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2004年10月投稿分

2004年10月31日

乳牛がショック死していた

 町内の酪農仲間だったTさんの乳牛1頭が地震発生時にショックで死亡していました。今朝の新聞を読んで知り、驚きました。これまで、町役場でこうした情報はまったく聞いていませんでした。おそらくTさんが現在入院中なので、ヘルパーさんと役場の連絡がうまくいかなかったのでしょう。それにしても町内の被災状況については、昨日の自主避難者数といい、今回の農業関係被害といい、もっと正確に実態を調べる必要がありそうです。
 きょうは、日本共産党上越地区委員会の呼びかけに応えて川西町へ救援ボランティアに行ってきました。同町では半壊した家が13戸でしたが、その他に、地震で崩れた壁、割れた食器などたくさんのゴミが出ています。それらのゴミは、いったん川西町総合体育館脇の駐車場に集められます。私たちは、そのゴミの分別作業をやりました。朝9時過ぎから夕方の4時まで、約6時間ゴミと格闘しました。
 ゴミは割れたガラスなど危険なものが多く、ゴム手袋とマスクをして作業を進めました。新聞紙、ダンボール、ビン、カン、ペットボトルなど資源ゴミとそうでないものを徹底して分別し、資源ゴミとならないものも燃やせるものとそうでないものに分別する。こういう大災害の中でもこれをやりきろうとする姿勢はすばらしいと思います。
 ゴミの中には、今回の地震の影響をハッキリと見ることができるものがあります。たとえば割れた食器、くずれた壁材などがかなりありました。また停電の影響だったのでしょうか、腐った肉もありました。これらは直接的な影響でしょう。それとゴミを出す時に、とにかく早く片付けたいという気持ちから、まだ十分使えるもの、買ったばかりのものまでゴミとして出してしまった人もいましたね。
 きょう、川西町総合体育館脇でボランティア活動をした人たちは約100人。上越から一緒に出かけた仲間たちは最初、ひとかたまりになって作業をやっていました。しかし時間が経つにつれて、よそから来た人と自然に一緒になってやるようになり、仲間意識が芽生えてきます。昼休みには、持参したお菓子や漬物などを近くにいた早稲田大学のボランティアの人たちなどと分け合って食べました。
 終了間際、「日本共産党救援隊」のゼッケンをつけていた長野県の人に「どこから来られたんですか」と声をかけました。そうしたら、「豊野町です」という言葉が返ってきました。「エッ、じゃ、佐藤さん?」。お互いマスクをしていて分からなかったのですが、東頸城郡安塚町出身で現在、豊野町在住の佐藤さんでした。彼や連れ合いの久美子さんには私の町議選でずいぶんお世話になった経過があります。マスクをはずしたら、もう20年以上も会っていない懐かしい顔です。ゴム手袋をとってがっちりと握手をしました。


2004年10月30日

自主避難者はまだいた

 きょうも午後から「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金をしました。昨日同様、人に会うと必ず地震の話になります。地震時にどうしたかを話するなかで、町内に自主避難者が少なくとも4世帯5人(このうち3世帯は源地区)いたことが分かりました。27日の町議会全員協議会では1世帯1名との報告だったのですが、町役場が把握してないケースがあったことを知り、驚きました。このうちの一人は余震の恐怖から、いまだに近所の家に避難しているとのことでした。こうしてみると、町でも避難所を開設し、自主避難者を受け入れた方が良かったと思います。
 きょうの対話の中で吉川町にある活断層について4人の人から質問を受けました。数年前に私が議会一般質問などで取り上げた六万部断層や県道柿崎新井線沿いの断層のことを憶えている人がいたんですね。今回の地震で活断層への関心が高まったのでしょう、「図面をコピィして欲しい」「もっと多くの人に知ってもらう必要がある」「地震に耐える避難所はあるのか」などの注文や質問が寄せられました。
 明日は日本共産党のボランティアで川西町へ行くことになりました。当初、長岡市という話だったのですが、日本共産党の救援センターの指示で変更となったようです。国道253号線を車で行きます。いったん十日町市にある救援センターに立ち寄って、隣の川西町へ入り、そこでゴミの分別作業を行うことになりました。明日は雨なので、合羽を持参とのこと、しっかりと仕事をしてきたいと思います。
 「春よ来い」第33回、「大丈夫ですか」をアップしました。ご覧ください。


2004年10月29日

土砂に埋まった牛

 午前は町政レポートの原稿書きでした。吉川町にかかわる地震関係の出来事でお知らせしたいことはたくさんあります。地震の被害状況、被災地住民支援、町議会全員協議会のことをできるだけコンパクトにまとめようとしました。限られた紙面の中に伝えたいことを書き込むのは何年やっていても難しいです。もっとも、これは私の能力が問題なのかも。
 午後からは「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金です。先日、地震の一回目をくらったNさん宅では、お母さんがお金を払いながら、「おまんから声をかけてもらって安心した」と話してくれました。きょうは、どこの家でも地震の話です。「おっかなかったねぇ」「中越のしょ、気の毒だね」など短い言葉が多かったですが、なかには、地震発生時の様子を詳しく語ってくださる方もありました。
 夕方、テレビを見ていたら、山古志村の人たちが一時帰村した様子が放映されていました。そのなかで2秒間ほど映った場面がグッときました。ぬかるみにはまった牛をスコップで助け出そうとしている住民の姿です。私も長年牛を飼ってきた人間ですので、この人の気持ちはよくわかります。結局、この牛は助かったのでしょうか。とても気になります。


2004年10月28日

牛舎の一部を提供できます

 地震の影響はいろんなところに出ています。きょうから3日間で実施される予定だった議員の旅行、来月1日、2日の農業委員の旅行、相次いで中止となりました。県内各地でのイベントも交通事情や被災地住民支援優先などを理由に取りやめ、または延期となるケースが多くなっています。
 こうした中で、きょうは県農業会議主催の特定農業法人についての研修会が当町で開催されました。主催者側では迷ったそうですが、参加予定者のほとんどが被災地でなかったので、実施に踏み切ったとのことでした。当町での研修会実施は、県内でも農業法人数が多く(10組織)、その「先進的取り組みが評価されている」(関係者)からです。
 さて、ここ数日間、ずっと考えていたことの答えがきょう、やっと分かりました。それは、被災地住民支援の問題です。私がどういうことをしたらいいのか、私でなければできないことはないのか。日本共産党などの呼びかけに応えて募金やボランティア活動をやる、それも大事なのですが、これらとは違った支援の形をさぐっていました。
 答えは、山古志村の闘牛、肉牛などを飼育する場を提供するということです。わが家の牛舎は、いま和牛が3頭いるだけ。飼おうと思えば、まだ10数頭、つなぐことができます。もし、私の牛舎の構造でも飼育可能なら、これに取り組みたい。そう思っています。さっそく、明日にでも、産業建設課、あるいは農業委員会ルートで支援の申し込みをしたい。


