のあるものだったので感心してしまいました。田熊さんは私が学生だった頃、全学連の委員長だった人です。昔から頭のきれる人だと思ってきましたが、応援に入った各地の候補者のことをよく憶えていて、そのことも驚きでした。
 夕方からは県道新井柿崎線整備促進議員連盟の総会、昨年度の要望についての報告会、懇親会と続きました。1日あたり7000から9000台の交通量のある新井柿崎線の整備は、県の補助事業が最高時の2分の1という財政状況の中で厳しさが増しています。しかし、今回から5人の県議が顧問に加わることになりました。県に対する要望活動をしていく上で強力な援軍を得たことになります。市の幹部のひとりが、「痛い時には痛いと言わなければ分かってもらえない」と言っていました。市民の目線で声を大きくしていくことが求められていますね。
 懇親会では小林林一、小山芳元、梅谷守の3県議と話をすることができました。小林氏とは何度も顔をあわせているにもかかわらず、きょうまで名刺交換もしていませんでした。小山氏とは、合併までの動き、上越市議会の活動などについて話し合いました。33歳の新人、梅谷氏とは昨日も一緒だったのですが、初めて彼の挨拶を聞きました。落ち着きがあり、県道の歩道設置要望件数まであげた話は、一生懸命さが出ていて好感が持てました。彼とはホームページについても意見交換をしました。
 帰りは妻に迎えに来てもらいました。きょうは、今年一番の暑さでした。28度もあったそうです。妻は半袖、私はスーツ姿。車の中は夜でも暑く感じられたので、軽乗用車の窓を開けて走ってもらいました。開けていたおかげでいいことがありました。ニセアカシヤの甘い匂いが流れ込んできたのです。頸城区の百間町の郵便局付近でした。


2007年05月23日

郷土料理とバイキングを楽しむ集い

 600人もの人たちが集まって郷土料理を楽しむ。こんなイベントが上越市にあります。1年に2回ずつやって今回で7回目。次回は吉川区などの郷土料理を楽しんでいただく計画だといいます。ならば、どんな集いなのかよく見ておこうということで、区内の調理師さんたちや総合事務所の皆さんなどとともに参加して来ました。私はもちろん、初めての参加です。
 分かっていたとはいえ大勢でびっくりしました。1つの空間に600人からの人たちが集まって食事を楽しむ様子は壮観でした。会費が5000円で食べ放題、飲み放題。飲み物、食べ物が用意してあるコーナーでは長い列ができました。大人だけでなく、子どもの姿もたくさんありましたね。私はといえば、テーブルに出される料理を楽しませてもらいました。今回は柿崎区と大島区の郷土料理が中心、田植えの時に出される煮しめや黄金汁など、かたっぱしから食べました。
 これはいったい何だと箸を出して口に入れ、「うん、これはいける」と思ったのはトコロの焼酎漬けでした。小さく切ってあったので、最初は分かりませんでした。でも食べた瞬間、私の大好きな独特の苦味があって、なつかしい味がする。とても気に入ったので、引継ぎの挨拶では、トコロの話をさせてもらいました。魚の刺身も悪くはないけれど、私のような山間地出身の人間は、やはり「山の味」が最高です。
 次回は11月14日午後6時半から、上越市高田のデュオ・セレッソで行われます。メインは吉川区と三和区の郷土料理です。吉川区については伝統的な「母さんの味」から始まって全国に自慢できる食べ物がいくつもあります。大いに楽しんでもらい、吉川の味が心に残るようにしたいものです。
 21日、22日の五月晴れに撮った風景写真を5枚ほど「私の好きな風景」に掲載しました。朝早くに撮った風景、海をはさんだ尾神岳などを載せてあります。


2007年05月22日

偶然とはいえ、この一致は何なんだろう

 不思議なことがあるもんです。きょうは、にいがた自治体研究所で限界集落対策に関するブックレット作成を話し合う会議でした。朝、新潟日報の社説を見ると、「お年寄りの嘆きを聞こう」というのが載っていました。上越市の限界集落調査について正面から取り上げて、「上越市のような調査を、ほかの自治体でも実施したらどうだろう」と評価しています。きょうの会議では、何人かがこの社説にふれながら意見を出していました。まさにベストタイミングでした。
 きょうの会議では、ブックレットの内容、構成などを企画案をもとに検討しました。その際、同研究所の長崎明理事長が、「本を読んでもらえるかどうかは表紙と目次で決まる」ということをポツリと言われました。夕飯後、ひと眠りしてから、何とはなしにNHKの夜の番組「プロフェッショナル」を観ると、何と、きょうの登場人物は装丁家の鈴木成一さんでした。本の内容をシンプルに、かつズバリ表現するプロです。表紙づくりの真剣な過程が描かれていて、とても参考になりました。こうも関連することが同じ日に出てくると、偶然とはいえ、不思議な気持ちになりますね。
 にいがた自治体研究所での会議が終わってから、時間があったので、県庁に立ち寄ってきました。長岡市区選出の竹島良子新県議の会議室では、竹島県議、渡辺真理子新事務局長と会い、新しい県議会の運営での発言制限の動きやホームページをめぐるよもやま話などをしてきました。お二人とも県議会での仕事は初めてで緊張しているということでしたが、部屋にはすでに竹島さんらしい、やわらかな雰囲気があって、とてもいいなと感じてきました。県議会に、さわやかな新風を送ってくれる予感がします。


