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2004年11月投稿分

2004年11月30日

生きがい教室が無くなる?

 このところ町民のみなさんから要求が次々と寄せられています。「夜、団地内を安心して歩けない。街灯を増設してもらいたい」「集落内の子どもの遊び場の遊具が腐食してきている。なんとかして」など、いずれも身近な要求ばかりです。きょうから、こうした要求についての調査を始めました。確認でき次第、解決に向けて関係機関に働きかけていきます。
 こうしたもののうち、何人もの人から寄せられているのは、お年寄りの生きがい教室についての注文です。私たちの町内では、介護予防拠点施設である「福寿荘」を舞台に竹細工、炭焼き、庭園、食品加工など14ほどの教室が開かれていて、お年寄りたちが正に生き生きと学んでいます。ところが、合併によって、団体補助金については数年を限度とするという上越市のやり方に変わることなどから、これまでのようなスタイルでの生きがい教室の継続が難しくなる、困ったという訴えでした。
 担当課では、「今年の12月で、吉川町高齢者生きがい教室の事業は無くなるが、各教室は現在も自主運営で活動をしており、補助金が無くなることをのぞけば、活動の場が無くなるわけではないので、施設の目的からも今以上に利用
してほしい」とのべ、一定の提案を級長会議などで示していますが、今後のあり方については十分話し合って方向を出してほしいものです。
 夕方、頸城村議の上野さんとともに新井市へ。前市議だった霜鳥さんのお父さんが亡くなったので、お悔やみに出かけてきました。霜鳥さんのところまでは車で片道40分ほどかかりますので、途中、市議選や12月議会についての情報交換をたっぷりとできました。頸北町村での市議選はどこも激戦模様になってきました。予定候補者は来月中旬までには出揃うかもしれません。


2004年11月29日

臨時議会

 朝早くから有線電話が鳴りました。ある集落の70代の男性からでした。いま右手の具合が悪いので、左手でアンケートを書いた。読みにくいだろうが勘弁してほしい。そういった趣旨の電話でした。2年前の選挙でも、手が不自由だから、直接、家に来て記入してほしいという人がいましたが、こういう風にしてまでアンケートを真剣に受け止めてくださる町民がいるというのは、とてもうれしいですね。
 きょうは臨時議会がありました。ほとんどが合併関連の議案です。12月31日をもって一部事務組合を解散するとか、脱退するなどといったものがいくつも並びました。議案の中で議論が集中したのは、国保特別会計補正予算の専決処分でした。マラソンランナーの谷川真理さんを呼んで取り組んだランニング教室、健康づくり講演が取り上げられました。参加者はどちらも百数十人、三桁にもなる高い講演料を払ってまでやる必要があったのかとの疑問の声もあがりました。
 驚いたのは、議会終了後、議長が突如、お礼の挨拶を述べたことです。「高いところからではありますが、長い間、お世話になりました……」と言いはじめたのです。町政会代表の議員が、「議長、12月議会もありますよ」という声を出したにもかかわらず、続いた議長の挨拶、単なる勘違いだったのか、それとも何か意味があったのか。


2004年11月28日

閉町記念式典

 アトラクションの途中から涙が流れて止まりませんでした。閉町記念式典でのことです。1955年(昭和30年)3月31日にスタートしてからもう少しで50周年を迎えるふるさと吉川町。この町が合併することになって、新たな出発の準備をしていく一つの区切りがきょうの式典でした。
 合併が決まってから4ヶ月。もう悲しんでばかりいてはいけない。さみしい、さみしいと言うのはよそう。どんなに大きな自治体になろうと、自分のふるさとはここにある。ふるさとを足場に視野を広げて、一緒になる他の自治体住民とも手を携えて新しいまちづくりをしていこう。気持ちをそのように切り換えつつあったのですが、大塚文雄さんの民謡がふるさとを想う心を揺さぶりました。
 合併まで、あと1ヶ月ちょっと。臨時議会があって、12月議会が終われば、すぐに年末です。年賀状の差出人住所を「上越市吉川区」と書くことで、さらに気持ちの切り換えが進むでしょう。その後は選挙戦に向けてまっしぐらです。ふるさとへの思いを大事にして、よそのいいところもちゃんと学んで新しいまちづくりに励みたい。涙を流しながらも、さらにその気持ちが強まった一日でした。
 上越タイムスに妻の俳句が載りました。私のホームページの「私の好きな風景」に掲載している「敬徳寺のイチョウ」と同じ木を見て作った句だというので、彼女の句をそこに載せました。たまには妻にサービスをしないとね。「春よ来い」の第37回目は、「旅先で歩く」です。ご覧ください。


2004年11月27日

パネルシアター夢風船

 きょうは朝から夕方まで、ずっと「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金でした。「アンケート出しておいたよ」「地震の義援金持って行って」「選挙、どうなりそうだね」などたくさんの人から声をかけてもらいました。なかには「こんなことしていていいのかね」と選挙活動に専念するよう求める人もありました。でも、私にとっては、「しんぶん赤旗」の読者の人たちが一番の味方。党や私のことをよく知っていてくれる大事な人たちなのです。だから、この活動を最優先しています。
 さて、きょうはとても楽しいものを見てきました。町内の保育士などのみなさんのグループ・「夢風船」によるパネルシアターです。パネルシアターは、毛羽立ちの良い布(ネル)を貼った板に、絵や人形を切り取ったものを貼ったりはずしたりしながら、お話や歌を展開するものです。まさに動く紙芝居です。八百屋で売っているものと売っていないものの分別をみんなで楽しくやる「やおやのみせ」、いろんな動物たちが登場し、それぞれのくしゃみを歌にした「コンコンクシャン」など、子どもたちやお母さんたちと一体になった舞台は、ものすごく盛り上がりました。
 「これは最高だ」と思ったのは、会場を暗くして、黒い布を貼った舞台でやるブラックパネルシアター。蛍光のポスターカラーなどで色を塗ってあるのでしょう、絵人形は、くっきりと浮かんで、とても幻想的で美しい。私のように初めて観た者は、これだけでまいってしまいます。「北風小僧の寒太郎」や「あわてんぼうのサンタクロース」などのリズム感あふれる展開、そして大人でもジンとくる「マッチ売りの少女」のお話は子どもたちの心をとらえていました。
 パネルシアターは予想した通り、読み聞かせや劇と違った魅力がありますね。絵人形の表と裏を使う、首と胴体を糸でとめる、窓を開くと別の絵が見える、などのテクニックは効果的で動きを感じます。そして、演じている人と観ている人との間に生まれる親近感や一体感がこれほど大きなものだとは思いませんでした。「パンパン、当たり。パンパン、ブウー」。やり取りや一緒に歌うことは楽しいものですが、声を出したり、体を動かして喜ぶ子どもたちの姿が印象的でした。
「夢風船」は結成してから8年目。感動的なお話や歌を見聞きした子どもたちは、これからどんな夢を膨らませていくのでしょうか。