2004年10月27日

これで余震か

 やはり大きな余震がやってきました。25日に気象庁が「今後1週間以内に強い余震が起きる可能性が高まった」と発表していましたが、当たりました。当町の震度は4でしたが、恐怖感を感じるには十分な揺れ方でした。江村教育課長の話によると、吉川小学校の児童は校庭に避難したということでした。大きな余震が発生した10時40分、町役場の2階にいた人たちの中には、「これで余震なの? 本震だよ、これは」という人もいました。
 昨日、きょうと町に寄せられた支援物資は、米が約1500キロ、毛布280枚。このほか、有線放送では支援物資としてあげられていなかった衣類、タオル、洗剤、ミルク、紙オムツなども届けられました。これらは町役場の職員7人がトラックに積み込み、川口町へ運びました。派遣された職員が現地に着いてまもなく強烈な地震にあったといいますが、全員無事とのことです。
 きょうは午前9時半から町議会全員協議会。今回の地震被害について町から報告を受け、今後の取り組みについて話し合いました。町内の余震対策では、避難所の周知、開設、そしてホームページなどによる情報の伝達について注文が出ました。吉村副議長が、「旧源小学校(避難所の1つ)のカギを預かっているが、留守の時はどうなるのか」と聞いたことをきっかけに、職員の避難所への配置、有線による避難所のお知らせなどを求める声が相次ぎました。
 中越地方の自治体及び住民への支援についても話し合われました。避難所に身を寄せる住民が増え続けている中で、何人かの議員が、町内の宿泊可能な施設で受け入れできないものか、と提案。遊ランド、中学校の寄宿舎、川谷の静山荘などが候補に上がりました。このうち遊ランドについては具体化に向け、検討に入りました。また、議員がお金を出し合い、県の災害対策本部に義援金を送ることも決めました。
 午後から、源地区の地震被害を個人的に視察しました。水源地区から尾神のトンネルを通って川谷地区を調査しましたが、1990年12月7日の新潟県南部地震よりも被害は少ないと感じました。目立ったのは7月17日の水害、台風23号などによる道路の路肩決壊でした。困ったのは、こうした災害と今回の地震被害の区別がつかないものがあったことです。それで、町役場へ行ったら、入河沢で民家の裏山に亀裂が入ったと聞き、急行しました。


2004年10月26日

支援物資次々と

 「米や毛布を送ろう」という有線放送による呼びかけに応え、町民の皆さんが次々と町役場に出かけました。私が米と毛布を持って行った午前9時ころには、役場ロビィは大量の物資が積み上げられていました。「米は一升ほど」という放送でしたが、10キロ、30キロという量を持ち込んだ町民も何人もいました。支援物資を役場に届けた町民は、今日だけでも250人ほどになった模様です。
 集まった米と毛布は、そのまま運ぶわけにはいきません。毛布は四つ折にし、空気を抜いて圧縮する。米は洗ってアルファ米にする。保健センター2階では、こういった作業がただちに行われました。毛布の圧縮は4人くらい、アルファ米づくりは10人くらいの町職員が担当しました。(写真は午後4時ころの役場ロビィ。すでに毛布やアルファ米加工をする米は作業をする場所に運ばれています)
 支援物資の受付は明日も朝7時半から8時半まで受け付けられます。町では、とりあえず、圧縮した毛布300枚、それとアルファ米600食分をトラックに積み、明日の朝、川口町に向け出発するとのことでした。温かいご飯を食べてもらえるよう、水や燃料、大きな釜などを被災地へ持ち込むといいます。問題は道路事情がどうなっているかです。この把握のため、今日は助役などが先遣隊として川口町に行きました。
 今朝分かったことですが、吉川町と防災協定を結んでいる東京都の荒川区が、仮設トイレ20基、毛布300枚、レインコート1000枚、ホッカイロ1000個を十日町市へ搬入しました。これは「災害支援要請を吉川町から受けて」という形で実施されました。防災協定が実際に発動されたのは今回が初めてです。
 町議会は明日午前、全員協議会が開かれます。町内での被災状況の報告を受けるとともに、これからの対応、中越の被災地住民支援などについて話し合われることになっています。吉川町は、まちづくり基本条例を昨年10月施行しています。ここでは、他の自治体との連携も重視しています。それにふさわしい支援体制をつくることが求められています。


2004年10月25日

被災者支援の動き

 昨日の「しんぶん赤旗」日刊紙が来なかったので、今朝も私の当番でした。JR潟町駅前の長沢新聞店に着いて軽トラを降りた途端、新聞店の戸がガタガタと激しく揺れました。震度3の大きな余震でした。今回の中越地震の余震は大きい揺れを伴い、何回もやってきます。今朝の揺れで中越地方の住民の避難者数が増えたのではないでしょうか。今朝の新潟日報では避難者8万人でしたが、昼のニュースでは9万人と報道していました。
 長岡市へ行ってきたという人の話では、避難所では昨日、1家族にたいしてパン1斤ずつしか配給できなかったところもあるといいます。こうした中で、町内では中越地方の被災地への支援の動きが出てきました。午後、町役場で会議が行われ、支援物資の協力を町民に訴えることが決まりました。明日、明後日、毛布やコメを役場前まで持ってきてほしいとの訴えは有線放送で全町に流れました。これは強制ではありません。気持ちのある人はぜひお願いします、ということです。時間は26日は午前8時半から夕方6時まで。27日については明日、お知らせします。
 日本共産党も調査と支援で動いています。党中央委員会は対策本部を設置し、昨日には、国会調査団が現地入りしています。私たちが関係している上越地区委員会からは、それぞれの自治体で災害状況の掌握、確認をするとともに、中越地方の被災者支援に立ち上がるよう訴えが出ました。①被災者への救援募金を党内外に訴え、集めること、②ボランティアへの参加、救援物資の協力、が中心となります。日本共産党では長岡市に大規模な「救援センター」を設置して対応するといいます。
 昨日、きょうと、パソコンや携帯へのメールがたくさん来ました。親戚、同級生、学生時代の友人、吉川町出身者の方がほとんどです。これらの中には東京都のKさんや旭川市のYさんのように、私のホームページを見て吉川町の情報を知ったという人も何人かいました。特に昨日アップした町内の被害状況は読まれたようです。地学団体研究会の大野隆一郎さんのように、「橋爪さんのホームページを見てください。みなさんも、どんな些細なことでも記録に残しましょう」と訴えていてくださる方もあります。拙いものでも、役に立ったと聞くとうれしいですね。
 