2007年05月21日

五月晴れ

 きょうのような天気を五月晴れと言うのでしょう。午前中は残雪の残っている頸城三山がハッキリと見え、午後からは米山、尾神岳がとてもきれいでした。市役所木田事務所への行きも帰りもあちこちで車をとめ、風景写真を撮りました。田んぼには植えて間もないイネがあり、水面に山々が映っている。頸城区では田んぼのそばのアヤメや菜の花が見事で、これもカメラにおさめました。里山では早くもヤマボウシが個性溢れる花をつけ、ニセアカシアも白い花をぶら下げています。これらの花は、もう少し経ってから撮る計画です。
 市役所では午前が食料・農業・農村議員連盟の会議でした。新たに中山間地活性化特別部会が発足し、限界集落対策などに取り組むことにしています。第1回目のきょうは、先に市が発表した調査結果についての説明を担当課長から聞きました。午後からは月例議員懇談会および勉強会です。上越教育大学の渡邉隆学長が「上越教育大学と地域連携」をテーマに面白い話をしてくださいました。ワインづくりで有名な川上善兵衛と坂口謹一郎がつながっていたという話は初めて聞きました。


2007年05月20日

風岡準仙画伯の作品集掲載へ

 きょうは午前10時から親戚の壇ばらい、骨納めでした。尾神岳に上る市道のそばの高台に墓があります。初めてのぼったところ、お墓のそばには大きなブナの木があって、ササユリが何本もありました。お墓の場所としては眺めもいいし、最高です。ひょっとすると、吉川区の中では最も高い場所にあるかも知れません。
 お通夜、葬式の日はウーロン茶で対応していたのですが、今回はビールをいただきました。飲んだからには、車でどこかに行くわけにもいきません。1時間くらい、近くの山を歩き、その後は、気になっていた風岡画伯の作品をHPに掲載する準備をしました。先日、お連れ合いからデータをもらってあったので、仕事は割合と楽でした。生の作品とは比べものにはなりませんが、風岡画伯がどんな絵を描いた人なのかくらいは知っていただけるかと思います。
 風岡画伯の作品は今回17枚載せました。「風岡準仙作品集」としてあります。ぜひ一度ご覧ください。また、市政レポート吉川版1295号も掲載しました。
 大事なことを書き落としました。夕方、また不幸についての連絡が入りました。大潟区のHさんが亡くなったという知らせです。根っからの百姓で、農民運動などではいつも彼の姿がありました。牛飼いを続けたものの、経営がうまくいかず、最後は住所を転々と変えていたようですが、いつも泥臭い発言をズバズバ言う人で長年付き合いをさせてもらいました。2年前の市議選の時には米をかついで応援に駆けつけてくれた人です。年齢はまだ58か59歳でしょう。若い人の死が続くのはかなしい。


2007年05月19日

高遠菜穂子さんの講演会に出て

 Oさんの葬儀は時折小雨が降る天気の中で行われました。55歳の働き盛り、その若さとこれまで彼が果たしてきた役割の大きさ故に大勢の人が集まりました。参列者は200人を軽く超えたのではないでしょうか。葬儀開始時間になっても受付には長い列ができ、庭は家の中に入りきれない人たちでいっぱいでした。喪主としての挨拶をしたのはOさんのご長男です。「父はがんばって、がんばって、がんばりぬいた人でした。残された家族は、父に心配かけないように生きていきたいと思います」との挨拶を聞いて、そのしっかりした態度にホッとすると同時に涙が流れました。
 葬儀が終わってから、「しんぶん赤旗」日曜版の配達に出かけました。配達はなかなか進まず、終わらないうちに家に戻りました。午後から予定されていた高遠菜穂子さんの講演『命に国境はない』を聴くためです。イラクからの報告は最初、たんたんと話され、静かに聴くことができました。が、途中のビデオ上映によって、一変します。アメリカを先頭にした戦争勢力が宗教間対立をあおりたて、断ち切ることのできない憎悪の連鎖によって、繰り返される戦い、そして殺された人たちの無残な遺体……。これまで視たことのない映像にショックを受けました。同時に、日本のマスコミはほとんど事実を知らせていないと思いました。
 高遠さんというと、イラクで拘束され、解放された後の憔悴した姿を思い浮かべます。しかし、きょう見た彼女は、すっかり元気を取り戻していました。キング牧師やマザーテレサなどの運動に学び、非暴力による運動、イラク支援の活動をすすめる高遠さん。拘束前よりも成長し、たくましくなったと感じました。彼女に負けないよう、憲法改悪反対のために頑張らなくては。


