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長野市議会との交流会

 数年間途絶えていた上越市議会と長野市議会の交流会が復活しました。長野市議会からは職員を含めて37人の方が、上越市議会からは47人が参加しました。場所は国民年金健康センター上越です。1時間ほど講演を聴いたあと、懇親会をやりました。どちらもとても良かったです。
 講演は上越市生涯学習推進課の中西聰文化財係長による「上杉謙信と川中島の戦い」。吉川区の文化財調査で彼の歴史を語る能力のすごさは分かっていましたが、きょうもやさしく、とても興味深い話をしてくれました。歴史というのはイメージが先行して本質とかけ離れてしまいがちだとして、既成のイメージに疑問を投げかけるスタイルで話を展開しました。上杉謙信は武将ではありましたが、今回は信仰という側面から謙信像に迫りました。
 49年の生涯のなかで、謙信は真言宗を敬虔に信仰していて、ずっと係りながら生きていた。兜の前立てには雲の上に飯綱(いづな・きつねに似た動物)が乗っているが、これは飯綱権現をあらわしている。謙信公は上越・北信濃の聖地を守ることを大義名分にして川中島へ行ったとも言われている。よく使われる「毘」は毘沙門の毘だ。旧栃尾市に謙信公が生きていた時代にもっとも近い時代の肖像画が残っているが、弘法大師にそっくり。山形県に残っている肖像画も袈裟を着て、坊さんの帽子をかぶっている。謙信公は武将というよりもお坊さんとして生きていたのではないか。
 写真や文化財などをスクリーンに映し出し、ひとつひとつ、説得力のある解説をしていく。こういう歴史講演は初めてでした。既存のイメージにこだわってはいけないことも理解できました。その点では、戦国時代に関する彼の話も強く印象に残りました。
 戦国時代はよく動乱の時代だと言われてきた。しかし、戦は100年も続くものだろうか。だいたい疲れてしまう。最近の研究で、必ずしもそうとはいえないことが分かってきた。100年続いたが、この間、人口は増加している。耕地も拡大した。日本の歴史上、もっともバブルで豊かな時代だったともいわれている。
 中西係長の話は懇親会の場でも話題になりました。同じテーブルになった長野市議のM議員は川中島でお菓子を作っている人です。また、長野市議会の日本共産党議員団(6人)のうち宮崎利幸議員とも一緒、楽しい交流ができました。宮崎議員からは、「田中角栄は牢屋の中にいて選挙に出たが、私はがんの手術で病院に入院中、市議選となった。病院の中から選挙に出た。リンゲルを打ってもらいながら演説もした」などという武勇伝も聞きました。


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概要

2006年10月20日 00:00に投稿されたページです。

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