2004年10月24日

地震続報

 朝6時過ぎ、「しんぶん赤旗」日刊紙を取りに大潟町まで行きましたが、新聞は来ていませんでした。関越道、国道17号線がやられているので輸送トラックが来れないとのこと。日本共産党上越地区委員会から、きょう付けの新聞は明日のものと一緒に配達するようにと指示がありました。
 午前7時過ぎ、町役場へ行きました。すでに職員が集まっていて、災害対策本部会議が開かれていました。職員は役場で仕事をする人、現地調査に出る人にと、2つに分かれてがんばっていました。やはり、昨晩の段階では分からなかった被害も出ています。でも、中越に比べれば、被災の程度は極めて軽微でした。町内の被害状況は「町や議会の動き」のページに掲載しました。
 町内の被害状況はたいしたことがなかったので、午後から妻と二人で柏崎市の2軒の親戚を訪問しました。柿崎町から峠を越えて野田に入るルートで行きました。対向車が2台しかなかったのでおかしいなと思ったのですが、この道は通行止めになっていたのです。柿崎地内ではお知らせ看板がなかったので、驚きました。2ヶ所で道路に大きなひび割れがありました。
 柏崎市の産業大学の近くまで行って、軽トラの急ブレーキを踏みました。道路が波打っていたのです。そばの歩行者用道路は、へこんでいて使いものになりません。妻が親戚へ食糧を買っていってあげようというので、スーパー丸井へ向かいましたが、入り口には大勢の人たちが列をつくっていました。これではダメだと、今度はスーパー「ナルス」へ行きました。ここも中に入れてもらえませんでした。余震があって、お客が避難したばかりだったのです。
 テレビでは死者が出ている市町村を中心に報道しています。柏崎市へ行って分かったことですが、道路の陥没、水道管、下水管の破裂、ガス漏れが続出していました。この分だと、被害は中越地方の広範な市町村に広がっているようです。最初に訪ねた親戚では、すぐ近くの道路が大きく陥没していました(写真下)。土蔵も半壊状態でした。年寄り夫婦二人の生活ですが、地震発生時、一人はタンスを押さえ、いま一人は本棚を押さえていたとのことでした。
 妻はスーパーでの買い物を断念してセブンイレブンへ。ここでパンを仕入れました。妻の話によると、店内では、全体として品物が少なく、デザート類がまったく無くなっていたと言います。駐車場で妻を待っている間に、長岡市の友人、Tさんから携帯メールの返信がきました。無事でした。メールは昨晩送っておいたもの、心配したのですが、これで楽になりました。
 妻の実家では、義父母がテレビを見ていました。昨晩は停電で、暗い中で寝たといいます。幸い二人とも無事で安心しました。義父は地震発生時に玄関にいて、もう少しで上から落ちてきた水槽の直撃を受けるところだったそうです。ただ、私たちが訪ねたときも家の近くでガス漏れしていました。市役所職員がすでに調査に来たといいますが、復旧はいつになるのか不明です。
 柏崎市で震災時の防災無線放送を初めて聞きました。家庭内、集落にあるスピーカーから市役所職員がゆっくりした口調で呼びかけていました。下水道施設があちこちで破損しているので、できるだけ使わないようにしてください、という放送です。下水が満タンになったらどうするのか、聞いてみたくなりました。
 今回の地震は信濃川とほぼ同じく走っている活断層が動いたものと思われます。ここの活断層がこんなにも早く動き出すとは思いませんでした。私が住んでいる上越地域にも県道柿崎・新井線にほぼ沿う形で活断層が走っていると言われています。しかも、大きな地震の空白域になっているとか。早期に対策を確立しなければならないと感じました。
 「春よ来い」第32回、「姉と妹」を掲載しました。また、昨日、「私の好きな風景」に「板山のカヤ葺の家々」掲載しました。ご覧ください。


2004年10月23日

大地震

 いやー、怖かった。夕方6時前から数回にわたって大揺れした地震は、強烈でした。最初の地震の時は、よその家の玄関から出たばかりで、立つのがやっとでした。家が揺れ、電線も揺れる。家のことが心配になり、「しんぶん赤旗」日曜版の配達をやめて家に戻ったら、積んであった書類は散乱していました。タンスやプリンターなどは元の位置からずれていました。食器棚は戸が支えになったようで、食器が割れることなくすみました。
 恐怖を感じた地震はこれまで1964年(昭和39年)の新潟地震ともう1回ありましたが、私としては今回の方が強く感じました。とくに、2度目、3度目の揺れが強烈でした。2度目の時は役場にいたのですが、危険を感じて机の下にもぐりました。3度目はちょうど家に戻った時で、今度は家がつぶれると覚悟したほどでした。これほど余震が大きいのは初めてです。
 幸い、町内での被害は水道管の破裂が数ヶ所、あとは民家の瓦が落ちたとか、灯油がもれた程度のものでした。しかし、これは暗い中で調査ですので、明日、夜が明けてみないと正確なところは分かりません。町役場の災害対策本部では明日の午前7時から全職員で調査するといいます。写真左は水道復旧工事。右の写真は町役場の様子です。
 いま入力作業していて分かったことですが、パソコンの前にあった本はみんな前の方にずっています。タンスの引き出しもすべて出ていました。まあ、この軽量鉄骨づくりの建物、よくつぶれなかったと思います。メールや電話などをくださった方々、ご心配をおかけしました。ありがとうございました。
(22時50分)
 (追伸)
 次男は隣町のガソリンスタンドでアルバイトをしていますが、夜8時までの勤務が徹夜になるとのことです。高速道路通行止めで一般道に下りてくる車が次々と給油に来るので、手が足りないのだそうです。これから妻と一緒に夜食を届けに行きます。