2007年05月18日

その花は雑木林の中で輝いていた

 もう何年も会いたくてたまらなかった花、庭先ではなく自然の中で咲いている姿を見たいと思い続けてきた花があります。その花の名前はキンラン。数年前、中山間地のある赤旗読者の方の庭で咲いている姿を初めて見ました。茎がすっと立っていて、黄色の花がいくつもついていました。見ていて、ボオーッとするほどきれいでした。その時、昔は家の周りにもあったものだが、いまはまったくなくなったとお聞きしました。幻の花とあきらめていたのですが、先週、その隣の集落のある方から、「山に咲いていた。近くにはギンランらしきものの姿もあった」と。もうじっとしていられません。
 きょうは野の花に詳しい人からも情報をもらい、めぼしをつけていた山に入りました。車で近くまで行き、ここらへんにありそうだと雑木林に入って1分も経たないうちに明らかにラン科の植物と思われる群落に出会いました。20本くらいはあったでしょう、そのうちの1本に白い花が付いていました。ササバギンランです。われながら、勘の良さにびっくりしました。この花は、来週あたりになればたくさん咲くことでしょう。それから約1時間、雑木林を歩きましたが、黄色の花にはなかなか出会うことができませんでした。最後は再び車に乗って山を変えました。そこで降りて、約5分後、ついにキンランと出会いました。近くには杉林もあり、意外なところに咲いていました。薄暗い林の中で、はずかしそうに黄色く咲いている姿は仏様の様でもありました。
 きょうは何となく気分がすぐれませんでした。市政レポートもなかなか書けず、お昼近くまでかかってしまいました。こうなれば、気分転換に山に入ろう、そう決意して、デジカメを持ち、軍手、長靴姿で動きました。山に入ったことで「しんぶん赤旗」日曜版の配達は半分くらいしかできませんでしたが、キンランと出合ったことで気分は最高です。夕方には発泡酒350㏄を飲み、祝いました。


2007年05月17日

また農業労災死が…

 党上越地区委員会で第4回中央委員会の模様を衛星テレビで視聴しました。中央委員会の生中継を視聴するのは今回が2度目だと思います。20人あまりの仲間と一緒に視ましたが、なにか連帯感みたいなものがあって、いいものです。今回は、先の一斉地方選挙の総括を中央委員会がどうまとめてくるかに関心があり、一時も早く視たいと思っていました。勝敗の分岐点になったのは、宣伝、組織の目標を貫けたかどうかにあったという点はきびしく受けとめなければならないと思いました。今回の中央委員会報告は参院選や来年の市議選の指針となるものです。文書でもしっかり学びたい。
 午後から市役所の木田事務所に出かけ、いくつかの仕事をこなした後、地元の総合事務所に立ち寄りました。そこで所長から思わぬ報告を受けました。T集落で生産組合の作業の中心になって頑張っているOさんが、きょうの午後、田植え機に乗ってほ場から道に上がろうとした時に、誤って機械にはさまれ、亡くなったというのです。まだ50代も半ば、これからも農業生産分野だけでなく、地域活動などでも頑張り続けてほしかった人でしたので、とても残念です。
 総合事務所から出て、Oさんが亡くなった現場を見てきました。すでに機械も片付けられていましたが、乗り入れの所の土がぐしゃぐしゃになっているなど、事故の模様を想像できる状況がまだ残っていました。これまで吉川区内では、農業労働災害における死亡事故は数件あり、耕耘機とともに農道から沢に転落したケースやトラクターに乗ったまま農道から田んぼに落ちたケース、野焼きをしていて火に囲まれてしまったケースなどがありました。すべて現場を見てきていますが、今回のケースは、農作業のベテラン中のベテランの人だっただけに、「なぜ」という思いが残りました。現場は、新聞配達の時に必ず通る道のすぐそば。手を合わせてから、家に戻りました。