2004年11月26日

住民アンケートがじわり浸透

 ハクチョウはやはりいました。朝7時ころに場場谷池へ行った時にはいなかったのですが、9時ころ、池の中央部にいるのを見つけました。私のカメラでは、大きく撮るのは無理です。いたことを証明するだけの写真となりました。ごらんください。それにしてもハクチョウさん、エサでも食べに行っていたのでしょうか。
 きょうは午前中は町政レポート作成、午後からは「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金でした。アンケート用紙の配布が終了した地域では、「いただきましたよ。がんばってください」などと声をかけられました。住民アンケートがじわりと浸透してきているのを感じます。どんな意見が帰ってくるのか、楽しみになってきました。
 夕方、妻が大島村の内山愛治さん宅から連絡があったというので、何かと思ったら、小田順子さんの朗読会に参加した松代町のSさんが自分の町でも開催したいそうだという話でした。その人は、私の本を読んでいてくれ、小田さんの朗読テープも持っているとのこと。松代町でのこの朗読会が実現すると、同町では二度目となります。


2004年11月25日

農業委員、退職へ

 オオハクチョウはどこへ行っているのか、きょうも姿を見ることはできませんでした。池の近くの人の話によると、飛来したのは一羽だけで、朝晩は姿を確認できるが、日中はよそへ行っているらしいとのことでした。というわけで、ハクチョウの写真はいま少しお待ちを。
 きょうは農業委員会の定例会でした。先にお伝えしたように農業委員会も来年1月1日の合併にともない、1つになります。町農業委員は現在18人ですが、このうち選挙委員は13名。このなかから来年4月28日まで引き続き新市の委員をやる5人を今月末までに選ぶことになっていました。きょうはこの5人を選出しました。選ばれた委員は小野寺定雄(現会長)、大滝政一、井部亮一、佐藤正雪、曽根一志の各氏。選出に当たっては地域性を考慮し、決められました。
 さて私ですが、農業委員については来月の任期切れをもって退職することにしました。1977年(昭和52年)からこれまで27年間お世話になってきたのですが、田んぼも止め、牛の方も現在3頭しか飼っていない状況のなかで、支部の仲間たちと相談した結果、選挙委員としては出ないことになったのです。農業委員の仲間からは、「せめて来年の4月までやってもらえないか」との声もいただきました。でも、引退すべき時はさっと引退する。これが大事だと考え決断した次第です。
 私の農業委員活動は自らの農業体験を土台にしてやってきました。山間地酪農への挑戦、そして平場へ移転してからは水田酪農の実践へと変わりました。トウモロコシやソルゴーの栽培とサイロづくり、毎年天気に左右されたワラ集め、振り返ってみると、よくやってきたと思います。こうしたきびしい労働をするなかで、農業委員の活動もやってきました。退職は少しさみしい感じがします。でも農業委員を辞めても、農地、年金などの相談は受け付けますので、どうぞ遠慮なく声をかけていただきたいと思います。


2004年11月24日

モミジの紅葉

 朝一番に場場谷地へ行ったのに、肝心のオオハクチョウがいません。昨日、見たのは一羽だけでしたので、ちょっと休んだだけなのではないかと心配になりました。もっとも、私が行った時は、たまたま餌を探しにどこかへ飛んでいっていたのかもしれません。明日、もう一度、探してみたいと思います。
 きょうも一日中、町政レポート号外と住民アンケート用紙の配布でした。山間部が中心でしたので、ずいぶん時間がかかります。山間部は私が生まれたところ、知っている人ばかりです。合併や選挙の話よりも、「じいちゃん、元気かね」「かあちゃん、どうしてなるね」と声をかけてくる人がたくさんいました。モミジの紅葉は終わったものと思っていたら、ハッとするほど美しいものに出会いました。
 山間部でもまったく面識のない人たちがいます。坪野集落のログハウスに住む人たちです。この人たちの殆んどは定年退職後にこちらへやってきました。先日の地震発生時には、500メートルほど離れたところに一人で住むSさんのことが心配になり、数人でSさん宅まで行って、「大丈夫でしたか」と声をかけたといいます。都会から来た人たちがこういう温かい心を持っているというのはうれしいですね。
 