2004年10月22日

雁行

 「しんぶん赤旗」日刊紙の早朝配達で大潟町から吉川町へ向かう途中でした。時刻は6時ころだったと思います。軽トラの前方の上空をガンが飛んでいるのが見えました。今年の秋になって初めて見る雁行です。「くさび」や「かぎ」などの形になって飛ぶ姿は来年の春まで見られますが、この鳥たちのねぐらは、おそらく近くの朝日池でしょう。これから朝食をとるため、どこかの水田にでも行くのでしょうか。雁行を見ると、季節がまた冬に向かっていくのだということを実感します。
 きょうは午前が町政レポートの印刷と雑用、午後は「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金でした。日曜版は配達前に読むクセがついていますが、このところ、上越地方の人が次々と登場してくるので、とても親しみを感じます。
 今回は3面に上越家畜診療所の若い獣医、高橋知美さんのことが紹介されているので、いの一番に読みました。東頸城郡松代町出身の彼女は、畜産をやっている両親の役に立ちたい、両親を助けたい、そんな思いで獣医になる道を選びました。えらい!ほんとに。小学校時代、学校で子牛を飼った時のエピソードやほのぼのとした写真も気に入りました。彼女は、そう遅くない時期にわが家の牛舎にもやってくることでしょう。その時は、「新聞の記事、読んだよ」と声をかけ、少しはおしゃべりしてみたいと思います。
 さて、今朝のミミゴケ(スギヒラタケ)のニュースはショックでした。このコケはわが家の周辺にもあり、この秋、2回ほど食べています。他のキノコと違って毒かどうかの見分けが簡単で、食べてもおいしいとあって、毎年食べてきました。ミミゴケはここ1週間くらいが一番採れそう。まだ、急性脳症との関連性がハッキリしたとは言えませんが、しばらくは食べるのを避けることになると思うと残念です。


2004年10月21日

父のひげそり

 心配した台風23号は各地で被害をもたらしました。被災された方々には心からお見舞い申し上げます。吉川町では風、雨とも思ったほど強くなく、通過しました。今年の災害では7月17日の水害が一番被害を出しました。あの時の雨に比べれば、昨日から今朝にかけての雨は弱いものでした。風も万年青の植木鉢をひっくりかえしたぐらいでした。
 きょうは午前中は原稿書きでした。町政レポート、それに『議会と自治体』誌に掲載予定の原稿、それぞれ構想を練り、レポートの方を先に書き始めました。上越地域14市町村合併協議のなかで比較的遅れている農業委員会の分野で新たな動きがあったので、それをトップにして、知事選結果などを載せることにしました。「春よ来い」第32回もなんとか書き上げました。いずれの原稿も一晩寝かせて、明朝、手直しする予定です。
 午後から安塚町と大島村へ出かけてきました。このうち大島村は一昨日行ったばかりの伯母の家です。雨よけのシートを借りていたこともありますが、土蔵を改装して住宅にする工事が明日からはじまるというので、普請見舞いを持って行ってきたのです。伯母の話では、年内には改装した住宅に入りたいということでした。
 明日は町主催の「長寿と健康のつどい」(敬老会と健康のつどいをミックスしたイベント)。父は明日履いていく靴や靴下などの準備をしています。「ひげそり」も自分でしました。ところが、あごの下など数箇所に長いひげが残ったままです。これじゃ、いい男も台無しですので、石鹸をつけ、残ったひげをそってあげました。父のひげそりは初めて。ともかく、これで明日の準備は整いました。


2004年10月20日

世間は広いようで狭い

 和牛の仔牛が生まれて2週間ちょっとになりました。朝、母牛の鳴き声がするので牛舎へ行くと、仔牛が囲いから逃げ出して飛び回っています。母牛は心配そうに見ていましたが、仔牛の方は、そんなことはお構いなしです。囲いの中に戻すため、追いかけながら、「こらっ、入れ!」と声をかけると、70センチほどの横棒をジャンプして見事に飛び越えました。いつの間にか、助走してジャンプすることまで覚えていました。妻曰く、「仔牛のオリンピックに出れば入賞するかもね」。
 きょうは午前から上越市へ出かけました。法務局とJAえちご上越本所に用があったからです。法務局は昨年から電子情報化が進み、証明書や要約書をもらうにもずいぶん早くなりました。ただ、こうした証明書類の発行が早くなったとはいえ、法務局に行くまでがたいへん。法務局の支局、出張所の統廃合がされる前は、柿崎で用が足りたのですから、時間的には何時間も損をしています。それにガソリン代だってかかります。
 JAの方は先日の事故の後始末です。相手方の車はすでに修理が終わったので、任意保険の請求手続きをしてきました。板金、塗装で約6万8000円かかっていました。まあ、人身事故でなくて良かったです。担当のMさんと話をしている時に、「橋爪さんは忙しい人だから……」と言われたので、「あれ、俺を知ってるの?」と聞きました。そしたら、本人さんは吉川町で仕事をしたこともあるとのこと、それにお連れ合いは吉川町出身の人でした。世間は本当に狭い。


2004年10月19日

仲良し姉妹

 午前中は知事の選挙期間中から気になっていたことを2つやりました。1つは牛舎周辺の草刈りです。草はすでに枯れかかっているものもありますが、全体としてはまだまだ勢いがあります。除草剤の使用をやめたら、建物との境など草刈機で刈りにくい場所にセイダカアワダチソウなどがどんどん増えてきていて、刈るのに苦労しました。
 いま1つは、古い電気冷蔵庫をリサイクルセンターに運ぶこと。すでに町役場で申し込みをしてあったものの、自分でセンターまで持ち込む時間が取れずにここまで来てしまいました。センターは上越市黒井の日通高田支店、到着した時には先客が2組あり、少し待たされました。廃品となるテレビ、洗濯機、冷蔵庫などが倉庫内にズラーッと並んでいましたが、初めて見る光景でした。私には電気製品の「死体」が並んでいるように見えました。ちなみに、手数料は郵便局での振り込み手数料も含め、4900円でした。
 午後になって、母から大島村板山の伯母のところへ連れて行ってくれ、と頼まれました。千葉の叔父が亡くなって、母の姉妹は3人となりましたが、一番上の伯母は寝たきりで話もできません。話ができる姉妹は2人だけ。昔から仲の良い姉妹ではあったのですが、最近は、これまで以上に行き来しています。きょうは、伯母が瀬戸物などをくれるというので、母は「オータムポエム」などの野菜を持って出かけました。雨が降ってきたのでゆっくりはできませんでしたが、お茶、「もぐらきのこ」、サツマイモなどをご馳走になってきました。
 母を車に乗せていくと、途中で昔の話をたくさん聞かせてくれます。きょうも、そうでした。上川谷に天明(てんみょう)という名の山がありますが、その山は母の実家の裏から見えたこと、また学校へ行っていた時には遠足で登ったものだと聞きました。お盆泊まりで尾神から実家へ帰る途中、下川谷の「おやけ」という屋号の家で私や弟に乳を飲ませたが、そこのお母さんがとても親切で、「ゆっくり休んでいけ」「まんま(ご飯)食べていけ」と言われたものだとも教えてくれました。