2007年05月16日

京都府綾部市議会の皆さんと交流

 政治というのはよその真似事ではできない。自分の住んでいるところにふさわしいやり方を努力して見つけ出していくしかない。きょうの午後、京都府綾部市議会のみなさんと交流しながら、そう思いました。
 高齢化比率が50%を超える限界集落対策を進めるためにどうしたらいいかを考えるうえで、綾部市の「水源の里条例」は全国でも先進的な取り組みとしてとても参考になります。集落の危機的な状況から抜け出すために、定住対策、都市との交流、地域産業の開発、地域の暮らしを守るなど4部門での取り組みを集落、行政が協働して短期間に集中して進めていく。その姿勢、意気込みはすごい。それぞれの部門の対策を集落での取り組み、市の取り組み、府・国の取り組みと分けて具体化している点など、なるほどと思うことがいくつもありました。
 ただ、この条例の制定過程をお聞きした時に、上越市との違いを感じました。同条例は市長の強力なリーダーシップのもとで「水源の里を考える会」が設立され、そこでの調査や検討をもとに策定されていました。この条例を初めて読んだ時に、行政が支援する対象となる集落の条件として、高齢化率が60%を超えていることや市役所から25キロメートル以上離れていることなどが入っているのはどういうことかと疑問を持ったのですが、その疑問も解けました。綾部市の東部にある、水源となっているいくつかの集落を対象にするための規定だったのです。そして、ここでモデル的な取り組みをして市内の他の限界集落にも波及させていく方針だとも伺いました。上越市の場合、こういうやり方ができるかというと、率直に言ってむずかしい。当市では、50数集落というすべての限界集落を対象にしないと問題が出るでしょう。やはり、上越市での対策は上越市で考え出していかないといけないなと感じました。
 きょう、上越市を視察にこられた常任委員会のメンバーの中には日本共産党の堀口達也、搗頭久美子議員の姿もありました。「あなたのHPを見てきました」「資料をおあげしますよ」などとちょっぴりしか話ができませんでしたが、これを機会にぜひ綾部市の議員団とも交流したいものです。「水源の里条例」が全国的に注目される中で、同市は今秋、全国シンポを開催する予定だということです。時間がつくれれば、ぜひ参加したいと思います。


2007年05月15日

酪農仲間と会うと懐かしい

 親戚の葬儀と重なったため出席できなかった柿崎病院後援会理事会の資料を、きょう、事務関係者からもらいました。資料をパラパラとめくり、おやっと思ったのは患者統計の数字です。06年度は前年度に比して入院患者数で3474人、外来患者で7866人も減っていました。いずれも延べ人数ですが、外来が4万人を切ったのは初めてかと思います。こうした減少の背景に何があるのか、調べなければなりません。
 きょうは、懐かしい人に会いました。ひとりは酪農組合の事務をやっていたJA職員のNさん。牛飼いを完全にやめて丁度1年たちましたが、各種事務手続きで終了していないものがひとつあったとかで、書類提出のために訪ねてくださいました。丸い顔と遠慮がちのしゃべり方は前と変わりません。いつ会っても、気持ちのいい人です。もうひとり、懐かしい人と偶然出会いました。酪農家のUさんです。免許証の更新手続きで偶然一緒になりました。こちらはもう5年くらい会っていなかったでしょう、酪農家の動向などについていろいろ教えてもらいました。私の太った体を見て、「だいぶ貫禄ついたねかね」と言われましたが、彼も以前よりは太めに見えました。酪農情勢もきびしいようです。
 妻は昨日の夕方から義父の付き添いでした。付き添い当番は、だいたい3日に1回の割合で順番が来ます。義父は依然として酸素マスクは取り外せませんけれども、体力は徐々に回復してきています。指、胸、口にチューブのついた医療機器をつけていますが、夜間、寝返りなどで体中にチューブが巻きつくことがあるといいます。昨晩は一睡もできなかったと言って、すぐ横になっていました。


2007年05月14日

「塩崎さんちのヨロバタで」

 改憲手続法が参院本会議で自公などの賛成多数で可決成立しました。最低投票率も定めない理由は何かと聞かれても答えられない。国民主権に関わる重要法案でありながら、中央公聴会すら開催しない。審議の様子をテレビや新聞で見ていて、ひどいと思うことが続きましたが、乱暴な議会運営だけが印象に残りました。憲法を変えようという勢力はこれで一気に改憲にもっていきたいところでしょうが、どんな投票率であっても過半数の賛成とならなければ成立させることはできません。これからの世論盛り上げがますます大事になってきました。
 きょうは午前に生活相談や見舞いなど細々とした用事を済ませ、午後からは市役所木田事務所で講演の準備などの仕事を進めました。昨日の天気予報では、きょうは「さわやかに晴れ渡る」ということでしたので、議員控え室の窓から米山、尾神岳方面の空がどうなるかを見ながら仕事をしました。予報どおりになれば、青空をバックに写真を撮っておきたいところがあったからです。残念ながら、もやがなかなか晴れず、天気はいまいちでしたね。
 夜の会議が終わって、発泡酒を飲みながらテレビを見ていたところ、吉川有線放送のケーブルテレビで「ふるさと吉川物語…塩崎さんちのヨロバタで」を観ることができました。囲炉裏を囲んで、なつかしい話を次々と展開してくれたのは、福平の上野實英さんと上川谷の塩崎睦男さんです。上野さんの話し上手には定評があります。テレビでも焼おにぎり、つけ木などについて分かりやすく、しかも親しみやすい語り口で語っておられました。相方を務めた塩崎さん、会っても、いつもひとことふた言しか言葉を交わさないので、失礼な言い方ですが、こんなにも伸び伸びといい感じで話のできる人とは思いませんでした。今度ゆっくり話をしたくなりました。今回の番組は有線放送の歴史のなかでも記録に残るいい番組でした。吉川区住民の生活の記録として永久保存してほしいと思います。