2004年11月23日

オオハクチョウ飛来

 ここのところ、ぐずついた天気の日が多かったのですが、きょうは素晴らしい青空が広がりました。町内では、庭木の囲いをしたり、落ち葉掃除をしたりしている人の姿が目立ちました。夕方、町の中心部にある場場谷地でオオハクチョウを一羽確認しました。池の近くの人も初めて見たということですから、きょう、飛来したのでしょう。明日はデジカメで撮影したいと思います。
 きょうは朝から一日中、町政レポート号外と住民アンケート用紙の配布でした。町内の中でも最も配りやすい地域での配布でしたので、配布数も大きくなるはずと思ったのですが、対話が弾み、なかなか進みませんでした。話をする相手はほとんどがお年寄りです。そのなかには、勉強家で、いまの経済政策の誤りを教えてくれる人がいました。また、パソコンの操作がうまくいかないので教えてほしいと頼まれるケースも。この人は年賀状を作成中でした。
 ひとつうれしいことを耳にしました。県内には地震で被災した人たちのところへ本を贈る活動をしているグループがあるそうですが、そのメンバーの一人が、贈る本の1冊として私の『幸せめっけた』を選んでくれたというのです。「なんでまたオレの本を…」とお聞きしたら、「ふるさとへの思いが書いてあるので、きっと喜んでもらえるはず」とのことでした。そういえば、同じ理由で、三宅島の佐々木美代子さんに何冊も買っていただいたことを思い出しました。


2004年11月22日

合併関連議案202本

 上越地域14市町村の合併方式は編入合併です。来年1月1日の合併を前に上越市議会では、13町村を受け入れるために整備を要する条例が定例議会で審議されることになっています。その数、なんと202本。きょうは、午前中に上越市議会の日本共産党議員団と会い、吉川町に関係する部分の説明をし、合併協議での合意と齟齬がないかなどのチェックをしてきました。感心したのは議案説明資料です。合併前と比較ができるようにじつによく整理されていました。
 午後からは町内に戻り、町政レポート号外と住民アンケート用紙の配布をしました。合併まであと40日となっているので、一軒一軒まわると、合併に係わる質問をしてくる人が何人もいます。「印鑑登録は変わるのか」「年賀状を出す時の郵便番号は変わらないのか」「年金をもらっていいるけれど、住所変更の届出は必要あるのか」などの質問に答えてきましたが、こうした身近な疑問に答える説明文書があってもいいな、と感じました。


2004年11月21日

「きて・みて・ホームページ」

 朝起きてすぐ、思い出したことがあります。『議会と自治体』(党発行の地方自治専門誌)の最新号に自分が書いたHPについての原稿が載っているはず。どうなったかな……。最新号はすでに「しんぶん赤旗」日曜版と共に大潟町に到着しているを知っていたので、急に見てみたくなりました。それで、朝一番に大潟町へ。まだ、梱包されたままの状態でしたので、吉川町の読者分だけ引き抜いて、軽トラの中で読みました。
 私が書いた原稿は「きて・みて・ホームページ」というHP紹介欄のものです。ひと月ほど前に、『議会と自治体』編集部の山根さんから原稿依頼があり、今月初旬に原稿を送信しました。その後、初校ゲラを送ってもらい、加筆もしたので、どういう最終原稿になるのかまで分かっていたのですが、それでも出来上がりが気になるものです。アドレスは直っているだろうか、おかしな文章表現はなかっただろうか、と改めて確認しました。
 これまでも『明日の農村』『地方自治職員研修』などで一回ものや連載ものを書いたことがあります。執筆した者の心理というのは、面白いものです。校正後の文章がどうなったか、印刷され冊子の一部になった時に、自分の文章はどんな感じになるか、気になって何回も読み返すのです。今回の私の紹介文は、私のHPをめぐっての最近のエピソードが中心で、中越地震に関する発信とその反響について書きました。私のHPの特徴やセールスポイントが殆んど書いてないので、これで良かったのかなという心配も少しあります。さて、読者からの反応があるかどうか。
 きょうは一日中、地区党会議(地区の党大会)でした。中越地震被災者支援活動でみせた障害者支部の頑張り、糸魚川西支部の支部長さんのユーモアたっぷりの発言、頸城支部の上野議員のお連れ合いの心のこもった訴えなど印象に残るものがいくつもありました。「がんばらなきゃ」という気持ちになりました。


2004年11月20日

残り花

 どんなに忙しくても気になるものは気になるものです。きょうは、午前から夕方まで「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしていました。暗くなるまでに全部終わらないことも想定し、いつもとは違った順番で町内を回ったのですが、忙しく回っているにもかかわらず、野の花が目にとまりました。その花はアキノキリンソウです。いうまでもなく時期はずれ。ところがきょう見かけた花は、いまが盛りといってもよいほど、黄色の花をしっかりとつけていました。まわりの草が枯れてきているというのに、この花だけ咲いている。とても愛しく感じました。
 きょうは、私が配達してくるのを待っていてくださる方が何人もおられました。みんな、中越地震被災者支援募金を私に渡すためです。「気の毒ですね。お願いしますね」。こういう言葉をかけてくださる方が多いのですが、何らかの形で被災者に自分の思いを届けたい、そう思っておられるのでしょう。別ルートで渡したことをわざわざ伝えてくださる方もあります。Tさんは、中越のある町に大事な親戚があって、家屋に大きな被害が出たと教えてくださいました。すでに、お見舞いにも行き、瓦が全部落ちたとか、家の戸がこわれていたなどと詳しく説明してくださいました。
 「春よ来い」の36回目、「川谷出張所」を掲載しました。一昨日、川谷地区へビラ配布に行ったときのことをベースにして文章を書きました。ごらんください。