2004年10月18日

ダイモンジソウ

 いつものことながら見たことのない花に出会ったときはウキウキします。きょうは役場や郵便局で用を足してから、大島村、そして桜坂峠を通って妻の実家へ行きました。桜坂峠を下りはじめてまもなく、岩場に白い花が広がって咲いているのが目に入りました。最初はシラネセンキュウかと思ったのですが、軽トラを停めてそばに近づいたら、うれしいことにダイモンジソウでした。植木鉢では見たことがあるものの、自然の中で咲くダイモンジソウとは初めての出会いです。大という文字そっくりの白い花はとてもきれいでした。
 妻の実家では久しぶりにゆっくりしてきました。近くに全国的にも指折りの製鉄跡が発掘されたこともあって、話題は遺跡のことが中心。義父から「鉄」という字のついた小字名がまだいくつもあること、それらの場所には遺跡があるらしいこと、そしてこれからの遺跡保存運動などについてと、いろいろ話を聞きました。先日、新潟でお会いした古代史研究者・甘粕健さんのことについて話したら、義父も甘粕さんから説明を聞いたと言います。義父が歴史を好きなことは知っていましたが、これほどだとは思いませんでした。80歳を過ぎているといっても学習意欲は十分、すごいものです。
 家に戻ってから気になったのはダイモンジソウ。吉川町の中で見つけた場合は、このホームページの「野の花」のページに掲載できます。午前に見つけた場所と条件が同じところにあるはず、「沢水が流れている岩場」でさがしてみようと、午後4時ころからある林道沿いの沢を一つひとつ確認して進みました。こうして、三つ目くらいの沢だったでしょうか、岩場に白い雪のようなものがいくつも見えました。長靴に履き替えて奥に入って確認したら、間違いなくダイモンジソウでした。良かったです、見つかって。


2004年10月17日

知事選は残念な結果

 知事選投票日。残念ながら応援した革新無党派の川俣幸雄候補は落選でした。全県の投票率は53%、当町でも69%という数値でした。川俣候補の当町での得票はわずか127票、国政選挙で日本共産党が獲得する票の半分にも満たない結果に終わりました。隣の大潟町でも同じ傾向が出ているとのこと、政策的にはいい打ち出し方だと思っていたのですが残念です。なぜこういう結果になったのか、しっかり分析しなければなりません。
 きょうは朝から集落行事が続きました。共同の草刈り、クリーン作戦、収穫祭と連続して行われました。草刈りは農家だけでなく、非農家も出動です。これは1月中旬の取り組む小正月行事・「サイの神」用のカヤ草を用意するため。昔と違って、最近はカヤ草がどんどん減ってきていますので、調達するのは大変です。今回はわが牛舎の近くで何とか確保できたものの、来年以降はどうするか。考えなければならないときがきています。
 「私の好きな風景」に「夜のはじまり」を掲載しました。また「春よ来い」は31回目になります。「和牛の仔」というタイトルで書いてみました。


2004年10月16日

話題は火事と「ひょう」

 「しんぶん赤旗」の配達をしていて大きな話題となったのは、昨日午前3時前の火災とその後の降雹(ひょう)でした。火災は落雷によるもので、坪野集落の五十嵐康良さんの元の住宅が全焼しました。いまは空き家となっていましたが、農機具がいくつか入っていたそうです。「ひょう」が降ったことについてはまったく知りませんでした。野沢菜、白菜、大根の葉などが穴だらけになってしまったと、畑仕事が大好きな母ちゃんたちが切ながっていました。
 配達は、知事選での支持のお願いもあって暗くなるまでかかりました。ちょうど陽が沈む時間帯に日本海が見える場所にいたので、何枚か夕陽の写真を撮りました。ただ、名立町か能生町の山に沈む夕陽となり、私がねらっていた日本海に沈む夕陽は撮れませんでした。そのかわり、陽が沈んでからの景色が何ともいえないほど素敵でしたので、近いうちに「私の好きな風景」のページに掲載しようと思っています。
 きょう、明日は隣町の朝日池総合農場(平沢栄一代表)の収穫祭でした。県道新井・柿崎線沿いにある、この農場の農産物直売所「むら市場」はとても賑わっていました。平沢さんとは長い付き合いがあり、今回の収穫祭でも、わが家からシュンギク、八つ頭など数種の野菜を持ち込みました。この農場のいいところの一つは生産者と消費者の交流を大切にしていることです。今回も餅つきあり、歌ありなんですが、県知事選があるので、残念ながらゆっくりできませんでした。
 トップページの尾神岳の写真、入れ替えましたので、ごらんください。山は緑色から少し違ってきています。


2004年10月15日

コタツが欲しい

 寒いと思ったら気温が12度まで下がりました。もう半纏ぐらいでは間に合いません。ストーブを点けるかコタツを出すか、それとも早々と布団にもぐるか。いずれかの対応が必要になってきました。それともう一つ、寒くなるとやってくるものが今年も来てしまいました。アカギレです。足が痛くなってきた、ひょっとしたら来たかな、と見てみると案の定でした。しかし、何でこんなにも敏感に反応するのでしょうか。何とかしなくちゃ。
 きょうの「しんぶん赤旗」日曜版の配達は、明後日の知事選のお願いもしながらです。4分の1くらいの人としか会えませんでしたが、対話ができました。「みんな財政再建を言っている。今度の知事選ほど分からない選挙はない」という人が多いので、「無駄な大型開発推進か、中止・凍結か」という民主県政の会のニュースの内容で対話するようにしました。きょう、町内には3人の候補者カーが入ってきましたが、連呼ばかり。「吉川町の皆さ~ん、お願いしま~す」という声に失笑する人もいました。
 


2004年10月14日

鈴木昌司の地元で街頭演説会

 このところぐーんと冷えましたね。パソコンに向かうには半纏が必要です。気温15度を下回ると、虫の鳴き声がしなくなるといいますが、わが牛舎の周りで聞こえるのはチッ、チッ、チッとギッ、ギッ、ギッの2種類くらいになりました。あの賑やかなアオマツムシはどこへ行ったのでしょうか、鳴き声はまった聞こえません。
 きょうは私の推す会の候補者カーが入ってきました。街頭演説は私の地元の公民館前でやってもらいました。この場所を選ぶ理由は私の地元であるということはもちろんですが、もう一つあります。新潟県の自由民権運動の先駆けである鈴木昌司の顕彰碑がすぐ近くにあるからです。ここでの演説会がうまくいくと伸びる、そういう思いもあります。きょうは平日で、小雨が降るにもかかわらず20人ほどの人たちが集まってくださいました。
 演説は相変わらず歯切れがいい。しかも説得力がありました。いまの県財政危機の原因にずばりメスを入れて、財政再建と県民のくらしを守る課題を両立させていける展望を示す。傘をさしている聴衆の皆さんの心に響いたと確信しました。あとは応援するわれわれの頑張りをぎりぎりまで発揮できるかどうかにかかっています。残る2日間、頑張らなければ……。