2007年05月13日

台風並みの強風

 すごい風でした。午前の葬儀が終わって出棺の時、忌中札がパタンと倒れ、花輪も揺さぶられっぱなしでした。義父を見舞うため海岸沿いの国道を走りましたが、海も沖合いまで白い波が立っていました。Uさんの葬儀では出棺の前に演歌が流されました。おそらく生前好きだった歌なのでしょう、こういう出棺は初めてでしたが、いいなと思いました。
 「私の好きな風景」に「植え直しを手伝う子ども」「田植えの頃の久保」の2枚を追加しました。いずれもきょう撮ったものです。市政レポート吉川版1194号もアップしました。


2007年05月12日

残された手紙

 朝、早起きして市政レポートを作成しました。通常よりも1日半ほど遅い作成となったのは葬儀があったためです。「しんぶん赤旗」日曜版を昨日から配布する予定だった人には1日待ってもらいました。今週のように、急遽忙しくなる週は一年に何回かありますが、昔は徹夜してもがんばり作成しました。最近は睡魔が強力で、だめです。何があってもいいように早めに作成する習慣をつけないと、毎週発行は継続できなくなるかも知れません。
 先日亡くなった学生時代の友人・風岡さんのお連れ合いから速達が届きました。彼の机の上に私宛の手紙があったという電話が数日前にあり、気になっていました。どんな手紙なのか早く読んでみたいと思っていたところ、親戚の葬儀があってなかなか受け取りに行けないので、郵送してもらったというわけです。緊張しながら封を切って中身を見たら、一昨年の8月に書いたもの。病院に彼を見舞った後のお礼とその後の病状が書かれていました。おそらく、直接、私に渡そうとしていたものだったのでしょう。封筒の表書きには毛筆で橋爪様と大きく書かれていたものの、住所は書かれておりませんでした。速達には彼が義姉に宛てた最後の走り書きメモのコピーも同封されていました。亡くなる前日であっても、自分以外の人のことを心配しているという、彼の人柄が凝縮されていて、胸が熱くなりました。
 トップの尾神岳の写真を入れ替えました。今年は雪が少なかったこともあり、平場も山間部もきょうはずいぶん大勢の人たちが田植え作業をしていました。昔のように人力での田植えでなく、機械田植えですが、それでも田植えは目出度い仕事で、見ていても気持ちがいいですね。


2007年05月11日

葬儀で思わぬ出会い

 きょうは父の母親の実家での葬儀でした。午前中はいまにも雨が降りそうな天気でしたが、出棺の時は雨が一粒でも落ちず助かりました。告別式やお斎の時に、懐かしい人に再会したり、思わぬ人に出会ったりするのはどこでも同じです。中学時代からよく知っている女性とそれこそ30数年ぶりに再会しましたが、お連れ合いは何と父の従弟でした。八王子市に住むHさんは、「おれは党員ではないが、八王子の市議選では全員当選めざしてがんばった」などと共産党との関わりを教えてくれました。うれしいものです。
 当初、県立柿崎病院の理事会に出られるかと思っていたのですが、お斎が終わったのは午後4時半過ぎでした。どんな内容の会議であったのか、あとでしっかり聞いておきたいと思います。今朝、長年、「しんぶん赤旗」日曜版を愛読していただいた方が亡くなったとの知らせが入りました。礼服をクリーニングに出したくても出せない状態が続いています。


2007年05月10日

にいがた自治体研究所が山村集落視察

 にいがた自治体研究所幹部が高齢化が進んで集落機能の維持等が困難となってきている山間地の集落の実態を調査するために吉川区、柿崎区を訪れました。訪れたのは長崎明理事長(元新潟大学学長)など5人。案内役を私と地元の研究所会員が務めました。上越市が昨年度実施した集落調査結果が数日前出たばかりでしたので、データもからめて説明できるという、ちょうどいいタイミングでの調査でした。
 まず最初に入ったのはすでに誰も住んでいなくなった半入沢集落。家屋が崩れ、田が荒れ、ごみ捨て場になっている様子を見た一行はびっくりしていました。山菜採りに入っている人がいるのを見て、参加者のひとりは「もてはやされるのは山菜採りの時だけか」とつぶやいていました。その後、1世帯だけとなった名木山集落、10世帯だけとはいえ農業生産法人を作った石谷集落、JA川谷店、上川谷集落を訪れました。
 上川谷集落では農繁期にもかかわらず懇談会を行わせてもらいました。一番心配なのは何かとの質問に、すぐ返って来た答えは「冬期間、病人がでないかどうかだ」でした。いくら除雪道路といっても夜間降り続けば、除雪しなければ医者に行かれない、急病人が出た時が心配だということでした。調査に訪れた人の中には元新聞社の方もいて、話を引き出すのがとても上手。集落からの懇談会参加者はよく語り、よく笑いました。
 大島区で昼食をとって、午後からは尾神集落、坪野集落、そして柿崎区に入り、旭平集落、東横山集落、そして再び吉川区に入り、後生寺集落を視察しました。駆け足でしたが、「来てよかった。集落ごとに実態も雰囲気も違っているのがよくわかった」などの感想が寄せられました。(写真は柿崎区の旭平。家はあるが農作業をするために残してあるだけで、ふだんは誰一人住んでいない集落)
 「私の好きな風景」に3枚の写真を掲載しました。また、「春よ来い」第78回「靴」もアップしました。ご笑覧ください。