2004年11月19日

まだ詰めなきゃならないことがある

 頸北最寄農業委員会長、会長職務代理、事務局長連絡協議会が柿崎町にて開催されました。本来なら2月に開催されるのですが、来年1月1日に上越地域14市町村が合併するため、繰り上げられたものです。この協議会も今回が事実上最後となります。
 会議の中では、新市農業委員会の農業委員協力員の業務内容や集落の誰にお願いするかなどをめぐり、活発な意見交換が行われました。「条例で定めないと協力員の仕事は法的裏づけがもらえない」「これまで耕作台帳の確認、農業委員選挙人の申請などは事務連絡員を通じてやってきた。農家区長にお願いしにくい」などの発言は、8日の上越地域14市町村農業委員会長・事務局長会議での合意事項についてもっと深める必要があることを示しています。
 新市農業委員会の事務局体制についても率直な意見交換がされました。上越市に編入されるので、各総合事務所(支所)内に駐在室が設置され、職員は併任ということが事実上決まっていますが、このことについて何人もの人から批判の声がありました。「駐在室設置はいいにしても、係員は産業建設グループの仕事と併任というのはいかがなものか」「上越市の人事課職員は農業委員会が行政委員会であることをよく理解していないのではないか」などといった声です。
 会議が終わってから懇親会が行われました。この中では、各町村の誰が新市の農業委員になるのか(現在の選挙委員の中から今月中に互選することになっている)が一番の話題でした。また、事務局サイドから、これまでの上越市農業委員会の現地確認方法、選挙人名簿の審査などについて興味深い情報を聞いていたので、「大きくなるとおおざらっぱになりやすい」「厳格さが失われないか」などといった心配の声も出ていました。


2004年11月18日

旧東竹沢小学校の写真

 日本共産党吉川支部で中越地震被災者の救援募金の訴えを出した直後は、反応がいまひとつでしたが、ここへきて、何人もの方が「家に取りに来てくれないか」などといった電話をかけてきてくださったり、直接届けてくださったりで、支部の仲間たちも喜んでいます。昨日も私の留守中にHさんから電話があったというので、午前はまず、Hさん宅を訪ねてきました。
 訪ねると、開口一番に「きょうの新聞、見なったかね」。「はい、見ましたが……」と言うと、Hさんが取り出したのは、今朝の新潟日報です。その一面には、すぐそばの大地が大きく崩れ、危険状態になっている山古志村の旧東竹沢小学校の写真が掲載されていました。「高台にあるので心配ないと思っていたがに、これだねかね……」。いかにも悲しげな様子のHさん、実は東竹沢小学校の初代校長だったのです。
 家に戻ってから、同校の開校15周年記念誌に寄せた元校長さんの文を読ませていただき、胸がいっぱいになりました。同校は3つの学校が統合してできた小学校で、開校式のことが書かれています。4月だというのに、残雪は約2メートルもありました。57人の子どもを代表して、ある児童が喜びの言葉をのべています。「友だちが、たくさんできて嬉しい。これからはポートボールも、ちゃんと5人ずつで、できます」。続いて、元校長さんは、「『あかつきの やまなみ清く 新しい光 生まれる われら光の子…』。他に類のない新しい校歌の歌声がこの校舎から流れるようになったのも、この日からである」と書いておられました。
 この文で初めて知ったことがあります。地震でダム湖と化した東竹沢地区は、1978年(昭和53年)の6月26日の梅雨前線豪雨でも大被害にあっていたという事実です。この時の雨でも、道路は崩壊、田畑・養鯉池が流没していました。校区の人々は呆然とたたずんでいたとありましたが、当然でしょう。それにしても、今回の地震で2度目の大災害となりました。自然災害とはいえ、あまりにもひどすぎます。
 さて、この東竹沢小学校も過疎化、少子化の波には勝てず、23年という短い月日を経て閉校に追い込まれて行きました。でも、そこで学んだ児童は言うに及ばず、地域の人、学校の先生たちにとっては忘れることのできない大切な学校です。これまでも、そして、これからも、それぞれの心の中で生き続けていくのだと思います。Hさんは、同校の閉校記念誌でも書いておられます。「山古志村の太陽は、村の東方の地、東竹沢の空から、必ず昇るでありましょう」。


2004年11月17日

農業委員会の最後の研修旅行

 昨日ときょうは町農業委員会の最後の研修旅行でした。中越地震の関係もあって、これまで延期していたものです。視察先は長野県小布施町と大町市。
 小布施町は何回も訪れている町ですが、視察先として選んだのは今回が初めてです。面積は20平方キロメートル以下という小さな町ながら人口は1万人を超え、まちづくりや文化活動が活発な町です。今回は6次産業センターの取り組みについて学んできました。この町は合併の選択をしないで〝自立〟を選択していることで有名ですが、農業分野でも先進的な取り組みをしていることを知ってさすがだなと思いました。農業生産物を加工し、観光などとリンクさせて販売していく。この重要性が分かっていてもなかなかうまくいかないのが現実、それを確実にやっているのには感心しました。説明役の小林さんや「おやき」を作っている女性のみなさんの生き生きした表情もとても良かったです。
 視察事項に入っていなかったものの、6次産業センターのすぐそばにある「フローラルガーデンおぶせ」も気に入りました。小布施というと、北斎と栗を思い浮かべる人が多いと思いますが、「花によるまちづくり」を掲げてスケールの大きい取り組みをしている姿を見て、この町は近い将来、「花」でも有名になって交流人口を爆発的に増加させていくに違いないと思いました。私はどちらかというと「野の花」の方が「園芸種」より好きなんですが、あふれんばかりの美しい花たち(そのほとんどは園芸種)の中にいたら、そこにじっとしていたくなりました。
 大町では農産物直売所「かたくり」を訪ねました。直売所友の会の遠藤会長さんからていねいに説明をしていただきました。私の町でもすぐれた直売所がありますが、よその直売所を視察することもいいものです。自動車のコンテナを利用してつくった直売所「かたくり」を見て、施設にできるだけお金をかけない、農家の女性みなさんから大いに力を発揮してもらう大切さを改めて感じました。野菜の値段は、わが町の直売所の方が安かったですね。ここでは「氷もち」と「ミニトマト」を買ってきました。
 研修とは別の話ですが、2日間の旅行でうれしかったことがいくつもありました。その1つは晩秋の美しい信濃を見ることができたことです。運良く、晴天に恵まれたこともあって、信州の山々はじつにきれいでした。直売所「かたくり」から見えた餓鬼岳、美ヶ原温泉からの乗鞍岳、常念岳、帰りのバスで堪能した白馬三山、いずれも高いところは雪がかぶっていて真っ白、見事でした。日常生活の中でこれらの山々を見ている人たちがうらやましい。写真は北アルプスをバックに大王わさび農場駐車場で撮ったものです。