2004年10月13日

合併協議のあり方が問われている

 合併協定書に盛り込まれたことを調印した当事者がくずそうとしているように見えます。これを土台にした廃置分合申請を決めてからまだ1か月半しか経っていないというのに。きょうは市町村合併問題特別委員会が開催されました。そのなかで、地域協議会の委員選出方法について町側は、「合併協議の結果は尊重すべきだが、法改正がなされた事実を受け止め、法律に基づく協議を基本にすべきだ。選挙はなじまない」との見解を示し、今後の協議で選挙しないことを主張する考えであることを明らかにしたのです。
 これまでの合併協議では、いろんな意見がぶつかり合いましたが、地域協議会の委員選出方法については、「協議会のある区域において選挙された者を市長が選任する。ただし、定数に満たない場合においては、市長が必要に応じて選任する」と決められました。これが到達点です。これが法律違反なら再検討もあるでしょう。しかし、合併協議会事務局が総務省に問い合わせたところ問題なしという回答だったといいます。オーケーとのことなら、これまでの協議結果でいくというのがスジではないでしょうか。
 委員会では、地域自治組織についての協定書の内容認識をめぐって町側と私などで大きなずれが生じました。最後は、次回の検討会(14市町村の協議機関)でこの問題を協議する基本のところを再確認していくことでまとまりました。しかし、きょうの議論は、これまでの協議にかかわってきた者としては複雑な気持ちです。合併関連の法律の制定、改正があったのは5月でした。合併協定書を交わし、廃置分合申請を審議した臨時議会はその2ヵ月後で、すでに終わっています。これから、委員選出方法をめぐりどういう展開をするのか分かりませんが、こういう議論のけりをつけてから合併協定書を交わすべきだったと思います。


2004年10月12日

紅葉が始まるサイン

 町内の丸滝温泉へ行く途中にさほど大きくないケヤキの木が一本あります。この木の葉の色が赤味を帯びてきました。周りの木々に紅葉は見えず、まだ全体が緑に支配されていますので、目立ちます。このケヤキの葉全体に紅葉が広がるころには周辺の山々にも変化が出てくるはずです。でも、今年は台風で何度も木々の葉があおられているので、いつものような美しさは期待できないでしょう。
 さて、きょうは生活相談で一日中動きました。相談を持ち込んだ人と事実関係を確認する。弁護士と連絡を取る。この繰り返しを何度かやり、最後は相談者と一緒に弁護士事務所へ。何とか解決の方向が見えてきました。この間、家からほとんど動けなかったので、先日、新潟で購入した矢口高雄の漫画『奥の細道』を読むことができました。作品は矢口さんらしく綿密な調査とていねいな描写でできているので、一こま一こま、じっくり見るだけの価値があります。この漫画のおかげで『奥の細道』について少し分かりかけてきた感じがします。


2004年10月11日

単純ミス

 このところミスが続いています。金曜日には音楽を楽しむ会があるものと思い、多目的集会場へ行きましたが、一人もいない。おかしいと思って事務局へ電話すると、前日に終わっているとのことでした。携帯のスケジュールに入力ミスをしたのが原因でした。きょうは体育の日です。体育の日に町内駅伝をやると思い込んでいて、朝早く、社教の職員に「きょうの駅伝は10時出発だよね」と言うと、「昨日終わったよ」。ああ、何ということか。情けない。
 午前は、お袋に頼まれ、大島村へ。その帰り道、吉川町に嫁いだKさんに偶然出会いました。久しぶりに会ったので、立ち話をしたのですが、いまの彼女の生活状況を聞いてびっくりしました。家では義父、実家では実母の介護と双方の家を行き来しながら頑張っているというのです。夫が定年になったら二人で旅行を、と思っていたのに、それどころではないそうです。一昨日の落合恵子さんの講演の内容についても話をしたのですが、「やさしくしなければいけないというのが分かってはいるんだけれど、なかなかできなくて……」といいます。考えてしまいますね。
 午後からは「しんぶん赤旗」読者を中心に県知事選での支持を訴えて回りました。6人も候補者がいる中で何が選択のポイントになるのか、その点をしっかり話さないと支持してもらえない状況になっています。県財政の危機の原因を中央の仕事の押し付けに求め、地元の県当局や県議会に責任がないように言う候補者もいるらしく、ある家では、かなり時間がかかりました。「頼むわ」だけでは通用しません。最後の1週間、頑張らなくてはと思います。


2004年10月10日

「元気」な牛がやってきた

 予定には入っていなかったことですが、家畜商から電話があり、和牛のはらみ(妊娠牛)がきょう、着くことに。この牛がなかなか元気で、というより元気すぎてまいりました。お昼前に牛舎でガタガタ音がすると思ったら、父がこの牛をつないであるロープを縛り直そうとしていて、うまくいかなかったのです。牛舎に入ったら、父が頭を突かれ、血を流していました。幸い、怪我はたいしたことがありませんでした。ただ、導入した牛の場所を整理したり、ロープを縛り直したりするだけで1時間以上もかかってしまいました。この牛、夕方の餌くれの時もバーンクリーナー(牛の糞を運ぶ機械)の音に驚き、縛っていたロープが切れる寸前にまでなってしまいました。先が思いやられます。