2007年05月09日

串餅づくりが話題に

 うれしいことがあったり、かなしいことがあったり。人生はまさにいろいろなことがあります。夜、柏崎市内の病院で付き添いをしている妻から電話がありました。一昨日、自呼吸を再開した義父が順調に回復し、おかゆを食べるまでになったというのです。会話も少しはできるようになったとも。妻の「順調だわ」の声にもうれしさがにじんでいました。肺の機能は元通りにならないにしても、ここまで回復するとは夢のようです。よかった、よかった。
 きょうは早朝に「しんぶん赤旗」日刊紙を配達した後、午前7時から葬儀の準備の仕事を中心に動きました。市役所総合事務所で届けごと、初七日の後のお斎の会場となる割烹との打ち合わせで家の近くまできたので、10分間くらい時間をとって伊勢崎市からやってきた従兄たちとも会うことができました。葬儀のある尾神の親戚では、尾神岳から湧き出る水を生活用水に使っています。そのためだけではないでしょうが、炊いたご飯をとてもおいしくいただきました。山菜もたくさんあって、きょうは、焼きたての竹の子(細い山竹)をいただきました。こちらもうまかったです。
 亡くなったHさんは1年に1回、いろりに火を入れ、ここで串餅をつくりました。正月の2日です。その串餅づくりの思い出を持つ人たちがいろりのそばでHさんのことを語り合いました。その時、Sさんが、「あら、こんがなところに『渡し』があるわ」と言って、見上げると、いろりの上や近くの壁に、みんなの目が集中しました。餅を焼く「渡し」など昔懐かしいものがいくつもあったからです。私も一度だけ、串餅をご馳走してもらったことがあります。くるみ入りの味噌をぬって差し出された餅の味はいまでも憶えています。(写真の左の鉄製のものが「渡し」)


2007年05月08日

今度は尾神で葬儀

 夜9時少し前に長野市議会議員との交流会を終えて帰ってきました。マイクロバスに乗っていたためか、大分疲れました。家に帰って留守電を見ると、パカパカしています。父の母親の実家のお母さんであるHさんが亡くなったと言う知らせが入っていました。Hさんは、『春よ来い』の「串餅」に登場したお母さんで、とてもやさしいい人でした。明日から11日(金)まで大忙しとなりそうです。


2007年05月07日

義父、自呼吸再開

 1日に緊急入院した義父、これまでずっと人工呼吸器をつけていましたが、自らの力で呼吸ができるようになる限界がそろりとくるという情報でした。連休明けのきょう午後2時半過ぎ、私の妻や義兄が見守る中、人工呼吸器を外してみたところ、再び自呼吸を始めたそうです。酸素マスクをつけての呼吸とはいえ、このまま人工呼吸器を付けたままになるかどうかの瀬戸際のところでの自呼吸再開にみんな大喜びでした。妻によると、義父がマスクをつけたまま、何かをしゃべったそうです。当分の間は感染症対策もあって面会謝絶ですが、うれしいニュースでした。
 きょうは午前中、吉川区内で動き、午後からは春日山城の北西部約2キロに位置する産廃最終処分場候補地の視察でした。市役所の生活環境課職員から先導してもらい、市民クラブの7議員、共産党議員団全員、それに社民党の小山芳元県議が参加しました。春日山城の第2駐車場から古道・桑取道(くわどりみち)を片道約1時間歩き、候補地を望めるところまで行ってきましたが、「たいへんな山の中」というのが第一印象です。まず道をつくり、産廃処理施設をつくるという流れでしょうが、地元のみなさんはどういう思いで受けとめられるのかなと思いました。桑取道はかつて軍道だったところ、殆んどは海抜150~250メートルくらいの山の尾根です。チゴユリ、イワカガミ、トキワイカリソウなどが咲いていて、ウド、タラの芽、ノノバなどの山菜もありました。とてもいい道でしたね。それにしても疲れました。
 夜9時過ぎ、愛知県に住む弟が軽乗用車でやってきました。先日、父の体調が悪化して、ご飯を食べなくなるといったことがありました。たまたま、その日に電話をかけてきた弟がそれを聞いて心配したのでしょう。遅い時間の夕食をみんなでとりましたが、父は弟に向かい、「おまん、小さい時とそっくりだ」という言葉を繰り返していました。父は私たち一人ひとりの顔を見ては、飯台の上に並べられた食べ物に手を出していました。父にとっては最高にいい日だったに違いありません。
 市政レポート吉川版1193号をアップしました。開くまで時間がかかりますが、ごらんください。