2004年11月15日

一日中、市議選の準備

 きょうは一日中、市議選の準備でした。私が作成した横顔、住民アンケートのたたき台を地区委員会や県委員会で検討してもらい、最後は支部の仲間たちから一つひとつチェックしてもらいました。こうしたものは、集団的に検討するのが一番です。きょうも住民意識とのズレやレイアウトのまずさなどを仲間から指摘してもらい、当初のたたき台よりも良いものができました。
 市議選は、いまの町村を選挙区にしてたたかわれます。私の住む吉川町(合併すると吉川区)の議員定数は1です。簡単に勝たれる選挙ではありません。それだけに、きょうの「しんぶん赤旗」日刊紙の一面に掲載された福島県国見町長選挙の結果はうれしいものでした。昨日の投開票で、日本共産党が推薦する、元党町議の佐藤力氏(57)=無、新=が、現職を破って見事に初当選したのです。
 明日と明後日は、町農業委員会で長野県へ視察研修に行きます。したがって、「見てある記」も明日は休みます。「春よ来い」の第35回目、「青年団の思い出」を掲載しました。


2004年11月14日

町公民館吉川分館主催の「町長を囲む会」

 党県委員会選対部長の大矢氏がわが家に来られました。来年2月の市議選にむけて何をどうするかについて話し合いました。きょうは、これまでの合併協議の特徴、内容を確認することが中心でした。新市建設計画、保育料、国保税などは合併によってどうなるか、数字まであげて説明してほしいと言われ、これまでの資料をひっぱりだして、確認することに。おもしろいもので、これまでまったく協議に加わってこなかった人が資料を見ていくと、私がこれまで見聞きしなかったことが分かることがあります。とてもいい勉強になりました。
 夕方、町公民館吉川分館主催の「青壮年、女性と町長を囲む会」に出席しました。いまの角張町長が当選してから毎年のように取り組まれてきたそうですが、私は今回が初めての出席でした。町長と企画振興課長、町民福祉課長が当面する課題について報告した後、懇談しました。中心はやはり、合併によってどうなるかということでした。「住居表示の変更に伴い、不動産の登記についてはどうすればよいか」「地域の要望は総合事務所で受け付けてくれるのか」など思っていた以上に質問が多く出て、参考になりました。
 吉川分館主催のこの会は今回が最後とのこと。参加者によれば、この会が町政を知る上で役に立ったといいます。行政担当者とひざを交えて話し合う。吉川町まちづくり基本条例では、集落懇談会、地域懇談会の役割を重視していますが、今後のまちづくり、地域づくりにおいても、こうした懇談会はとても大事なことの1つだと思います。参加者の中には、「形を変えてもいいすけ、これからもやろさ」という声がありました。


2004年11月13日

珍しい手書きのチラシ

 きょうは朝から冷え込みました。酪農仲間だったTさんのお袋さんの葬式に参列したのですが、窓際から冷たい風が入ってきて、ちょっと体調をくずしたようです。トイレに何回も行かなきゃならない状態になってしまいました。出棺の時には、小雨も降ってきていましたから、これも作用したのかな。道の駅・杜氏の郷で聞いた話では、長野県では雪が降ったといいます。そろそろ初雪が来ても不思議ではありません。
 午後からは「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。先週、地震の被災者支援募金の訴えを書いた封筒を渡したり、新聞に折り込んだりしておきました。それで、新聞を持っていくのを待っていてくださる方がありました。あるいは、玄関先に用意しておいてくださった方も何人かおられました。感謝です。
 夕方、大潟町のギフトショップ・南部堂(上野頸城村議経営のお店)へ行って、封筒の印刷をしてきました。わが家の印刷機はローラーが減っていて、この種のものをうまく印刷できません。それで上野さんから印刷を手伝ってもらったというわけです。印刷をしている最中、上野さんのお連れ合いは、お店で発行している「風だより」の下書きをしておられました。手書きのチラシには熨斗袋の使い方や詩などが掲載されていて、とても素敵でした。


2004年11月12日

退職議員の会総会

 吉川町退職議員の会という組織があります。議員OB会です。きょうは、年に一度の総会でした。たまたま議長、副議長が都合により出席できず、私が議会代表として出席しました。
 退職議員の会の会員は現在15名。総会には、このうち約半数の人たちが参加しました。会の目的は退職議員の親睦を図ることですが、きょうの総会での最大の関心事は、合併後もこの会を継続できるか否かでした。というのは、会の事務局は、議会事務局内においてあるからです。合併した後、吉川総合事務所内に議会事務局はありませんので、退職議員の会の事務局をどこが引き受けてくれるかが問題になりました。最終的には、合併によって現職議員のほとんどがやめることになるので、その人たちと相談して決めることになりました。合併がこんなところにも影響を与えることになるとはね。
 総会が終わってからの懇親会は、とてもにぎやかでした。私は参加者全員と議場で一緒だったことがあります。そのせいか、話が弾みました。飲んで出てくる話は、昔の論戦のことや合併の話です。「いまは個性派議員が少ない。もっと緊張感あふれた議論があっていい」「かつては夜中まで議論したが、長い休憩の後には、議論がさっと終わっていた。あれはいただけない」。こういう話をする人たちは、私よりも20歳以上、年上の方です。とても元気なのには驚きました。
 うれしかったのは、私の議員活動について評価してくださる方が何人もおられたことです。なかには、「おれは(来年の市議選で)おまんには入れることができないけれど、女房がおまんのフアンでね。これはしょうがない」という人もありました。きょうの参加者は、自民系、元の社会系の人たちばかりでしたが、このようにハッキリ言ってくださる方があるというのはとてもありがたいことです。