2004年10月09日

新潟でも出版記念会

 きょうは朝からフル回転でした。「しんぶん赤旗」の配達があり、民主県政の会の宣伝カーも入ってくる。それが終われば、新潟へ飛ぶ。最終電車に乗って帰るときに、車内で1冊の本を広げたのですが、ほんの2ページくらい読んだくらい。読もうとしても付いていけないほど疲れが出ました。疲れの原因の一つは台風です。昨日からの動きをテレビで見ていて、今年最大級の強さが印象付けられ、強烈な風によって杉などを次々と倒した数年前(?)の台風をイメージしてしまいました。何をしていても、台風がどう動くのか絶えず気になりました。
 新潟では落合恵子さんの「いのちの感受性…育児と育自」と題した講演を聴きました。彼女の本は『午後の居場所で』(朝日文庫)など数冊読んでいたのですが、講演を聴くのは初めて。いのちの問題を根底にすえたお話は分かりやすく納得のいくものでした。心に残ったことがたくさんあったのですが、なかでも、栗原貞子さんの詩、「生ましめんかな」(原子爆弾秘話)と文字のない絵本、『アンジュール』(ガブリエルバンサン作・BL出版)の朗読・語りは最高でした。いのちの大切さを静かに、ぐっと訴えてくる、落合さんがますます好きになりそうです。
 落合恵子さんの講演のあと、きょうのメイン、古厩忠夫さんの出版記念の会に参加しました。9月の東京での会は、出版社や古厩さんの学生時代の友人の皆さんがとてもいい会にしてくださいました。新潟の方は、若い、20代の教え子の人たちが幹事役で、こちらもとても楽しい会になりました。会場は新潟市歴史博物館。30人近い参加者の内、半分くらいの人たちが、古厩さんとのかかわりやエピソードを語ってくださり、心がふわっと温まりました。鎌倉市からわざわざおいでいただいた石島紀之さん、幹事役の高橋愛恵さんと中山佳子さん、それと会を盛り立ててくださいましたすべての参加者のみなさん、ありがとうございました。


2004年10月08日

桜開花

 佐渡で桜が平年より半年も早く開花したというニュースを聞いたのが一昨日でした。台風の影響でそうなったというのですが、この吉川町でも開花していることが判明しました。下中条で「しんぶん赤旗」日曜版を配達していたら、Sさんが「うちの桜、見てくんない」と言います。桜の葉は9割9分吹っ飛び、下の方に白いものがチラチラしていました。花が咲いていたのです。ちょっとピントがずれていますが、写真をご覧ください。花びらは白というより、ピンクに近い色をしていてとてもセクシーです。Sさんの話では、いま咲いても、来春にも花をつけるそうです。安心しました。
 きょうは午前中は何とかもったのですが、午後からはずっと雨。また台風が近づいています。しかも今年の台風で一番強いのがやってくるとか。明日は民主県政の会の宣伝カーが町内に入ってきますし、その後は新潟で古厩忠夫先生を偲ぶ会も予定されています。大荒れしないでいてほしいなぁ。
 「春よ来い」第30回、「眠っていた写真」を掲載しました。


2004年10月07日

生活相談と原稿書き

 朝早く、ある町民から電話があり、相談に乗ってほしいと頼まれました。法律にかかわる難しい判断を急いでしなければならない案件でしたので、友人でもある弁護士に電話を入れたら研修で留守、同じ事務所の他の弁護士もいない、とあって困りました。結局、最終判断を連休明けにするということで納得していただきましたが、法律についてはもっとしっかり勉強しておけばよかったとつくづく思いました。
 午後からは町政レポートの原稿書きでした。最近、野の花の写真をあまり撮っていないので、近くの山に入りました。ちょうど見ごろだったのは、アキノキリンソウクルマバハグマです。つぼみがポンとはじけた感じのクルマバハグマの花は、昨年に続いて二度目ですが、本当に個性的な花です。表面の左下に掲載しました。裏面の「春よ来い」、まだ完成していませんが、先日、高崎市から従姉たちがやってきた時のエピソードを書き始めています。


2004年10月06日

信じられないことが…

 信じられないことが起きる。最近、『鉄道員(ぽっぽや)』など浅田次郎文学を読んでいるせいでしょうか、現実にはありえないことが起こりうる可能性を感ずることがあります。きょうは、まさかという事態に遭遇しました。上越市役所の駐車場で軽トラをバックさせている時に、ゴツンという音ひとつせずに走行中の乗用車にぶつかってしまったのです。警察に現場検証してもらったのですが、こちらの軽トラは全くの無傷で、ぶつかった跡がありません。しかし、相手方の車は運転席の右前の部分がへこみ、ドアが開かなくなりました。そして、私の車以外にぶつかった車がないことも事実なのです。これまで数回、事故を経験していますが、こういうケースは初めてでした。
 上越市役所に出かけたのは、市議会で合併後の地域自治組織についての検討委員会が行われたからでした。知事選告示日と重なったため、先月30日の14市町村代表による検討会の傍聴ができず、その代わりとして、市議会での報告、審議を傍聴させてもらいました。30日の会議も、きょうの会議も説明する事務局は同じですので、この点は便利です。それに編入する側がどう考えているかも分かりますので、参考になります。ここでは、来年の市議増員選挙と合わせて地域協議会委員の選挙を行おうとしていることも初めて知りました。地域協議会委員の選挙実施については、上越市の条例または規則をつくり、市議会と相談して決めるとのことです。こういうことは最終的には上越市側で決めることになるにしても、編入される13町村側もかかわるべきだと思いました。


2004年10月05日

指定管理者制度

 最近、指定管理者制度について質問や意見が寄せられるようになりました。先日も、ある第三セクターに勤めている人から、指定管理者制度が適用されると勤めていられなくなるのでは、という不安が広がっていると電話がありました。それで、きょうは指定管理者制度について理解してもらうため、参考資料を渡してきました。電話をかけてきた本人は真剣で、「何でいまごろこんな制度がでてきたのか」「指定管理の条例をつくる時に、これまで管理をしていた三セクが優先されるという規定を盛り込めないか」などいくつも聞いてこられました。
 振り返ってみると、この制度が盛り込まれた地方自治法の一部改正がされたのは昨年9月でした。あれからほぼ1年経ったというのに、関係者にこの制度が十分説明されてきたのかというと、疑問が残ります。私も一般質問などでとりあげてきましたが、具体的な質問を次々されると答えられないことがいくつもあります。議会の合併問題特別委員会では、合併を前に「現在ある町有財産をどうするか、指定管理者制度か直営か、それとも譲渡か」を議論していますが、関係者にも情報を知ってもらい、意見を出してもらうことが必要だと思います。
 指定管理者制度の基本的なことについては、自治労連の指定管理者制度についての解説が役に立ちますので、ご覧ください。