2007年05月06日

2つの酒席に参加

 最初の酒席ではウーロン茶を飲み、2つ目ではビールを飲む。そうすれば、1日に酒の席が2つあっても大丈夫と思っていたのですが、やはり思い通りにはいきませんでした。法事が終わってからのお斎の時、右隣に座ったのは、青年団時代に一緒に活動したTさん、左隣は現在住んでいる町内会でほぼ同じ年代の人です。上山田温泉へ行った時などの思い出話に花が咲き、「まあ、ちょっとやればいいこて」と言われ、ビールをいただいてしまいました。
 夕方からは長岡市議になったばかりの細井良雄さんの後援会の人たちとの交流会でした。細井さんとは30数年前からの付き合いです。かざらない人柄と理論的な話の展開のうまさにはいつも感心しています。今回、「懸命に生きる人たちを支え、励ます」をキャッチフレーズにして、合併後の複雑な選挙戦を勝ち抜きました。細井さんのところは大選挙区ではありますが、合併前の町で過半数をとらないと勝てない点では、定数1である私のところと同じです。今回の交流会では、日常活動の仕方や選挙戦そのものの戦い方などでたくさん学ぶことができました。この交流会が契機になって、吉川も変わると直感しました。
 さて、今回の交流会には長岡市小国町からの10数人に加え、日本共産党新潟県委員会常任委員の川俣幸雄さんも参加してくれました。交流会での的を得た発言も勉強になりましたが、何といってもこの人は懇親会を盛り上げる名手です。この人が選挙戦でのドラマなどについてしゃべる度に爆笑、また爆笑。ビデオに撮って公開すれば、「共産党って、こんな楽しいこともやっているのか」と話題になるだろうな、などと言いながら、楽しいひと時を過ごしました。


2007年05月05日

94歳の女性とデート

 会うと会話がはずみ、あっと言う間に10分、20分と経ってしまうおばあさんがいます。Uさん、94歳です。ところが、このところ会うことがなく、どうされているのかと心配していたら、老人保健施設で暮らしておられることが昨日、わかりました。さっそく、きょう、その施設にUさんを訪ねてきました。ベッドの上には老人会の文集と私の本が置いてあり、読書の最中でした。相部屋でしたので、長くはいられませんでしたが、久々に話ができました。
 人間て、つまらんねぇ。必死で生きてきても、最後は「いらんもんにされちゃう」んだから。誰だって、こういうところにゃ、入りたくないよ。でも入らないと家の者が困るんだわ。仕方ないこて……。いつものように、なんでも思ったとおりにズバズバ語ります。戦前、戦中、戦後と生きた人ならではの苦労話から始まって最近の政治の話まで、たくさん聞いてきました。施設の中では知っている人はあまりないらしく、きょうはどんどんしゃべり続けておられました。時間が取れたら、また訪ねたいと思います。
 今週の「しんぶん赤旗」日曜版は先週号との合併号です。配達がなくて楽なのですが、いつも一緒におり込む市政レポートの作成まで休むと、来週のレポート作りがとても苦痛に感じます。それで今回は、休まないことにしました。表面だけでなく、裏面も書きましたので、4時間ほどかかりました。出来上がったものはPDFファイルにして来週前半に掲載します。
 明日は大島区で一泊します。したがって、明日の分の日記は明後日の午前に書き込むことになりますので、ご心配なく。


2007年05月04日

春の味満喫

 近くに山菜が豊富に採れる山がありながら、なかなか出かけられないのが今年の連休です。でも、きょう、やっと実現できました。午後から約2時間半、友人などと4人で山に出かけ、ウド、ワラビ、サンショウ(山椒)などをとってきました。ウドはもうほとんど終わりです。ただ、1ヶ所だけ、川のそばの沢に残雪があり、そこで数本、いいウドを掘り出しました。まさに掘り出し物です。きょう、一緒に出かけた人のうち、2人は初めて山菜採りに出かけたようで、どれがウドか判別できなかったのですが、次第に慣れ、ワラビについては目にしっかり焼きついたのでしょう、もう夢中でしたね。
 きょう、私が最も関心があった山菜はサンショウです。じつは1日の夜、遊びに行っていたNさんの家で、コンニャクとサンショウの葉を和えたものが出され、その絶妙な味に酔ってしまいました。また、きょう、宅急便で届いたばかりの増山均さんの『かならず実る 子育てのひ・み・つ』(かもがわ出版)にも、竹の子をゆで、サンショウの芽を摘んですり鉢で白味噌と和えたものをつけて食べた話が載っていました。夕食では、妻がウドやワラビの料理に加え、サンショウをゆで、すり鉢ですったものをゆでたレンコンと和え、出してくれました。レンコンは昨日、山間部で市政レポートを配布していた時に、上野公悦さんの親戚の人から掘り出してもらったもの、これまたサンショウとぴたりでした。