2004年11月11日

地震の影響、松之山温泉街にも

 昨日、きょうと松之山温泉で上越地区の日本共産党議員があつまり、学習会をやりました。私が党の学習会や研修会で泊まったのは、数年前に横浜市で開かれた全国地方議員会議以来のことです。松之山も一年ぶりの訪問でした。驚いたのは、中越地震の影響です。安全面で心配はいらないと思うのですが、震源地からそう遠くないところにあることが影響したのか、温泉街は閑散としていました。松之山の仲間たちが発行している「みんぽう松之山」によれば、先月の23日から今月1日までの間にキャンセルがなんと3528人もあったとか。そういう状況ですので、いま温泉街へ行けば大歓迎です。私たちが泊まった旅館では、一泊二食、それに懇親会費用も入れて11000円でした。だいぶサービスしてもらったようです。
 学習会は合併協議最終段階での課題、合併後の地域づくりなどについて学びました。松之山町の「未来を創る会」の活動や頸城村の「未来ネット」の取り組みを聞き、「地域の要求運動なくして地域は守れない」ことを痛感しました。両町村の党派を超えた運動は、今後の地域づくりの方向を考える時、とても参考になります。松之山町では、元教師の人が「元気の出る松之山条例」制定を求める請願(または陳情?)を出しているという話も聞きました。とてもおもしろそうでしたが、時間がなくて詳しく聞くことができませんでした。
 きょうの午前中で学習会は終わったので、帰りに松代町の農舞台を訪ねました。目的は絵本作家・田島征三の作品展です。展示されていた作品はすべて木の実を使ったもので、そこには絵の具で描いた絵とは違う、立体感あふれた表現がありました。左の作品は、手すき和紙をベースにして、モクレンの実と柿渋、三千本のニカワを使ってできたもの。縦2.7メートル、横1.8メートルもあります。作品のタイトルは「自爆」、平和を訴える、ものすごい迫力がありました。このほか、ヤマザクラの実を使って河を表現しようとした作品も長さがほぼ10メートル、こちらはまだ未完成とかで、実を集め、貼り付け終わるにはもう2年かかるという説明でした。会場の農舞台は、ほくほく線まつだい駅から歩いて3分ですので、ぜひ訪ねてみてください。


2004年11月09日

郵便局でも話題は地震

 昨日はもうひとつ大きな動きがありました。農業委員会の合併に関する会長・事務局長会議が行われたのです。私は参加していませんので、午前中に、この会議の模様について会長及び農委事務局長より説明を受けました。それによりますと、最も注目した農地部会の設置については、新市の農業委員会の中に3つ設置することで合意しました。最悪は1つと想定していましたので、ちょっぴり安心しました。農地行政については現場を良く見て、的確な判断が必要となりますので、今後、どう具体的に取り組むか、十分検討していかなければならないと思います。
 午後からは吉川郵便局へ行き、料金受取人払いの手続きをしてきました。これは、支部活動として、新市に向けて町民の皆さんがどのような考えをお持ちか、アンケート調査をする事前準備。記入していただいた回答用紙を郵送で回収しようというわけです。手続きそのものは簡単なのですが、見本の封筒づくりに手こずりました。パソコンで作成までは良かった。その先、オフセット印刷機で印刷するのが、なかなかうまくいきませんでした。
 郵便局では、高橋局長さんに声をかけられ、お茶をご馳走になってきました。話題は中越地震と郵政民営化です。郵便局では独自に被災情報が入ってくるとのことで、局内がめちゃくちゃになったところもあったといいます。山古志村の2つの郵便局もやられたそうです。こちらも知りえた情報のいくつかを提供してきました。郵政民営化では、局長さんたちも反対の署名集めを開始しています。お茶を飲んだついでに、私も署名をしてきました。
 前から、撮りたいと思っていた小苗代池の風景をアップしました。ごらんください。明日は松之山に泊まりますので、「見てある記」は休みます。


2004年11月08日

自治の主役は住民

 今朝の「しんぶん赤旗」の社会面を見て、ホッとしました。柏崎市や刈羽村などの被害にも目を向けてくれたからです。3日付の「見てある記」で信越線の柏崎・長岡間で直江津行き電車が止まったままになっていることを紹介しましたが、今朝の見出しは「停止したままの直江津行き電車」でした。信越線のこと、道路の亀裂や陥没、ストレスで牛の乳が変質したことなどが書かれていました。
 この記事の中で気になったのは、原発のことです。本震よりも弱かったはずの4日の余震で緊急停止したのに、本震では止めずに運転を続けたことを問題にしていますが、当然のことです。現地の人たちも、この点を心配しています。町内の友人のSさんから聞いた話では、西山町の親戚を見舞った際、「一番心配したのは家がつぶれることと原発だ」と言われたそうです。
 きょうは地震で延期されていた上越市(新市)の地域自治組織検討会が開かれました。地域自治区を設ける期間は5ヵ年とする、地域協議会委員は地域自治区の区域で選挙された者を市長が選任し、その任期は4年とする、委員の報酬は支給しないが、実費弁償として一律の定額を支給することなどが決まりました。もっとも注目された地域自治区に区長を置くかどうかは、事務局が提案する前に牧村の村長が「この問題で、11日に13町村の首長会議をするので、提案はもう少し待ってほしい」と提案。大潟町の委員から反発の声が出たものの、最終的にはこの提案を了承しました。
 地域自治区に区長を置くかどうかの問題で大事なことは、検討会という市町村間協議の前に関係住民の声を聞き、住民や議会と十分相談してそれぞれの自治体の考えをまとめておくことです。その意味では、角張町長が「住民に情報を公開しながら…」と発言した点は評価できるものです。首長が集まって情報交換するのも結構ですが、自治の主役は住民であることをくれぐれもお忘れなく。