2004年10月04日

敗北感なく、とても元気

 朝から牛に振り回されました。昨日生まれたばかりの子牛はとても元気です。母子を飼う場所として、牛舎の中に10㎡ほどの囲ったスペースをつくったのですが、その中をぐるぐる回って遊んでいます。落着かないのは母牛、動き回る子牛が心配なのでしょう、子牛の動く方向に自分の体を持っていこうとして、とうとう、最後はタイル張りの餌置き場で動けなくなってしまいました。それを元に戻すのに、1時間ほどかかりました。
 きょうは久しぶりに頸北議員の会を開催しました。これまでの労をねぎらい、これからの運動を探る。そういう趣旨で、お酒も飲んで語り合いました。集まったのは、先日大潟町議補選で当選した佐藤さんも入れて18人。乾杯してから、一人ひとりの思いを語ってもらいましたが、笑いあり、拍手ありで、とても楽しい会になりました。廃置分合申請で敗れてみんなしょんぼりしているかと思ったのですが、どうやら、私の認識不足だったようです。とても負けたとは思えないほど元気なのには驚きました。
 「昨日、催しがあって30人ぐらいの人に声をかけられ、合併問題で話した。そのほとんどは女性、これまで、こんなにもてるとは思わなかった。これからも頑張ってくんないと言われた」(頸城)「町長に頭のおかしい議員が6人いるといわれたが、仲間は8人。あと2人はどうも、頭がおかしいどころか、気が狂っていると思われたのではないか」(大潟)など、仲間の中にはユーモアたっぷりに話す人が何人もいました。この明るさが、元気の素かもしれません。
 メンバーはとても前向きです。来年2月の市議増員選挙で必ず勝利しようとか、くびき野での地域づくりの先頭に立とうなどといった発言が次々と出されました。これまで十数回も会議を行い、合併関連情報を交換し、その時々の課題について話し合ってきた積み重ねは仲間のエネルギーにしっかりと転化したようです。このまま解散ではさみしい、新たな会を組織して引き続き運動をして行こうということになりました。
 「春よ来い」第29回「運動会にヤギを参加させた元刑事」を掲載しました。


2004年10月03日

40数年ぶりに和牛出産

 朝、コンビニへ行き、スポーツ紙を買いました。スポーツ紙を買うのは、一年に一回あるかないかといったくらいですが、きょうは、昨日のイチローの活躍ぶりをどう報じているか読みたくて求めました。テレビで繰り返し報道されていて、ネットでも読まれている、そういうなかでスポーツ紙が何をどう伝えようとしているのかに興味がありました。読んで、さすがスポーツ紙だと思ったのは、なぜイチローが新記録達成できたかの記事です。6月下旬にフォームの矯正を行い、その後、打率を4割2分以上に持っていったという分析はなるほどと思いました。
 きょうは、えちご・よしかわ酒まつりの日でした。曇り時々雨といった、あいにくの天気でしたが、会場の杜氏の郷前広場には大勢の人が繰り出しました。楽しみの一つはふだんあまり会えない人たちとの再会です。そう広くない町なのに、なかなか会えない人がたくさんいますが、一緒に町会議員、農業委員をやっていた人など数人と久しぶりに会い、合併で町はどうなるかのどの話をしました。
 もう一つの楽しみは買物。9時には会場に行ったのですが、私は新鮮な野菜やサルナシ饅頭、吉川高校生がつくったお菓子などを買ってきました。会場のテントなどをぐるりと回っていたら、偶然、長女に会いました。同級生がきょうからお菓子屋さんを開店するとかで、その手伝いをしていたのです。ここではサルナシ入りのケーキを買って食べました。しっとりとしていて、ちょっぴりサルナシの味がする美味しいお菓子でした。まだ20代の若い女性が自分の店を持って、個性のある商品を売り出していく。酒まつりが、こういう取り組みを応援していく場になればいいですね。
 午後からはBSN新潟放送の人気ラジオ番組、「ミュージックポスト」の公開録音がありました。先日、ある会場でパーソナリティである大倉修吾さんの素敵なおしゃべりを聞いていたので、きょうもどんな話が出るかと期待していたのですが、開始時間の少し前ころから、なんとなんと、牛のお産が始まって、それどころではなくなりました。すでに陣痛がはじまり、いまにも破水寸前といった状態でした。(写真は、母牛から子牛の足が出始めたところです)
 牛のお産は数百回経験しています。しかし、そのほとんどは乳牛でした。黒毛和牛については中学校時代にわが家で見て以来のことです。しかも最後に出産した牛については、父が出稼ぎしていた時に、管理上のミスで殺してしまったという苦い経験があります。それだけに無事にお産が終わった時にはホッとしました。お産で「ミュージックポスト」は最後の20分ほどしか見れませんでしたが、牛舎に帰ってきた時には、子牛が立ち、母牛のおっぱいを頭でドンと突いては飲んでいました。良かった、良かった。


2004年10月02日

イチロー、新記録達成

 きょうはイチローの日でした。大リーグの年間安打記録を84年ぶりに塗り替えたというニュースは全世界をかけめぐりました。タイ記録に到達したという情報が入ったのは、赤旗読者のKさん宅でお茶をご馳走になっていた時でした。新記録はラジオのニュースで聞きました。イチローへのインタビューで感動したのは、「プレッシャーを感じてドキドキしながら記録に挑戦していくところに野球の醍醐味がある」という言葉です。プレッシャーに打ち克ってではなく、それを抱きながらたたかうという姿勢に親しみを感じます。
 ところで、「しんぶん赤旗」の配達をしていて気づいたのですが、いま、町内のあちこちで明るい、黄色い花が満開です。この花、キク科の柳葉ヒマワリ(正式名称はヘリアンス・イエローサブマリン)というのだそうです。ここ数年の間にパッと広がりました。おそらく、2軒に1軒は自分の家の花壇などに植えているのではないかな。私は、健康的で、明るく、元気な花、という印象を持っています。
 黄色い花のうち、いまの時期に咲いて目立つのは、セイタカアワダチソウキクイモですが、数年以内に柳葉ヒマワリが圧倒するのではないでしょうか。町全体を明るくし、みんなの気持ちを前向きにしてくれる。柳葉ヒマワリにはそんな力が秘められているような気がしてなりません。


2004年10月01日

快晴

 雲ひとつない晴れ。昨日の天気がウソのようで、気持ちの良い一日となりました。きょうは、昨日から取り掛かっていた町政レポートの作成に手間取りました。今週は議会も農業委員会もなく、新鮮なニュースが見当たりません。最後は、9月議会報告としてまだお知らせしていないものを載せることに。
 午後から「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。前の週に身近な人が載ったときは、どんな反応があるのか楽しみです。きょうは、上越市の田中酒造で酒を造っていた人から声をかけていただきました。「出ていたねぇ、あの人はなかなか力のある人なんだよ。郵政民営化に反対という考えもりっぱだ」ととてもうれしそうでした。
 夕方、大潟町で、県知事選で応援に回っている長崎明さんに会いました。先日、長岡市の演説会で元気な様子を見たばかりでしたが、きょうは一日中、候補とともに行動したといいます。80歳を超えている人とは思えないハッスルぶりには驚きました。


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2004年10月に投稿された全てです。

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