2007年05月03日

憲法記念日に

 日本国憲法が満60歳の誕生日を迎えました。こう書くと、私といくつもかわらないことに気がつきます。ずっと一緒に生きてきて一番うれしかったことは何ですかと問われれば、「戦争がなかったこと、平和の時代に生きてきたこと」と答えるでしょう。先の侵略戦争についての反省から、世界に対して、「二度と戦争はしません」と発信し続けた意義は大きいものがあります。この憲法が私と違うのは加齢とともに、体力が落ちたり、物忘れをしやすくなったりしないことです。それどころか、ますます輝きを増している、そう思います。義父は依然としてきびしい状況が続いていますが、憲法記念日にじっとしているわけにはいきません。2時間ほど吉川区内を回り、憲法改悪反対、世界に誇れる9条を守ろうと訴えました。
 いま、吉川区内は代かきの真っ最中です。宣伝カーを走らせていると、私が乗っていることを確認するやいなや手を大きくふってくれる人が何人もいました。うれしいですね。なかにはそばまで駆け寄ってきて、「おれも9条改悪には絶対反対だ」と声をかけてくれる人もありました。大型連休だからこそ会える人もいます。帰省中の人です。老後を東京都に移り住んで過ごしている人、山梨県で医療関係の仕事をしながらがんばっている人、なつかしい顔を見て元気が出ました。
 夜は連休中にやっておきたい仕事の1つ、HPの「私の好きな風景」「野の花」のページの写真修復作業を完了しました。これからは、どんどん写真も使っていきたいと思います。私のHPの弱点であった容量不足も基本的に解決したことから、これまでなかなかやれなかった市政レポート吉川版も掲載できるようになりました。これで、吉川区内の動き、私の活動をこれまで以上に知っていただくことができます。まず手始めに、4月29日発行の市政レポート1292号を掲載しました。写真を貼り付けてある関係で立ち上がるまで時間がかかりますが、ごらんください。また、一般質問も昨年の12月議会までのものを掲載しました。


2007年05月02日

連休にやっておきたい仕事

 あわただしい連休になっていますが、この休みにやっておこうと決めておいたことがいくつかあります。その1つは私のHPにおける写真の整理です。じつは先日、「小さな町の幸せ通信」にもっと写真を掲載できるようにしようとして、うっかり削除してはならない写真を大量に削ってしまいました。この結果、「私の好きな風景」写真の大半、「野の花」の3割ほど見られなくなってしまったのです。バックアップをとってあったところはいいのですが、そうでないところがあって、きょうはその修復作業をしました。作業は半分ほど進み、やっと先が見えてきました。
 義父はきょうも重篤状態が続いています。それでも、半日に1回くらいは目が覚めるらしく、義母が「腰痛くないか」と呼びかけたら、指を動かして反応したということでした。また、妻も午後からベッドのソバにいたのですが、義父が妻を確認でき、手で何かを書こうとしていたそうです。レントゲン写真では、肺はほとんど白くなっていて、心臓もいつストップしてもおかしくない状態だといいます。何とか回復して、一度だけでもいいから、子どもや孫たちと会話ができるようになってほしいと思います。妻は明日も明後日も付き添うと言っていました。


2007年05月01日

柏崎の義父重体に

 夜9時半頃、Nさんのところへ遊びに行っていた私の携帯電話が鳴りました。妻の父親が重体に陥ったという知らせです。直ちに家に戻り、柏崎市内の病院へと向かいました。義父は人口呼吸器というのでしょうか、自己呼吸ができなくて機械で呼吸している状態でした。持病の間質性肺炎だけでなく、心不全を起こしている可能性もあるといいます。医療機器に囲まれ、呼吸の音だけがハッキリと聞こえる病室で、義兄から病状を説明してもらいましたが、これほど急展開するとはびっくりしました。
 じつは昨日、義父の家を訪れた時、同じコタツのなかで昼寝をさせてもらった際、いままでとは違うなと感じていたのです。呼吸が荒く、しょっちゅう咳き込んでいました。体の移動もままならず、台所、トイレ、寝室を行き来するのがやっとだとも義母から聞いていました。間質性肺炎は加齢とともに肺の機能が落ちていくといいます。きょうでなくとも、いつかはこういう事態がやってきたのでしょうが、それにしても早すぎです。
 きょうは午前から市役所の木田事務所へ行き、たまっている仕事をひとつひとつやりました。午後からはメーデー上越集会に参加しました。こじんまりした集会ではありましたが、国公共闘の若い労働者たちが何人も参加してくれていて、集会やデモを盛り上げてくれました。つやのある若い人たちの声を聞くだけで、元気が出てきます。デモは強風のなかで行われました。帽子が飛び、ビラが舞い上がり、旗がバタバタ音をたてる。旗持ちの人たちはたいへんだったと思います。ご苦労さんでした。


2007年05月投稿分

2007年05月に投稿された全てです。

前:2007年04月
次:2007年06月

過去の投稿

小さな町の幸せ通信