2004年11月07日

農産物品評会

 源地区の収穫祭が旧源小学校で行われました。例年通り、農産物の品評会もあるというので訪ねてきました。広い体育館のステージ前には、いまが旬のいろいろな野菜が並んでいました。ネギや大根にしても、品評会に出るものはやはり出来がちがいます。しっかりしていて、形も良いですね。
 品評会には、珍しい品種や変わった形のものも出ていました。紅芯大根もそのひとつ、大根の外側は白なのに、中は紅色。こんな野菜があることを知りませんでした。見に来る人を喜ばせてあげよう、という気持ちがハッキリと読み取れるものもいくつかありました。まるでヤカンのようなこんにゃく、母親が赤ちゃんにおっぱいを飲ませている感じのサツモイモなど、よく出来たものだと思います。
 午後は生活相談、妻の迎えなどで、あっという間に終わってしまいました。夕方の5時前には完全に日が沈み、暗くなります。それだけに、一日がとても短く感じられます。「春よ来い」の第34回目「牛や牛飼いたちは…」を掲載しました。


2004年11月06日

青年団解散式

 1955年(昭和30年)にスタートした吉川町青年団の歴史の幕が下ろされました。来年1月の上越地域14市町村の合併で吉川町という行政区がなくなることに伴っての措置です。解散というよりも発展的解散です、どなたかが、そう言っていましたが、現在の14市町村のなかで青年団活動をしているところはいくつもありませんので、新市全域を対象とした青年団を設立するのはなかなかきびしい状況です。でも、町青年団の幹部の人たちは何らかの形で新たな結集を考えているとのこと、頼もしい。
 議長が所用のため欠席でしたので、代わって私が議会代表で挨拶をしました。これまで青年団が果たした役割、青年団時代の想い出などを中心に語りましたが、ニコニコ顔をして聴いてくれた団員が何人かいました。わが家の次男の同級生たちです。とてもまとまりがよく、わが家にもきたことがあって、すっかり顔なじみに。まだ社会に出たばかりの彼らも、青年団に入って頑張っていた。このことを知って、とてもうれしく感じました。
 式典が終わってからは「思い出を語る会」。お酒を飲みながら、現在の団員、歴代の団長さんなどと、語り合いました。私が青年団に入ったのは、1972年(昭和47年)の春で、それから数年間お世話になりました。その間のこととしては、新潟大学の元学長の長崎明さんを講師にして農業問題講演会を開催したこと、長野の田楽座をよんで公演をやったことなどが話題になりました。また、青年団の活動とは別に、団員が中心になって実行委員会を立ち上げ、会費制の結婚式、あるいは「祝う会」を何組もやったことも思い出され、楽しい会でした。
 
 このページの尾神岳の写真を入れ替えました。山は紅葉が盛りなのですが、この写真では遠すぎてお伝えできないのが残念です。写真のいまの撮影地は中条(稲古)、もう一、二回撮ったら、別の地点へ移動します。


2004年11月05日

まだ秋の虫の鳴き声が聴こえる

 午前は町政レポートの原稿書き、午後からは「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。来年2月中旬に予定されている市議会議員増員選挙まで100日ほどになったこともあり、昨日もきょうも「がんばってくれ」と声をかけてくれる人がありました。これまで、有権者はあまり関心がないのかと思っていたのですが、そうでもないようです。
 夜は音楽を楽しむ会の打ち合わせでした。来月23日に閉町記念も兼ね、町内の音楽家やグループに参加してもらい、楽しいコンサートをやろうということになり、準備を進めています。題名は「ホットほっとコンサート」。フルート、ベル、ピアノ、箏、ギター、中学生の金管、コーラス、それに朗読もあります。きょうは、どういう順番にするか、司会をどうするかなどを話し合いました。
 打ち合わせの会が終わって戻ったら10時をまわっていました。今晩は晴れていることもあり、秋の虫たちがきれいな鳴き声を響かせていました。「リイッ、リイッ、リイッ」と「リイーッ、リイーッ」。少なくとも2種類のコオロギまたはキリギリスが鳴いているようです。さすがに11月になったら、虫たちも少なくなった感じです。


2004年11月04日

またも大きな余震

 もう大きな余震は来ないだろう、と勝手に判断していました。きょうの余震は、警戒心を弱めてはならないことを教えてくれましたね。わが町は震度4、役場の地震計の計測震度は3.7でしたので、10月27日の余震より少し大きな地震でした。地震のことで町役場に電話した直後でした、ガタガタと来たのは。
 最初は食器棚の戸がガタガタし、それから大きく揺れました。牛舎管理棟の2階は、今回も荒波にもまれる船のようでした。ただ、どうしようかと迷ったけれども、外へ飛び出したくなる感じにはなりませんでした。食器棚の上にあった空き缶など軽いものがいくつか床に落ちましたが、あとは、時計と額がずったくらいなもの、被害は今回もありませんでした。
 きょうは、震災対策の強化を求めて町長に申し入れをしました。内容は「町と議会の動き」のページに掲載しましたので、ごらんください。自主避難の受け入れの問題を一番多く話したのですが、町の保健センターをこうした避難所として活用すればいいのではないか、と訴えてきました。あそこは安全面でしっかりしているし、食事も作ることができる。診療所も近い。いざという時には最高の空間になると思います。


2004年11月03日

信越線の長岡ー柏崎間が不通の原因

 地学団体研究会の大野隆一郎さんからメールをいただき、驚きました。中越地震の際、信越線の長岡と柏崎間を走っていた普通列車が大事故に巻き込まれる寸前だったというのです。同区間はいまも不通となっていて、なぜ不通になっているのかについてもマスコミはほとんど報道しないので、どうなっているのかと思っていたのですが、このことについては写真も付けて説明してくださっています。大野さんの了解を得ましたので、メールの一部を紹介しましょう。
 「マスコミの交通情報ではいつも長岡と柏崎の間が不通としか言いません。何故不通 なのかということを聞いたことがありません。現場を見て驚きました。越後広田駅か ら200m程長岡寄りの線路が飴のように前後左右にうねり、架線の電柱が大きく傾いて
います(写真上)。さらに、塚山駅から1km柏崎寄りの渋海川鉄橋の近くでは線路が大
きく流され、土砂に埋まったり宙吊りになったりしています(写真下)。もっと驚く
ことに、写真上の現場から600m長岡寄りの上り線路で、3両編成の直江津行電車が地震
発生以来、止まったままになっています。つまり、この電車は破壊された2 箇所の線路の間にあって、前にも後にも動けなくなっているわけです。そんなことよ りも、越後広田駅に入ろうとしていたこの電車が止まらずに、あと200m進んでいたら 間違いなく大事故になっていただろうと思うと恐ろしくなります」
 大野さんは、メールの最後で、「新幹線の脱線事件は大々的にくり返されていましたが、あまりにも差別的な報道の偏りに鉄道の問題に限らず、憤りを感じています」と書かれていますが、同感です。住民生活に直結する重要な問題は、新幹線であろうが、在来線であろうが、キチンと報道してほしいものです。
 きょうは午後から家畜商のOさんがわが家にやってきました。彼からの情報では、川口町の牛は業者の皆さんが手伝いに行って、大和町に移したそうです。牛舎が被害にあったところにたいしては、やはり、仲間たちが支援の動きをしているんですね。今朝の「しんぶん赤旗」で読んでいたので、「山古志村で亡くなった人は畜産農家の人だったね」と言うと、Oさんは、すでにそのことを知っていました。二階建ての牛舎が一瞬のうちにつぶれたとのこと、とても切ない話でした。


2004年11月02日

今年の紅葉はいまいち

 地震のことに気をとられていたので、自然の変化にはあまり目がいきませんでした。きょう、母と一緒に大島村まで出かけた際、紅葉は盛りを迎えているな、と感じました。ただ、赤も黄色も少し黒ずんでいて、いつものパッとした美しさがありません。たぶん、台風にあおられたために、いまいちなのだと思います。写真は大島村板山から旭地区のシンボル・天明山(てんみょうさん・563m)を望んだ時の紅葉風景です。
 午後からは日本共産党上越地区の議員の学習会でした。第2回中央委員会総会の方針を受けて、中間選挙をどうたたかうのかについて学びました。1月の党大会後、合併自治体議員の選挙が行われたのは23自治体。定数ががくんと減った中で議席は減少していますが、議席占有率は7.33%から7.73%に、議案提出権を持つ自治体は28.6%から52.2%に前進しています。講師を務めた大矢県選対部長は、「合併自治体の選挙は、新自治体のスタートとなるたたかい。住民の利益を守るという日本共産党の使命からいって、党の真価が鋭く問われる」「合併によって選挙の様相は違ってくる。きびしさがある一方で前進の可能性もある。攻勢的にたたかいを」などと訴えました。全国の前進、後退の実例に基づいた話はとても新鮮で、ためになりました。
 学習会の帰り道、大潟町の国道を軽トラで走っていると、十日町方面に向かう北越急行の特急「はくたか」が通り過ぎていきました。地震で運行がストップしていたのですが、きょうから運行再開したのです。灯りのついた客車には、乗客はあまりいませんでしたが、列車が走っている姿を見るだけでもうれしくなります。人間は震災に負けないぞ。「はくたか」がそう言っているように感じたのは、私だけではないと思います。


2004年11月01日

自主避難は広範囲?

 今回の地震で自宅を離れて公共施設や他家へ自主避難した人は4世帯5人どころか、まだまだ大勢いることが分かりました。きょう、ある家へおじゃましたら、地震の話になり、どこの誰がどこへ避難したかという情報をいくつも教えてもらいました。山間部では、一人暮らしの2世帯2人が地震の恐怖で家にいられなくなり、区長さんの家に世話になった。またある女性は、地震で血圧が急速に上がったため、スカイトピア遊ランドに避難した。さらに、平場では夫が結婚式に出席していて留守だったこともあり、不安が募り、妻が親戚の家に避難した。こういった情報です。
 こうした避難情報は災害対策本部が一人暮らしの人、老人世帯などの安否確認をした時点でほとんど分かったはずです。ところが10月27日の町議会全員協議会では、配布された資料で1件だけ議員に伝わりました。あとの情報はなぜか伝わりませんでした。まだ事実関係を確認できていませんが、住民の中には避難所が開設されるものと思い、そこへ逃げた人もいたらしいというウワサも入ってきました。こうしたことについては町側の確認が不十分だったのか、それとも議会に報告を忘れたのか、分かりませんが、ここらへんの事情はハッキリさせ、今後の対策に生かすことが大切になってきました。
 地震の恐怖から避難した人たちのことを聞いて頭に浮かんだのは、心的外傷後ストレス障害です。通常の人間の経験範囲を超える衝撃的体験が心に傷を作り、これが心身の健康を害する。今回のような大地震では十分起こりうることです。親戚の家に避難して1週間も家に帰れないでいる人もいましたので、この点についての対策はどうなっているのか、これも調査して手を打たなければならない課題の1つです。
 いまひとつ、町内の酪農家の乳牛がショック死したということを耳にしたので、地震と動物についてネットで検索しました。そうしたら、兵庫県南部地震の時の記録があることが分かりました。やはり、大地震では動物たちも敏感に反応するのですね。ナーバスになり人に噛み付く。食欲不振になる。余震におびえる。人間だけでなく、犬や猫などの動物たちも地震で大きな影響を受けています。ただ、わが家の牛に関しては、いまのところ、こうした変化は見受けられません。


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